Birth of the moonarrow : embodied transparency
確かな手応えと言っても良いのだろうか。
昼食後の僅かな隙間、瀬名梓はグラウンド後方に広がる雑木林の縁を一人で歩きながら、先程の試合を回想している。
初打席の一本は自分の読み勝ち。そして犠牲フライを挟んでの最終打席、盟友が自分に託してくれた。その信頼を返す為に、今の自分が出来る最上の選択。欲しい結果と現状から導き出した結論。彼女を塁上に置いての独断という敵味方を欺く奇襲。極度の緊張の中、これまでの経験が梓の神経を研ぎ澄ませる。無意識に収集している情報が自動で頭の中で分析、統合され、意思とは関係なく身体にそれを伝える様な感覚。気が付いた時には、体は勝手に動いていた。
ほぼ真芯に捉えた球は浅い放物線を描き、右中間へ舞い上がる。
何もかもが予め決められていた様な寸分の無駄の無い一振り。
集中の所為か記憶は朧げだ。
それでも、手の平に残った感触は、これまでのどんな時よりも鮮烈な記憶として梓に刻まれた。
梓は中空を見上げる。
覆い被さる様な樹の枝の隙間から青空が見え隠れしている。大きく息を吸えば、雑木林特有の樹と緑と土の匂い。
相手に不足がないかと問われれば、若干思う所はある。望めるのならば、葉山の主力を相手に同じ結果が出せれば、思い残す事もなく自分の思いを肯定出来る。
だが、主力ではないにせよ、手応えのある相手を打ち抜いた事実と、今の梓を包み込むこの清々しい山の空気が彼女の心を晴れさせると同時に後押しもする。
自分自身との賭けは自身の本性を曝け出すという結果になった。
だが、自分で決めた筈なのにやはりまだ臆している。
試合でのひりついた空気に呑まれる事はないが、対人関係に関しては酷く臆病になっている。
一人で歩く事を選んでおきながら、いざ仲間が出来るとそれを失う事が怖い。
今自分が周りを信頼しているのを自覚しているからこそ、彼女達を失う事を恐れている、と改めて再認識。
自分の中を巡るドス黒い人間性を曝け出せば、かつてがそうだった様に、おそらく皆は離れるだろう。信頼されているのは偽りの自分、本性を出さない取り繕った自分。だが、その信頼があるからこそ、知っていて貰いたいと思う梓も生まれている。
藍や昴は、自分の背負う過去を”枷”と表現する。
ああ、そういう事なんだ、と梓は思う。
自分にもそれは当て嵌まる。
ただ自分のそれは劣悪な己の人間性。彼女達とは背負っている物が違う。
ならば、と梓は考える。
受け入れて貰えなければ仕方が無い。真実自分が最低の人間だと証明された瞬間。だから、それはそれでいい、と梓は境界線を敷く。
逆に上手くいくのなら、それは信頼の確証。
酷く他人行儀な最低の選択ではあるけれど、結局相手に委ねるしかない。
今の自分を曝け出し、打ちのめして貰おう。
梓は再び、周囲の空気に身を委ねる。
決断してしまうと、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。白か黒かの二択を迫るのはあまり良い事では無いのかもしれない。だが、信頼してくれた盟友に対し、隠し通すのが辛くなっている自分もまたいる。それが心苦しく感じる。だから解放したい。
梓は再び自覚する。
ああ、自分は曝け出したかったのだ、と梓は思う。
曝け出して、叱責されて、偽りの無い自分として彼女達の正面に立ちたいと願っている。
離れてしまうのは辛く悲しい事だが、それは仕方ない。自分が招いた結果だ、素直に受け入れるしかない。
余計な物を削ぎ落とし、願いと恐れを丸裸にしてみて、漸く自分が何を欲しているかを理解する事が出来た。漸くその覚悟がついたのだ、と梓は悟る。
自身の心が決まり、そこに纏わり付く靄が薄れてゆく感覚を覚える。
仲間達の元へ戻る歩みは力強く、いつになく気持ちは晴れやかだった。
梓は外周の右翼側から歩き始め、そこをぐるりと一周してから元の場所に戻ろうと決めた。晴れやかな気分を少し長く味わおうという、普段の彼女なら出て来ない発想に身を委ねた結果。ふとここまできて心の準備かと、良からぬ思いが浮かび、自身の臆病さに苦笑しつつも歩みを進めた。
自分の守っていたセンターの後ろ辺りまで来た頃、外周のカーブの先に人影を認めた。
近づくと葉山の選手だと解った。食後の運動がてらの散歩か何かだろうと思い、僅かな笑みを浮かべて挨拶だけして通り抜ける。
その梓の背に声が掛かった。
「もしかして、瀬名梓?」
名を呼ばれ歩みを緩め振り向いた。
そこにあるのは記憶に無い顔。
いや、その実は知らないが、試合に出ていた記憶が微かにあるな、と梓は思い直す。
呼び止めたのだから何か用があるのだろう。
再び会釈して相手の動向を窺う。
目の前の彼女は妙に青褪めて見えた。その口元が歪む様に曲がる。
「髪短かったから解らなかったけど、本当にあの瀬名梓?」
”あの”という響きに瞬時に不穏さを感じる。
と、同時にメンバ表見ていないのか、という些細な疑問も浮かび上がる。聞かれているのは自分、無言も良く無いと思い、当たり障りない言葉を選んだ。
「ええ」言葉は穏やかな音。だが晴れやかな気分に水を差された感じがして、梓はつい訝しむ表情を向けた。「それで、私に何か?」
「いや、試合見てて、もしかしてと思った物だから、ちょっと確認をね」
確認とは何だろう。
どうにも、相手の真意がよく解らない。
おそらく何かを伝えようとしているのだろうが、回りくどいな、と梓は思う。
呼び止められたのでつい振り向いてしまったが、今の梓にはすべき事がある。要件があるなら早くして貰いたいと思い、言葉が口を突く。
「それで?」
梓の返しに対し、彼女は嘲笑じみた短い笑いを放つ。
「はっ。私の名も聞かない。他人には興味が無いってのは本当なんだ」くつくつと笑いながら、蔑む様な目を梓に向けた。「まさか、こんな所にいるとは思わなかったよ、裸のお姫サマ」
水を差された、と梓は確信する。
目の前の彼女が放つのは悪意の言葉。名称に聞き覚えはないが、大方の予想はつく。言い得て妙だとも思う。だが感心したのは一瞬。決意に水を差された事がそれらを呑み込み、梓の中をドス黒い物が舞い始める。
「それで?」同じ言葉を再び口にする。今度は意図して感情を消した声。
「いや、お前の噂結構知ってんだわ。友達が横浜だからさ。辞めてなかったんだ、野球。聞けば、散々やりたい放題した挙句……」
「それを私に伝えてどうしようと?」梓の中のドス黒い物が表面に滲み出て来る。押さえようにも、感じた理不尽さが歯止めをかけさせない。「私は貴女の事を知らない。知らない相手にそんな事を言われる筋合いもなければ、話を聞く義理もない。申し訳ないけれど、失礼します」
「また逃げるんだ」
踵を返した足を止める。ゆらりと振り向く。
「逃げる?」確かに自分がした事は事実としてある。だが、当事者でもない目の前の彼女に何故こうまで言われなければならないのか。それが酷く苛立たしい。歯止めは、もうない。「貴女の話を聞かなくてはならない理由があるとでも? 貴女は試合に出ていたようだけれど、私には貴女の記憶はない。つまりはその程度。そんな相手の話を聞くメリットが私にあるとでも? 無駄な事は嫌いなんだ」
「そ、そういう所だよ」若干気圧され気味に目の前の彼女は吠える。「チームメイトに対してもそういう態度だから……」
「だから、それが貴女に何の関係がある? 私は貴女の事を知らないと言った。無駄な事は嫌いとも」梓は髪を掻き上げ、冷めた目で見下ろす。「理解出来ない阿呆に付き合う暇はない。失礼するよ」
「お、おい……」
更に自分の背に投げ掛けられる理不尽な言葉を梓は完全に無視し、ただ歩みを進める。
全く何なんだよ、という気疲れとも苛立ちとも言えぬ感情が梓の中に立ち籠める。
折角の気分が台無し、それどころか、再び湧いて出た自身のドス黒さに自己嫌悪が甚だしく、晴れやかな気分はとうに過去の物となっている。
いくら自分の心が決まろうと、結局過去は纏わり付いて来る。自業自得と言えばその通りだが、枷とは何と重い物だろう、と梓は思う。
一つ息をする。
吐いた息は溜息にも似て、更に気分を萎えさせた。
こんなんじゃ、皆に話せる心持ちではないな、とそんな事を考えているうちに、梓はグラウンドを回りきり、共に昼食を取った藍のいる場所まで戻って来てしまった。
横座りの様な格好で持参のお茶を啜る有坂藍は悩ましげな表情で遠くを見ていた。
わざと足音を立てて近付いた梓に気付くと直ぐに破顔。
だが、その笑みはどこかぎこちなく梓の目には映った。
他者の気持ちを慮るという行為の重要性に気付いたのはいつだったか。
梓のいた環境は、彼女のご機嫌を窺いはすれど、彼女自身がそれを考える必要性があまりなかった。
それ故に彼女は傲慢に映り、それ故に彼女は一人になった。
失ってみて初めて、自身の行いが間違いだった事に気付いた。
間違いであれば正せば良い。そういう目で周囲を観察すると、朧げながらコミュニケーションのやり方は解ってきた。だが、同時に一人にならない為だけにそれをする意味があるのかという疑問も浮かんだ。
意味か、と考えて、梓は一つの答えに辿り着く。
自分にとっての必要不必要を取捨選択する、というシンプルな答え。そしてそれは、これまで梓を取り巻いていた全てを切り捨てるという選択に繋がってゆく。
そんな中での高校入学、そしてチームの創設。
無謀とも思える思想を持った藍と、なし崩し的に始まった同じ時間と目的を共有する日常。そこで芽生えた何かは、これまでの梓には無かったそれ。気付いた時には自身の中で大切な物へと置き換わり、無謀な乙女は盟友となった。
かつて傲慢の果てにいた高潔の姫君も、近くにいる盟友の表情を読める位には彼我の距離は近付いていた。
だから、藍の醸し出すその微妙な表情の差異にも気付けた。
「何かあった?」藍の隣に腰を下ろし、梓はそう尋ねた。
「碧が来た」藍は遠くに目を遣りながら言う。「午後の合同で、葉山の一軍相手に一緒にやろうって」
「それで?」
「断った。まあ、碧の言い分も解らなくはないけど、私の居場所はここだから」
「その割には煮え切らない様に見えるけど」
「まあ、正直に言えばアイツの理想は魅力的。でもそんな物は泡沫の夢でしかない。目覚めが悪いだけなら、端からやらない方がマシ」
「やりたいのならやれば良いのに。たとえそれが幻想であってもさ」
藍は顔を傾け微笑んだ。ぎこちなさは既になく、普段のそれに戻っている。
「夢は寝て見るものだから」
「まあ、アオイがそう言うのなら、これ以上は推せないけどさ」
梓は肩を竦め、眼前に広がる雲が集まり出した空を見遣る。
これも節制になるのだろうか、なんて事を思う。
藍は主将として、チームの柱として、自身の犠牲を厭わない。
それはかつての梓にはなかった概念。だから尊敬する。ただ、同時に藍はそれで良いのだろうかという、今の梓ならではの疑問も浮かぶ。
やりたい事にあえて蓋をする意味があるのだろうか。大してデメリットも見えないのにも拘わらず、蓋をする意味は何なのだろう。
ほんの少しだけ、梓は腑に落ちない。
他人に対し、そんな事を考えられる様にはなったが、だからといって助言出来る程の答えは持ち合わせてはいなかった。故に無言で遠くを見続ける。
「アズサは変わったよね」
藍の言葉に梓は我に返る。
和らいだ笑みが自分に向けられている。屈託のない瞳が真正面から自分を見遣る。抱えている物の所為か思わず目を逸らしてしまう。
「そうかな?」
「昔のアズサだったら、私に提案なんてしないでしょう。君は真の合理的主義者。目的の為に余計な物を切り捨てられる……」
「違うよ」
口を突いた言葉。
居た堪れなかった。良く言えば傍目にはそう映る。だがその実、後ろ昏くドス黒い。だから、光の当たる面だけを切り取って言葉にする藍を直視出来ない。
私は、そんな高尚な言葉なんて貰えない、と梓は顔を背けてしまう。
梓の中で生まれた客観的視点が、自身を劣悪な物として判断している。
「私は、そんな良いものじゃ、ない」振り絞り何とか言葉を吐き出す。
藍は一瞬表情を凍らせ梓を見つめる。
「何かあった?」先程の梓のそれと同じ事を口にする。
「いや……」
梓は口籠る。
言うなら今だ。
御誂え向きに場が自身の告解室じみている。
言うと決めた筈なのに、直前で過去を穿り出され、自己嫌悪が膨れている。故にこの場に及んでもいまだに逡巡している自分。それ程梓は自分の中に詰まった物を自分自身で嫌悪し、そしてそれが溢れた結果、皆が離れて行くのが恐ろしい。
「その反応自体、何かあったと言っている様なものだと思うけど?」藍は苦笑じみた微笑みを薄め、寂しげに目尻を下げた。「私なんか一年近くそばにいる。最近入った小娘達ですら、アズサが何かを抱えている事に気付いている。出す出さないは君の判断。でも、抱え込んで苦しい表情を見せられるこっちはどうすれば良い? 見て見ぬ振りも辛いんだから」
「でも……」梓は藍の目を見れない。
目が合えば、自身の内包する物を覗かれてしまう様な錯覚さえ覚える。と同時に、表に出さない様に努めた事が、逆に彼女達の重荷になっている事実に愕然とする。
「でも?」藍は促す様に尋ねた。
きっと優しく微笑んでいるのだろう。
それが彼女の受け止めるという意志の現れなのでは、と梓は考える。
だからそっと横目で見た。
藍は少し寂しげではあるが柔和な笑みを浮かべている。
だから。
梓は決断する。
「きっと、悍ましさに辟易する」か細い声で梓は言う。
「人なんて大抵は悍ましい物を内に抱えているものよ。大事なのは清濁併せ呑む器の大きさだと思う。まあ、人によって器の大小があるから、好き嫌いに差が出るんだろうけど」
「そういう話じゃないんだ」梓は息を呑む。喉元で止めていた真実が今か今かとその時を待っている。口を開ければそれが飛び出す。そしてその時はもうすぐ。梓は目を瞑り、最後の一息。口を開いた。「私は、人を人として見れない。あるのは記号であり、駒」
言葉が浸透した藍の頬が、目尻が、ひくりと動いた。
横目で窺う藍の所作に、やはり、と梓は諦観じみた思いに包まれる。
藍の過去は聞いている。彼女が嫌悪する対象が何なのかも。自分の告白はそれと同等だ。嫌悪されない理由なんてない。
藍は大きく息を吐いた。それから頬に手を当て目を細める。
「それ、本気で言ってる?」
「え?」
思いがけない藍の言葉に、梓は咄嗟に彼女に顔を向ける。
合わせようとしなかった目線が交わる。
「だから、それは本気かと聞いてる」梓を直視し、藍は溜息混じりに同じ言葉を発した。
細めた目には強い光。
何故か射竦められた様な感覚。怒り、だろうか、と梓は思う。と同時に何故、という疑問符。藍の視線に貫かれ、再び目を逸らし、弁解めいた言葉を吐く。
「そうだよ。私の中には、人を人として見ない、醜悪な物が渦巻いている。私の吐く言葉は人を不快にさせる呪詛の様な物。事実私の周りからは……」
「前にも言ったよね」
梓の独白は藍によって遮られる。
普段聞かない少し低い声音。強い光は瞳に宿ったままで、少し怒りの滲んだ言葉が続いた。
「私は当時の君の状況を見た訳じゃない。けれど、推測は出来る。確かに君の言動は目に余るものだったんだろう。でもそれって、君の君たる合理的判断の結果で……」
「だから、違うんだって」梓はつい声を張ってしまった。驚き目を見張る藍に謝罪する。「ご、ごめん。でもアオイは勘違いしてる。私は合理的判断なんてしていない。ただ、使える者と使えない者の判別をしただけで」
「それが合理的判断なんじゃない」
梓は力無く首を振る。表面的にはそう見えるだけであってその実は違う。
「私は、詳細を伝えてないんだ。そして伝える必要もないと思ってた。言われた側の納得なんてどうでも良い。切り捨てられるだけの理由があった。それだけで充分、それ以上でもそれ以下でもない」
「だとしても、結局責任は大人にある。いくら君が言葉を発した所で、大した影響なんて……」
「……あったんだ。私はチームに必要不可欠な程度には結果を出していた。大人達は結果が欲しかった。両者の思惑は見事に一致して、私の意見が通らない事なんてなかった。実際結果も出ていたしね」梓は自嘲気味に笑う。「そして、私のそれまでには、自分が否定されるという事がまるでなかった。だから……」
「気持ち悪い世界は果てまで行った、と」
「そう」梓は頷く。「今なら解る。離れて当然、それだけの事を私はしてた。でも、それのどこがいけないのか私には解らない。だって、目標の為に余計な事を切り捨てるのは当然でしょう。勝ちを得る為に最善をとった結果がそれ。目標以外に重要視する何かがあるとして、私にはそれが解らない。だから、私は、結果が全ての……」
両手をついて俯く梓の視界はぼやけている。
溢れた雫が藍のシートに玉を作る。
「印象ってさ、環境によって結構変わると思うんだよね」藍は淡々と言葉を紡ぐ。「例えばレッテル。この人はこういう人ですって事前に教えられていれば、いくら客観的に判断しようと心掛けても、どうしてもバイアスが掛かる。個人的な範囲を出ないのなら、まだ可愛いけど、それが集団になれば大義に変わり、客観的目線とは正反対の主観じみたそれが罷り通る様になる。人は生贄を好むと私は思う。そしてそれが楽しいと感じる人もまた多いから、誰かを槍玉に挙げれば、賛同する人もまた多い」
「それが……?」梓がやっと出した声は僅かに震えている。
「正直気に入らなかったんでしょう、君の事が。まあ、お姫様だもの仕方ない。でも全部が全部アズサの所為とは私には到底思えない。チームには優秀な選手は必要で、君にはその資格があった。試合において君はチームプレイをするし、別に誰かを貶めようと発言した訳ではないじゃない。約一年、私が君のそばに居て感じた事だけどさ、自分で思う程、君はヒトデナシではないと思うよ?」
「でも、それは私が本性を出さなかったからで……」
「だからさ、もう解ってるじゃんって事。何を言ったらどう相手に響くか、それが解ってるから、言葉にしない」
「それは違うよ」梓は漸く藍を見た。「アオイはそこも勘違いしてる。私には解らないんだ。だから言葉にしなかっただけ。思った事をそのまま口にすれば、きっと嫌な気分になるから」
「相変わらず、君は頑なだねえ」藍は苦笑する。「だからさ、私もスバルもちろしこも、他の皆だって、知ってるよ。アズサの性格が歪んでるのを」
「え?」
思いがけない逆告白に梓は目を丸くした。
そんな梓の顔を見た藍はくすくすと笑い、言葉を続けた。
「時折出るからね、心無い言葉。でもそれ以上にさ、面倒見が良い事、常に冷静で柔らかな物腰、何でも真摯に対応する所とか、良い部分だってあるんだよ。それらをひっくるめてのセナアズサ。ここはかつて君のいた場所じゃない。心無い言葉だって相手を貶めようとして吐き出す訳ではないでしょう? そこは解ってるよ、皆。だから君の本心を知れば、心無い言葉だって、また何か言ってんよ、位には笑い話に出来る器量はあるよ、ここにはさ。さっきも言ったけど、印象なんだ。ここでの君の印象は、面倒見の良いトッププレイヤ。けして暴虐の姫君なんかじゃない」ここまで言い切って藍は一息吐いた。それからニヤリと笑い顎をしゃくる。「そんな称号、碧にくれてやれ」
肯定されたのか、と梓は半ば呆けて藍を見つめながらに思う。
だが、すぐにそれはまやかしだ、と内なる梓が否定する。
いくら藍であっても、おそらく梓の表面だけ掬って判断しているに違いない。奥底に蠢いているモノは醜悪で下劣な、およそ外に出してはいけないモノ。全部が全部認められる訳なんてない。
「でも……」
そう言い出したのだが、次の言葉が続かなかった。
何を言えば良いのだろう。梓の出せる答えは白か黒か、その二択。
いっその事、全否定された方がまだ対処出来る。いや、否定はされている。その上で呑み込むと藍は言った。だから、彼女は今の梓を肯定する。
「歪んだ思いなんて誰もが持ってるよ」藍は苦笑しつつ言う。「ただ、それを言葉にすれば、周りがどう反応するかを知っているだけ。アズサはそれを知らなかった。それだけでしょう。まあ、知らないってのは怖い……」
藍は両手を後ろについて空を見上げた。
ゆっくりと深呼吸して首を傾ける。そこには寂しさが僅かに混じった苦い笑み。身体を半回転させて梓に向き直る。
「怖さ、だったのか。アズサが私らに対して作っていた壁は。こういう言い方はアレだけど、私達だってそんなに良いものじゃない。誰だって良い部分と悪い部分がある。どちらかしか見ない間柄では確りとした信頼なんて築けないんだからさ。君が怖がってるのが自身の発言というのなら、私達は気にしない。だって、悪意じゃない事を知ってるから」
「私は……」
梓は今自分が呑み込まれた事を漸く確信する。
それは仄かに暖かく、今まで得た事のない安堵に似た何か。私は私で良いのだろうか、そんな些細な疑問を藍にぶつけてみる。彼女は何と答えるのだろう。その答えが気になって仕方がない。
「私は、このままで良いのかな」
藍は全てを肯定する様な柔和な笑みを浮かべた。時折見せるとびきりの笑顔。
だが、これって、と梓が思った時には藍は言葉を発していた。
「ダメに決まってるじゃない」藍の笑みは一寸のブレもせず、辛辣にも近い言葉が口から溢れでる。「確かにアズサはチームに欠かせないプレイヤだけど、だからといって何でもが許される訳じゃない。君の言葉には悪意がないと解っていても、時に言葉は刃に変わる。ある程度は解っているんだろうけど、今まで以上に発する前に言葉の意味を考える。まあ、私らは何を言われても気にしない。その代わり、君も君で、伝えるべき事を確り吟味するって事。私達は今漸く肩を並べたに等しい。関係性は変わってゆくものよ」
「そう、か」
もうここはかつての場所ではない。
そしてそれらを抱えた今の梓を内包する場所でもある。だから、梓自身も今の梓を作らなければならない。
ここでの当たり前に自分が馴染まなければならないという事なのだろうな、と梓は理解する。
「別にアイツみたいになれとは言わないけれど……」溜息混じりに藍は言う。「碧もまた大概なのよ。発言は斜め上がデフォルトだし、正直迷惑に思う方が多かった。でも不思議とアイツを嫌いになれないのは、彼女が悪意を持って言ってる訳じゃない事を知ってるから。悪意って重要だよ。人を貶める為だけに発せられる言葉ほど無意味な物はないと私は思うから」
「でも、その意図がなくてもそう取られる事だってあるんじゃないの?」
「まあ、浅い間柄ではあるんじゃない? 別に私らはそういう訳じゃないでしょ。共に歩む仲間なんだし。一年って期間が長いのか短いのかは解らない。けど、汲める位にはなってると私は思うけどねえ」
まあ、確かに、と梓は思う。
自身の内面に潜む醜悪なモノ。それとは関係なく、ここ最近の梓は汲むという事が出来る様にはなっている。おそらく、自身の内面は早々に変化する事はないのだろう。だから、自制しながら共存していくしか道はない。もうかつての梓ではなくなっている。これは変化だ。確かに変わったといえばその通り。ならば、これからも変われるに違いない。
このままで良いのか、という問いを藍が否定した理由はそういう事なのだ、と梓は漸くその答えに辿り着いた。
随分と長い時間をかけて、漸くスタート地点に辿り着いた。自分も、皆もまたこれからだ。
充足感にも似た感覚に包まれ、今度は確かな安堵を梓は感じた。その所為か、ふと思い出した事あった。自分なりの答えは出ている。だが、藍ならばどう判断するのかを聞いてみたい。
「さっきさ」梓は藍に問いかける。「絡まれたんだ」
「うん?」怪訝な表情を浮かべ、藍は首を傾げる。
「直接の知り合いでもないんだけど、過去の事を一方的に批判されたよ。まあ、されても仕方ない事をしたんだと思うんだけど、でも当事者ならまだしも、部外者が言うってのがさ……」
「ふうん」藍は小さく頷き、遠くに目を遣った。少し声色が落ちる。「多分、それが悪意ってヤツなんだよ。言った所で何の生産性もない言葉。言った本人だけが満足する様なそれは、言われた側からすれば害悪以外のナニモノでもないし」
「私が言う事じゃないけどさ、何でそういう事言うんだろう」
「まあ、確かにそうね」藍はくつくつと笑う。「明確な違いがあるとすれば、個人的な感情なんじゃないかな」
「感情?」梓は問う。
「そう、感情」藍は頷く。「簡単に言えば、腹いせ。八つ当たりとも言う」
「まさか」
「いやいや、結構あるよ、そういうの。何処にもぶつけられない、ぶつけようもない事を抱えるとさ、無関係なものに当たりたくもなるんだよ、制御しきれないって言うかね。まあ、器の問題なのかもしれないけれど」
「そういうものかなあ」
梓はそう言いつつ何となく納得した。
先程絡まれた時の事を思い出すと、確かに藍の言う事が当たっている様な気になる。
仮にそれを事実とするならば、先程の彼女もまた鬱屈した思いを抱えているのだろう。偶々過去を抱えた梓がそこにいたから起こった事故の様なものだ。自分の過去が生み出した事故だとしても、ほぼ無関係の人間に言われる筋合いはない。仮に自身の過去の挙動で苦しめられたのなら、言うだけの権利はあると梓も頷ける。だが、そうでないのならそれは高みから便乗するだけの無責任な悪意に他ならない。
おそらく、そんなモノではその人の救いにはならない、と今の梓は思う。
抱えているモノは人それぞれだ。先の彼女の様に悪意として溢れ出てしまう事だってある。
曝け出した今でも、自分の荷が軽くなったとは思わない。
だが、その荷が何なのかを知って貰えた事は、結果的に梓にとっては良い事に分類される出来事だ。
だから、少しの安堵。
そしてこれからの展望。
やらなければならない事は多く、そして並行して自分も変わっていかなければならないのだ、と梓は思う。
雲が集まり出した空。薄灰色と青のコントラストは、再出発としては今の自分らしいと梓は思う。かつては極彩色だったそれとは違う事が梓には少しだけ新鮮で嬉しかった。




