Sprouting of qualities. I 〜 陽を受けて 〜
蝉の寝覚めが悪くなった、と耳にしたのはいつの事だったろうか。
都心部では年々、彼等彼女等の寝起きが悪くなっているそうだ。風物詩のズレは、これまで形作られてきた季節感を徐々に侵食し、体感と印象を乖離させる。静寂の真夏日を想像すれば、どこか空恐ろしくも感じてしまう。
けれど、生粋の葉山っ子である私には、それは都市伝説と同じ程度の信憑性しかない。
樹々に囲まれているのが常のこの地にいる限り、天変地異でも起こらなければその都市伝説じみた現実を実感する事はないのだろう。
耳に届くは淑やかな蝉の音。
あわてんぼうのニィニィ蝉は既に顔を出している。季節は夏に迫っていた。
記録と、私にとっては消せない記憶を作り出した対常桜戦。
そこで手にした白星で戦績を四勝三敗とし、二部残留という最低ラインは越える事が確定。そして、その翌週末に行われた二連戦。これをもって春季リーグは終わりを迎える。
残り二試合の両方で勝ち星を手に入れるのを前提として、他チームの結果次第で一部との入れ替え戦まで見えて来る状況。斯様な立ち位置で博打や冒険をする意味などは無く、両試合ともエースが登板し、レギュラがその地位を守り続けた。
私は勿論の事、登録された一年生全てに出番は無く、仲良く肩を並べて戦況を見守った。
結果、一分一敗。
最終盤に、女子野球黎明期から在り続ける東京の名門校、それとほぼ同格の大学チームとの二連戦は流石に荷が重く、一試合を何とか引き分けまで持っていくのが精一杯だった。
改めて、勝てる試合を勝ち切る事の重要性を噛み締める。
些細な綻びが結果を左右する怖さと、上のカテゴリとの絶対的なフィジカルの差を目の当たりにした。後者に関しては、埋められない差こそあれど技術で喰らい付ける部分もあるのが解った事は収穫だ。私にとって初めての春季リーグの結果は、若干のほろ苦さを含みつつも概ね納得のいく結果となった。
明けた週半ば。六月も中旬を少しばかりはみ出した、からりと晴れた日の終わり。
陽が伸びた事を実感しつつ、全体練習後のミーティングの席での事。簡易照明の逆光の中、影となった理香は、世間話の様な気楽さで爆弾を投下した。
「はい、今日も皆頑張りました。私は晩御飯に鰻でも食ってやろうかと考えてます。食育考えろっていつも言ってるんだから、私の様な食い散らし方すんなよ?」小さく吹き出す面々を眺め、逆光の中の口がニヤリと曲がる。「さて、そろそろ本腰入れて夏に向かう訳だけど、その前に」
理香は言葉を切って、並んだ顔を端から端まで眺めてゆく。
「今週末から査定するから、まあ、みんな頑張って」逆光の中にとびきりの笑顔が浮かんだ。
驚きやら困惑やらが漏れ出し騒めきが一入。
主将の坂巻がそれらを宥め、当の本人もまた、困惑気味の顔を女帝に向けた。流石の女帝にも困惑の欠片。らしくない様に見えつつも、皆と合わせて膝を抱えて座る荻野の手が挙がった。
「お、何だ? ミウ」嬉しそうに理香が言う。
「ええと、査定、とは?」
「その言葉の通りだけど?」理香はさらりと言う。「親父はさ、頭とモニタの中でそれをやってたけど、私は共有しようと思ってね。明確な基準を設けて査定して、夏のメンバを決めよっかなってね。異論反論あるだろうけどさ、各個人、何が良くて何がダメか、が解った方がこの先の糧になるだろうしな。それに、初めから基準を提示しておけば、依怙贔屓だの何だのって言われんでしょう」
「はあ」
意味合いは呑み込んだ、けれど上手く実像が結べない。そんな曖昧な表情を女帝は浮かべ、宙に浮いた手をするりと下げた。
「あと、もう一つあったんだった」言葉とは裏腹に理香は淡々と続ける。「これまで同様に部長の小山先生に加え、谷先生と沼上先生の二人がコーチとしてウチに来る事になったから、頭に入れといて」
査定の件よりも大きな騒めきが辺りを舞う。
「谷先生って、あの谷先生ですか?」坂巻が尋ねる。
「教師の中に谷って姓は一人しかいないから、まあ、その谷先生だな、うん」理香が答える。「大方想像つくだろうけど、シゲと交代って事だ」
現国の谷教諭は、三十半ばのナイスガイで男子野球部にコーチとして籍を置いていた。その彼が、大屋教諭とトレードという形で女子野球部に転属になる、という話。
理香は詳しくは語らなかったのだけれど、この時期まで合流が遅れたのは、タイミングもあるのだろうけれど、おそらくは引き継ぎに時間を掛けた所為なのだろう。何せ、相手はあの大屋教諭だ。教え子の心配をしても何らおかしくはない。
この時点の私は、授業での接点もない谷先生の事は存じ上げなかったのだけれど、上級生が上げる感嘆の声を聞くに、おそらくはプラスの出来事なのだろう、と好意的に捉えた。
「まあ、そんな訳で、そのお二方も査定に参加して頂ける運びになったので、結構細かくやろうかな、と思ってる」理香は再び皆を見回す。「今の自分を見つめ、何が出来て何が出来ないのか。そして今出来る事がどうチームに貢献するのか、そこらを考えつつ現時点の自分を出して下さい、ってとこかな」
「リカちゃん」二列目の端っこに潜んでいた碧が言葉と同時に手を上げる。
「……ミドリ、こういう時はちゃん付けやめろよな」
理香は苦笑しつつも碧を促す。
「査定の事詳しく」
碧らしからぬ、と言えば失礼にあたるのだろう。
けれど、彼女の発言はおそらくこの場にいた全ての選手が胸に抱いていた事。
私もまた例に漏れず、グッジョブミドリちゃん、と心の中で拍手を送る。
理香は一度頷き、簡単に言うと、と前置きして語る。
「事前に実施する個人面談で各々の方向性を確定した後、精神論を右中間辺りに放り込みます。グラウンドにあるのは事実のみ。練習、試合においての守備、攻撃その他諸々を細かくデータ化して個人の能力を数値化。再度各人の希望と照らし合わせた上での判断という流れ。この場にいる全員に機会は均等に与えるので、各々持てる力を発揮して掴み取ろう、理想の自分! そんな感じ?」
「いや、私に聞かれても……」
至極真っ当な碧の呟きをさらりと流し、理香は続けた。
「査定期間は今月一杯、スケジュールはこれ迄と同様火曜オフで土日は試合、という流れ。勘違いされても嫌だから言っておくけど、私が見たいのは平均値。稀に出るファインプレイなんか期待しちゃいない。さっき頑張れ、と言っておいて何だけど、まあ、頑張るな。そんなとこかな」
ええぇ、という心の声の大合唱が聞こえて来そうな雰囲気は否めない。横目で覗き見れば、上級生は皆一様に微妙な表情を浮かべていた。
私達一年生からすれば、起こる事全てがここでの初体験の出来事、上級生に比べれば彼女達程の驚きは無い。まあ、そんなものなのかなあ、程度の印象だ。
内容を吟味すれば、機会を均等に与えて貰えるというのは一年生の私達にとってはある意味破格の待遇とも言える。上級生達に比べ、周りの表情がやや明るく見えるのはきっとその所為なのだろう。
そんな少しだけ気楽な私達に、やはりと言うべきか、理香は爆弾を投下する。
彼女の言葉を聞いた私達は、何人かを除いて一斉に青褪める羽目となる。
「まあ時期が時期だし、こちらの要望も少し特殊だからさ、中々練習試合を受けてくれる所なくてさ、悪いなとは思ってるよ」言葉とは裏腹に理香は少しも悪怯れずに口元を上げる。「査定期間の試合は、全て鳴海大が引き受けてくれるってさ」
「はああ?!」
二、三年生だけではなく、私達一年生も含めての部員ほぼ全ての大合唱だった。
これ迄とは違うやり方とは言え、個々が成す事に大した違いは無い。今持てる力をただ発揮するだけ。試合の相手が誰であろうとやる事は変わりない、と意気込んだ者達をものの見事に粉砕する一言。アピールの場である試合の相手が全て、鳴海大の女子硬式チームとは、なんとも筆舌に尽くし難い。
鳴海大学の女子硬式野球部といえば、その存在は名実共に全国区。
過去を紐解けば、関東圏では企業チームを差し置いて覇権を取った事もある。春秋のリーグ戦もここ数年一部から溢れた事はなく、公式戦での戦績は注目に値する結果を出し続けている。
少数精鋭というチームの方針上、下のカテゴリとなる私達でさえ、エスカレータで進学且つ、先方から指名があったとしても入部時のトライアルは必須、と中々に狭き門。付属という事で硬式野球部としてのバックアップは受けているけれど、その実、組織としては全くの別物、まさに雲の上の存在である。
近い様で遥かな高みが、不意に目の前に立ち塞がる。そんな現実を突き付けられれば、皆の表情も曖昧に曇るという物だ。眼下に広がる半ば青褪めた表情を眺め、理香は苦笑を浮かべ補足した。
「スケジュールの都合で出るのは二軍だし、あくまでも試合形式だからそんな顔すんなって」
理香の言葉をどれだけの者が好意的に受け取ったのだろう。乾いた笑いは絶えず響き、半ば放心状態のまま、この日の練習は終わりを迎えた。
夏のメンバを決めるとしても些かハードルが高すぎやしないか、と思ったのだけれど、一晩寝てみればなんて事は無い。相手が何であれ条件は皆同じ。寧ろそんな強大な相手と試合が出来る事をもっとプラスに捉えるべきなのだ。そう考えが纏まると、私の心は平穏に戻ってゆく。どうせ、やれる事なんて限られているのだ。なら出来る事をやれば良い。いつも通りの開き直りが顔を出し、私の心はその時が近付くにつれ徐々に凪いでいった。
そして、一つのサプライズが加わり迎えた週末。
吉兆と捉えた者がどれ程いるかは解らないけれど、疎な雲が浮かぶ程度の快晴の下、早起きの蝉達に囲まれて私達の自己証明の幕が上がる。
似て非なるユニフォームが、続々とグラウンドに顔を出す。
基本の”白×深い群青色”は私達と変わらずとも、胸のロゴは私達とは違い山吹色で縁取られたデザイン豊かな群青色の”MEIKAIDAI”の文字。帽子も同様、山吹色に縁取られたお洒落な白文字の”M”。
私の目には、約三年という月日の差がどれ程のものかを知らしめるかの様に、垢抜けた精悍な顔つき、基、綺麗なお姉様然とした顔がずらりと映る。試合前とは言え、当然メンバの中には卒業生も混じっている訳で、全体の挨拶の後で方々で会話が弾む。
暫しの間、和気藹々とした雰囲気を醸し出していたグラウンドは理香の一声によって収束し、殺伐とまではいかないにせよ、それに近い真摯な物へと移り変わる。
言葉では解っていた。
査定とは即ち個人の明確化。そしてその先にあるのは選別。ただし、三年生にとっては最後の選別なのだ。私はその事実をこの時をもって漸く実感した。
普段は良き隣人として助言を貰い、時には友人が如く共に笑う。
肩を並べる仲間だとしても、月日によって重ねられた思いは、私達のそれとは比べるまでもない。否、比べてはいけないのだろう。
試合に臨む彼女達が纏う雰囲気は普段のそれとはどこか違う。己を証明する為だけにこれまで培って来た物全てを解き放つべくそこに在る。
チームの勝利の為ならどの様な判断も受け入れる。けれど、願わくばグラウンドに立つ九人の中に自分はいたい。三年生の背中はそう物語っている。
普段は余裕のある優雅な佇まいの荻野が、洒脱な陽気さを醸し出す上条が、常に周りを気に掛け皆を纏める坂巻が、この時は己が為だけにその全てを曝け出す。
剣呑さにも似た真摯な眼差し、私は初めて利己的な彼女達を見た気がした。
実感が無ければ真に思う事はないのだろう。
いつまでも続く様に錯覚していただけ。なまじ近くにいたので、すっぽりと抜け落ちていた。否、考えない様にしていたのだろう。
荻野達と共有する時間が、もうあと僅かである事を。
実感としてその事実が私の中に浸透する。
共有した時間は少ないけれど、悲しさや寂しさだけではない様々な感情が湧き上がり、冷や汗にも似た寒気が全身を包んだ。
けれど、と私は纏わり付く冷気を振り払う。
終わりは必ずやって来る。
だからこそ、私はこのチームの一員として、彼女達の後輩として、その傍らでいずれ来るであろうその日まで、彼女達の姿を、その志を、彼女達が歩んだ軌跡をしっかりと目に焼き付けておきたい。
「変なもんでも食った?」
心の整理整頓をしていた私に降るは、我が儘プリンセスの気の抜けた声。
少しばかり恨みの篭った目を向けてやる。
「人が心配してみれば何なんその目」碧は失礼しちゃう、と口を尖らせる。けれど、そこは碧だ。私の心の内は解っていた様で、あっさりと言い当てる。「どうせまた、おセンチな気分に浸ってたんだろ? ミウさん達と一緒に野球出来るのはあと少しだ、とかさ」
「なっ」
「図星かよ」碧は苦味を混じらせ笑うと、一つ溜息を吐いた。「あのなあ、そんなん当たり前の事だろうが。中学ん時だって同じ経験してる。そりゃあ、いつまでも一緒にプレイしたいとは思うよ。けど、時間は有限、そしてここは仲良しクラブじゃねえの。お友達ごっこがしたいのなら、ここではないどこかでやる事だ。お前がここにいる意味、もう一度考えろ」
碧は一気に捲し立てると、どこか満足気な表情を浮かべ私を見た。
何というか、申し訳ない。これが一番妥当な感情だろうか。碧の言葉は正しい。けれど、それが私に当て嵌るかと問われれば、否だ。詰まる所、碧の先走り過ぎた勘違い。なるべく言葉の角を削り取って口にする。
「実際、あと少しって事は実感しましたけど、ミドリちゃんが言う様な事はこれぽっちも思ってませんて」私はくっつけた親指と人差し指を碧の前に突き出す。「先人の背を見てその志は受け継がれるもの。ならその背を長く見たいじゃないすか。勝ち続ければ時間は伸びる。その為の今だって事は解ってますよ」
碧は口を結び、僅な間を置いて私の頭を叩いた。
「っ痛え」
「一丁前の事言いやがって」碧は白い歯を見せて笑う。「なら、しっかりと役に立つ事証明しろよ。ったく生意気になりやがって」
「誰の指導の所為すかねえ」
「……ほほう、その言葉覚えとけよ」細めた碧の目が三日月の様な弧を描く。愉しそうに口元を曲げて踵を返す。片手を振りながら言った。「平日の筋トレ楽しみだなあ」
どうやら藪を突いてしまったようだ、と肩を落とす。売り言葉に買い言葉だとしても、時に言葉は刃となる。そんな事解っていた筈なのに。やはり口は災いの元。自らの失言で厄災を呼んでしまった様だ。
溜息。
ぽん、と肩を叩かれ我に返り振り向くと、綾と一葉が微妙な笑みを浮かべてそこにいた。
「ミドリさん相手だと一言多いんだよ、琥珀ちゃんて」一葉が笑いを噛み締めながら言う。
「……聞いてた?」
「まるッと」そう言って綾が頷く。「まあ、災難だったなアンち。……いや、そうでもないのか?」
「まあ、筋肉は裏切らないって、常桜戦で琥珀ちゃん本人が証明したからねえ」
「そうでもないよ?」私は言う。「後から考えてみると、アレやっぱり半分は運だよ。打ったの高めに抜けたチェンジアップだったし」
「だとしても、飛んだじゃん」一葉が喰らい付く。「そんなに時間経ってないけどさ、入学当初だったら、多分スリーにはなってなかったと思うよ、飛距離足りなくて。だから、やっぱり筋肉は裏切らないんだよ!」
筋肉信仰に宗旨替えを一瞬疑うも、直ぐに打ち消した。一葉の笑みはどうにも胡散臭い。これはきっと悪い影響を受けているだけだ。面白い方に転がりたい、というチーム内に蔓延る悪癖に。
「……ホントはそんな事思ってないだろ、金田一」
「さて、どうでしょう?」一葉は目線を上に口元を上げた。
「ねえアンち」
綾に呼ばれ、切り替える。
「うん?」
「実際打った時ってどうだった?」
「どう、とは?」
綾は一旦頷き、一葉にも水を向けた。
「イッチにも聞きたい。実際狙って打てた時ってどんな気持ち?」
私は一葉と目を合わせる。綾の問いの真意がよく掴めなかった。
悩んでいても仕方がない、と先に一葉が答えた。
「あくまで私の場合ね」そう前置きして続ける。「狙う狙わない関係なしにしっかり芯に乗った時はやっぱり気持ちが良い。打つ実感っていうのかな、それを感じられるからね。狙った時は、そうだなあ。言葉にするなら、その打席を振り返ってみれば自分の思った通りに事が進みました、みたいな感覚。私の場合は、ここで打つ、と決めたらあとはその場任せ。これ迄の経験を信じて、ただバットを出すのみだから」
「……感覚的過ぎねえか、金田一?」
「言葉にするの難しくない? 一瞬の出来事だしさ」
「まあなあ」
「で、アンちは?」
「私は基本狙い球絞ってるから……」ここで私に小さな悪戯心が芽生えた。ちょっとした茶目っ気を深く考えずに実行。「待ってました、今です、パッコーン、みたいな感じ」
良かれと思ってした代償。やはり物事には限度というものがある、という良い見本。
二人から刺さる鋭く白い目線。普段死んだ魚の様な目をしている綾も、時にはこの様な目をするだな、という新たな発見をかなぐり捨てて謝罪に走る。
「……悪かった。だからその目はやめてくれ」
間。
一葉の吐息で僅かばかり張り詰めていた空気が緩んだ。
「許す」
どこぞの第六天魔王じみた物言いに、綾が小さく噴き出す。空気が元に戻った。取り繕いを混ぜ
込みつつ居住まいを正し、改めて言い直す。
「まあ、予想通りに事が進む訳だからさ、まあ心地良いよ。香坂にはピンと来ないかもだけど、狙って三振獲る感覚に近いんじゃないのかな」
綾は、あいも変わらず配球は捕手に丸投げ。指示通り投げた結果の三振なのだから、そういう意味では実感が薄いのではと訝しんだ結果の文言。
けれど、意外にも綾は納得した。
「ああ、そういう感覚。それに感触が加わる感じか」綾は何かを確かめる様に、透明なバットで二度程スウィングする。
「なあに、どうしちゃったの?」一葉がきいた。「バッティングに目覚めた? もしくは目覚めようとしてる?」
「ううん、どちらかと言えば逆」綾の感情の薄い目が、少し寂しげに傾いた。「打撃の良さを聞いて、自分がどう感じるかを確かめたかった。未練てほどじゃないけど、こうあっさり捨てて良いものかって思っただけ。けど、これで良かったと思う。何も感じないと言ったら嘘になるけど、時には切り捨てる事も必要。私には湊や青山みたいな器用さはないからさ、投手一本に絞ったんだよ」
さらりと公開した綾の決断に一瞬戸惑いを覚え停止。再起動。
「……いや、十分にお前は器用だろ」
私の苦し紛れの反論に一葉も同意する。
「綾ちゃんが器用じゃないなら、青山なんて……」一葉は自分で言って自分で笑う。笑いが引くと、少しだけ寂しそうな顔になる。「でも、そうかあ。そういう選択したんだね」
「うん」綾は頷く。その表情は晴れやかだった。「今の私の立ち位置は十分理解してる。打撃練に使う時間があるなら投手練に割きたい。じゃないと更に離される」
ぱっと見覇気がなく、省エネを愛し、効率化を模索する死んだ魚の様な目をした乙女。
エースの座に対し、苦笑しつつも要らないと答えたあの日の綾。私が咎めると、慌てて負ける気はないと言った。
その気持ちは、時を経る毎に彼女の中で熟成され、当初は朧げだったものがしっかりと輪郭を持ったのだろう。それがこの決断。彼女の意志。
普段、情熱が見え難い彼女が発した確かな意志に、私は少しばかりの感動と驚きを覚えた。
変な顔になっていたのだろう。綾は私の顔を見るとくすりと笑った。
「アンち、すごいブス顔してるよ」
「なっ」私はずれかけた眼鏡を直し、ここぞとばかりに言い返す。「らしくない事言うから、少し呆けただけだって」
「らしくない?」
「うん」私は頷く。「普段自分からはあんまり主張しないじゃんか」
苦しい言い訳なのは解っている。完全な照れ隠しだ。マウンドに立った綾はしっかりと主張するし、私生活だって省エネの影響か、嫌な事は嫌と言える乙女だ。
「そうかな、結構アンちには物言ってる気が……」
うん、知ってる。当人だもの。まずい、完全に袋小路に迷い込んだ。これ、どうする、と私は一葉に縋る。
一葉はあからさまに仕方がないな、という目をして口を開いた。
「琥珀ちゃんはね、綾ちゃんのしっかりとした意思に触れて感動しちゃったんだよ。ほんと素直じゃないよね」
こいつもこいつで元も子もない事を。恨みがましい目を向けてやる。
「……金田一」
「別に良いじゃない」一葉は言う。「今更カッコつけた所で、どうにもならないでしょ。私は小学校時代のやらかしエピソードいっぱい知ってるし、無駄無駄」
「それ、今言う事じゃねえし、知ってるのお前だけだろ」小声で抗議。
別にカッコつけていた訳でも、理想の自分を演出していたつもりもない。けれど、今は仲間。二人の前で照れ隠しした所で、というのはある。一葉の言い分は尤もだ。
私は咳払いをして切り替えようと試みる。
「そういうとこもだよ」一葉がにやけながら言う。
「うるさいよ金田一、もう台無しだよう、別に気取ってた訳じゃないけどさ」
「アンちって面白いな」
「お前もうるさい」私は綾に指を突き付ける。「言ったからには、しっかり結果出せよ。私的には別にお前は他の二人に劣ってなんかないよ。お前だけの利点だってあるんだからさ」
「……そういう事は面と向かって言えるんだね」一葉がボソリと言う。
私達は自己証明の真っ只中にいる。
皆の前に道は伸びている。けれど、その先は霧掛かってよく見えない。
今はその霧を晴らす作業の最中。自分の行きたい道を自らの手で掴む為に。
香坂綾は決断した。
金田一葉は決断する事もなく、自分の道が見えているのだろう。
私もまた、霧に覆われた先に伸びる道は見えている。背負っている物の再確認も済んでいる。
だから。
私は歩みを止めない。先に進む為に。




