The thing which passes through this gate 〜 この門を通過する者は 〜
季節外れの大雨の所為で大半の桜が散ってしまった残念な春。
良くない暗示を思わせる様な、幸先の悪い始まりと誰かは思うのだろう。けれど、乙女達はその様には思わない。見据える先は、この日の雲一つない青空の様に澄み渡り、希望に満ち溢れたものだから。
今は道を違えども、目指す方向は一緒。いずれ重なるその時の為に、私は新たな場所でこれからの三年間に全てを注ぎ込む。
緩い折り返しが続くなだらかな坂。
路を彩るはずの桜はもう残り香しかないけれど、それでも時折吹き抜ける少し冷たい風には春の香り。晴れ渡る空の様な希望を胸に私は新たな一歩を踏み出す。この小高い丘の上にある瀟洒な学び舎で。
「アンちゃん、これ、丘と違う。完全に山。山以外の何物でもないよう」
「いや、丘だって。家と大して変わんないじゃん」
「あのねえ。私はアンちゃんと違って家は市街地だし美術部なの。山登りはやってないの」
「……歩きたいって言い出したのサッチじゃんか」
私はじろりと横を歩く幼馴染に目を向けた。
「誤算! 誤算以外の何物でもない」幼馴染は舞台役者の如く、大袈裟に嘆く。「何故人は特別な日というだけで、普段とは違う選択をするのか」
「……そんだけ喋れれば問題ないだろ」私は白い目を向けてやる「どうせバス通学になるんでしょ? ならせめて初めだけでも、山の空気吸っていけば?」
「もう吸い込んでるもん。吸い込みすぎて……」幼馴染はわざとらしく口元に手を添える。「気持ち悪い」
「……気持ち悪いのは、サッチが朝ごはん食べすぎた所為でしょうが」
「えへへ」
喜多村祥。
両親同士が友人の為、物心着く前から顔を合わせていたという幼馴染。私のあだ名”アンちゃん”の名付け親でもある小柄な乙女。小学生の頃はスポ少で一緒に野球をしていたけれど、突然、時代は絵なの、と言い出して中学では美術部。その割に野球には未練が見え隠れする、少しだけ変わった女の子。幼稚園、小学校、中学校、そしてこれからの高校生活と全て同じ学舎で学ぶ事となる、縁の深い友人だ。
振り返って少し目線を上げると、樹々の隙間に真っ白な校舎が見え隠れしている。先の折り返しを登れば正門が見える。私の第一歩はもう間近。心なしか足取りは軽くなる。
「私、門が凄い楽しみなの」嬉々として祥が言った。
さっき気持ち悪いとか言ってなかったっけ、という言葉を呑み込み、質問を返す。
「そんな趣味あったっけ?」
「私がここを受けた理由の一つが、その門なのだよ」祥は奥ゆかしい胸を張る。「去年の卒業生がね、文化祭で正門の装飾をしたのね。題材が、地獄門。ダンテ・アリギエーリの”神曲”に登場する門をモチーフとした、オーギュスト・ロダンの未完の作品。の複製。この出来がねえ、高校生とは思えない程に……」
成る程。思いの外彼女の守備範囲のど真ん中だった訳だ。
この時の私は、ロダン位しか耳に覚えが無い。確か”考える人”の人だ。
「ねえ、聞いてる?」祥が私の袖を引っ張る。
「キイテルキイテル」棒読みで返す。「ま、サッチ趣味のど真ん中ってのは解ったよ」
「見て驚くがいいよ。凄いんだから」
ご機嫌を損ねた幼馴染は無理した早足で、私を追い越し、折り返しに差し掛かる。
どうせヘトヘトになるんでしょう、と思いながら私は自分のペースで折り返しを曲がる。
そこには立ちすくむ幼馴染の姿。
祥の見据える先を見て納得。彼女の期待した芸術作品はその欠片すら見当たらず、正門は色鮮やかなお花で一杯になっていた。
まあ、そうだろうよ、とは言わない。幼馴染を慮って口にはせずとも予想なら容易。この日は入学式で、大抵の人がその行事を祝福でもって歓迎する。幾ら芸術性が高かろうと、そこに地獄門はないだろう。
私は無言で幼馴染の肩を叩く。
乾いた笑いを漏らしつつ幼馴染は振り向いた。
「ええ、ええ、解ってましたよ。ハハっ、だって入学式だもの……」
「学校が始まれば、見られるかもよ」気休めの言葉をかけて、祥を促した。「道の真ん中で棒立ちは良くないし、遅れるよ」
咲き誇る極彩色の花々で彩られたその門の前に立つ。私達を追い越す、まだ馴染んでない制服に身を包んだ新入生は、口々に感嘆の声をあげ、お花のアーチをくぐり抜ける。
間近で見れば尚も素晴らしい。私にはこの門をくぐる事に入学と同時に別の意味も付随している。門出に相応しい華やか導入。
ここを過ぎた途端に私は始まる。
正真正銘、私の三年間が。
いざ、と気合をこめて、その一歩を。
踏み出そうとした所を、祥に背中を、殆ど突き飛ばされる様な形で押され、転ばぬ様前につんのめりながら、ほうほうの体で駆け抜けた。
……幸先悪。
良いのか私、こんな始まりで、と思えども後の祭り。私の一歩は予期せぬ事態に見舞われた物の、晴れてこの学び舎、鳴海大学附属葉山高校の敷居を跨いだのだった。
麗かな春の午前。
式典は厳かに幕を閉じ、講堂から流れ出す制服に着られた初々しい新入生の隙間を抜け窓際に待避。貰った冊子に今一度目を通しクラス、出席番号を再確認した後、ごった返す人混みに飛び込む為の気合いを入れる。
と、その前に最後の一息。
「アンちゃんとは別クラスだね」隣にいた祥が残念そうに言った。
「まあ、仕方ないんじゃない? 同じ学校の子を固めてもねえ」
「でも、一緒に帰ろうね? 流石に今日は部活ないんでしょ?」
「と、思うけど」
「じゃ、ホーム終わったら迎えに行くね。アンちゃん何組?」
「三組」
「オッケ。でも三組か、私九組だから、別棟だ。まあ、良いか。じゃあ、後でね」
怒涛の様な自己主張をして、幼馴染は去っていった。
初対面の人は疲れるだろうな、と普段思わない事を思ったりする。私もまた、新しい環境に少しだけ舞い上がっているのだろう、と自己分析。
手元の冊子の見取り図にもう一度目を落とし自分のクラスへ。
ドアから教室内を覗くと、既に半分程度席が埋まり、それぞれがぎこちなく談笑していた。
私は自分の席に辿り着き、何やら重く感じるリュックを下ろす。どうにも新鮮な事が多くて疲れたみたい、なんて事考えて、この時しか味わえない新入生の初々しさを堪能する。
私の席は窓際の三列目。校舎の関係上、山の緑しか目に入らないけれど、これはこれ。
見慣れた山の景色を目に映す。
そんな時だった。
「琥珀ちゃん?」
不意に名前を呼ばれ、反射的に声の方へ振り向いた。
そこには。
焦茶色のボブカット、透き通る様な白い肌の撫で肩の美少女然とした乙女。愛嬌のある垂れ目に泣きぼくろが印象的。
「ええと……?」その特徴的な目元に何か見覚えが。私は心の薬箪笥を片っ端から開け放つ。あれでもないこれでもない、そんな中で漸く見つけた一つの答え。つい、私は声を上げてしまった。「金田一?!」
「あ、やっぱり琥珀ちゃんだ」泣きぼくろの乙女はするりとした動きで私の手を取った。
その瞬間、私の記憶は完全に蘇った。
金田一葉。
小学校五年の初めに転校していったクラスメイト。クラスメイトであると共に、同じスポ少に所属していたチームメイトでもある。”古のセカンド”然とした小柄で小技の上手い二番バッター。字面から、かの名探偵の名を受けた少女。言うまでもない事なのだけれど、名付け親は勿論祥だ。
そんな過去の印象を嘲笑うかの様な、手の感触。
見た目こそ当時の印象とあまり変わってはいないけれど、その手の平が物語る。何千、何万とバットを振ってきたその勲章。
「すっごい久しぶりだねえ、琥珀ちゃん」一葉は大袈裟に私の手を振った。
「ひ、久しぶりだね。金田一、なんかキャラ変わった?」
私の知る所によれば、試合は別として、普段の彼女は物静かな文学少女だった気がする。
「そう? 良く解んないや。私は私だよ」
「ふうん。ああ、そう言えばね、サッチ覚えてる? 喜多村祥。あいつもここだよ。九組って言ってた」
「さっちゃんも? いやあ懐かしいねえ」何がそんなに嬉しいのか、一葉はさらに私の手を振り回した。
別に周りを窺う必要はないのだけれど、私は周囲を確認してから漸く本題に。
「金田一さ、野球続けたんだよね?」
「え?」一葉はひた、と動きを止め、握ってた手を離した。人差し指を口元に当て少し笑った。「成る程成る程、これで解るって事は琥珀ちゃんも続けてたんだ」
「そりゃあまあ、ね」
「だよね。お兄さんすごかったもんね。男子が騒いでたよ」
「お兄ちゃんは関係ないよ。まあ、色々教えてくれたけど」旧友との再会はまさかのサプライズ。しかも、野球を続けていた。微妙な始まりを吹き飛ばす僥倖。となれば近況が気になる私は、早速口にした。「金田一って、確か相模原に行ったんだよね? 何でまた葉山? 相模原って言えば聖陵……」
一葉の人差し指によって私の口は封じられた。
「あそこはダメなの」
「何? どういうこと?」一葉の手を取り問い返す。
「一つ聞いて良い?」
「何?」
「琥珀ちゃんは何で葉山なの? あ、近いからってのは無しで」
一葉の顔には笑顔が張り付いている。けれど、愛嬌のある垂れ目は笑っていない。きっと真面目な質問だと思い、私も居住まいを正す。
「私にはさ、倒すべき相手が出来た。だから、戦えるチームに入りたかった。その点、ここは都合が良い。設備、環境、指導者共々申し分ない。まあ、近いってのも付け加えるけどね」
一葉の目が笑った。
「あはっ、私と一緒だ。私も倒したい相手、いるんだよ」一葉は後ろで手を組みくるりと回った。私を見下ろす垂れ目に剣呑な光が灯る。「完膚なきまでぶっ潰したい相手がね」
「ちょ、ちょっと、金田一?」
「あはっ」目に宿った光を消すと、一葉は私の前の席の男子に声をかけた。「ねえねえ、私この子と少しお話ししたいから、ちょっとの間私の席に座っててくれる?」
おいおい、一葉ってこんな子だったっけと、私は心の箪笥をひっ散らかした。私が家探ししている間に、前の男子は満更でもない顔で立ち去ってゆく。
一葉は椅子に腰掛け足を組む。体を乗り出し私の机に肘を乗せた。
「お、穏やかじゃないね」
「まあ、色々あったからね。私さ、中三の時一試合も出てないんだよ。だから誘いもないからここは一般受験」
「ケガでもした?」
一葉は微かな笑みを浮かべたまま首を振った。
背番号を取れなかった、という事ではないだろう。それが事実であるのなら、この様な言い方にはならない。もっとどうしようもない理由がある、一葉の言葉からはそんなニュアンスが漂っている。
「……もしかして、干された?」
カテゴリが上がればそんな話は聞く。監督の中には楯突いた罰とばかりに試合に使わない、なんて話も聞いたことはある。けれど、中学でそんな事あるのだろうか。明るみに出れば、それなりに問題にもなるだろう。だから、あくまで可能性の一つとしてきいたのだけれど。
一葉の答えは意外な物だった。
「ううん、当たらずとも遠からず。自分で辞めたの、中二の終わりに。だから中三の時は男子に混じらせて貰った。だから試合には出なかった」
「辞めた? 金田一どこにいたの?」
「相模原レッズ」
「はあ?」魂消たとはこの事だ。
相模原レッズといえば、絶対数が少ないとは言え、神奈川の女子シニアの頂点。それだけに留まらず全国でも名の通った名門。所属するほぼ全ての選手が全国制覇を掲げる強豪校から声が掛かるという話。
「琥珀ちゃんはそんな印象ないかもしれないけど、どうやら私ってかなりの負けず嫌いで、気が強いらしいのね」一葉は少し恥ずかしそうに笑う。「でさ、とある練習試合で監督のミスを指摘した。まあ、ミスって程のミスじゃなくて、言葉の綾っていうか、まあ、ちょっとした采配の齟齬なんだけどさ。そしたら、言う位なら出来るんだろう、って試合に出されて、私は結果を出してしまった。となると、監督としては自分のミスだった事を認めたくないから、私を肯定せざるを得ない。有象無象分の一の一年生が名門の四番に座るってのが、大半の上級生には許せなかったんだろうね。監督も面白くなかったんだろうし。私への嫌がらせが始まった」
「おいおい、そんな事許されないでしょうよ」
「普通はね。でもさ、名門と呼ばれる所にはさ、大抵、そこにいるに値するって自尊心の塊が集まってくるの。尊大になった人間はさ、そう簡単に自分の過ちを認められないの」
「だとしてもさ、酷くない?」
「酷いよ。だからさ……」一葉は再び剣呑な光を灯す。「伸びきった奴等の鼻を叩き折ってやるんだよ。名門っていう名のぬるま湯で伸び切った鼻をさ。ここならそれが出来ると思った。環境は良いけど実績で言ったら中堅ちょい上ってとこだと思うから。格下、しかも一年にやられたら、肥大したプライドは爆散するでしょ?」
まったく想像出来なかった。
あの大人しく控え目だった一葉が、今は正反対の場所にいる。
私の思想の正反対の位置にいる。
けれど、向かう先は同じ。思想には目を瞑り、彼女の話を事実とするのなら、同学年にこれだけのプレイヤがいるのは私にとって大きなアドバンテージになるだろう。
けれど、本当にこれで良いのだろうか。ある意味野球の動機が邪な気がする。どんな理由でプレイしようが人それぞれだとは思うけれど、知っている人間には気持ちよくプレイしてもらいたい。後ろめたい気持ちで臨んで欲しくない。そう思うのは私の偽善だろうか、そんな事を考えた。
私が思考の海を彷徨っていると、一葉が急に笑い出した。慌てて顔を上げる。
「って、思ってたんだけどさ、琥珀ちゃんと再び会って、琥珀ちゃんにはしっかりした目標があるって事知ったらさ、なんかどうでも良くなっちゃったかも」
「ええぇ」
本気で言ってるのなら、さっきまでの私の悩んだ時間を返せと言いたい。まあ、言わないけれど。
「本心を言えばさ、ぶっ潰したいのは確かにそう。だけど、一番は楽しくやりたいんだよ。まあ、楽しくの中にはハイレヴェルな、ってのが隠れてるけど」
「どっちよ?」
私は解らなくなる。久々にあった旧友は変わり過ぎていて、過去の印象から形成した彼女はまるで役に立たない。
「だから、楽しくやりたいんだってば。昏い気持ちを忘れる位に……」一葉は私の机から身を引き、窓に目を向ける。「でもまあ、琥珀ちゃんいるなら、それも叶うよ、きっとね」
私が一葉に何かを告げようと思った瞬間、教室のドアが開いて、担任と思われる教師が入って来た。私は一葉の真意を測れずに、この場はお開きになった。
その後のホームルームは大して頭に入って来なかった。一葉の過去がこびりついていて離れない。私がもやもやしている傍で、当の本人はあっけらかんとして談笑している。
彼女を見て私は切り替える。
たとえ過去に何かがあったとしても、今笑っているその笑顔が本物ならばそれはそれで良いのではないか、と。どのみち私達はチームメイトになる。どうせなら楽しくやるのに越した事はないのだから。
ホームルームが終わり、一葉たっての願いで祥と合流することになった。彼女を待つ為に一葉と共に廊下に出て、窓際に背を預けていた。
そんな時だ。見覚えあるシルエットが通り過ぎ、そして立ち止まり、振り返る。私は一瞬にして疑問に囚われた。何故だ。何故ここにいる。
「アンちだ」
死んだ魚の様な目で、香坂綾はそう言った。