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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Proof of buds : 1
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  Abandon all hope, 〜 一切の希望を捨てよ 〜

 地面に落ちる影が急にその色を濃くする様な急な陽のかげり。

 そんなイメージが私の脳裏を横切る。

 見上げた空は快晴で、私達はいずれ花咲く乙女である以上、些細な予感など春風に乗せて吹き飛ばしてしまえば良い。そう思うのだけれど、眼前に広がる現実に嫌な予感を払拭しきれないでいた。


 入学初日に旧友金田一葉と出会い、どんな巡り合わせなのか、本来いる筈のない香坂綾との再会と、ちょっとしたサプライズで私の二歩目は輝いて見えた。

 そう。それはそう見えていただけだった。


 入学当初の慌ただしさと混乱は次第に治まり、学校生活は平常へと推移する。それと同時に私達は動き出す。微かな不安と膨らむ期待を胸に抱き、薄らと思い描いていた僅か先の光り輝く未来は今、集まり始めた黒雲によって遮られようとしていた。

 翳りの初手は思いの外早かった。


 名将と呼ぶには僅かに実績が足りない、というのが世間での評価。けれど、約十年に渡り最低でも全国ベスト16を逃さなかった堅実性のある育成方針と、どの代の卒業生からも絶大な支持を受ける人柄。鳴海大葉山の女子野球部の歴史を創り出した名監督、今泉永真いまいずみえいしんがこの春から病気による長期療養に入ってしまった。体調不良は仕方なく、彼の快気を切に願う者は卒業生から教員までと斯くも多い。

 名監督の急な休養は先行きを曇らせる発端には違いないのだけれど、私達に降り掛かる現実的な問題はそこではない。

 問題は、監督代理を担う人物にあった。


 大屋茂春おおやしげはる。英語教師として着任して四年目の二十六歳。元高校球児として着任早々監督補佐兼コーチとして女子硬式野球部に籍を置く。爽やかなルックスと柔らかな物腰で女生徒からの人気は高い、と字面だけだと良い印象を抱きがちではある。


 けれど。


 部活初日のオリエンテーション。

 学内には実績のある運動部が多い中、オリエンテーションの場に多目的ホールを充てがわれているあたり、学校側の期待が窺える。空間に対して若干人数が少ない気がしなくもないのだけれど、階段状の講義室の壇上で、彼は声を張る。



 ——今泉監督の成し得なかった全国制覇。僕はこれを目標に掲げる。君達、ついて来てくれるね? 



 爽やかな笑顔で大屋監督代行は白い歯を見せた。

 私はそこで違和感を感じた。

 本来なら人となりを知っている筈の上級生達の反応が鈍い様に見える。表面上声は出ているのだけれど、体育会系独特の覇気の様なものが薄い、とでも言うべきか。


 後日、違和感は輪郭を伴う。

 校舎のある敷地からやや離れた、樹々に囲まれた女子専用グラウンドのベンチ前。

 練習着に身を包んだ大屋と、その後ろにマネージャらしきジャージ姿の女生徒が二人。彼等を中心に上級生から同心半円状に、仮入部期間の一年生を含めた女子野球部三十人強。

 大屋はぐるりと自分を取り囲む乙女に目を配り白い歯を見せた。



「先日行った体力測定の結果を見せてもらいました。おっと、プライベートな部分は見てないから安心して?」薄い反応を苦笑いすら見せず流し、大屋は続けた。「二、三年生については基本今まで通り。一年生については、青山あおやま関谷せきたに伊園いその佐倉さくら夏目なつめ……」


 大屋は一旦手元のファイルに目を落とし小さく頷く。私はその目に何か不穏なものを感じた。


「それと、四ノしのみや。以上六名は上級生グループに参加。残りの一年生は先ず体作りから。メニューはこれから配る冊子に書いてあるのでそれに倣ってこなして下さい。では」



 大屋は横のマネージャに目配せすると、彼女達は機敏な動きで冊子を配り始めた。

 私は手元に来た冊子を捲り、目を剥いた。

 これは尋常では無い。

 幾ら経験者が集う場所とは言え、ついこの前まで中学生だった乙女と、そこから羽化して日々を生き抜いた上級生に差があるのは自明。校内の体力テストの結果もあるので基準に達していない故に身体作りから、というのも納得は出来る。

 けれど、冊子にあるメニュウは常軌を逸していた。

 確かにこなせれば体は大きく強くなる。けれど、明らかなオーバワーク。これがここでの普通というのならそうなのだろう。けれど、そこにある意図が読めない。というより、あるのかすら疑問だった。



「すいません、一つ良いですか?」

 上級生の誰かが発言を求めた。


新川しんかわ副主将、何かな?」

「監督は全国制覇を狙うと言いました。体を作るのは必要だと思いますが、これは流石に……。それに、先ず新入生全ての実力を見てからで良いのではないですか?」

「ふうむ。確かに新川の言う事も一理ある」大屋は顎に手を添えた。そして爽やかな笑みと、蔑む様な目。「良いでしょう、一年生の実力を見る為に紅白戦でもやりますか」

「え? あ、は、はい。ありがとうございます」新川はまさか自分の意見が通るなどとは思ってもいなかった様子で、しどろもどろになりながら頭を下げた。

「ただし」大屋は人差し指を立てる。「このような提案があった、という事は、皆覚悟が出来ているという事。まあ、人員整理もしたかったところですし、試合の結果いかんでは、二、三年生の配置換えもあり得るという事も解っていると」



 上級生が騒ついた。

 大屋監督代行の言葉は部分的には納得出来るものだ。

 内部競争のないチームなんて先が見える。その点では納得出来る。出来るのだけれど、それと同時に疑問も湧き上がる。

 冊子にあるメニューはただ単に筋肉を肥大させるだけのもの。基礎体力の底上げは解るのだけれど、その後に続く何の為に鍛えるのか、それが抜けている。だから意図が読めなかった。それに加え、チーム内の競争を肯定する様な発言をしながら、何故初めからそれを考慮せずに、一年生の大半を切る様な真似をしたのだろう。

 私が疑念と格闘していると、隣に座っていた一葉が耳打ちしてきた。



「選ばれた六名って多分シニア出身でそれなりに実績ある選手だと思う。多分スカウトされてここに来たんじゃないかな」

「だとしたら、ウチらは実績がないから体力作りな訳?」

「そう考えるのは早計じゃないかと思うけど、ちょっとあの監督意図が読めないよね」

「やっぱ、金田一もそう思う?」

「うん。なんかヤな感じ」一葉は肩を竦め苦笑した。

「ああ、あと、上級生には通達してますけど……」大屋の言葉に上級生の騒めきがぴたりと止んだ。「伊園と四ノ宮、あと夏目。三人共髪を黒くして短くしなさい」

「はあ?」一年生の列の左端に座っていた、明るい茶髪を後ろで束ねた長身の乙女が、乙女らしからぬドスの効いた声を上げた。



「まあ。切りたくない、黒くしたくないと言うなら、どうぞ? いつでもグラウンドの門は開いているから」大屋は白い歯を見せ、グラウンドの入り口を指し示した。

「今時そんなん通じねえだろ。それに、こっちは推薦貰ってここ来てんのに、いきなり帰れってか?」

「君に推薦を送ったのは今泉監督。でも今の監督は……」大屋は蔑む様な目で見下ろした。「僕だ」


 大屋は溜息を吐きながら首を振った。


「何か勘違いしている様だから言っておくけど、僕は勝つ為にここにいるんだよ? その為の規則であり、規律だ。従ってもらわなきゃ、勝てる物も勝てないだろ? 伊園、君は何の為に野球をしているんだ? 強豪シニアのクリンナップを任されていた君が解らない訳ないだろ?」

「……解ったよ」長身の乙女は吐き捨てる様に言った。


 隣にいた、少しふくよかな乙女が妙に慌てて、長身の君を宥めにかかる。その手を振り払い大屋に噛みついた。


「勝つ為って言うんなら、自分の実力を示せば良いって事だよな? 勝てば官軍って言葉もあるしな。良いよ、私らは一年生組に入る。んで、上級生組に勝ったら私を戦力として認めるって事になるだろ? 全国制覇に必要だよなあ、ゴールデンルーキーはさ」

「……言葉遣いに関しては今回は多めに見よう。けれど次はない。君がここにいたいと思うのなら、せめて最低限の礼儀は弁えてもらわないと」


 最低限の釘を刺して、大屋は嘲りの混じった息を吐く。


「……もう少しクレバな選手だと思っていたけどね」大屋はもう一人の茶髪に目を向けた。「四ノ宮、君はどうする?」

「私も切りたくない、です。だから、そっちに行く」

「ふむ。まあ好きにして良いよ。で、もう一人……」溜息混じりに肩を竦め、大屋の嘲りとも憐れみとも取れる目が流れる。片隅で座る、茶髪を後ろで二つ結びにしている乙女を射抜く。「君はどうするんだい?」

「私は勿論、こっちにいますよ?」小さな手振りは上級生を指し示す。

「懸命な判断だね。期日は設けないけど、出来るだけ早く頼むよ」


 帽子の影で表情の全ては見えない。浮かんだ彼女の口元が歪に曲がる、不穏な笑み。

 その対応を大屋は了承と受け取り次に進む。マネージャから新たにファイルを受け取り目を落とした。



笹川ささがわ藤野ふじの、君達は一年生側」


 上級生グループが再び騒ついた。


「春先だから、アップは念入りに一時間、ボールを使って一時間その後に試合。上級生は右翼ライト側一年生は左翼レフト側を使って下さい。僕は審判をやる。アップ、練習、メンバ、試合の戦略はそれぞれのチームで考えて下さい。ああ、皆解ってると思うけど、出場しなければ実力なんて解らないから」



 監督代行の言葉を皮切りに各々が動き出す。右も左も解らない私達を一年生組に指名された先輩二人が外野の左翼側に誘導する。

 彼女らの促しで、それぞれ準備運動を始めた。

 私はストレッチをしながら思考の海に埋没する。

 何だろう。

 結果論で言えば、的を射ているのにも拘らず、この煮え切らない嫌悪感にも似た感覚。もやもやする気持ちを抱えながら、私はいきなり瀬戸際に立たされた。


 結果を出さなければ、普通にプレイ出来なくなる可能性が高い。まあ、それに関しては、おそらくどこにいても変わらないだろう。けれど、まだ皆何者なのかすら決まっていない乙女なのにも拘らず、その蕾が花開く前に暗所に閉じ込められる。レギュラとサブ、という言葉の違いはあれど、チームとしての戦力を上げなければ全国ではおそらく勝てない。監督をしている以上それが解らない訳がない筈、と考えが至ると直ぐに。

 私は合点した。


 私が納得いかないのは、まだ何者でもない私達に対して見切りが早すぎるという点だ。確かに基準に達していないのであれば、そもそもの資格が無いのは解るけれど、明確な基準を提示せず、現状を見る事もしないで切り捨てる。流石にそれは早計過ぎるだろう。違和感の正体はこれだ。

 仮にその決断が正しいとして、監督代行の意図はどこにある。何故そんな答えに辿り着く。



「斑目」


 不意に名前を呼ばれた。声の方に顔を向けると、見覚えのある顔がそこにあった。記憶が繋がり彼女に下に駆け寄る。


「もしかして藤ちゃん?」


 そこにはかつての面影は薄かれど、鎌倉アザレア時代の先輩である藤野紫穂ふじのしほがいた。


「久しぶり。元気してた?」藤野は私の肩に手を回し軽く叩いた。


 頷きかけて、姿勢を正す。一個上の先輩ながらも気さくな人柄だった為、かつては友人の様に接していたのだけれど、ここでは紛れもなく上級生。私は礼節を弁える乙女、正面に回り改めて頭を下げた。


「お久しぶりです、藤野先輩。葉山だったんですね」

「あれ、言ってなかったっけ。まあ、昔よりは選択肢広がったとは言ってもさ、男子に比べればすごく少ないからね」



 男子では神奈川は激戦区と称される程チームも多くレベルも高い。

 女子もそれに倣えと力を入れた結果、チームは増え、ここ数年で神奈川のレベルは徐々に上がって来ている。それでも、都道府県単位で見れば全国で結果を出せているとは言いがたく、中堅どころに落ち着いているのが現状。挑戦者としては良い位置ではあるのだけれど。



「で、なんで、藤ちゃ……、藤野先輩がこっちに?」私はストレッチを始めつつ、かつての友人兼主将にきいた。

「藤ちゃんで良いのに」藤野は笑う。「今泉先生の療養が決まったの去年の暮れでさ、それでも年明け位までは指揮を取ってたんだけど……」

「あ、ちょっと待って」私は藤野の話を止めた。「多分チーム内情に関わる話だよね。多分皆混乱してると思う。あんな事になったし」私はちらりと茶髪の乙女達に目を向けた。「だからさ、共有する為にも、後で時間作って皆の前で話してもらっても良い?」

「……そうね、解った」藤野はそこで一息ついた。「相変わらず、斑目は全体見てるね」

「まあ、キャッチャだからね」私はうそぶく。

「全体は笹川が仕切るから、話しておくよ」藤野は小さく手を振り、もう一人の上級生の下に戻っていった。



 私は視線を感じつつも、元いた場所に戻りストレッチを続ける。

 座って足を伸ばしていた一葉が尻だけでこちらに近付いて来た。



「なになに、何の話?」

「ああ、中学の時のチームの先輩だったんだよ。どうもね、不穏なのは私達だけじゃないみたい」

「ふうん。でもまあ、勝つ為って言うならさ、伊園が言ってたみたいにさ、実力示せば良いんでしょ?」一葉は座ったまま手を組んで背を伸ばした。「簡単な事じゃんね」

「まあ、ね」私は頷く。

「もし私達が勝ったらさ、レギュラ全入れ替えとかあるのかな。そうなったら面白いよねえ」

「まさか、それはないでしょ」

 笑いながら言葉を返す私に対して、一葉は不敵に口元を上げた。

「それはどうかな。シニア経験者が三人こっちに来た。琥珀ちゃんと私もいる。何とかなりそうだと思うけど」  



 確かにアピールの場として考えるのなら、舞台は整っているのかもしれない。実力は未知数な部分があるとは言え、皆ここを選んだ時点で未経験の素人集団ではないだろうし、形にはなるだろう。相手の情報が無いのはお互い様。いや、先輩二人がこちらにいるのは大きなアドバンテージ。監督代行の言が正しいのだとすれば、伊園は強豪と言われるチームにいた訳だし、何より、私達には香坂綾がいる。それはないと、笑って返したのだけれど、漠然と思っていたよりも勝算はあるのかもしれない。


 あとは正規の鳴海大葉山と今の私達の差がどれ位なのか、だ。

 その差は伸ばせば手が届く程度なのか、はたまた、対岸が霞んで見えない程果てしなく遠いのか。

 経験値の差で、届かなくて当たり前、五分の戦いが出来れば否応にもチームの戦力は上がる。

 それを確かめる為にと考えれば、この試合の意味は見出せる。

 腑に落ちないのは、少し考えれば解る程度のこの結論に、何故直ぐに辿り着かないのか。

 私達が入学する前に、何かが起こったのは藤野の言葉から察する事は出来る。

 けれど、この時点の私はまだその内容を知らない。

 私には目標があって、それを実現する為に上を目指さなければならない。それ故に私の意識は、今のチームとしての力がどれほどであるかという事と、現時点での自分の立ち位置を知る事に傾いていた。だから一葉達が主張する、勝ちに対する執念の様な物が欠けていた様に思う。勝ちに拘る理由が希薄だった。


 この年の初旬に起こった事を聞くまでは。

 それは僅かに残っていた希望すらも尽く打ち砕く。

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