Accelerating top 〜 加速する独楽 〜
一周回って笑ってしまった。
相手の力量、焦りから来る稚拙な攻め、と土台自体はあったのだけれど、それ以上にこの日の、この回の湊の出来は群を抜いていた。オーバペース気味なのは理解していたので、間の取り方やタイミングをややゆったり気味に修正した四回の裏。それでも彼女の球は衰える事を知らず、常桜の上位打線をねじ伏せてしまった。
湊の制球は可もなく不可もなくといった評価。完全な逆球はそう無いにせよ、甘く入る事はままある。多少の運もあったのだけれど、甘く入った所で、それに手を出せない勢いがあり、仮に手を出した所でクリンヒットには繋がらない。マウンドに君臨する彼女の姿に、常桜は呑まれてしまっているかの様に。
三振、内野ゴロと簡単にツーアウトを取り、迎えた四番。彼女は左右に打ち分けられる小器用な打者の印象。それに加え坂巻程とは言わないけれど恵まれた体躯は飛ばす力も十分。そんな相手故に、私が少し慎重になった所為でボールが先行する。けれどファール、見送りと続いて並行カウントまで漕ぎ着け、右の彼女に対しシンカーで空振りという着地点を決める。もう遊べる球はないけれど、外角の直球を見せて、内のシンカーという流れ。
プレートの三塁側を踏んでの湊の最大角度のストレートは、私の思惑を無視したかの様に、力強く、そしてこれ以上ないというコースでベースを掠めてミットに届いてしまった。
主審のコールを背に私の肌が粟立った。
笑うしかない。
出来過ぎだ。
ベンチに戻る歩みを緩めて湊と肩を並べミットを掲げる。
「ナイピ」
「ちと、内側に入ったな」悪びれる風もなく湊は笑う。
「結果良ければなんとやらだけどさ……」何か言葉を続けようとして止めた。現時点で最良の結果を得ている、下手な言葉は湊の調子を狂わすかも知れない。「いや、何でもない。最後の球、流石の私も痺れたよ」
湊は口元を上げグラブを掲げた。
ミットとグラブを合わせたまま円陣に加わる。
理香が手を打ち鳴らした。
「ナイスピッチ、湊。これ以上無い最良の結果だった」一通りの賛辞を経て、理香はちらと空を見上げてニヤリと笑う。「私、雨嫌いなんだ。髪が濡れるから。こう見えてね、水に濡れると爆発するのよ。そんな私の髪の為に、この回で決めてくれ。良いか、狙える所まで来てるんだ、狙うよなあ?」
円陣に加わる全員の声が重なる。
理香は頷き新川を見遣った。主将の坂巻は回の先頭打者で外している。お役目は副主将へと受け渡される。新川はこくりと頷き、大きく息を吸う。
「先ずは一点。先の勢いそのままに打っていこう!」
再び全員の声が重なり円陣が解けた。皆が三々五々散り散りにベンチに腰を落とし、私はプロテクタだけ外して、片隅に腰を落ち着ける。
一列後ろで、湊は大股を開いて浅く座り、椅子の背に両腕を乗せ天井を仰いでいた。顔にはチェコ語の文字が羅列された燕脂色のタオルが掛かっている。
私は椅子の背に乗り掛かる様にして湊に声を掛けた。
「せめて、足は閉じろ」
「これが楽なんだわ」
タオル越しに湊の声が返ってくる。
「疲れは?」
「いつも通り。普通。まだ全然いける」
「そう、なら良い。けど、少しでも違和感あれば直ぐに言えよ?」湊の気の抜けた返答を受けた後、暫し逡巡してから続ける。「今んとこ結果は良好だけど、甘く入って来る球それなりにあるからな、次も締めて行こうぜ」
「ああ」湊は上を向いた状態でゆるりと頷いた。深呼吸の様な深い息を吐いてから、しみじみと言った。「ああ、楽しいなあ」
そりゃあそうだろう、と思う。気候の所為か指の掛かりが良いらしく、実に気持ち良さそうに投げ込んで来る。それに加えこちらの思惑通りに事が進めば投手としては最高の気分だろう。サイン交換で揉める事も特に無く、多少のミスはあれど許容範囲内。湊同様、私もそう思っている節はある。自分の配球通りに相手が踊ってくれる、といえば中々に性悪な言い方にもなるけれども、実際気分は良い。やれているという満足感は確かにあり、公式戦という舞台が更にその気持ちを後押しする。
詰まる所私も、楽しいなあ、良いじゃん私、である。
「ナイピー」
碧がへらりとした足取りでこちらにやって来て声を掛けた。
「あざっすう」声で誰かを判断しつつも、湊はそのままの体制で返す。
私は碧を一瞥してから一応釘を刺しておく。
「いいかげん仕事して下さいよ」
「解ってるよ。でもまあ、ほれ、あちらさんピッチャ代えるみたいだし」
目を向けたマウンドには既に佐伯みのりの姿はなく、長身の左腕が投球練習に勤しんでいた。
「エース、ではないみたいっすね」
「そこはまあ、コールド寸前だし仕方ないんじゃないの?」そこまで言って碧はニヤリと悪そうに笑った。「この回一点でも入れれば、あと一回だなあ。しかも……」
次を言い掛けた碧の口元に私は慌てて手を伸ばす。けれど碧は、解ってましたとばかりするりと躱した。私の手は空を掻く。
物理は失敗に終わってしまったので、今度は口元で指を交差させ目力に訴える。けれど、そんなものが碧に通用する訳もなく、我が儘プリンセスは私が敢えて出さない様にしていた事実をさらりと口にした。
「あと一回ノーヒットで抑えれば、コールドゲームとは言えノーヒットノーランだな」
「お前えぇ」私は碧を睨む。
「何でお前がそんなに怒るんだよ」碧は苦笑する。「んなもん皆気付いてるだろ」
私は碧の腕を掴み引き寄せると、耳元で声を抑えて抗議する。
「それで夏目が下手に気にして調子崩したらどうすんですか」
「あのなあ」溜息混じりの声とは裏腹に碧の目は全く笑っていないかった。「上見るんなら、その程度のプレッシャで調子崩す投手なんていらねえよ」
碧の言葉は中々に厳しくも正論だ。けれど、と私は思う。
「そうは言っても……」
「そうなん?」会話が聞こえていたのか、そう言って湊は起き上がった。はらりと落ちたタオルを左手で掴み頭を振る。「向こうでパーフェクトやった事あるし、そんなんじゃ私は崩れないって」
ばちん、と碧の中指が私の額を弾く。
「お前は心配しすぎ」再びの溜息混じりの息の後で悪そうな笑みが浮かぶ。「さっきの事といい、意外にコハクって心配性なのな。キャラじゃねえ」
笑みが爆笑に変わる。流石に大声は出せないと解っているのか、声を抑え肩を震わせた。
「まあ、そこはそんなに心配してないよ」碧は笑いを引っ込め、落ち着いた声を出す。「ただ、少し飛ばし過ぎなのは解ってる?」
問いは湊に向けられたもの。その湊は少しだけ考えてから首を振った。
「調子が良いのは確かっすけど、別に普段通りっすよ?」
「あ、そう。じゃ、言っとくわ」碧は湊の横に腰を下ろす。「コハクがうまく間合いを取ってるみたいだけど、お前普段よりハイペースで力みがある。なんだかんだで表に出てないけど、下手すれば自滅すんよ? 今更抑えろとは言わないけど、第三者の意見として頭の片隅には置いとけよ」
湊はそうなの、と私を見たのでこくりと頷いておく。
「解りました。とは言っても後一回って事なら大丈夫っすよ。今日はアンちのおかげで球数も抑えられてるし」
「自分では解らない事もあるからな、少し気をつける事」珍しく先輩らしい言葉を碧は口にする。「まあ、出来自体は文句ない。この後も頼むぜ」
ぽん、と湊の左肩に手を置いてから、碧は碧の戦場へ戻って行った。
私は改めて湊を見遣る。
上気しているのか仄かに頬が赤い。けれど呼吸は安定して落ち着いている。見かけではそこまでの疲れは感じられない。
「ショコさんも同じ事言ってたからさ、ホントに気を付けろよ?」
「そうなん? 別にいつも通りだと思うけどなあ」湊は本当に自覚が無いと首を傾げる。
「試合前緊張してただろうに」
「ああ、そういやそうだった」湊は頷きつつ、ニヤリと笑った「でも、アンち程酷くはなかっただろ?」
「お前さあ、今それを言う?」
「別に良いじゃん。そういう時はあるって事でさ。でもまあ、考えてみれば確かに調子が良い上に満足な結果。舞い上がってるのは認める、でも制御出来てるだろ?」
「まあ、ね。ただ、完投考えたらオーバペースなのも解ってるよな?」
「そりゃあ、普段のペースの話だろ。今日は球数少ないから問題なくね」
オーバペースであっても球数が少ないので疲れは無いと湊は主張する。結果が全てである、と言えばその通りで、オーバペースと球数の少なさが上手い具合に釣り合った結果なのだ。だから、私達の心配はたらればの懸念ではある。現実を考えれば、後一点が入ればコールドの条件を満たすので、残り回数は然程問題では無いとも言える。
おそらく私は出来過ぎの現実に狼狽えているだけなのだろう。相手が相手だとしても、この日の湊の成績は明らかに普段の彼女を上回っている。制球、球威、球質と、どれを取っても最高の出来だ。だからこそ、不意に訪れる落とし穴を恐れている、そんな所だろうか。ネガティブな妄想の類で、心配性と言えば、それで片付けられる事ではあるのだろうけれど。
と、まあ、心の整理がある程度整うと現実的な見通しが漸く顔を出す。コールドゲームになれば、オーバペースの心配もなくなる訳で。湊の事を考えれば、なんとしてもこの回一点をもぎ取り、その裏を乗り切って試合を終わらせたい。
私のそんな思いを形にするかの様に、先ずは坂巻が三遊間を抜けるヒットで出塁した。
「決まりだなあ」のそり、と椅子を乗り越え私の横に腰を下ろした湊が言う。
「思っても口にするもんじゃねえよ」
そう言いつつも、私も湊と同じ感想を抱いていた。
マウンドの長身の左腕は、まだ投手を始めて日が浅いのがはっきりと見てとれた。全身から溢れるぎこちなさは拭い切れるものではなく、体躯故球は速いけれど、それだけの印象だ。
とは言え、王者たるもの、どの様な相手であれ全力を持って対峙する、だ。経験不足は丸わかりであっても、データ収集は怠らないし手も抜かない。投手としての性能、ランナを出した時のマウンド捌き、フィールディングと欲しいものは斯くも多い。
坂巻は普段よりも半歩リードを多く取る。半ば挑発じみたそれに対し、マウンドの乙女は目で二度程牽制を入れてから実際に一塁へ。可もなく不可もない牽制。そこは良い部分としてデータに上書きされる。
再び目で牽制してからの、次打者、新川への第一投。クイックモーションを見る為に、坂巻も新川も動かず判定はストライク。ぎこちなさはあるけれど、クイック、という意味なら悪くない。こちらも上方修正する。
とは言え、経験の差というのはやはり大きく、先ず二球目で坂巻が仕掛け二塁を奪取。一球ボールを挟み、カウント1-2から、この日始めての送りバントを新川が難なく決めて、ワンナウト三塁へ移行。
迎える七番、関谷みなみが初球のストライクを引っ叩いてセンターへ打ち上げ、これが犠牲フライとなり一点を加えた。
続く八番多嶋が打席に向かい、私は次打者としてネクストに入る為に、上条に湊の肩慣らしを託す。
横目で、湊達を窺ってから相手投手を見遣る。
実際間近で見ると、長身かつ完全なオーバスローは、角度がついて側から見るより厄介に映る。しかも左となれば、今後の育成次第では化ける可能性もあるかな、とかなり上から目線の評価を下す。
多嶋の打席を眺めながら私は思う。
現状ウチとは差があれど、曲がりなりにも春季リーグの二部にいるチーム、油断すれば自分達も追い込まれかねないポテンシャルはあるのだろう。改めて考えれば、実際この試合の流れは運に味方された部分が多い。仮にエースが先発していれば、データがあるとは言え、ビッグイニングにはならずに点差はここまで開いていなかっただろう。
湊の好投もまた然り。差はあるけれど、常桜の主軸も二部にいるだけの能力はある。少し歯車が噛み合えば接戦になっていた可能性すらある。これ迄のデータから目に見える形で戦力差があったとしても、互いに高校生だ、どこで綻びが生まれ、どこで才能が開花するかは解らない。客観的に彼我を比べ、その差を理解していたとしても、足を掬われる可能性は意外に転がっている。
バットを掲げる多嶋もまたこの場にいる資格を持つ選手だ。小技もミート力もある、下位にいたとて相手からすれば嫌な打者には変わりは無い。経験の浅い投手が相手なら、幾らでも塁に出る方法はある筈だ。けれど、荻野、坂巻といった主力選手が揃って凡退した様に、方法はあれど確実な物なんて一つもない。
安打を狙って出したバット。
球をしっかりと捉えたとしても、ほんの僅かなズレが結果を真逆な物へと導く。遊撃手の頭を越える予定で弾いた打球は、思いの外浮き上がらずに、彼女の伸ばしたグラブにぴたりと収まった。
直ぐにベンチに引き返しプロテクタを纏う。暫定的な最終回。何事もなければこの回で終わる。出来る事なら何事もなく最良の結果で終わらせたい。手が届きそうな希望、膨らむ期待。それらを望めば望む程大きくそして重くなって、失敗したらというネガティブな思いが顔を出し、いつしか緊張に変わる。緊張は普段を蝕み鈍らせる。
「ノーヒットやりたい?」私は湊に直球を投げた。本人が大丈夫と言うのだ、触れないよりは意識させた方が良いかな、という判断。
「普段なら即答だろうけど、今日はそこまでだな。記録より記憶。この感覚を覚えてたい」
成る程。結果は偶々だとしても、湊本人が感じる手応えは本物。記録が霞む程に、今彼女は自分と向き合っている。
ならば、私は。
「多分使い方間違ってるからな?」ニヤリと笑って、湊の肩に手を置いた。「思うがまま投げ込んで来い。んで、きっちり締めてやろう」
「おお」
グラブを合わせ、歩みは別々に。一歩踏み出した所で、私は湊を呼び止めた。ちら、と目線を空に向ける。
「少し雨強くなってきてる。足回りとか気をつけろよ?」
「オッケ」
傘は要らない。
けれど、雨天時独特の土の匂いが立ち昇り、頬を撫でる生暖かい風には埃臭さが混じる。
本降りにはならないだろう。
試合後には雨が上がり、雲間から青空が覗く。遥か彼方を見遣れば虹が掛かる。これからの私達の背中を押す様な光景を夢想しながら、私は終幕へと歩みを進める。




