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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Sprouting of qualities : 2 〜 資質の萌芽 〜
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 Disappearance of residue, cruel ending. Ⅲ 〜 急束する残酷な結末故の終曲 〜

「……確かにセオリーという物は存在するんだけど、それが全てって訳じゃないんだ。極論、アウトを貰う事が出来れば良い。その為の布石として、確率が高い方法の一つってだけでね」


 遠くから流れて来る喧騒を無理矢理意識の外に追い出しながら私は語る。

 簡素なブルペンの屋根の下、グラウンドで繰り広げられている実戦に参加していないバッテリィ組の面々が、何故か正座で私を取り囲んでいる。

 表向き屈託の無い微笑みが何とも恐ろしい。

 少しでも私が見当違いな事を発すれば、その表情は悪鬼のそれに変わるに違いない。これは確実に私で楽しんでいるな、と横目で女帝を窺いつつ内心の溜息を吐く。


 片瀬熊ノ森のバッテリィが借り猫状態なのは、まあ、解る。

 彼女達からすればここは他校で、経験値という意味では年齢関係なく皆先輩に当たる。しかも、有坂藍のお願いによる自分達の為の講習会というのだから彼女達の心の内押して知るべし、だ。

 一方、ウチの面々が彼女達と同じ形をとるのはおそらくは悪ノリの類。

 私が言う事ではないのかもしれないけれど、ウチのバッテリィ組は面白い方に転がりたがる傾向が強いらしい。エンタメ思考と言えなくもないのだけれど、こういう場合においては、やり難い事この上ない。そんな状況に加え、時折、否、かなりの頻度で届いて来るグラウンドからの喧騒もまた、集中を妨げる要因となり、当初の想定とは裏腹に私はぎこちなさに塗れていた。


「まだ経験の少ない子に、それはどうかと思うわ」


 颯爽と足を崩し横座りとなった荻野がさも愉しそうに神速のダメ出しをする。

 なら、貴女がやって下さいよとも思うけれど、そんな事口にした日には、私が終末を迎えてしまう。女帝の言葉の半分は揚げ足を取りたいだけというのは察せるので、荻野の言葉及び自分の邪念をさらりと流し、目での謝罪を挟み私は話を続ける。


「打者によってタイプは様々で、得意なコースもあれば苦手なコースもある。セオリーだからって打者の望む球投げる訳にはいかないでしょ。その時のグラウンドの状況も含めて、相手が何を狙っているのかを考える。その為に必要なのは情報」

「つまり……」雪村撫子が口元に指を置いて、空に向けた目線を私に戻す。「洞察力が大事って事」

「そう」私より先に荻野が答えた。「貴女呑み込みが早いわね。始めたばかりなのに私達に喰らい付いて来れた理由が解ったわ」

「いえ、そんな事は……」撫子は俯きつつも笑みを浮かべる。「技術ありきはそうですけど、それと同じくらい理論も大事だと思うんで。フットボールなんて理論攻めですし」

「あら、貴女フットボールをしていたのね」

「ええ、まあ」


 何とも微笑ましい会話が繰り広げられる中、私は微妙に蚊帳の外だ。

 ホント、こうなるなら初めから女帝が指揮をとれば良いものを、なんて事を思う。まあ、思うだけで口には出さないし、流す事も朝飯前だ。


「今のは頭の話、つまり思考というか方針」私は更に続ける。「それを無駄なく生かす為に技術が必要になる。理想の形を見つけられたとしても、それを実行出来なければ空想の類を出ないでしょ」


 真摯に頷く撫子の横で、何やら密談を交わす二人の投手が目に入った。


「はい、そこ」私は夜川千彩と夏目湊の二人に指を向ける。ついでに眼鏡も押し上げてみせる。


 悪戯がバレた子供の様な顔をして、二人は勢い良く背筋を伸ばす。


「実現という意味では投手にも責任あるんだから、しっかり頭に入れる」

「解ってるって」湊が返す。

「お前は解ってて当然だろ。夜川を巻き込むなよ」

「アンちさん、ミナトさんを叱らないでほしいっす」千彩が申し訳なさそうに手の平を合わせる。「私が聞いたんです、捕手に洞察力が必要なのは解ったんで、その時投手はどうすべきかなって」


 あら、普段のお巫山戯湊をベースにした推論は見事に的が外れた。

 他愛のないお喋りではなく、真面目な話だったか。いや、でも喋ってるのは私でと考えた所で、結局はグダグダかという帰結が見えてきて、これはもう笑うしかない。だから、千彩にごめんねと伝え、笑ってみせた。

 千彩の顔にぱあっと笑みが浮かび、湊は湊でほれ見た事か、と口を尖らせつつ勝ち誇る。


「貴女、講師役向いてないわね」


 その上、女帝からの止めのダメ出しである。

 私は体を捻り、そっと荻野の肩に触れた。


「ギブっす」

「仕方ないわね」荻野はさも楽しそうにそう言った。「さて、斑目で遊ぶのはこれ位にして……」


 やっぱりそうじゃねえか、という慟哭を恨みがましい視線に変え、女帝に贈呈してやる。


「斑目は少し配球オタクの気があるから偏り気味なお話になっていたのだけれど、先ずは捕手とは、という所から始めましょうか」


 配球オタクとは聞き捨てならねえ、なんて事を思うけれど、思い当たる節がない訳でもなく、妙に納得してしまった。


 荻野の講習が始まるや否や皆が静聴するあたり、やはり女帝の持つカリスマは健在かつ絶大な効果があるのだと再確認した。彼女の言葉を聞きつつも、近場に二人も手本になる選手がいる事の幸運さに感謝の祈りを捧げる。


 捕手の”ほ”の字から始まり、試合での役割、投手との関係、普段のメンタル的な事から試合時の心構えへと話は移り、次いで技術的な事を軽く動作を交えて説明、それを終えた所で話し手が上条に変わった。

 ここから投手目線での話となり、マウンド上での立ち振る舞い、気の持ち様と落ち着け方などメンタル的なものを中心に彼女は語った。


 ほぼ初めて聞く、エースの内面、実践の捉え方は、ただ感嘆するしかない。ただ、彼女の言う事は確かに出来ればそれ相応の結果を齎してはくれる。けれど、万人がそれを出来るかと問われれば、おそらく否、そういう物だった。

 とは言え、私にとっては聞けて満足ではある。こういう形もあって、それを実践している人がいる、という事を知れたのだから。


「貴女も、それはどうかと思うわ」


 一人充足感を味わう私の傍で、案の定荻野はダメ出しをし、上条が膨れ、それを園川が宥め、場には笑いが降り積もる。

 和やかな雰囲気を纏いつつ、話は身体の使い方に移行し、最後は実戦的な配球を交えた変化球の講習となる筈だった。


 私は圭にスライダーについて尋ねたかった。

 先の試合、何故にあんなに固執したのか。新たな武器として取り入れようと言うのなら、把握はしておきたいと思ったからだ。だから、女帝には最後に変化球の講習をと直訴し、彼女もまたそれを組み入れてくれた。


 詰め込み教育、または付け焼き刃っぽさは否めないけれど、その都度質問が出た事から、各々が何とかこの講習を有意義にしようと真摯に向き合っている様はそれだけでやったかいがあったというものだ。

 あの関谷みなみが積極的に質問している姿には、いつかの傍若無人さが少しも見られず、内心感動に打ち震える。まあ、震えはしないのだけれども。過度な表現だったというのは認める。


 和やかでありながらも真面目な雰囲気のまま、目当てである変化球の話に移行した時、ブルペンに闖入者が飛び込んで来た。それは青褪め、何かを恐れている、そんな表情として私の目には映った。

 何故、という疑問と同時に彼女が纏う雰囲気が急を要する事を告げているのを感じ取り、漠然とした嫌な予感が脳裏を横切る。

 感じる者は皆、不安感が表に滲み出す。


「何かしら」


 その中で、荻野だけは僅かに迷惑感を言葉に混じらせた。

 おそらく、飛び込んで来た闖入者が、かつて女帝自ら名指しで黒幕断定した大島だからだろう。

 普段から必要以上には口を利かない程度には亀裂の入った仲である二人。けれど、この時の大島はそんな彼我の関係性等どうでも良いとばかりに、なりふり構わず荻野に懇願した。


「荻野、止めてくれ、このままじゃ……」


 普段とは違う大島の態度に荻野は半ば驚きつつも、表情を改め冷静に尋ねた。


「止めるって、何を?」

「結城を止めて。あれはもう練習の次元を超えてる」


 ふと私の脳裏に一葉の言葉が蘇る。


 ——やる事エグいなあ、ミドリさん。


 届いて来た喧騒、それには怒声も混じっていた。

 けれど、それはままある事で然程気にかける事もなかった。ただ、煩いな、と思う程度には頻度が尋常を超えていた事に遅れ馳せながらも気付いた。その中心に碧がいる事が改めて私に浸透してゆく。

 自業自得と境界線を超えた振る舞いが天秤にかけられる。

 倫理が顔を覗かせ、私はまさかね、という楽観的な考えを捨て去り、荻野に言う。


「ミウさん」


 荻野は頷き立ち上がった。


「取り敢えず、行きましょう」


 ブルペンにいた全員がグラウンドに向かう。

 大した距離ではない道すがら、荻野が大島に尋ねた。


「何故私に言う? まずは監督に言うのが筋ではなくて?」


 大島は青褪めた表情にも拘わらず恨みがましい目を荻野に向けた。


「あの人は最低だ。どんなに懇願しても動きやしない。私だって……」大島は二の句を継ぎたくはないのか、僅かに口籠る。首を振り心を決める。「私だって、お前になんか頼みたくない。お前だって共犯だろ。でも……」


 認めたくはない。けれど、現実として答えは出ている。だから仕方ない。そんな逡巡が大島の中にあったのが、彼女の躊躇から何となく伝わって来る。


「アレを黙らせられるのはお前達だけだろ」


 アレとは碧の事なのは容易に想像はつく。

 確かにエグい一面を持っている事は認める。ある意味私は被害を被っている訳で。

 けれど、被害という言葉を使えども、実際そこまで嫌な思いをしていた訳ではない。鞭は厳しいが、それ以上に飴は甘い。お巫山戯を除けば、鞭には確りとした意図が感じられる。だから厳しさは廻り廻って自分の為だと思える。


 故に、これまで我が儘プリンセスに関わって思った事。碧は悪意を持って人を貶める為だけの行動はしない。


 大島の言動とその焦燥ぶりを見て、私はそんな事を考えた。

 可能性の一つとしてあるかも知れない結末、それに対しての弁護であり、そうであって欲しくはないという願いの様なものなのかもしれない。

 私は私の信じた碧でいて欲しかったのだ。


 目に入って来たグラウンドは異様な雰囲気に包まれていた。

 取り囲む空気に普段のそれとは違う緊張感が漂い、活気というものが忘却の彼方へ過ぎ去ってしまったかの様に静まり返っている。

 皆の視線は一点に向けられ、皆が息を呑み、言葉を発せられずに固まっている。


 そこには全身泥塗れでうずくまる一人の乙女の姿。

 いや、乙女と言って良いのか解らない程、その姿は無惨なそれ。両肩の間に頭を埋め、背中は小刻みに震えている。嗚咽らしき音が腕の隙間から漏れ出ていた。


「立てよ」


 静寂の中に響く声に怒気は無い。

 それを構成するのは冷酷。

 聞いた私すらも、身を引きたい衝動に駆られるそれ。

 大島曰くの、止められる者がいない理由がよく解った。


 こういう時、普段碧と肩を並べている藤野や笹川なら彼女を止められるのでは、と私の中の冷静な部分がそう思ったのだけれど、当の本人達もまた周囲と同様に身動き一つせずに一点を見つめているだけだった。


「この程度か?」碧は畳み掛ける様に声を張った。「私に吐いた言葉は、この程度で音を上げる脆弱な精神から出されたものかよ。笑っちゃうね」


 言葉とは裏腹に碧は笑っていない。

 否、表面上は苦笑とも嘲笑とも付かない笑みが浮かんではいるのだけれど。


「荻野」大島が荻野の袖を引く。「止めてくれ。これ以上は杉原が本当に壊れてしまうよ」


 荻野は仕方ない、といった表情で一息吐いた。碧の下へ向かうべく歩み出したその時。


「立てよ。こんなんで終わりだと思ったら大間違いだって」碧はそう言って、ミットから左手を抜きながらネクストに控えた一葉の元に歩み寄り、彼女にミットを押し付け、代わりにバットを奪う。

 どこから出したのか白球を握りしめる。

 歩みは酷く緩慢、けれど確実にボックスに向かっている。


 荻野が駆け出した。

 私達も、同時にそれに倣う。

 ボックスに立った碧はプロテクタを纏ったまま左足に重心を乗せ右手のバットを引く。左手の白球が舞い上がる直前、荻野の手が碧の肩に届いた。

 その一瞬、碧は僅かに口元を上げた様に私には見えた。


「流石にそれは駄目よ」


 荻野が止めなければ、碧は蹲る杉原に対して白球を打ち込んだのだろうか。


 私は解らなくなる。

 ここまで追い込む必要があるのか。

 碧ともあろう人が、先の結末を予想出来ない筈もない。

 にも拘らず、それを実行するのだろうか。

 仮に実行するとして、そこまでする理由は何だろう。


 荻野がちらりとどこかに視線を向けた。

 つられて見れば、その先には坂巻。彼女は小さく頷き、三塁ベンチに駆け出し、身振りを交え短く何かを説明した後で腰を折って頭を下げた。


 バックネットの端には監督二人が並んでいる。

 ただ、理香は相手校の監督である実弟の腕を掴み、彼は彼で眉間に皺を寄せていた。


 一体全体何がどういう事だ。

 表面だけ掬えば、これは悪質なイジメと捉えかねないのでは、と私は思う。

 止める者はなく、一人だけが執拗に責められる。大勢いる筈なのに皆が傍観をきめ、目の前の現実は胸糞悪い状況を作り出している。


 混乱、困惑、正しさがどこにあるのかも解らず、ただ眺め、誰かが結末へと導くのを待つだけの時間。その永い様で短い時に終幕が告げられる。

 妙な静寂を切り裂く破裂音。


「はい、集合」


 両手の平を打った理香が悠然とホームに歩いて来る。

 付き添う実弟に小声で何かを伝え、小さく立てた手の平振った。

 慶侑は肩を竦めつつも、自軍のいる三塁ベンチに行き言葉を投げた。

 ベンチから乙女達が湧き出て、こちらに目線を投げつつも左翼線へ移動してゆく。

 私達と一緒にいた熊ノ森のバッテリィもまた、慶侑の声掛けで、そちらに流れていった。


 ホームを葉山の面々が群がり囲んでいる。

 その中心に荻野と碧、そして理香。

 僅かな騒めきとスパイクが土を踏む音が重なり、割れた人混みの中から杉原を抱えた千家が入って来た。


 杉原は表情が抜け落ち、泥と涙に塗れている。

 大島がタオル片手に近寄り、彼女の肩を抱いた。二言、三言優しく語りかけ、上げた顔には明らかな怒気が浮かんでいた。


「これは私刑じゃないんですか?」


 大島の言葉は理香に向けられた物だ。

 監督という立場にありながら、たった一人を標的にする行為を何故に止めなかった、という非難。確かに杉原からすればその様に映っても仕方がない。彼女と繋がりがある者も同様だろう。

 けれど、理香が出した答えはまた別の解釈の物で、それは大島の感情に油を注ぐ。


「そうは思わないけどねえ」感情的な大島とは真逆に、理香は淡々と言った。

「は? それが監督であるあんたの意見? やっぱり、大屋監督の方が全然……」


 理香は溜息と共に肩を竦めた。


「別に止めやしないさ」

「は?」

「別に私は聖人じゃないの。陽もあれば陰もあるただの人間。だから、私に対しての好き嫌いも当然出て来る。だから私が嫌いと言うなら別に従わなくても良い。でもアンタにとっては辛い現実なんだろうけど、私は今ここの監督なの。それは変えられない現実で、私はその職務を全うする義務があるし、それを放棄する気もさらさら無い」理香は力無く笑う。「だから、決めるのはアンタ。残るなら惜しむ事なく指導するし、アンタの決断として辞めるなら止めない」

「じ、自分に従わない者はいらないって事かよ」

「はああ」理香は額を抑え盛大な溜息を吐いた。「アンタ解って言ってる? 今アンタが言った事ってシゲがやった事じゃんか」


 理香は面倒臭そうに首を振り、凝りを解すかの様に肩を回した。


「あいつの影響なのかは知らないけど、どうもここには主観が強すぎる奴が多いなあ」ぼやく様に言ってから、理香は居住まいを正す。「良いか、大島。決めるのは自分なんだ。集団で何かを行う以上、個人的な思想より足並みを揃える事の方がプライオリティが高い。これは基本。んで、指導する立場の者に反発するなら、その者を納得させるだけの理由なり実証を用意しろ。この場にいる皆の最優先事項は何だ? 仲良し? 違うだろ。ここは鳴海大葉山。強豪と呼ばれる所な訳で、勝利が最優先なんだ」

「じゃ、じゃあ、勝つ為なら何しても良いって……」

「だからさ」理香は面倒臭さを通り越し若干苛立ちを見せつつも、自分の責務と言葉を続ける。「それはシゲの理論だろ。何しても良い、の部分は方法論だろうが。勝ちに繋がる道なんて無数にある、その中の一つってだけで、別に仲良しでも勝てるならそれで良いじゃねえか。頑張ってます。色々な物を犠牲にしてますって、結局は自分への免罪符だろ。んなもんいらねえよ」


 理香の言葉は理想論に近い。けれど正論でもある、と私は思う。同じ様に思った者が多かったのか反論は上がらず、妙な静寂があたりを包む。


「で、でも……」大島は更なる言葉を見つける。「だからってさっきのイジメが罷り通る訳なんて……」


 大島の解釈では、碧の行動はイジメと認定されてしまった様だ。

 私には何が起こっていたのかを想像するしかないので真実は解らない。

 けれど、私の知っている碧が、私の知っているままであるのならば、それはあり得ない。私の知る彼女であるならば、その裏に確りとした意図がある筈なのだ。


「まあ、確かにさ、イジメって、被害者がそう感じたらそうなんだろうけど、さっきのはさ、偶然セカンドに打球が集中して、偶然杉原がミスをした、ただそれだけとも取れる」

「だとしても、杉原が辛いって感じた時点で、すぐに止めるべきだった」

「私は言われてないけど?」理香は淡々と答える。

「監督なら察して止めるべきじゃ……」

「だって捕れるもん」

「は?」大島は口を半開きの状態で固まった。

「だから」理香は両手を腰に置いて言う。「別にそんな難しい打球じゃなかったじゃん。杉原には悪いけど、割合は本人のミスの方が多いでしょ」


 現実がさらりと顔を出した。

 ここまで来て漸く、件の中心、我が儘プリンセスが動き出した。


「大島さん」碧の声は至って普段通り。怒もなければ冷もない。「私言いましたよね。口なら何でも言えるので、実際のプレイで証明しろって。簡単な事です、って。最低限こなさなければならない境界線に届いていなかったってだけの話ですよ。そんなのやる前から解ってたじゃないすか。まあ、解らなかったからこうなってしまった、とも言えますけど」

「だ、だからって」大島はちらりと憔悴している杉原に目を向けた。何とか彼女の弁護を、と言葉を探す。「こ、ここまでするのが正しいのか?」


 大島が出した言葉に対し、碧は 白々しいとばかり目を細めた。


「杉原は下手じゃないすよ。他校、人材不足の高校ならレギュラ、人いるとこならサブには入れる。けど、ここでは違う。その現実を受け入れられなかった所為で、方法がおかしな方向に行ってしまった。一クール目の金田、水木の二遊間は練度がしっかりしていた。まあ、元々知り合いってのもあったんだろうけど、連携は取れてるし、過去に経験があったんでしょう。だからこそのファインプレイが出た。それをさ、自分がどの位置にいるかを正確に判断出来ないヤツがやった所で、結果なんて見えてるでしょって話しすよ」自分の中で何かを決断する様な小さな区切り。碧は小さく息を吐く。「私はそれがムカついたんすよ。別に背伸びするなとは言わないけど、分相応ってあるじゃん、出来ない事をやろうとしても出来ないもんは出来ねーんだよ。寧ろ足並みを乱す事にもなるし、邪魔なだけ。イジメとか言ってたけどさ、あんなんイジメでも何でもねえよ。あんなんが罷り通ってたら、勝てるもんも勝てないだろ。実際、前任のクソ野郎の時勝てなかったよな? 自分に都合のいい事並べた所で結果出せないなら意味なんてない。もう解れよ。邪魔なんだよ」


 誰も碧に対し直ぐに言葉を投げる事が出来なかった。勿論私もだ。言っている事は普段彼女が口にしている事なので何ら異存は無い。

 ただ、彼女の言葉の後半部分、強い感情が漏れ出ていた事に呑まれてしまったのだ。

 これ程までに碧が感情的になるのを見たのは始めただったから。


 碧もまた理香と同じ様に腰に手を置き一息吐いた。

 自分の中での区切り行為なのかもしれない。

 彼女の言葉は次の段階へ、今回の一件の終幕へと駒を進める。


「この際明確にしようか」碧はそう宣言した。「杉原の望みって、チサと二遊間を組む事、それで合ってる?」


 碧の問いかけに杉原は身動き一つ取らなかった。なので、大島が代わりに答えた。


「……そう、聞いてるけど」大島もまた碧に呑まれたのか、もう声に力はない。

「そう。で、チサ」碧は頷き、千家に意見を求める。「お前的にはどうなの? ユイちゃんが引退した後の話だけど」


 千家は僅かに逡巡しつつもはっきりとした答えを口にした。


「無理、かな」言ってから慌てて補足する。「このままではって意味で。私はここにいる以上常に上を見ていたい。だから、組むなら相手にも相応の物を求めるよ。今の杉原では、足りない部分の方が多いから」


 碧は小さく頷き、顔を上げた。


「今チサが言ったのって当たり前の事だよ。これが今私達がいる場所の当たり前。単純な事。一番上手いヤツがポジションを取る。ただそれだけ。変な工作する暇があるなら、自分の為に時間使えよ。それが出来ないヤツはそもそも勝負の土俵にすら立ってないんだって事にいい加減気付け、全国取るんだろうが」


 しん、と辺りが静まり返った。

 碧の全国を取る、という大義と、監督である理香の辞めるなら止めない、という宣言。

 誰かに強制されたのではなく、自分で望んだ茨の道なのだ。

 両者の言葉は至極当たり前な着地点を示している。

 チームとしての方針を再確認し、皆が向かう目標を一つに。選択は個人に委ねられる。別に野球だけを考えるのであれば何もこの場所にしがみつく必要はない。二人は、今一度自分の在り方を考えろ、とそう言っている様に私は受け取った。


 永らく蔓延はびこっていた後ろ昏い靄が、新たな風で吹き飛ばされる瞬間。

 顔を出したのは、純粋で単純な弱肉強食の世界。

 求められる物はより高度に。けれど、そこに理不尽さはなく、例えそこに手が届かなかったとしても、皆が自分の力が足りない所為と思える様な環境。


 遂に開かれた、と私は感じる。

 私達は真の意味で漸く光を浴びる事が出来たのだ、と私は一時の安堵に似た気持ちに包まれる。

 これから始まる競争は熾烈な生存を賭けた争いなのだ。だから今は、今だけはこの気持ちに身を委ねても構いやしないだろう。


 武者震いを内包する安堵に包まれていた私は、少しだけ気が弛んでいた。

 目の前に人参があったとて、それを咀嚼するまでは得た事にはならないのだ。

 時には人参が消失する、または口に含んだとて腐っていた、なんて事も起こってしまう。


 ほんの僅か先に見えているのに、それはまだ手の中にはなかった。

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