Beyond yesterday 〜 昨日を超えて 〜
圧巻。その言葉に尽きる。
とは言え、それは五回までという期限付きではあったのだけれど。
公式戦二登板目にして、その五回までをパーフェクトという偉業を、涼しい、否、冷徹な顔で達成した縁なし眼鏡の乙女、青山圭。
片瀬熊ノ森戦で浮上した彼女のスライダーへのこだわりも、登板前の女帝達との時間で、試合で通用する段階まで精度を上げていた。
伝家の宝刀まではいかないとしても、カウントを取れる、タイミングをずらす、と捕手的には中々に使い勝手の良い物になっていた。まあ、多分に大エースの助言ありきではある。
さも当然、と自らの役目をこなした圭ではあったのだけれど、六回から雲行きが怪しくなり、結局完投しつつも二失点という、側から見れば文句無し、内情を知る者からしたらケチのつく結果となった。
とは言え勝ちは勝ち、チームとしては満足な結果である事には変わりはない。
蛇足ではあるのだけれど、試合後の女帝の言葉と圭の反応が印象的だった。
——課題は持久力。走り込みと、食事の見直しね。
荻野の言葉に対し、圭は初めて見る、動揺というか、絶望じみた目をした。
と、言うのも、青山圭はその態度や物腰から斯くも意識が高いと思われがちではある。
実際、練習に対する意識や技術への探究心、貪欲さ、と見習うべき点は多分にある。
けれども、事、食生活に関してはそれらを相殺する程にダメダメだったのである。
まず、偏食。
嫌いな物を挙げればキリがなく、好きな物はジャンクなフード。
”ポテトは野菜だからヘルシー”を頑に信奉し、何よりもファストフードとスナック菓子を愛する困ったちゃん、と言うのが彼女の実像。
オフ日にあの冷血の鉄仮面が満面の笑みでホットドッグを頬張る姿を、海沿いのカフェで目撃されたのが運の尽き。
そこから彼女の実態が重鎮達の耳に入ってしまった。
訝しみはあったのだろうけれど、圭はしっかりと結果を出していた。故に咎められはしなかったのだけれど、一試合通じて投げ切るだけの持久力が怪しいとなると、そうも言ってはいられない。
そして結果がそう物語るとなれば、女帝の言葉には従わざるを得ないだろうよ、なんて事を皆が思っていた。
私は一人思う。嗚呼、好き嫌いなくて良かった、と。
圭からすれば、明後日からやって来た招かれざる課題ではあるのだろう。
けれど、プライオリティが確立されており、彼女もまた阿呆ではないので、渋々ではあるのだけれど改革には着手し始めた様だった。
同じクラスの片桐志津の報告によれば、昼食はこれまでの菓子パンの類から薄色系統の弁当に変わっている、精力的に走り込む、鞄からチラりと見えるスナック類の減少、と変化は目に見える形で始まっている。
元より意識の高い者は課題を見つければ直ぐに取り組む、圭はそのいい例として、実験動物さながら皆に喧伝されている。
諸君、見習われよ、とは上條の言葉だ。
さて。
圭の登板、当日の午後。
忙しなくもBチームの練習試合。
これもある意味圧巻と言わざるを得なかった。
そこそこ名のある選手が所属しているとは言え、発足してまだ大して時間の経っていないクラブチームが相手、という事で試合は葉山ペースで進む。
四球と甘く入った球を打たれ、塁は埋まるも寸での所で乗り切り、結果として笹川は二点を失うも八奪三振で完投。
そして本人の希望で一番に座った碧は、その役割を全うし三安打、三得点。
この日四番に入った伊園妙が四打点と申し分の無い働き。その他熊ノ森戦で出番のなかった者も要所要所で光るプレイを見せ、結果七対二というスコアに落ち着いた。
総合的に練度の上昇を感じる結果となった、とは理香の言だ。
試合結果を踏まえて、順風満帆と言いたいところではあるのだけれど、細かい蟠りは未だあちこちに残ってはいる。
それでも、以前に比べて皆の向かう先が纏まり、八つ当たりじみた言動は無くなっていた。そう、無くなっていた。八つ当たりじみた言動は。
湊先発の試合を控えた、週半ばの練習の一幕。
試合形式のシートのお時間。バッテリィ組のノルマをこなし、私は守備側で参加していた。
わざとらしく視線を泳がせ、真鍋紗夜がするりとリードの幅を広げてゆく。
普段から口数の少ない彼女は自己主張もまた薄い。
私達一年生や、荻野達三年生に比べれば、一人を除いておとなしめの二年生の中において、彼女はその最たる存在かもしれない。
けれど、彼女は自身の長所と短所を理解しており、事、プレイに対してはその限りではない。
記録的には塁間のタイムはチームのトップクラス、且つ走り方を知っている。
代走要員とカテゴライズするのは些か早計だとは思うけれど、その走塁は確実にチームの武器となっている。
やり合いたくない嫌な相手だなあ、と私は思う。
単純に脚が速いだけならどうとでもなるのだけれど、走り方を知っている、というのが厄介なのだ。
カウントの状況、投手の心境や間合い、グラウンドの空気と情報は至る所に転がっている。
それらを読み込み、時に普段の彼女からは想像出来ない大胆な決断をして来る。それは不意に訪れる天災の様なもの。彼女が塁にいると判断すべき材料が多分に増える、故に厄介なのだ。
とまあ、そんな相手なのだけれど、厄介、嫌だと思いつつも、斯様な相手だからこそ練習になるのは事実。
だからこそ私は隠れて口元を上げつつ勝負を受ける。
この時の相方は、特投げ中の香坂綾。
制球の良い彼女なら、真鍋に対し対等に立ち向かえる。
些細な事とは言え、勝負、と決めた一球が逆球になれば、刺せるものも刺せまいよ。
その心配をしなくても良いというだけで、私の心は軽くなる。
そして打席に入るのは赤坂悠希。
幸いというのは中々に語弊があるのだけれど、振り回し癖がありつつも、がむしゃら感がないのが悠希だ。
よく言えば好球必打ではあるのだけれど、要は苦手なコースを捨てているだけ。
そして私は彼女の苦手なコースを知っている。打たせないとするなら苦手なコースを攻めれば良い。
と、まあ事はそんなに単純ではないのだけれど、打者として対峙するのであれば私達にとっては与し易いタイプである事には変わりはない。
お前の相手は塁上を空にしてからな、と心の中で呟きつつ、私は綾にサインを送る。
私の想定では真鍋がスタートを切るのは三球目あたり。彼女は賢い。こちらの攻め方を見てから仕掛けて来る。ならば少しお膳立てしてみよう、という事で、真鍋に目をやり不敵に笑って見せる。この笑みが何を意味するかを彼女は即理解したのか、僅かに口元を上げた。
合わせてくれたのかな、と訝しむ位、こちらの意図通りに三球目で真鍋はスタートを切った。
カウント1-1から、左の悠希のベルトやや上、インに外れるストレート。
悠希が身を引くのを視界に入れつつ、待ってました、とばかりに半身で捕球、直ぐに二塁へ。送球もタイミングも個人的にはベストな出来。
勝った、と思った瞬間、ベースカバーに入った結城妹、茜のグラブが球を弾いた。
おおう。と、思いつつも、まあ、しゃあないと片付ける。
起こってしまった事実に文句を付けた所でどうにかなる訳でもなし。次の展開を描きつつ、茜に声を掛けた。
「どんとぉ、まいんどお」
塁上では僅かに納得いかないながらも勝ちは勝ち、と真鍋が苦笑しつつ、ユニフォームの泥を叩いていた。
二塁手に就ていた一葉が茜に声を掛け、カヴァー時のグラブ捌きのレクチャを始める。
そうそう、と私は頷く。
今は練習、経験を積む場所なのだ。ミスも経験のうち、同じ事を繰り返さなければ良いだけなのだ。
主審を兼任しながら、グラウンドを監視していた理香の声が飛ぶ。
「キャッチから良い球来てんだ、こぼしてくれるな」
「はい、すみません」茜が声を張り下げた頭を上げると、両手を合わせ目線が私に。「アンち、ごめん」
「どんとぉ、まいんどお」私は両手を広げながら、先程と同じ言葉を茜に投げる。
一旦打席から出ていた悠希が再びボックスに足を踏み入れ、ボソリと言った。
「拙いなあ、カヴァー入るなら捕ってやらないと」
先日、発言が八つ当たりだと上条に諭された悠希。
以後彼女から、その手の発言は消えた。確かに八つ当たりは無くなった。けれど言葉に内包される棘は消えてはいなかった。故に彼女の言葉は茜を労わるものの正反対にある。
好敵手足り得ない、というのが現状悠希の茜に対しての評価なのだろう。
まあ、それは彼女がそう思っているだけなのだろうな、と私は判断している。だから、私の評価は少し違う。
両者とも一長一短、甲乙付け難し。
脳筋、打撃力の茜、汎用性、守備力の悠希と言った所。
実妹ではあるけれど、碧の評価も私とそう変わらないので、中々に信憑性があるのでは、と勝手に思っている。
「赤坂ぁ、そんな事言ってるとすぐ追い抜かれるぞ?」悠希の呟きを絡め取り、理香が言った。
「え?」まさか聞かれているとは思っていなかったのか、悠希は驚いた表情で振り返った。
「お前って自己評価高いのな」理香は笑う。「いや、別にそれが悪いって話じゃないよ。自信を持つのは悪い事じゃないし。でもさ、単視点では見えない事もあるのよ」
うまく監督の言葉を消化出来ないのか、悠希は小首を傾げた。
勝手な印象なのだけれども、素直な時はだけは両手に木の実を持った齧歯類の様な愛らしさがある。
「聞きたいなら言うけど?」理香は意地悪そうに言った。
不敵な笑みを浮かべる理香。結構きつい事だけどそれでも聞くの、と暗に言っている。笑みがそれを面白がっている様にも取れる。
悠希は逡巡した後小さく頷いた。
「どういう事ですか?」そう言って、右手の平をマウンドに向けて打席を一旦外した。
「ちょっと時間ちょうだい」
理香が大声で叫ぶと、各々返事をしてから水分補給や、雑談しつつストレッチなどを勤しみ始めた。
私は、綾と軽いキャッチボールをしつつ、二人の会話に耳を傾ける。
「正直、お前とアカネに大した違いなんて無いよ」突然の言葉に表情を曇らせた悠希を見て、理香は再び笑う。「別に自分の目が絶対に正しいなんて言うつもりは無いんだけどさ。確かにアカネの捕球技術はお前より拙い。けどさ、判断力、敏捷性、肩と遊撃手に必要な要素は軒並みアカネの方が上じゃない。それは体力テストの値としてしっかり出てるしさ。まあ、ぱっと見下手に見えるから、そう思い込んでも仕方ないのかもしれないけど、その実、差ってほとんどない訳よ。一回先入観やら印象を取っ払ってアカネを見てみ? 意外に近くにいる事が解るから。まあ、それが客観的視点ってヤツ。お前に足りないもの。彼我の差を認めて初めて自分の立ち位置を知るってね」理香は悠希の背中を叩いた。「頑張れ、赤坂悠希。お前には叶えたい願いがあんだろ?」
悠希は心底驚き目を丸くした。
半開きの口からは言葉になれなかった音が漏れる。
なぜそれを知っていると言いたいのだろうな、と盗み聞きしていた私は思う。
おそらく悠希は知らなかったのだろう。
片瀬熊ノ森との試合の後の一件で、理香は自分の選択が少なくともその結果に影響していた事を認めた。
荻野を筆頭に大人びた乙女がいる事から、子供達の間の問題に自分が率先して介入する必要が無いと思っていたのだけれど、任せた結果、子供らしからぬ酷く現実的な痛みを伴う結末を迎えてしまった。
実弟に咎められた事も理由の一つなのだろうけれど、元々監督と選手の関係性は薄くて良いと考えていた理香は、その考えを改める事にした。
考えてみれば簡単な事。各々背負う責務があるとはいえ、この場所にいるのは高校生であって職業選手ではない。自由は与えられても良いけれど、自己責任と突き放すには全てにおいて些か経験不足なのだ。
詰まる所若過ぎる。高校生の段階で背負わせ過ぎるのは違うだろう、と理香は思い至る。
一件の終局で言った、理香の言葉が彼女の真意を物語っていた。
——それ以外では大人な女性として慕ってくれて構わないぜ?
単に監督として選手に接するのではなく、同じ野球を嗜む女性として、人生の先輩としてそばに寄り添う事も必要だと彼女は思ったそうだ。
それ以降、練習中外問わず対話は増え、その結果チームの人間関係及び個人の把握が進み、ここに至る。
端から理香の判断は現実ありきで、故に明確な理由が付随していた。
そしてそれが結果に結びついている事実。
それに加え、対話する事で互いの人間性に理解が進むと、療養中の監督の娘という印象と理香という一人の女性の実像が重なり、それは信頼に昇華してゆく。
かつて監督代行を支持していた者達ですら、短期間で一目置く存在になっているのだから説得力という面では大いにあるのだろう。
一部を除けば、思想は違えていても見ている方向は一緒、そこに明確な基準を設ければ、足並みを揃えるのはそう難しい事では無いのかもしれない。
紆余曲折を経て捻じ曲がってしまった様に見える悠希でさえ、表情を覗き見れば少なからず理香の言葉を受け入れている。まあ、直ぐに行動に反映出来るかは別問題ではあるのだけれど。
改めて理香の謝罪がグラウンドに響き、練習が再開された。
再び打席に入った悠希に対し、私達は当初の予定通り彼女の苦手なコースを攻め立てる。
勿論、ランナの真鍋は絶賛警戒中。
ランナ・二塁で、左の悠希。
しかも彼女はアウトローが苦手となれば、インコースに投げる理由なんて一つもない。
状況におけるセオリー的にも右打ちが常套。つまりは三遊間には打ちたくはない、となればこちらとすればアウトロー一択だ。
後は真鍋が勝負を仕掛けるタイミングか、と私は思う。
とは言え、先のランナ・一塁時よりは比較的やり易い。
かける必要はあまり感じられない気もするすのだけれど、保険として初球はシュート。外に逃げつつもゾーンに入れる。
負のイメージ、もしくは私達の攻め方が悠希の中にあるのだろう、読み通り彼女は手を出さない。
続けてアウトハイに直球。
これは外れても良いので速い球。
緩急と三盗への警戒。
真鍋に対し、こちらの意図の開示。
アウトコースの苦手な悠希に加え、盗塁を刺しやすいコースと、やれるもんならやってみろ、という私なりの挑発。
状況判断の出来る真鍋は、私の安い挑発には乗らず安全策をとった模様。
完全に捨て去る訳でもないけれど、打者勝負の趣き。
今一度アウトにカーブを落とし、見せ球として同じカーブをゾーンから逃げるインローに落とす。
間髪おかずに勝負、とアウトローに速いシュートをゾーンギリギリへ。
コースは僅かに外れたけれど、悠希は手を出し、バットは僅かにボールの上を掠めて空を切った。
天を仰ぐ悠希に対し、私は言う。
「見逃せばボールだったな」
「……相変わらずせこい事を」悠希は恨めしい目を向ける。
以前程の悪意がない様に感じるのは、ほんの少しであろうとも彼女にも何かしらの変化があった、と確信しているからだろう。
言われた事に対し、それ相当に返すのが礼儀。だから、私は言ってやる。
「せこいも何もさ、ど真ん中直球勝負が正々堂々なんて馬鹿げてるだろ。こっちにには何のメリットもねえじゃねえか」
「お前さ、苦手なコース多すぎ。スイッチのメリット活かしきれてない」理香がど真ん中に正論という直球を捩じ込んだ。
これまでなら噛みついていたであろう自身へのダメ出しも、結果から導き出された物である以上反論出来る訳もなく、新たに構築された理香との関係も相まって、あの赤坂悠希が素直に受け入れた。
「……やっぱそこが課題ですよねえ」
何か対応違くない、と思えどそれは言わないでおこう。
この手のやり取りは、浸透する言葉を持つ者に任せるのが吉。私の役目はそこではない。
「何故苦手なのか、その理由が解ってるなら話は早い。解ってないなら、まずはそこからだな」
理香の助言に小さく頷きつつ、悠希はその場を後にした。
さて、次のお相手は、と考えていると、理香が呟く様に言った。
「別に良いっちゃ良いんだけどさあ」
理香の言葉が私に対してだと気付き、慌てて振り返る。
「何かしくりました?」心当たりはまるでないので、恐る恐る尋ねる。
「ちょっと楽しすぎな。いくら赤坂が外苦手だとしても今は練習。内で打ち取るアプローチ試した方が良かったんじゃないの」
「確かに」
「ったく、確かにじゃねえよ」苦笑しながら理香は言う。「どうせお前の事だから、考え自体は頭にあったんだろうけど、楽する方を取ったって感じだろ」
それは買い被りすぎですよ、理香サン、と私は内心思う。
そんな事全くありませんでした。
ただ、結果としては正解。楽な相手だと思ってました、これが真相。
「ええと、すいません」素直こそが正義。故に謝るのだ、私は。
「まあ、ランナが真鍋だから仕方ないとしても、常にハードルは上げとく。為にならんよ?」
「はい」
全くもってご尤も。
自分で負荷をかけてこそ実のある練習になる。
これを実行出来るか出来ないかで意識の質が変わってくる。
少し緩んでいる自分に対しての戒め。これにてイージーモードは卒業である。
理香の指摘を踏まえ、制球の良い綾とならやれたのだろうな、と反省。
怠慢は認める。
打者の得意なコースでも打ち取る可能性の模索は、実戦では使わないにせよ、選択肢に幅を持たせる事に繋がる。いずれはバッテリィとして公式の場に立つ事もあるだろう、その予行練習としては大いに意味があり、とても有意義だった。
置きにいく事で精密な制球を維持していた綾のスタイルは、春先のど頭で見事に粉砕された。
そこから約二ヶ月、本人の精進も相まって、強い球の精度は格段に上がっていた。
彼女もまたここにいるべき一人なのだ。
当初、制球の良いだけだった死んだ魚の様な目をした乙女は、自身のいるべき場所を自ら開拓した乙女となった。
それは彼女だけではなく、暗がりに閉じ込められていた私達全てに言える事。
たかが二ヶ月という事なかれ、蕾の乙女達は着実に過去の自分を超えている。




