Just a small thorn 〜 小さな棘 〜
伸ばしたグラブの先を白球が駆け抜けた。
芯で捉えた打球は、フォロースルー半ばで反応した湊の横をすり抜ける。反射的に身体を捻り打球の行方を追うも、安堵で表情が僅かに緩む。
当たりは良かったけれど、辛うじてそこは遊撃手の守備範囲内、回り込んだ千家が華麗に捌いて魅せた。
立てた人差し指を微かに振りつつ、我先にと千家が声を上げる。
「ワンナウト」
続いて内野全体の声が重なり、投手への賛辞も紛れ込む。
一通り内野を巡って返って来たボールを懐に抱え、湊もまた人差し指を立てた。
変化は無い。
これまで同様湊の調子は継続していて、最終回だとか、ノーヒットだとかの影響は感じられない。淡々に、と言う程には湊はおとなしくは無いのだけれど、プレイそのものに関しては普段以上に洗練されている。
私としては微かに安堵。
口では何も無いと言えても、無意識化でプレッシャを感じ、それが滲み出る可能性を捨ててはいなかった。凡その組み立ての道半ばで手を出され、一瞬ヒヤリとしたのだけれど、結果としてはショートゴロ。締めの立ち上がりとしては十分な結果だ。
残す所、あと二人。出来る事なら、ノーヒットの結果をプレゼントしたい。その小さな希望がプレッシャになる事も理解しているので、二回ほど平常心と心の内で唱え、湊にサインを送る。
雨足が少しだけ強くなっている。
微細な水滴が互いに手を取り合い雫となって、メットの耳当てから零れ落ちたのが見えた。
少し影響があるかもしれない。
両手を広げ低めを強調。身体を少しずらして、右バッターの外角に構えた。
真ん中から外に逃げるカーブは、見送られるギリギリで枠内を掠めていた。想定外とは言え、嬉しい誤算。初球は見せ球の類で、ボール球で良かったのだけれど。
カウント的に一球の猶予を得て、これまで通り対角線を意識。次はボールでも構わないから、強いストレートをインコースに。
内と外、緩と急、強と弱、それらを使って翻弄する。
湊が高く足を上げる。
踏み込み、右腕がしなる。
弾かれた球は、右打者のインコースに。
外れ、高めに浮いて、顔に迫った。
打者は背を丸めのけぞり、私は反射的にミットを伸ばし、湊は目を見開いた。
球威に少しだけ左手が圧される。良い音なんて鳴らせやしない。
「ボール」
僅かな驚きを含む主審のコールが響く。
死球では無いけれど、湊はマウンドで小さく帽子を浮かす。
過保護かとは思うけれど、マウンドに赴こうかと私は立ち上がる。
それを湊は手の平で遮った。
ちょっと滑っただけだから大丈夫。そう言う様に彼女の右手がポケットに忍ばせたロジンパックを弄ぶ。
私もちょこんと打者に頭を下げ、再び座り込んだ。
切り替え、雨足を鑑みて少しだけ勝負を急ぐ。
流石に続けてインコースは色々と怖いので、外角にツーシームを要求。体感の速度は然程変わらない。手を出してくれれば、湊のそれなら引っ掛けるだろう。
一瞬驚きを見せた湊だけれど、既にそれは引いていて、普段の彼女が頷いた。
これなら大丈夫、と思える、完璧に近いコースに球が来る。
打者は思惑通りに手を出した。
そして、私達の思惑通りに引っ掛けた。
鈍い音と共に、半端な打球がサードに転がる。若干湿り始めたグラウンドで打球は僅かに勢いを削がれるも、前に出た杏樹が軽快に捌く。
自分の投げたボールが届くのを確認して、杏樹ははにかみ声を張る。
内野にツーアウトの声がこだまする。
あと一人。
ネクストで、素振りをする乙女が横目に入る。
奇しくも最後の打者は、奇を衒った策を講じた、磯田智代子。両手でバットを掲げたまま、小さく頭を下げて打席に入る。ボックスの最後尾で足元を慣らし、大きく背を伸ばした。
頭はグラウンドに向いている。
「ここまで差を見せ付けられるとは思いませんでした」ぼそり、と呟く様に智代子は言う。「けど抵抗はさせて貰いますよ?」
右脚で地面を二度程掻くと、智代子はバットを掲げて、ホームに被さる様に構えた。
成る程そう来たか、と私は思う。
雨足の強くなりつつある天候、先程の制球ミス、ぬかるみ始めたグラウンド。投げれるものなら投げてみろ、と嘲笑う様なインコース封じ。
サイドハンドの湊は球筋に角度を付けやすい反面、智代子の様にベースに被さる様なフォームに対し窮屈さを感じずにはいられない。しかも、だ。先程、あわや死球というミスピッチも生まれている。心理的にも投げ難いだろう。
それら全てを考慮してのこれ。中々にえぐい事をしてくるなあ、なんて事を私は思う。
とは言え、そこで怖気付く様なメンタルを私も湊も持ち合わせてはいない。仮にインコースを要求したとしても、今の湊なら躊躇なく頷くだろう。故に、智代子のそれは然したる問題にはなり得ない。
とまあ、そういう解り易い策を講じるのであれば、こちらもそれを使わせて貰う。
実際そこまで被さるとなれば、インコースは対処し難いだろう。球威のある湊故に恐怖心も僅かながらあるだろうし。だから、決め球はインコース。その布石として、手始めは外寄りの組み立て。
初球は外に逃げるスライダー。智代子は割と何でも振ってくる打者だ。見送るにしても振って来るにしても、カウントは稼いでおきたい。ギリギリにゾーンに収まるコースを要求する。普段の湊なら求めない球なのだけれど、この日の彼女ならば応えてくれると私は判断した。
不信感は一切なく、湊はそれを受け入れてくれた。
小さく頷き、早々にモーションに入った。
少し真ん中寄りに入ったけれど、彼女のスライダーなら問題ない。
やはり、智代子は手を出した。
読んでいたのだろう、変化球に合わせたスウィング。ただ、湊のスライダーを捉えるには少しだけ技術が足りないらしく、先っぽに当たって一塁側のファールとなった。
続けて、今度はより遅く、同じコースにカーブを求めた。
一つ前のスライダー同様に少し真ん中によりつつも、湊のカーブはゾーンを捉える。
今度は読み勝ち。直球だと思っていたのか、智代子のスウィングは半端に泳いだ。仮に何とか持ち直して当てたとしても凡打になると理解したのだろう、彼女は寸での所で堪えてバットを引いた。
ファール、見逃し、二球で簡単に追い込めた。
確かに智代子には得体の知れない不気味さがある。けれど、技術自体は並。読み合いになり、そこで負けたとしても際どいコースを捌く技術は無い筈だ。
カウント的な有利性はこちらにある。一球遊ぶ事は容易い。だから、ここは厳しいコースを要求出来る。別にダメならダメで良い、上手く嵌れば儲けものといった程度。
私は、結果ゾーンの隅を掠めているぱっと見ボール球のカーブ、を要求した。
湊は私の意図が解ったのか、微かに笑って頷いた。
右腕をしならせ、球が弾かれる。
ふわりと浮いた軌道を描いて、ボールはアウトコースへ落ちてゆく。
まあ、仕方ない。流石にこれは完全なボール。智代子も余裕を持って見送った。
さて。もう一球遊ぶか、勝負に出るか。選択肢的にはまだまだこちらに分がある。
私が選んだのは勝負。
インハイにストレート。
湊は平然と頷く。
グラブの中で球を転がし、静止した。
引いた左足が胸元まで上がって。
踏み込み。
右腕がしなる。
球が弾かれ。
唸る様なストレートがインコースに。
インハイに。
智代子の顔に。
くぐもった様な音がして、智代子の身体が揺れた。
たたらを踏みつつバランスを整え、しっかりと地面に立つ。智代子は寸での所で身体を捻り、迫るボールは左肩に当たっていた。
デッドボールのコールを受けながら、俯き気味の智代子は表情を歪めつつも微かに口元を上げた。
湊はこちらに近付きながら、帽子を上げる。
「タイム、お願いします」
主審にそう声を掛けて私はマウンドに向かう。
湊は近寄る私の姿を見ながら、若干気まずそうな顔で目を逸らしながら頬を掻いていた。
「ああ、その、なんだ」目を逸らしたまま湊は言う。「ごめん、滑った」
その言葉を聞いて、取り敢えずの安堵を得る。けれど、その言葉が本音かどうかは解らない。私は可能性の一つとして怪我を疑っていた。スペックを超えた、とは言わない。けれど、これ迄のオーバペースが生み出す歪みが無いとは言えない。
「手ぇ、見せてみろ」
「なんで?」
そう言いつつも、湊は右手を差し出した。
先が硬くなった長い指、習慣と化した素振りの成果が出ている手の平、意外と細い手首、腕と両手で圧を掛けてゆく。
「別に怪我とかじゃないって」湊は苦笑しながら腕を振り解く。「……アンちって過保護な。このタイミングなら雨の所為だろ、普通」
「一応だよ、一応」
誰の所為でこうなってるんだ、と言ってやりたい。まあ、言わないけれど。
「全く、何をしているのかしらねえ」右手で左肘を支え、ファーストミットの奥で荻野が溜息混じりの声を出す。
「続いたんでどこかやったかなあ、と思いまして」私はそう返す。
「まあ、今日は普段より力が入ってたのだからそう思うのも仕方ないか」荻野は湊の腰を叩きながらも、一応の理解を示す。「でも、雨足が強くなっているのは見ていれば解る。そこで滑りましたと言うのなら、それは怠慢。湊、さっきの一球、ロジン付け忘れたわね」
湊はそろりと、目を逸らした。
「はあ」あからさまな溜息を吐いて、荻野はグラブを叩く。「反省は試合の後でみっちりとやるわ。だから、あと一人くらいしっかり締めて頂戴な」
「はい」湊はこくりと頷く。
「斑目」荻野が顎をしゃくる。
「ミウさんに全部持ってかれた感がありますけれど……」女帝の鋭い眼差しを見なかった事にして、私は早口で捲し立てた。「ラスト一人、普段通り切りましょう、行きます!」
「おお」
掛け声と共に内野陣が散ってゆく。
それらを眺めながらポケットに右手を突っ込み足回りを慣らす湊に私は声を掛ける。
「ラスト、頼むぜ相棒」
「……任せろって」
湊はこちらを見ずに揺らした右手を固く握る。
一人小さく頷き、私は踵を返し自分の場所へ。
調べた感じ怪我ではなさそうだった。ロジンの件は、記憶は定かではないけれど荻野の言う通りなのだろう。当の本人も目を逸らていたし。という事で、真相は滑っただけ。まあ、あれだけ打者に被さられれば、幾ら豪胆な湊であっても投げ難いのは事実だろうし、微妙なコントロールは狂いもするか。と、一応の理由付けは出来るのだけれど、仮にそれが真の理由だとすれば、そこは補強すべき課題だな、と頭の片隅に置いておく。
主審とボックスの外で待っていた次打者に頭をさげ定位置へ。
さて、最後に一人にすべく、私はゆるりと腰を下ろす。
雨足は緩まる気配は無く、かといって本降りという訳でもない。どこか靄る気配の中、私は最後のサインを湊に送る。




