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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Sprouting of qualities : 2 〜 資質の萌芽 〜
77/128

 Rather accident 〜 寧ろ事故 〜

 敢えて空気を読まない、という人種は一定数いる。

 敢えて、であるから空気自体は読めているのだけれど、その後の選択が時に受け手にとっては災難となりて降り注ぐ。

 面白い方に転がりたいというエンターテナァとしての性なのか、単に揚げ足取りなのかは解らないけれど、鳴海大葉山女子硬式野球部という狭いコミュニティにも拘らず、ある程度の頭数が揃ってしまっているが故の悲劇。

 チームの色と言えば聞こえは良いけれど、標的にされる側は溜まった物ではない。

 まあ、あくまで一般論として。


 そんなファニィな環境の中、所謂、”才能の無駄遣い”には決して走らない乙女がいる。

 空気が読めるというのは、洞察力が優れているとも言える。

 大屋事変を鑑みれば、その乙女、新川佳奈のそれは特技と言っても過言ではない。

 碧がちらりと口にした”佐伯みのりイップス説”の提唱者は左打席から随時変化する環境をその双眸そうぼうに焼き付ける。


 女帝が常桜の右中間を切り裂き、主将が右翼線を駆け抜ける長打で返す。

 私が勝手に陥った不安を嘲笑うかの様に、あまりにもあっさりと得点が入りベンチは喜びに包まれていた。


 そこにあるのは安堵ではなく予定調和。

 私以外はこの結果が出る事に対して何の疑問も持っていなかった事実を今更ながら自覚した。 

 私は肩を竦める。心理的にも、物理的にも。

 自分の至らなさを痛感しながら、若干引き攣り気味の笑みを貼り付けている。

 おそらく苦みはありありと滲み出ているのだろう。


 ちらりと窺う横顔は清々しい迄の笑顔。

 その純然たる笑顔が逆に背筋を凍りつかせる。

 心理、物理の両面からのプレッシャを感じ、私は更に身を縮ませた。

 広いとは言えないけれど席数は十分なベンチにおいて、私は正バッテリィに物理的に挟まれている。それもかなり密着して。

 逃げ場を消され、黒服に連行される未確認生命体の如く。


「カナは真っ先に見抜いていたわ」荻野は打席の新川に目を向けたまま言った。「言われてみれば、成程と思ったのだけれど、試合前の軽口もあったしそれほど気にする事でもない、と考えたのだけれど」

「どうやら、カナの目の方が正しかった、っつう事だな」上条は苦味を混じらせ口元を上げた。「ほんと、酷かったからなあ」

「らしいわね」


 女帝が凱旋すると同時に、雑兵たる私の失態は碧によって報告された。

 聞くや否や、荻野は満面の笑みで持って踵を返し、私を捕獲し今に至る。

 頭上で飛び交う言葉に私は何も言い返さない。

 言い訳も弁明もする意味がない。私が主張すべき正当性などは皆無の結果なのだから。


「おかしい、と思わなかったの?」荻野は目だけを私に向けた。「予測が外れる時は大抵全てがおかしくなる。けれど守備は……、相手の攻撃は想定通りだった訳でしょう?」

「……まあ、何と言いますか、皆さん普段通りの打撃が出来ていない様に見えまして、それで、もしや手玉に取られているのでは、と。そう思ってしまうと、どうにも修正が効かなかったすね」


 私の頭上で、バッテリィが目を合わせる。


「素直!」二人の愉しげな声が重なった。

 荻野は片手を口元に当て、上条は噛み殺す様にくつくつと笑う。

「だいぶ応えた様ね。まあ、完全に貴女の自滅だから擁護なんてしないけれど」

「まあ、想定外が何個か絡んでたから仕方ないっちゃ仕方ないすよ。こいつにとっては初めての公式戦な訳ですし」


 背後から碧が言葉を挟む。

 私の両肩に手を置き、もう一度、仕方ないっすよ、と言った。


「捕手たる者、常に冷静に周りを見なければ。まあ、守備に関しては今の所問題ないからこれ以上咎めはしないけれど」荻野は悪戯な笑みを浮かべる。「試合前に貴女が放った言葉、録音しておくべきだったわね」


 隙あらばこれだ。

 面白い方に転がる事を選ぶ、と言う例のアレ。

 まあ、私が普段を取り戻せた故の軽口なのだろうけども。

 ただ、その軽口がこの時は嬉しかった。少しばかり非日常に足を突っ込んでいた私に、日常とはこういうものだ、と解らせてくれたのだ。

 まさか、敢えて空気を読まないという普段の悲劇が私の背を押すとは、中々に世界は面白く出来ている。


 グラウンドの緊張が一旦解けた。

 腰を屈め新川はバットを置き、アームレガースに手を掛けながら一塁へ向かう。

 次打者のみなみが新川のバットを回収しようとネクストから足を伸ばす。


 この日二個目のフォアボール。

 マウンドの乙女は額を袖で拭う。

 けれどその表情にはまだ苦々しいものは浮かんでいなかった。


「少し解せないわね」荻野はマウンドで身体の挙動を確かめている投手を見ながら独り言の様に呟く。「ウチ相手に先発したのだから奥の手があると踏んでたのだけれど、蓋を開けてみれば、寧ろマイナス。ここに来て崩れ始めているし、そんな投手をまだ引っ張るのかしら。捨ててる訳ではないのよねえ」


 最後の疑問はおそらく上条に宛てたもの。察したのかエースは答える。


「まあ、まだ諸々が確定してるって訳じゃないからなあ。ミウの言う通り奥の手があるのかもしれないし、仮に坂下が継いだとして、そっちはデータあるぶん、分が悪いって判断かもな」


 荻野はイップスの疑いのある一年生投手が投げ続ける事に疑問を持っている様だった。

 仮に軽微なものであったとしても、インコースが使えないとなればそれはかなりのマイナス。

 ウチを相手にするのであれば自殺行為だ、と彼女は言いたいのだろう。


「何かしら別の意図があるんじゃないすか」碧が私に乗り掛かりながら口を挟んだ。

「別の、ねえ」女帝は目だけを碧に向ける。「それはウチを相手にやる事なのかしら。どんな意図があろうと公式戦でそんな愚行を犯すとは思えないのだけれど」

「まあ、価値観なんて人それぞれだからなあ」上条がしみじみと言う。「ま、相手の意図が何だろうと、ウチがそれに付き合う義理もない。打ってくださいって言うのなら、打てば良いさ」

「そっすよ」碧が同意する。「元々戦力差は明確、相手が何をしようとウチはウチのすべき事をするだけですって」

「戦力差云々の話はある程度事実だとしても、口に出すのはあまり褒められたものではないわ。とは言え、ねえ……」


 荻野がそう口にした瞬間、みなみのバットが快音を鳴らす。

 右中間のど真ん中に打球が飛んでゆく。

 ベンチ内に歓声が沸く。

 坂巻は余裕で戻り、新川は三塁を回った所で、コーチャが静止させた。

 打ったみなみは、二塁で留まり、当然とばかりに澄まし顔でレガースを外していた。


「まあ、あいつは球筋知ってっから、打って当然なんだろうなあ」碧は悪そうな顔をした。「あの余裕の表情が少しばかりイラッとくるけど」

「さて、どこかの誰かさんはどう続くのかしらねえ」

「また、良い場面で回りそうだねえ」上条がするりと立ち上がり、私の背中を叩く。「汚名挽回期待しちゃうよ?」


 無慈悲なまでにプレッシャを与えて来るスタイルの二人。

 まあ、これは今に始まった事ではないし、この程度で潰れるのならばこの場所に相応しくないという事なのだろう。

 やらかしている事実がある以上、軽口を叩くのは憚られたので、一言だけ。


「きっちり上位に繋いで来ます」


 そう言って私は立ち上がった。

 二人に繋がれたままだったので急いでレガースを外しに掛かる。そんな私の頭上に声が降る。割と真面目な碧の声だった。


「そんな消極的な事言ってんなよ。確り打点稼げって」


 見上げた彼女の顔は、普段の冗談を言っている緩んだものではなく真剣なそれだった。

 期待に応えられるかどうかは解りませんが、と言葉が口から出掛けて慌てて引っ込める。

 そのスタンスが消極的と言われる未来が容易に想像出来た。


 繋ぐのは最低限の仕事。

 周りが、碧が望むのはそれ以上の事。

 

 やらかした事実を払拭するにはそれなりの結果を出せ、という事のなのだろうと勝手に解釈し、心を決め頷く。


「逃げんなよ?」


 碧の言葉の意図を全て理解した訳ではなかったのだけれど、もう一度小さく頷いた。

 これまでにもチャンスで打席が回ってきた事はある。

 けれど、自己認識としては自分はお膳立てする側なのだ。

 長打が打ち難い故に、出来る事を選別した結果のそれ。

 しかし、今求められているものは打点。

 この時生まれた流れに乗って、自ら功を為して次に預ける。

 さすれば、欲しい結果は盤石な物となる。


 俯いている暇は無い。前を向け。自分の手で勝ちを引き寄せろ、と普段思わない大それた事が脳裏を過ぎる。

 おそらく切っ掛けは碧の逃げるなという言葉。ここは一丁狙ってみますか、と自分を鼓舞してみる。ここで私が打てるのなら、投手もより楽になるだろう。

 そんな事を考えつつ用意をしていると、その投手がゆらりと視界に入って来た。


「アンち、元に戻ったみたいだな」湊はあからさまに安堵した顔で言った。

「……お前気付いてたの?」

「そりゃ、気づくだろ」湊は言い切ると目を逸らしつつ頬を掻いた。「普段冷静なアンちが焦ってるんだ、誰だって気付く。でも、私はそんなアンちに掛ける言葉を持ってないから……」


 またこいつは柄にもない事を、と思いつつも、これは相当やらかしていたのだな、と改めて反省。本来慮る筈の投手に斯様な思いを抱かせてしまうのは捕手としては三下以下の所業。


「いや、悪かった、ごめん」

「別に謝んなくて良いよ。時にはこういう事もあるし。でも、アンちがそう思うのならさ」湊はニヤリと笑った。「そのバットで私を楽にしてくれよ」


 確かに点があればあるだけ投手は気持ちが楽になる。

 恩返しって訳では無いけれど、やはりここは自分でも決めたい、と私は思う。

 けれど、その心根を悟られるのは幾らか恥ずかしい。私もまた敢えて空気を読まない事が出来る乙女なのだ。なので湊と同じ様にニヤリと笑って軽口に変えてやる。


「楽にしろって? 何よ、お前撲殺が望みか?」

「へえ、日本ではそういう言い回しがあるんだな」初めて聞いたとばかりに湊は目を丸くした。


 マジレスかよ、と盛大に滑った事を自覚する。


「ま、まあ、ちょっとした言葉遊びのつもりだったんだけど……」


 私の弁明を湊は悪そうな笑顔で遮った。


「冗談だって」


 一瞬の空白。私と湊の目が合う。

 揶揄われた、と一拍遅れて気付き、湊を睨んでやる。


「お前ぇ」

「打席前の気晴らしじゃんか」悪びれる風もなく湊は頭の後ろで腕を組んだ。「でもまあ、言っていたのは本心だぜ? 楽に投げれるってのはホントだから」

「解ってるよ」吐き捨てる様に言って、私は立ち上がる。「せいぜい期待してろよ」


 売り言葉に買い言葉、つい大口を叩いてしまった。

 言ってしまったが故、結果を出さなければ立場がない。

 いよいよ追い詰められたぞ、なんて事を思いながらも、私はネクストに向かう。


 片膝をついて、打席の背番号七、多嶋美奈子を見遣る。

 大屋事変時、中立的立場を取っていた三年生。

 個性的な方々が揃う三年生の中ではお淑やかな方。けれど、野球に関しては頑固な職人肌で、己の技術に対する探究心は他と比べても群を抜いている。その結果か、バントの技術はチームトップクラスの信頼を得ている。


 ノーアウト二、三塁、しかも打席にはバントの名手と言っても過言では無い乙女。

 彼女ならスクイズの成功率はかなり高い。効率的に考えてもスクイズは選択肢に入るだろう。

 おそらくは常桜は中間守備を取るだろうと予測。

 点差は二点、これ以上の失点は避けたいけれど、スクイズ警戒の前身守備では抜かれたら致命的。多嶋はバントだけの乙女ではないのだから。


 私の目は打席の背番号七から少しずれ、相手の背番号七へと流れた。

 ブレーンと目された左翼手の乙女はどう判断するのか。

 一点覚悟でアウトカウントを進めるのか、最良の零点を勝ち取る為に、何か策を繰り出すのか。


 ベストは内野ゴロでホームゲッツーだ。

 私ならそれを狙う。

 幸いにも投手にはそれを可能にする良い球がある。けれど、投げ切れるかが不透明。

 左翼手は微動だにしない。ただ微かな笑みが浮かんでいる様に見えた。

 始動したバッテリィの挙動を見て、私の口元が上がる。


 そういう事か。

 プレッシャの所為か、冷やりとした物が背筋を流れる。

 まあ、妥当な判断かと思う。

 気の抜けた音を出しつつも、ボールがミットに届く。

 みのりの表情は特に変化はない。淡々といえばそう。


 からん、とバットが転がり、私はそれを回収する為に足を伸ばす。

 確かに二、三塁よりは守り易い上、投手は打者に集中出来る。

 しかも次打者はひ弱なメガネ。ここに来ての満塁策は説得力としては申し分ない。


「汚名挽回、といった所だね」バットを受け取りに出て来た千家が口元を上げる。「相手の狙いは解ってるんだ、あとは、ね」


 私はこくりと頷き、我が戦場へと足を向けた。


 マウンドには内野陣が集まっている。

 連携の確認や意思の共有と、事前のコミュニケーションというものは侮れない。

 言葉一つで、ワンランク上のプレイが出る事だってある。何事も確認と共有は重要だ。


 ボックスの外で、素振りをしつつグラウンドを眺める。

 個人的にはあまり遭遇しない光景だからか、緊張と高揚が綯い交ぜになった様な妙な心持ちを覚えた。打席から見る満塁のグラウンドというのはなんと壮観であろうか。

 ちらりとベンチに目を遣れば、嬉々とした瞳が私に向いている。

 大半は期待、少数は好奇といった印象。どちらにせよやれる事には変わりはない。


 常桜の面々はマウンドで声を揃え、各々の持ち場に散ってゆく。

 捕手が定位置に就いたのを確認してから、しっかりと頭を下げ、ボックスに足を踏み入れ足場を慣らす。

 ベンチを振り向けば、呼応して理香が動いた。

 予想通りではあるのだけれど、サインは”打て”のみ。

 スクイズも外野フライの指示もなく、ただ来た球を打ち返し得点せよ、と。

 手抜きか、はたまた信頼か、と思いが頭を駆け巡る。

 と同時に、この程度のシチュエーション、モノにしないでどうするの、と私の中の理香が高笑う。


 難儀なオーダだな、と私は誰にも気付かれない様に小さく苦笑、了解とメットの鍔に触れた。

 そして、グラウンドを見遣る。

 あるべき最大の人数がそこにいる。


 敬遠からの満塁策は妥当だと思うし、多嶋ではなく私の方が与し易いというのも解る。

 データが無いとは言え、一年生且つ貧相な体躯。

 大きいのは無いと判断してもおかしくはない。

 私自身、そういう意味では私に期待などしていない。


 だから。

 私が長打を狙うのなら外野線ギリギリを抜くしかない。

 私の一打席目は三振という結果、打者としての性能はおそらくまだバレてはいない。

 そういう意味ではチャンスならある。

 幸いにも先程に比べ外野は前進している。強く速い打球でファーストないしサードの頭上を越せればセカンド迄は辿り着けるだろう。

 後は何を狙っていくかなのだけれど、これに関してはもう心に決めていた。


 私が狙うのはチェンジアップ一択。

 前打席のリベンジという思いが無い訳ではないけれど、直球を含めた同系統の三種よりは、個人的には軌道もタイミングも見極め易い。

 こちらの思惑がバレない様に基本直球系のタイミングでゾーンに入った球はカットして、チェンジアップを誘い込む。

 おそらくは外に来るだろう。

 ベストは真ん中寄りに入ってしまった球だ。


 一度背を伸ばしてバットを掲げた。

 僅かに腰を落とし、静止。投手を見遣る。

 みのりはランナーを気にせずセットに入った。

 無表情。

 私も余計な物を削ぎ落として、目の前の事に集中する。

 足が滑る様なクイック。

 右腕が出る。

 アウトハイに直球系。

 ゾーンを掠める軌道。

 私は踏み込み手を出す。


 球を弾いた音の後に、バックネットに当たる音が続く。

 入りは直球。

 中々良いコースだったけれど、カットするだけなら対応出来る。

 次は変化球だろうな、と思う。

 私なら低めにカットないしツーシームを選択する。

 仮にチェンジアップが来たら、と考えて、すぐに手を出すのではなく見るのも一興かという考えが浮かんだ。

 千家の話からチェンジアップは二種類。

 シンカー気味のは一打席目に見たので、もう一種を見ておきたい。

 軌道は上条のそれに近いという話。直球に絞っていれば泳がされるだろう。けれど、元よりそれ狙いなら対応出来る筈。


 二球目。

 まさかの真ん中内寄り。

 手を出し掛けて、寸での所で止めた。


「ストライク!」


 主審の声が響く。

 おそらくはコントロールミス。

 初めてみのりの表情が揺れた、様に感じた。

 バッテリィの思惑としては外からゾーンを掠めるカットのつもりが、インコースに行ってしまった、という所か。


 少しばかり背筋が冷えた。

 相手からすれば怪我の功名ではないにせよ、今の球に手を出していたら、おそらくは内野ゴロになっていた。

 見送った自分、偉い、なんて事を考えつつ、イレギュラもあるという事を再確認。


 今一度、背を伸ばしバットを構える。

 さて、次は何かな、と待ち受ける。

 再びアウトコース。

 うまくカットするも、打球は三塁ベンチ前に転がった。

 タイミング的にはバッチリだった筈。にも拘らずバットの先に当たった様に思う。

 と、いう事は今のはツーシーム。

 これ迄のデータを鑑みれば、より変化したという事だろう。

 報告案件という事で、一旦頭の片隅の留めておく。


 随時変化があるからこそ勝負というものはヒリついて来る。

 私の中でそれが楽しいという感情が芽生えている。

 だからなのか、元々打席ではプレッシャを感じない方ではあるのだけれど、この打席での私は満塁であるとか、功を為すだとかの思いをとうに忘れ、只々目の前の相手との勝負だけに意識が向いていた。


 カウントは1-2。追い込まれている。けれど、そんな事は大して問題とも思わなかった。


 集中はさらに増してゆく。

 クイックからの四球目。

 みのりの手から離れた瞬間、チェンジアップだと解った。

 けれど、完全な外のボール球。

 軌道を焼き付けるという意味でもしっかりと見逃す。

 今のはシンカー寄りの球だった。

 出来ればもう一種を見ておきたかったとは思うけれど、相手からすれば、勝負球にするのであれば未見の方が好ましいだろう。


 続いて、アウトローにカットボール。

 決め球にストレートは無いと思っていたので無難にカット。

 前打席からこうカットを続けていれば、相手バッテリィからすれば面倒臭い打者という印象になるだろう。打ち損じが期待出来ないとなれば、空振りを取りたい筈だ。

 前打席で空振りの実績もあり、御誂え向きに未見の球もある。お膳立ては整っている。


 次だな、と朧げながら思った。

 一度、二塁に牽制を入れてからのサイン交換。

 みのりのグラブが腹に着いた。

 静止。

 踏み出し、右腕が出る。


 思い返せば走馬灯の如く、コマ送りに映像が蘇る。

 その中で私は勝った、と思った。

 弾ける球は緩りとした軌道を描き。

 少しだけ浮いて真ん中より僅かに外に。

 僅かに溜めてから踏み込み。

 右手を引き。

 左手でアジャスト。

 私は力一杯振り抜いた。

 耳に残る快音。

 手に伝わる程良い重さ。

 打球を目で追い、自分でも驚く。

 これまで打った事のない放物線が右中間に飛んだ。


 歓声に背を押され、無我夢中で地面を蹴る。

 横目に一塁コーチャの藤野が腕を回す仕草が映る。

 迷いなく一塁ベースを蹴り上げ、さらに加速。

 打球の行方、右翼手と中堅手の背番号を確認、二塁ベースをも蹴っ飛ばした。

 後は一目散に三塁を目指す。

 肺が苦しい。

 三塁コーチャの大島が両腕の大きな素振りでスライディングの方向を示している。

 私は跳んだ。

 頭から三塁に滑り込む。

 ワンテンポ遅れて頭上前方から捕球音。

 ベースに手をつき立ち上がって、拳を突き上げた。


 つい、という言葉でしか言い様が無い。

 正直な所あまり良く覚えていなかったのだ。


 後から聞けば私は三塁ベースで咆哮していた様だった。

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