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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Sprouting of qualities : 2 〜 資質の萌芽 〜
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 Purification 〜 浄化 〜

「惜しい、あと少しだったな」


 上条の言葉には残念さが滲むけれど、彼女の表情は余裕のそれ。

 碧もまた、余裕の表情で相槌を打つ。


「ですね。でもまあ、今のは今ので中々……」


 悔しげな視線を外野に向けつつ、杏樹がベンチに戻って来る。

 これ迄と何一つ変わらない結果を前にしても、目の前の二人はどこ吹く風。

 それを心強さと受け取れれば何も問題は無いのだけれど、この時の私には無理な相談だった。

 目の前に起こる現実が全て。そして現状まともな安打は関谷みなみの放った一本だけ。私の中で輪郭を形成した訝しみは、現状と二人の気楽さが合わさりじわりと苛立ちに変わりつつあった。


「……打たされてるじゃないすか」私は抑えた声で言う。「シフト轢かれてるんすよ。さっきミドリちゃんが言った様に、野手陣皆配球解って……」

「ありゃあ、シフトじゃなくて、ギリ中堅手の守備範囲内だろ」碧は即答した。

「まあ、別にシフトでも構わないけどね」上条はなんて事無いとばかりに言い切った。

「構わないって……」


 私の反論を碧がそっと手の平を出して止めた。


「さっきの話、だけどさ」碧は緩んだ表情を引き締めた。「お前の中で、常桜ってどんな印象だったよ。あくまで試合前の段階でな」

「はあ? それが今どう関係するって言うんで……」

「いいから、言えよ」


 呆れと苛立ちが少し滲む碧の声に、私は喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。

 思う事は山程あるし、反論もすぐに出よう。けれど、普段は向けられる事のない剣呑さが私の中の苛立ちを一瞬でねじ伏せ、半ば反射的に碧に従う。

 と同時に、遅まきながら、無駄に熱くなっているのでは、という懸念が浮かぶ。

 実際苛立ち始めていたのは事実なので、仕切り直しとばかり一回隠れて深呼吸をして、口を開いた。


「バントあり、スクイズありの基本に忠実なチームすね。全体的には小降りすけど、出塁率の高い一、二番が出てクリンナップの長打で返す、至って普通のチーム。クリンナップは長打力はそこそこあるにしても確実性には欠ける。守備に関しては、突出した選手もおらず当たり障りないって印象すね」

「……それが解ってて何でそうなるんだよ、ねえ」碧は半笑いで上条に同意を求めた。

「まあ、擁護しきれないかもなあ、はは……」引き気味に上条も笑う。


 ほんの二言三言前に自分に向けた戒めはあっさりと感情に上書きされてしまい、私の口から出た言葉は碧達とは正反対に焦りが滲む。


「確かにデータとしては有用すよ。でも無いよりマシってだけじゃ無いすか。蓋を開けてみれば、不透明な部分の方が多い。実際、うちは相手の策に呑まれて……」

「……マジか」上条があからさまに表情を引き攣らせた。

「ね、まずいでしょ?」

「ある意味、最大の誤算だわ」


 上条の一言に碧が大きく頷いた。

 二人の目線が交わり、すうっと理香の方へ傾く。

 暫しの逡巡の末、再び私の元に。

 碧は頭を掻き、上条は腕を組んで、二人同時に溜息じみた息を吐く。

 再び二人の目線が交わり、上条が顎をしゃくった。

 碧は一旦ちらりと勝負の真っ只中にある荻野を見遣る。

 相手を見据える女帝の凛とした横顔には、こちらが入り込む隙など微塵も無い。

 一度小さく頷き、灰色の瞳が私を貫いた。


「良いか、冷静に考えろよ? 今のウチの現状は理解してるよな」

「だから、策に……」

「そっちじゃなくて、リーグ戦の戦績の方」碧は私を促す様に顎をしゃくる。

「……三勝三敗すね」私は拳を握る。「落とせないって解ってるからこそ、色々考えて……」


 ばちん、という音がしないでも、それ相当の衝撃が私の額を直撃する。


「痛え」手で抑えつつ、デコピンを放った碧に恨みがましい目を向ける。

「冷静に考えろって言ったぞ?」碧は溜息と同時に首を振る。何時ぞやの冷たい眼が私に向いた。「お前何様だよ」

「え、え?」


 碧の怒気が顕になった瞳に射竦められ、瞬時に背筋が寒くなる。


「一から懇切丁寧に説明してやんよ」碧はそう言うと、私の額に人差し指を突き刺した。「この阿呆が」


 碧は再びちらりと荻野の打席を窺う。


「お前が言った様にこの試合を落とせないのは確か。でも、そんな大切な試合で何でお前が先発マスク被ってんのさ。ミウさんや、私より優れてるから? んなわけないよな。未だお前は三番手だ。経験を積ませる為とは言え、瀬戸際の試合に先発させるにはデメリットの方が勝る。にも拘らず先発はお前。これはどういう事か」碧の手が伸び私の頬を掴む。「今日の試合ってのは勝ち確なんだよ」

「ふぁ?」三度間抜けな音が私から漏れる。

「ったく、舞い上がるにも程があるってなあ」碧はそっと手を離し肩を竦める。「あのな、コハク。いくら相手がデータを持とうが、奇策を使おうが、埋められない差ってのがあんのよ。さっきもちらっと言ったけど、別に相手を舐めてるんじゃない。冷静に分析した結果、勝ち筋が見えたからこその選択なの。だから、仮に窮地に陥る事があったとしても、それはほぼ自滅だ。んで、今お前は一人その道に片足突っ込んでるって訳だ」


 掴まれた頬がじわりと熱を持っている。

 先程までの射竦める様な視線は形をひそめ普段の碧に戻っていた。

 幼子をあやす様に、柔らかい口調で続ける。


「期待の新人が入ろうが、たかが数ヶ月で劇的にチームは変わりゃしない。まあ、大半が新人っていうのならデータも大して意味ないし、また話は違ったんだろうけど、現状は今のデータで十分通用する程度の変化だ。んなもん誤差だ誤差」顔の横で蠅を払う様な仕草をした後、私の反論を察したのか手の平を広げた。「いいから、聞けって。多少の誤算があったのは認めるけど、あくまで多少。こちらのプランが崩される程じゃない。それにさ、守備ではどうよ? 特に問題なんて……」


 言いながら碧の目が流れる。

 同時に快音が響き渡った。

 弾かれた白球は曇天を裂く様に、右中間のど真ん中に飛んでゆく。

 全ての不安を掻き消す確信。


「ナイスタイミング」


 碧の呟きが私の耳に届く。


「役者めぇ」上条は打球の行方に目を向けつつ口元を上げる。


 歓声が立ち上り、それらを演出した荻野は悠々とした足取りでセカンドベースに辿り着いた。

 この日、チーム二本目の安打は、女帝荻野による右中間を切り裂いたツーベース。

 塁上で荻野は淡々とアームレガースを外す。

 受け取りにきた一塁コーチャの藤野と二言三言交わすけれど、そこに爆発的な喜びはなく至って冷静、普段通りの凛とした笑み。


「な?」予定調和とでもいう様に、碧は二塁を見ながら片頬を上げる。「杞憂だったろ」


 はい、そうですね、と素直には頷ける訳が無い。

 幾ら説得されたとて、私の中に生まれていた相手に嵌められているという幻想はヒット一本で払拭される程軽くは無い。

 けれど、時に感情というものは理性を凌駕する。

 我に返れば、私は両手を挙げ女帝に向かって大声で賛辞を送っていた。

 ワンテンポ遅れて飛び出た歓声に、二人の身体がびくりと震えた。


「ま、まあ、クリンヒットだし、嬉しいのは解るけどさあ」恐る恐る振り向いた上条は若干引きながら言う。「ラメちゃん、大丈夫?」

「さ、流石の私でも引くわあ。何その変わり様」碧も身体を逸らし気味に頬を引き攣らせた。

「べ、別に良いじゃ無いすか、喜ぶくらい」二人から目を逸らしつつ言う。


 実際訝しみはまだあった。

 けれど同時に嬉しいのも確か。

 不意に訪れた福音につい感情が膨れ上がってしまった。

 華麗なる手の平返しに加え、リアクションが過剰だったのも認める。認めるからこその羞恥の念ではあるのだけれど。


「と、まあこういう事だ」碧が私の肩に手を置いた。

「何がですよ」恥ずかしさから、口を窄め目を逸らす。

「流石にいつでも打てるとは言わないけど、崩せない相手なんかじゃ無いって事。策があろうが、そんなんで止められる程、ウチの打線はやわじゃない」碧は目を細め、口を真一文字に結ぶ。「つうか、冷静に相手を見れば解る事。過去の映像もあるんだ、相手の力量位すぐに察せるだろ。それが解らず、策がどうとか言うお前は、詰まる所冷静じゃない」


 碧は人差し指で私の額を小突く。

 上条は腕を組んでしみじみと言った。


「ヒント上げたのに、使われないってのも中々に寂しいもんだねえ。あれが解ってれば、策とかどうでも良いのにさ」

「ヒント?」私は首を傾げる。「私の打席での、あの投手の限界ってやつですか?」

「そうそれ。なんだ解ってんじゃん。なのにどうして、そうなったのさ」上条は苦笑する。

「あれって、ランナ背負うと制球が雑になるって……」

「はあ?」


 碧と上条の声が重なった。

 二人して目を合わせ、あからさまに落胆した。

 碧が再び私の肩に手を置き首を振る。


「……お前全然解ってねえよ。ハズレもいいとこだ」

「ま、まあ、そういう事なら、不安になっても……ってならないな」上条は天を仰いだ。「それ以前の問題だわ」


 碧の両手が私の両肩に掛かる。


「帰ってこーい。いつから、お前は、そんなポンコツに、なったんだー」投げやりな棒読み口調で言いながら、碧は力任せに私を揺らす。

「え? え?」碧に弄ばれながら、疑問符が頭の中を舞う。

「良いか、コハク。……この言葉何回目っすかね」碧は明らかな疲れを滲ませちらりと上条を窺う。


 上条は目を閉じ両手の平を上げ首を振った。


「自分の打席思い出してみ? ショコさんがお前に言ったヒントってのはな、あの投手インコースに投げないって事。皆の打席確認したけど、真ん中寄りはあるけど厳しいコースは今まで無い。左右関係なく、セオリ的にインコースの場面でも外に逃げてたから、ほぼ確だと思う。もしかしたら軽微なイップスかもな」

「まさか……」


 と言いつつも改めて自分の打席を思い返してみると、碧達が言う様にインコースの球は一球もなく、アウトコース主体の配球だった。

 実際アウトローは被打率が少ないコースではあるので、アウトコース主体の投手は存在する。寧ろ多いだろう。

 加えて、バッターに対して外に逃げる球は有用、右対左ならば、外へのツーシーム及びチェンジアップは攻め方としては納得は出来るもの。

 ただ、それと同じ程度にはみのりのカットボールの質は高く、使える球。なればこそ、対左では外のチェンジアップを見せ球にインコースにカットボール、対右も同様、外のカットからの内のチェンジアップ、と狙っていない限り大半が打ち損じるであろう、確度のある攻めとなる。

 自覚した事実が碧達の言葉を裏付ける。


 と同時に開けた視界は新たな事実を教えてくれる。

 相手バッテリィは投手のタイプ的にも打ち損じ狙いなのは明らかなのだから、使わない手はない。実際内野ゴロは、と考えて漸く現実を見る事が出来た。


 そうなのだ。

 実際打ち損じの内野ゴロはあるのだけれど、バッテリィの思惑が内野ゴロというのなら、予想以上にフライが多い。結果としてアウトなのは変わらないのだけれど、計算外というのであればそうなのかもしれない。

 相手にとって計算外という事は、こちらにとっては……。


「実際私は打席に立ってないけどさ、聞けばカットボールは厄介だけど、ツーシームはそこまでじゃない。まあ、予想外のチェンジアップは出て来たけど、インコースがないなら対処は出来る。つうかさ……」碧は不敵な笑みで片頬を上げる。「ぽっと出の一年生にやり込められる程度なら全国なんて恥ずかしくて口に出せないだろ」

「ま、インコースで勝負しない投手もいるし、うちらにインコースは無いと思わせるって可能性もあるんだろうけど、私はおそらくそれは無いと踏んでる」上条は言い切る。「時には敢えて投げないって選択はあるけど、それは酷く限定的だし、やり続けるメリットなんか無い。それよりも投げられない、もしくは投げたくないって方がまだしっくり来る。まあ、投手の勘って言ったらそれまでだけどさ」

「そういう転がってる事実を拾い集めれば、別に焦る必要もないのよ。にも拘らずお前は……」碧は再度私の額を指で小突く。「勝手に呑まれて、明後日の幻想を膨らませて、挙句の果てに、私らにさえ噛み付いてくるとは」

「……返す言葉も御座いません」


 私は口を開くと同時に膝を折る。

 土下座までは行かなくとも、せめて正座で自分の至らなさを反省したい。


「……おい、やめろ。あらぬ疑いを掛けられる」


 すぐさま碧が私の首根っこを掴んで立ち上がらせた。


「ラメちゃんは素直なのか意固地なのかよく解らんねえ」上条は苦笑を浮かべた。

「理屈が通れば素直なヤツではあるんすけどね。ただ、そこに行くまでが意固地っていうか……」


 しおらしくしていれば、いつもの様に言いたい放題になるあたり、やはり二人は普段通りだったのだろう。

 私が一人迷いの森で右往左往していたのはもう覆されぬ事実。

 再三に渡る先輩方の慈悲深い説得で漸く私もそれを認める事が出来た。

 そうなると普段がひょっこりと顔を出す。

 反省していない様に見えるかもしれないけれど、それはそれ、これはこれ。つい言葉が漏れる。若干不貞腐れ気味なのはご愛嬌だ。


「そもそも、私がおかしいと感じてたならすぐに言ってくれても良いじゃないすか。それなのに回りくどいやり方して」

「コイツ……」呆れを前面に出しながらも、碧は律儀に言葉を返す。「自分で気付かなきゃお前の為にならねえだろ。それに直球勝負で結論だけ言っても、お前は直ぐに飲み込まねえじゃん」


 ご尤も。またしても返す言葉がありませぬ。

 知らぬうちに自分の性格までもが把握されていた事に遅まきながら恐怖しつつ、ふと湧いた疑問をぶつけてみる。


「そういやイップスとか言ってましたけど、仮にそうならそんなピッチャ先発させます?」

「奇策兼荒療治じゃねえの、多分」碧はマウンドに目を向ける。「実際イップスかどうかは、見た事実からの推測に過ぎないから本当のところは解らん。でもまあ、ぶっちゃけエースが先発した方がウチとしては楽だったから、ある意味では策にはなってたんじゃね。大した意味がなかったとしても、さ」


 いや、そこそこ意味はあったのでは、と私は思う。

 実際私はそこに囚われ過ぎて醜態を晒していた訳だし、と考えて内心目を細めた。


 もしかして、引っ掛かっていたのって私だけじゃね?


 その事実が輪郭を伴い信憑性を顕にすればする程、私はどこか穴の中に逃げ込みたくなる。恥ずい、ただそれに尽きる。

 私の中で生まれた羞恥心を理性で持ってねじ伏せる。

 端から見れば、ほんのり頬を赤らめ、何かを堪える様な表情になっていたのだろう。

 戸惑いと呆れが混ざった様な表情で碧は辺りを気にしつつ耳打ちしてきた。


「や、まあさ、初めての公式戦だし緊張もしただろうさ。だから、まあ、仕方ないよな」

「?」


 唐突に何を言っているのだろう、と私は碧を訝しむ。

 碧は再び周囲に気にしつつ、やたらと私を気遣う素振りを見せる。


「ま、あれだ。汚くて嫌かもだけど、今は試合中だし、そこで我慢してくれ」


 いまいち碧の言葉の意味するところが浸透して来ない。


「何言ってるんすか?」


 首を傾げつつ、碧の視線の向かう先を追う。

 バックネットの裏手にひっそりと佇む一対の簡素な長方形。


「なっ」慌てて振り向き、碧を咎める。「別にトイレ我慢してる訳じゃねえ……」 


 私の弁明は、なんともタイミング良く掻き消された。


 曇天を割る様な心地良い響き。

 五番の坂巻がライト線を駆け抜ける大きな弧を描いた。

 その軌跡を追う私達は一瞬言葉を失い、ただ眺めるだけ。


 希望が確信に変わる瞬間。

 人は斯様な時ほど静かなものなのだ。

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