Beyond selfishness Ⅱ 〜 冥府での今 〜
「全てはぷりっとお見通しだ」
人差し指を突き立て、碧はどこかで聞いた事のある様な台詞を口にする。
闖入者の奇天烈な挙動に皆が唖然とし、混沌は更なる混沌によって上書きされた。今、この場の支配者は、一瞬にしてこの場を呑み込んだ我が儘プリンセス、その人だった。
「ええと、どちら様?」
「通り掛かりのスコアラさ、七番レフト君」
折角の舞台に水を差されたのが気に食わないのか、智代子は眉根を寄せて訝しげな表情を浮かべる。逆に碧は新しいおもちゃを買い与えられたちびっ子の様な嬉々とした笑み。
その中に何やら強烈な自信が潜んでいる様に見えるのは、私が我が儘プリンセスの本性を知っているからだろう。もう、こうなった以上見守るしか選択肢は無い。この手の碧が参入した時点で、元々見え隠れしていた着地点は掻き消えてしまったのだから。
智代子は碧から立ち昇るどこか異質な雰囲気を察したのか居住まいを正した。表情を柔和な笑みに変え、丁寧に頭を下げる。
「お疲れ様です。つい旧友を見つけたものですから昔話に花を咲かせてしまいました。直ぐに終わりますので、静聴の程よろしくお願いします」
「そいつは無理な相談だなあ」つとつと、と碧は智代子との距離を縮め、少し屈み、覗き込む様に彼女を見上げた。「お前は既に巻き込んだ」
私の位置からは見えないけれど口調から何となく解る。おそらく碧は酷く冷たい色をその瞳に宿しているのだろう。目を合わした智代子は初めて怯んだ。
「まあ、そんなに怯えなさんな」どの口が、と思わないでも無いけれど、碧は普段の陽気さを醸し出し、智代子の肩を叩く。「様子を見てれば、君等の間に何かあるのは解る。けどさあ、無関係の人間を巻き込むなよ。試合の時から思ってたけど、君って中々洞察力あるよねえ。しかも人心も解ってる。ウチの馬鹿弟子は半端に優しいから、ちょっと騒げば介入してくると踏んだ。と、言うよりは、介入して来そうな阿呆が目に入ったから事を大きくしたってとこか。大袈裟に公開処刑をする為に」
えっと、この人は何を言っているんだろう。
私の頭に浮かんだ疑問はその一言。ちら、とこの日の相棒に目を向ければ、同じ様な困惑した顔。ですよね、と呆れ半ばの安堵じみた共感を湊に覚え静観を続ける。
碧の演説は続く。
「まあ対象が関谷だし、感情的になるのも解らなく無いけどさ、君の意見って少しばかりの悪意が篭った暴論だよねえ。まあ、確信犯なんだろうけど」碧は肩を竦める。「別にそれ自体は否定しないよ。世の中理屈じゃどうにもならない好き嫌いはあるから。けど、個人の復讐に無関係の他人を巻き込むのはいただけないなあ」
「復讐?」智代子は一旦首を傾げ、笑みを浮かべた。「嫌だなあ、別にそんな事微塵も思って無いですって。でもまあ、そう捉えられても仕方ないかもしれませんね。正負で言うなら、関谷への感情は確実に負ですし」
「そう取り繕わなくて良いから」言葉とは裏腹に碧の表情は柔らかい。「情熱を傾ければ傾ける程、許せないモノってのが増える。カテゴリが上がれば尚更……」
「仰る事は解ってますよ」智代子は碧の言葉を遮る。「人が集まれば、それこそ思想は多岐に渡る。中には想像し得ない考え方もあるでしょう。互いに引けないのであればぶつかる事は必至。仕方のない事です。けれど、勝利の為という大義名分を掲げれば何しても良いって訳じゃないでしょう。皆が共感しているのなら良いですけど、そうでなければそれは強制ですよ。強制されて迄手に入れる価値がそこにあるんですかね。男子と違って私達の未来は儚く薄い。全てを捨て去るには中々にリスキですよ。だからこそ、皆が何を求めているかっていうチームの平均値を模索すべき、とは思いませんか。楽しくて何が悪いんですか? 楽しみながらレヴェルアップする方法もある。なのに、こいつは……」
智代子は冷めた目をみなみに向けた。
「甘いな」碧が呟く様に言った。「とても甘い」
「でしょうね」自嘲じみた笑みを智代子は浮かべる。「ガチ勢である皆さんからすれば、私の思想なんて甘々も良い所、外国のお菓子並みですよ。フィジカルもスキルも平凡な私に出来る事なんて高が知れてる。だから身の丈にあった目標を定めただけ。これなら皆嫌気が差す手前で頑張れる。ああ、解ってますよ?」
智代子は反論しようとする碧を前もって封じた。
「なら何で、関谷の甘言に乗ったか、ですよね。思いの外甘美だったんですよ、勝利の味って。そ
れに酔いしれて、いるべき場所を間違えてしまった。その結果、大団円はバッドエンドに。私達の側にも責任があるのは承知してます。でも……」
「やり過ぎた、か?」碧は口元を上げた。
「ええ」智代子は頷く。「壊しても良い訳ないでしょう?」
碧は智代子の問いに対し直ぐに言葉を返さずに小さく息を吐いた。
「甘いって言ったのはさ、理想論て意味じゃなく、自己認識。君はもう少し自分の価値を上方修正するべきだ」碧は苦笑する。「まったく、中学生の考える事じゃねえよなあ」
碧はちら、と私達に顔を傾ける。
いや、私に同意を求められても困るのだけれど。私が返答に困っていると、碧は一つ笑みを寄越して、智代子に向き直る。
「君の言う事は正しい。出来るなら傘下に加えたい所だよ。けど、周りを巻き込むやり方は気に食わないな。傍観者が多ければ多い程当人へのダメージが増すのは解るけど、流石にエグいだろ。関谷泣いちゃうゾ?」
「はっ」智代子は嘲笑う。「アイツがそんな……」
湊が智代子の視界に入る様に動き、動く左手でみなみを示した。
それはまさに驚愕、そんな表情で智代子は固まる。小さく開いた口から、ぽろりと言葉が溢れた。
「……嘘だろ?」
だろうね、と今昔のみなみを知る私達は思う。
握った拳を振るわせ、半ば口を尖らせ俯く頬には伝う雫。これは決して雨の残り香では無い。
「ほら、泣いちゃったぞ?」碧はぬるりとした動きで智代子に絡み付き、彼女の頬を指で突いた。「どうするどうする? 関谷が泣いちゃったゾ?」
唖然とする智代子を他所に、ミオ達がみなみに駆け寄った。
「み、みーちゃん?」
「……こっち来んな」震える声でみなみが叫ぶ。
碧に絡まれる智代子、拒絶されつつもみなみに纏わり付くミオとシイちゃん。驚きと放心、半々な面持ちで、一人それを眺めるみのり。私と湊は継続して静観の構え。
「細部までは解らないけど、おそらく君の感情は正しい。て言うか普通はそうなる。だから、今関谷はああなってる」碧はぽん、と智代子の肩を叩く。「無駄、とは言わないけど、死体蹴りはもうやめようぜ? 誰も幸せにならないし、もう関谷のライフはゼロなんだ」
「は? え、どういう……」これまで気丈だった智代子があからさまに動揺する。
碧が私に、いや、私達に顎をしゃくった。
「あそこの阿呆共が、コテンパンにしちゃった」碧は舌を出し片目を瞑る。
「は、はあ?」
「自分で言ったんだろ。ウチはガチ勢、そんな所に勘違い娘が飛び込んだらどうなるか解らない君じゃあ無いだろうに」
それから碧は学校に不利になる部分は上手く誤魔化して、初春にあった出来事を簡潔に語った。後ろ盾を傘に着た横柄な振る舞い、そしてその後ろ盾の失脚からの事実の露見、そして現在へと。
「は、ははっ……」乾いた笑いが智代子の口から溢れた。「そうか。やっぱり。でも、だからって見過ごす訳には……」
納得する言葉を口にするも、智代子は再び首を振る。
碧は口元を上げつつ顔を上げた。
「おおい、そこの11番」
「はい!」勢いよく湊が返事をした。
ゆらりと碧の首が傾いた。
「お前じゃねえよ」眉間に皺を寄せ、舌打ちと共に疲れた様に肩を落とす。「どう考えても位置的にお前じゃねえだろうが。読め、空気を」
私には解る。これは湊の茶目っ気だ。場を和ませようとした結果の愚策の類。
私は湊の肩に手を回し、しみじみと頷いてやる。結果は出なかったけれどお前は良くやった、と。
碧はいつもの事と直ぐに気を取り直し、今度は身振りを交えて一人佇むみのりを呼んだ。
「ナイスピッチ」碧は自分でも近寄ると左手を差し出す。
みのりは困惑の果てに苦笑を浮かべ碧の手を取る。
「ありがとうございます、で良いんですかね」
「そりゃあ、そうさ。ウチ相手にアウトコースのみでギリコールド。誇っても良いでしょ」
「はあ」みのりは曖昧に頷く。
まあ、そうなるわな。事実とは言え、言い方って物がある。上から目線もいい所、お前の住処は成層圏かよ、と思いつつも、この程度は日常茶飯事。みのりの心中をお察ししつつも、この場でつっこむのはとりあえず延期して静観に徹する。
「で、実際イップスなの?」
ホントこいつは、と思う。リードや配球において碧は搦め手を好む。その割に会話は直球主体とは、これ如何に。そんな事を頭の片隅で考えつつ、二人を見守る。
みのりは一瞬躊躇するも、正直に答えた。
「そう、と言えばそうなのかもしれませんけど、少し違いますかね」
「ほう」碧は興味を示しみのりに先を促す。
「実際は投げられないではなく、投げたくない、ですね」
「これでも、元に戻った方なんですよ」智代子が割って入る。「当初は完全なイップスでしたよ」
「チョコ、別に私は……」
「インコースの制球がそれまでとはダンチだったろ。加えて肘痛かったのも知ってるし」
「え?」
「つうか、皆知ってたから。お前の故障」
「そうだった、んだ……」みのりは俯く様に自分の足元に目線を落とし力無く言う。
しんみりした状況に空気を読まない碧の一言が降る。
「んで?」
「ほれ、聞かれてんよ?」そして智代子もまた同じ様にみのりを促した。
「アウトコースよりは覚束ないってだけです。今日は甘く入れば確実に打たれると思ったので、まだコントロール出来る外中心で行こうと。だから、イップスという程では無いです」
「まあ、本人もこう言ってますし、今は多少はマシになってます。けど当時は目を当てられたものでは無かったですよ。自分の武器を失ったんだから、当然ですけど」
僅かに考えた後、碧は合点し頷いた。
「ああ、シュートピッチャだったのか」
「ええ」智代子は頷く。「結構質の良い球だったんですよ。だから、多用させられた。酷い時、一試合の七割はシュートだったんじゃないですかね。しかもツーシームとは違って、捻る投げ方してたんで肘にも負担かかって」
「なるほどね。まあ、関谷なら空気は読まないだろうし、納得」碧は腕を組んで頷いた。
話を聞いていて、私も納得した。
春先、みなみがカーブ系の緩い球を弾いたり、ストライクが入らないから要らないと言っていた理由を垣間見たからだ。
まあ、カットやシュートといった球が主体の投手と組み、そしてみなみの自分こそが正しいという凝り固まった思想が合わされば、そういう帰結にもなるだろう。
まだ成長段階の状態で無理をすれば支障は出るのは自明。
余程意識を高く保たなければ、最善のケアまでは至らないだろう。まだ大丈夫、その思い込みが知らず知らずのうちに己が身体を蝕んで、気付いた時には既に事後。そんな事はざらにある。
私は一人の乙女を思う。
あの天才もまた、幼い身体でとんでもない球を放っていた。
私達の暗黒期には預かり知らない事で、後になって気付かされた事だったのだけれど、中沢明日香は、天才故の直感で生きている様に見えて、その実かなり先まで見据えていた。成長期の怪我こそが最大の敵という思想、故に明日香はケアの鬼だった。自分の身体を慈しみ、その全てを最適に扱える様にと常に考えていた。だから彼女はとんでもない球を放りつつも怪我とは無縁の間柄。
「とは言え、半分は自己責任てのは解ってる?」碧は客観的な判断を下す。「肘痛めるのは、無理な事を身体に課してるから。例えば、曲げる事だけに意識が向いて無理な投げ方すれば、身体が出来てないなら直ぐに壊れるだろうに。その点は、まあ、あれだな、どっちもどっちじゃねえの」
碧の言葉を聞いて、智代子が眉根を寄せる。
「みのりも悪いと?」
「だからさ、自分で言ったんじゃん」平然と碧は言い切る。「勝ちに魅了されたんだろ? その結果、無理する事を選び身体には負担が掛かった。そこに関谷の無茶な要求が重なった」
「みのりは首を振ったんだ」智代子は捲し立てる。「けど、あいつはそれを聞き入れなかった。その結果……」
「知らねえよ、そんな事」碧はばっさりと斬り捨てる。「そういうのは君らの問題。さっき言ったじゃん、無関係な阿呆を巻き込むなって。ただまあ、状況が解らないんじゃあ判断のしようがないから聞いたってだけでさ。んで、聞いた上で言うと君の気持ちは解らなくない。という訳で、ウチからは関谷を差し出そうじゃないか。煮るなり焼くなり、蒸すなり炒めるなり……」
あと、何がある? という碧の私への問い掛けは当然の如く無視する。
「和解しろなんて言わないよ。ただ、言いたい事は言った方が精神衛生上良いだろって事。ネガティブな思い抱いたまま野球すんの阿呆らしくね? 楽しいからやってんだろ、なら楽しくやろうじゃないか」
碧は至極緩りとした動きで身体を傾けた。地の底から這い出る様な声で呼び掛ける。
「セーキーターニー、ちょっと、こっち来いやあ」
ああ、凄く悪そうな顔をしている。
そしてトテモトテモ楽しそうだ。ホントこいつは、という感想が頭の中を満たしてゆく。
「ミドリちゃんってホントいい性格してるよなあ」当の本人には聞こえない様に声を絞り、湊は私の耳元で囁いた。
「ああいうのなければ、まともな事言ってんのにね」
仄かな精神的疲労感じ、苦笑を浮かべた私と湊は碧の背中を眺める。
抵抗する事の無意味さを悟っているのか、みなみは大人しく碧の言葉に従った。突然の場の提供に戸惑いながらも、その場に立つみのり。それを後ろで眺める智代子。碧の仲介で成り立った、ある意味でのゴメンナサイの場。先程まであった剣呑さは、突如訪れた碧という毛色の違う混沌によって霧散してしまった様だった。
向き合うかつてのバッテリィ。
伝える事は伝え、自分の仕事は終わったとばかりに、智代子はそっとその場から離れた。その足が、何故か傍観する私達の元へ向く。私達と肩を並べる様に立つと、しみじみと言った。
「よくもまあ、あの頑固な関谷を打ち負かしたね」
私が言葉を吐き出す前に湊が口を開く。
「そりゃ、アンちの方が頑固だからだな」
一瞬呆然と眠そうな目を開いた智代子は微かに口元を上げる。
「なるほど」智代子は顔を傾け、観察する様な目を私に向けた。「斑目さん、だっけ。実際何をしたの?」
「別に……」私も一旦智代子を見てから、よそよそしくも会話を続ける碧達を見遣る。「当たり前の事を言っただけだよ」
「当たり前の事?」
「うん」私は頷く。「関谷って、技術拙いじゃん。ノーサインだと変化の大きい球捕れなかったし、配球のパターンも少ない。投手の利点全く無視するし、それで勝てるみたいな事言うもんだからさ、つい、ね」
「……」
言葉を吟味しているのか、智代子を私を見つめたまま静止した。再び始動。今度は盛大に笑い出した。その笑いが引くと、少しだけはみ出た涙を拭ってから、漸く言葉にした。
「やっぱ、環境って大事だよね。意識が高いのが集まれば、自ずと平均値は高くなる訳で。だろうな、と思ってたけど、やっぱ関谷は蛙だったか」
「まあ、ほら、うちは海だから。鳴海大葉山。井戸では無いさ、な?」湊が自身満々な笑みを私に向け、同意を求めた。
「……別にうまくねえからな?」一応突っ込んでおく。
「アンち手厳しいなあ」
智代子は白い目を私達に向けた。
「……君等、ホントにウチをノーヒットに抑えたバッテリィ? 緊張感の欠片もないんだが」
「メリハリは大事でしょ?」そう言ってから、私は乾いた笑いを漏らす。「これでも、既に大きな山が幾つもあったのよ。少し位はっちゃけてもバチは当たるめえよ」
「だよなあ」しみじみと何度も頷き湊も同意する。
「もう少し固いと思ってたんだけどね、強豪校ってさ」呆れ混じりの声で智代子が言った。
「何を言います、アレを見てどうしてそんな感想が出てくるんですよ」苦笑混じりに言って、私は碧の背中を指し示す。「固いどころか、殆ど溶けてるからね、アレ」
訝しげに細めていた目が何かに気付き元に戻る。こちらに向き直り、智代子はぽん、と手を打った。
「そうだ、あの人は何者なの? いきなり現れて、場を呑み込んで、何だかんだで纏めてる」
「自由人、かな」私は湊と顔を合わせてからそう口にする。「身内贔屓に聞こえるかもだけど、技術、知識とプレイに関する事なら一流の打てる捕手で私の師匠。……なんだけど、まあ、人間性に関しては察して欲しい」
「なるほど、って、もしかして先輩?」
「うん。ひとつ上」おそらく聞かれる事が予想されたので先に伝えておく。「まあ、色々あって勝手に自重期間、って事でスコアラしてるのよ」
「よく解んないけど、やっぱ強豪校すごいな」碧を眺めていた智代子は呟く様に言ってから、今度は私達に目を向けた。「で、貴女達は? やっぱりスカウトされた越境組? 夏目さんと斑目さん。全然聞かない名前だけど」
「私は一般受験。それに軟式出身だし、最後の大会の成績も大した事ないから知らなくて当然じゃない?」
続けて湊が言った。
「私はスカウトだけど、日本にいなかったからなあ」
「は?」
「親の都合で小三からヨーロッパ」
「越境は国をも越えてくるか」智代子は呆れ混じりに呟く様に言う。「はあ。やっぱ強豪校って凄いわ」
一段落したかの様な小さな空白。
一つとは言えない程度には欲しい情報がある。緩くなった関係性が実感出来た私は、ここぞとばかりに問うてみた。
「こっちも聞いていい?」
「なんなりと」智代子は柔らかな笑みを浮かべ、両の手を開いた。
「まず……」
「……いっぱいあるのね。ああ、別に構わないから、続けて続けて」呆れ混じりの呟きをもみ消し智代子は先を促した。
相変わらず容赦ねえなあ、と言う湊の脇腹に軽く肘をお見舞いし、彼女の呻き声を背に居住まいを正し、再び問う。
「えっと、磯田、さん? は、佐伯さんがイップスって認識が……」
緩くなっているとは言え初対面である。相手の呼び方に対しまごつく私に、智代子は苦笑する。
「折角こうして話す機会が出来たんだし、タメなんだからお互い敬称やめようよ。まどろっこしい。私の事は智代子でもチョコでも何でも好きにして?」
「ああ、うん」
「じゃあ、チョコちゃんな」湊が身を乗り出す。「私はミナト、こっちはアンち、だ」
いつの日かの人見知りは何処行った、と私は湊に白い目を向ける。まあ、こいつは”友達百人出来るかな”を実現しようとするきらいがある、という事がこの頃には解って来ていたので、やむなしか、とスルー。そしていつもの流れで、私のあだ名の由来を経て、漸く本題。
「それで、だ。佐伯さんがイップスって認識あるのにも拘らず、先輩押しのけて先発したのはどういう事?」
「……いきなりチーム戦略に切り込んで来るのかよ、まあ良いけどさ」
智代子の言葉に、ここぞとばかりに私も返す。
「だってそっちの戦略考えてんの磯田でしょ?」
「……なるほど」眠そうな目を細め、智代子は私達を一瞥する。「さすがは強豪校。分析も中々って事か」
智代子は一息入れて続けた。
「まあ、お察しの通り私の入れ知恵。って言うとちょっと嫌な感じになるけど、先輩達皆納得はしてるからね、一応言っておくけど。で、みのりの件ね」智代子は小さく間を置いた。「戦略的な意味合いで言うなら、もう解ってると思うけどデータの有無。個人的な事で言うなら、新しい扉ってとこかな。インコース攻めは有用だけど、人によってはメンタルに負担が掛かるじゃない。みのりはそれを捨てる事を選んだの。まあ、肘痛めたし、別にそこにこだわりがある訳じゃないし、元々は関谷の発案だし。で、リハビリ兼試運転って感じ。だから、ある程度打たれるのは解ってたけど、ここまでってのは流石に計算外。そして攻撃もここまで打てないとは思ってなかった。たらればだけど、インコース使えたなら、も少し結果が違ってたなあって。一方的な展開にならなけりゃ、どこかで反撃の糸口も見えただろうし」
私はちら、とこの日の相棒に目を向ける。智代子の計算を狂わせたのは、湊の好投もその一つ。確かに出来過ぎの結果ではある。だからこそ。
「磯田の最後の打席、インコース封じは、わざと?」
「ああ」智代子は肩を竦める。「私に出来る事なんて高が知れてるからね。身を犠牲にする位しか状況を変える手段が思いつかなかった。えげつない策ってのは自覚してるけど、ウチみたいな中堅どころが、名のある強豪に勝つには正々堂々なんて言ってられないからね。まあ、それだけ、ミナトのピッチングは凄かったよ」
名を呼ばれ隣で頬を緩ませる乙女が一人。
「いや、こっちも勉強になったよ、色々と」
斯く言う私は、結果こそ誇れる物だとしても個人的には反省点だらけである。口にした言葉に嘘偽りは無い。
「いや、ホント」湊が言う。「もう、アンちったら酷いのなんのって。緊張してたか何かでさ、全然モノ見えてなくてさあ……」
私は慌てて湊の口を塞ぐ。取っ組み合いになる私達を、もう慣れた、とばかりに呆れを滲ませた面持ちで眺める智代子は、不意にその口元に笑みを浮かべる。
「ふうん、なるほど。付け入る隙は斑目だったか、もう少し煽っておけば良かったかな」
さらりと口にした言葉に、私達は目を見開く。
「チョコちゃん、結構エグくね?」湊が私の耳元で囁く。
「今更かよ。ヤバいヤツって解ってたからこうして話してるんだよ」
「お二人さん、聞こえてるよ?」
「あ、ああ、そうねえ」
私達三人が三人とも、若干の引き攣りを隠し、取り繕う様に笑い合う。
その後雑談に興じていた私達だったのだけれど、そこに混沌が舞い降りる。
「おつかーれ」
至極ご機嫌な碧はその緩んだ顔に似合わない強引な仕草で、みなみを舞台に押し上げた。碧の影に隠れる様にしていたみのりは曖昧な表情、寧ろ引き気味なそれで佇んでいる。
碧のされるがままに智代子の前に出たみなみは、スッと顔を逸らす。その背後からぬるりと碧の魔の手が絡み付く。
「セーキーターニ、何か言う事があるんだろう?」
舌打ちを呑み込み、みなみは顔を上げた。
頬には涙の跡。けれど、表情は苦虫を噛み潰した様に歪み、納得とは正反対。とは言え、出て来た言葉に心が篭っていないという訳ではなかった。まあ、上からというのが彼女のデフォルトではあるので、妙な感じになってしまっていたのだけれど。
「どうやら、私が間違っていたみたい」
「は?」
開口一番、みなみから出た言葉が自身の過ちを認める発言だった事に驚きを隠せずに、智代子は目を丸くする。
「えっと……」
助けを求める様に、智代子の目線が私達に、そしてみのりへと流れ、最後に碧に向かう。碧が全て解っているとばかりに鷹揚に頷く。
あのエグい策をさらりとやってのける智代子が、恐る恐るみなみに向き合う。
「磯田、私が悪かった。ごめん」表情とは裏腹に、両手を揃えしっかりとみなみは頭を下げた。
智代子はみなみを指差し、金魚の様に口を開閉させながら、今度は本当に助けを求める様に周りに目を遣り、ぽつりと溢す。
「……嘘だろ?」
碧が智代子の肩に手を置き、ふわりと笑う。
あとは若い者にお任せして、と場違いな事を言い残し。私と湊を促しその場を後にする。
改めての邂逅がこの先良いものとなりますように。お願いじみた思いを抱く彼女等の背を押す様に、雲間にほんの僅かだけ青空が見え隠れしていた。




