Birth of the moonarrow : the bottom challenger. II
「さすがは有坂。良い所で登場なんて、持ってるじゃねえの」碧は”持ってる”の部分を強調した。
「さあ、なるべくしてなった結果じゃない?」
藍は思った事を口にした。
自分達の攻撃における最高効率は経験者が並ぶ上位陣。
それぞれが普段通り自分の仕事を全うすれば、自ずと形は出来上がる。
確かに一番からという、御誂え向きな打順であったのは認めるけれど、と藍は内心舌を出す。
「まあ、お膳立ては完璧だよな」ニシシ、と碧は笑う。
碧の言葉のニュアンスがどこか引っ掛かり、藍は怪訝な表情を浮かべる。
「何か含みのある言い方じゃない」
「別にそんなのないさ。ただ、どうせならプレッシャのある場面の方がお互い良くないって話」
「まあ、ね」
藍は何となく納得するも、僅かに靄が残る。
だがそれは瑣末な問題で、簡単に蓋をする事が出来る。今集中しなければならないのは目の前の事だ。
「じゃ、始めようか」
碧の言葉を皮切りに、藍達を包む雰囲気が緊張感を帯びて来る。
二人を眺めていた笹川の表情、藍に目を向ける葉山の内野陣。
その合間にいる昴と、皆がその気配に包まれてゆく。
笹川がセットに入った。
無駄の無いクイックモーション。
弾かれたボールは藍の膝下に食い込んでくる。
踏み込むが、上体を維持し目だけで球を追った。
「ボール」荻野が涼やかな声で宣言した。
ああ、これか、と藍は思う。先程昴が打ち損ねたであろう球。
確かに右打者である自分達とっては厄介な、内側に僅かに滑るカットボール。
ストレートのタイミングで合わせれば確実に引っ掛ける。
笹川の球速あってこその球だ。
ふと、違和感を感じ取る。
だが、打席に雑念はいらない。考える時間ならば後で取れば良い。
バットを握り直し、再び構えた。
次はアウトコース。
再び踏み込み、今度は手を出した。
藍の手が重さを感じ、続いて鈍い音。
ボールは転々と一塁線を切ってゆく。
振り切ったバットを戻し、片手を振った。
今度は僅かに外に滑った。
それ故にバットの先に当たり嫌な重さを感じた。
シュート系かな、と藍は思う。カットに比べて今の球の方がよく滑る。おそらく計算出来る球なのだろうな、とデータを蓄積。
カウントは1-1。
ちらりとベンチを窺う。今の所細かい指示は無い。少し粘ってみても良いかな、と藍は思う。
昴が早めに打たされ、船見もまた同じ、持てる情報は心許ない。データがあればある程、自分も、次の梓も選択肢は広がる。
今の所内なら内、外なら外に球が逸れる。
碧の配球はその日の気分と言って良い程には規則性が無い印象がある。
けれどカットするだけなら何とか対応出来そうだと藍は判断した。
カットで粘って球種と球筋を見極め喰らい付いてやる、と藍は思念とは裏腹に全身を弛緩させる。
続いて三球目。
外高めに来た直球。これまでで一番速い。が、明らかにゾーンを外れているので難なく見送る。
次は入れて来るだろうと藍は仕切り直す。
笹川の腕が出る。
藍は僅かにつんのめる。今までの球と比べてかなり緩い。
真ん中から徐々に内に寄りながら手元で沈んだ。
「ボール」
冷や汗が背筋を落ちる。
カットする、と頭にあったのにも拘らず手が出せなかった。
否、手を出せば空振っていたので、急遽止めた、が正しい。
初見で捉えるには落差が大きい。
「よく見送ったねえ」碧が言う。「さすが有坂」
「……嫌味にしか聞こえないな」すかさず藍も返す。
「というと、手が出なかった?」碧が笑う。「そりゃあ、そうさ。手が出せないようにしてるんだもん」
まんまと碧の術中に嵌っていた訳だ。
まあ、それはそうだろうと藍は思う。
かつて対戦した事があるとは言え、現在を知らないのならばほぼ初見と変わらない。
直球系で散らした中に緩い球を突如放れば、場慣れしている藍でも崩される。
「ほんとやってくれる」
呟く様に言いながら、藍は僅かに頬が緩む。
足場を慣らし、今一度仕切り直す。
笹川はそこまでコントロールが良い訳では無さそうだ。
ならば、カウント的に追い込まれているのは相手の方。
互いにフォアボールは不完全燃焼な結果。きっと次は入れて来る。手を出されても大丈夫な様に保険を掛けて。
だから直球系が来る、と藍は読む。
笹川の始動。
腕の旋回。
放たれる白球。
それは緩い弧を描いて。
ここで二球続けて緩い変化球か、と藍は動き出した身体を何とか止める。直感がゾーンに入ると伝えている。
軌道は内に食い込みつつ落ちる。
改めて踏み出し、腕を畳みバットを出す。
芯よりやや内側に当たり、打球は後ろにふわりと落ちた。
碧が球を拾い、汚れを拭いてから投げ返す。
「二球目でついてくるか、さっすが」マスクを被り直しながら碧が言った。
「あんたほんといい性格してんね」
「それは褒め言葉だよな。捕手たる者、そうでなくっちゃ」碧は再びニシシと笑う。
口元を上げ、それを返事として藍は再び足場を慣らす。
目を瞑り、これまでの球の軌道を思い浮かべる。大丈夫、行ける、と藍は思う。
カウントはフルカウント。勝負の六球目。
バッテリィの選んだ球は高めに浮いた。
見逃せばフォアボール。
藍はほんの少しだけ我が儘になった。
埋め合わせはするから許して、と藍は心中で仲間に詫びる。
手を出し、ボールはバックネットに突き刺さった。
反射的にマスクを剥ぎ取り行方を追っていた碧が振り向き目を見開く。転がったマスクを持ち上げ片頬を上げた。
「何で手ェ出したのさ」
「さあ、何でだろ」藍は肩を竦める。
「瀬名の事、信頼してるんじゃないの?」
「信頼してるよ」藍は自信を持って言い切る。「でも、もう少しこの場にいたかった、のかもね」
フォアボールという結末が嫌だ、という意思をやんわりと包み込み、藍は言葉に変えた。
「ふうん。ま、いいけどさ」碧は不敵に笑う。「自分達の首を絞める結果にならなきゃ良いけどね」
「なら、私を打ち取れる球を投げさせなよ」藍もまた珍しく挑発的な物言いをする。
「言うじゃん」碧が笑いながらマスクを被った。
藍は今一度背を伸ばし、足場を慣らした。
もう後には引けない。
おそらく次で最後。
カットという概念を頭の片隅に放り投げ、ただ単純に来た球を打つ、と藍は自分の方向を見定めた。
ちらりと笹川が二塁に目を遣る。
千家がいる所為か、昴のリードは普段よりは心なし狭い。
藍は指二本分バットを短く持ち直した。長打よりコンパクトに振り切る方向。右方向に打てば、シングルでも昴なら帰って来れる可能性がある。
だから狙うはセカンドの頭上。
ベストはアウトコース。
笹川が静止する。
始動。
踏み込み、腕が出る。
藍もまた足を上げる。
頭の中で舌打ち。
流石は碧。
左対右。一番角度が出るインコース低めを目指し球が迫る。
重心を右半身に傾ける。
ここで半拍の間。カットやシュート系を予想した結果。
踏み込み、左腕を畳んで腰を旋回。
妙な重さ。
藍の予想とは裏腹に来た球は、僅かに芯から外れたものの、結果的に右方向に上がった。
ファーストを目指し藍は疾走する。
完全な打ち損じ。
碧にしてやられたと思いつつも、打球の行方に目を遣れば、飛び付くセカンドのグラブをすり抜け、ライト寄りのセンター前に転がった。
当たり損ねの打球故、鋭さは乏しい。
それが逆に有利に働いた。
昴は迷わず三塁を蹴る。
中堅手が誰なのかは知らないがおそらく昴は勝つだろう。
半ば確信めいた予測を思い浮かべ、藍はファーストを駆け抜け振り返る。
本日二度目の滑り込み。
碧のタッチを掻い潜り、昴は滑り込んだ勢いそのままに跳ね上がり拳を握る。
彼女のユニフォームは土に塗れているが、それは彼女の勲章だ。
昴が藍に向けて拳を突き出した。
取り敢えず返す藍ではあったが、心中は複雑な思いに駆られていた。
結果として点が入ったのだから良い。だが、自分は碧に読み負けした、と藍は思う。
最後の球、藍が打ち損じた球は、力の篭った唯のストレートだった。
引っ掛けさせる球、空振りの取れる球を擁しながら、敢えての直球。
すべては藍の想像だが、それが小細工無しに勝負にいった碧の意思、フォアボールを選択しなかった藍への答えとも取れる。
だから、結果は勝ち、勝負は負け。
点が取れたのは嬉しいが、同時に悔しい気持ちも同居している。
ちらりとホームに目を遣った。
皆を宥める様に小柄なキャッチャは大きな身振りを交えて声を張っている。
藍は口元を微かに上げて呟く。
「ほんと、やってくれる」
個人的には不本意な結果ではあったが得られるものは得られた。
一塁コーチャ伝いにそれを梓には届け済みだ。
昴が、船見が、そして藍自身が得た情報を元に、信頼出来る盟友が、結果を出してくれる筈だ、と藍は思う。
祈りと客観、冷静なもう一人の藍は五分五分という予測を弾き出している。
そんな思いにそっと蓋をして、五分もあれば十分、と藍は柄にもなく楽観的になる。
少し舞い上がっているのかもしれない。
だが、少し位は良いとも思う。自分に纏わり付く枷があろうとも、それをひと時の間だけ片隅に追いやれる程度には、今藍は愉しい。
左打席に入る梓と藍の目が合う。
任せた、と小さく頷き、藍はゆっくりとリードを取り始める。
主な視点は笹川、彼女を含めホーム近辺を大きく視野に入れる。
梓の打席だ、そこまで冒険はしなくても良いだろう、という藍の思いと裏腹に、慶侑からは盗塁のサインが出た。
ここで、このタイミングで仕掛けるか、と藍自身も少し驚いた。
内面の変化を表には出さず、至って冷静に時を待つ。慶侑からの指示は奇襲の意味で一球目。
笹川の動向を窺う。
左なので彼女の呼吸、間の取り方がよく見える。
一瞬彼女と視線がぶつかる。直ぐに傾き、横顔となって藍の目に映る。
小さく頷き、一呼吸。
始動する、と藍の直感が判断する。
再び笹川と目が合う。
彼女の視線が先に外れ、ホームに向いた瞬間、牽制が飛んで来た。
不意をつかれるも、ギリギリで藍は頭から滑り込み帰塁する。
身を起こしながら、笹川を見る。
流石は葉山、と藍は思う。
相手の裏をかく為の挙動、その布石とばかりの前後の所作。牽制一つ取っても洗練されている。
エアポケットの様な気の緩みがあれば、経験豊富な藍であっても刺されるだろう。
笹川の牽制の動作自体は然程脅威では無い。ただ、それを本人が自覚しているのか、ランナーの気を緩ませる方向、タイミングをずらす事に目を向けているのかもしれない。
過程がどの様であれ、刺されれば終わりなのだ。
気を引き締め、藍は再びリードを取る。新たな情報を手に入れた。もう不意はつかれない。先と同じ位置まで足を進め、笹川に目を遣った。
僅かに彼女は苦笑じみた表情。
牽制が脅威では無いと判断された、とでも思っているのだろうか。いや、それも演技だという可能性もある。そんな事が瞬時に頭を駆け巡る。迷いは判断を鈍らす。だから藍はそれらを片隅に追いやり、自分の反応を信じる事にした。
腰を低く、どちらにも動ける様に膝を柔らかく。
笹川が始動する。
彼女の動きは投球のそれ。
藍は駆け出す。
内野陣から声が上がる。
目線はセカンドベース。視界の端に千家が動き出す姿。
その瞬間。
乾いた金属音が響く。
何故、と思うも、藍は反射的に音の方向に目を向ける。
フォロースルーから身を翻す梓の姿。彼女の顔の向く先に舞い上がる打球。
主が席を外したショート左の上空を抜けて、点となった打球がレフト線にスライスしてゆく。
追いかける左翼手の位置と打球の行方。
藍の経験が届かないと判断、彼女はセカンドベースを蹴る。
サードを目指しつつ、横目で打球を追う。
スライスした打球はレフト線を跨いで着弾する。安堵、驚愕、遺憾。様々な思いが一瞬のうちに左翼線で交錯した。
走る足を緩める。
徐々に速度を落としながら藍は自軍のベンチを目を向けた。残念がる表情が浮かぶ中、残念さと驚きが同居した監督の表情。
藍は小さく笑う。
成る程、梓の独断か、と藍は思う。
普通ならあり得ない監督の指示を無視した行為ではある。
だが、藍と梓の二人に限っては勝算があるのなら独断はある程度許されている。許されてはいるのだが、援護の為空振るならまだしも、打って出るとは。
確かにヒットゾーンに落ちればエンドランとなり、今の打球ならば確実に一点入っていた。仮にレフトがまごつけば、梓すら帰って来れたかもしれない。
彼女がホームを踏めば試合は振り出しに戻る。
藍の既に知っている梓の一部分。
表面だけ掬えば唯のスタンドプレイ。だが藍は理解している。梓は自分が気持ち良くなる為だけのプレイはしない。
だから、少なからずの勝算があったのだろう。狙っていた可能性は十分にある。
藍はファーストに戻りながら、ホームに陣取る碧を見る。
然程驚きはしていない様だ。梓の打球を見るに、保険はかけておいたのだろう。打ちに行ったとしてもファールになるコースと選球。結果だけ見れば、軍配は碧に上がる。
五分五分を忘れたわけではないが、それでも期待は膨らんでしまう。
ファーストに戻り、仕切り直し。
サインはシンプル。
奇襲はある意味成功し、結果として失敗。攻め方は正攻法に変わる。
ならば今度は、と藍の中に梓と同じ様な行動が浮かび上がるが、そっとそれに蓋をする。自分は梓ほど確信めいたヴィジョンは見えていない。
折角の晴れ舞台なのだ、リスクを考えれば水を差す訳にもいかない。
この位置関係ならば、今まで通り自分は見守る役だと藍は思う。
今の主役は梓。リードを取りつつ、勝負の行方に目を向けた。
緊張感を保った中で二球ボールが続いた。
藍の位置からは梓の身体がスクリーンになってよく見えないが、余裕で見送れる程度には外れているのだろう。
おそらく笹川自身も瀬名梓の名は聞き及んでいる。
対戦した経験があるのかもしれない。だから、知っている。彼女の怖さを。
目の良さと器用さが織りなす、悪球打ちに迫るヒッティングゾーンの広さ。
追い込まれれば際どいコースはカットされ、打つと決めたらボール球ですらゾーンに落とす。どの様な場面でも、優雅に微笑むその姿には一片の隙も窺えない。
投手からしたら投げる場所がない、と嘆きたくなる相手に見えるだろう。
そんな梓だからこそ、笹川は彼女を意識せざるを得なく呑まれかけているのかもしれない、と藍は思う。
ならば。
先程の考えに一旦蓋をして、藍は一つ賭けをする。
この後もし梓と目が合うのなら、それを実行しようと。そんな思いを胸に、彼女に目を向けた。
一年と少しの付き合いだが肩を並べた時間は濃厚。
だが藍は未だ梓の中心には触れていないし、彼女もまたそれを語らない。
それでも、汲み合う事は可能だ。
梓と目線がぶつかった。
藍は企みを示す様に不敵な笑みを浮かべて片目を瞑る。
どう取ったのかは解らない。だが、梓もまた小さく頷いた。
賭けは成立。その先のステージへ。
一回牽制を挟んでから、笹川は静止。
モーション開始を見極め、藍は地面を蹴る。
声が飛ぶ中、セカンドを目指す。
音。
初球と同じ様な展開。
梓が示した答えはヒッティング。
今度は藍の頭上を超えてゆく。打球の行方を追い、確信が生まれ、藍は躊躇なくセカンドベースを蹴った。
今度は貰う、そう思いながら、一直線に目的地を目指す。
三塁コーチャがスライディングの方向を示す。
左側、そして頭から。
思いの外打球処理が速いのだろう、コーチャの顔に焦りが浮かんでいる。
ごく僅かな時間の中、藍の目にはそんな細かい所までが映る。
飛び込み、ベース到達とグラブタッチが重なる。
藍の手の方が下にあった。
藍は飛び起き、小さく拳を握る。
そしてそのまま、二塁に到達している梓に向ける。
梓は普段とは少し違う清々しさを纏っていた。晴れ晴れとした表情で、藍のそれに応えた。
スコアは5-7、点差は二点。
その上ワンナウト、二塁三塁と、同点へのランナーまでいる状況。流れは確実にこちらに向いている。その流れに逆らわず、ただ身を委ねれば良いと藍は思う。
お花畑で舞い踊る娘は自分達の中にはいない。
舞い踊る事は出来るが、足には枷が付いている。その枷が自分達の居場所は陽光降り注ぐお花畑ではないと囁く。
そんな事は解っている。自分達に相応しい場所はそこでは無い。
だが、時にはお花畑へ出向かないといけない時もある。
そこで生まれるのは羨望か、それとも自身への確信か。
羨ましさが無いといえば嘘になる。
出来る事ならば何も考えず舞い踊りたい。だが、それが出来る者ならば、おそらくこの場所にはいないのだろう。
何かを抱えているからこそ、自分達はここにいる。
何かを抱えているからこそ、自分達は繋がっている。
そんな私達だからこそ這い上がれる。
負い目すらも糧に変換し、頂きを目指しただ進むのみ。
たとえ、どんな結末を迎えようとも今は全てが糧になる。恵まれていたのは過去の事、だからと言って今が恵まれていない訳ではない。今は今なりに奇跡的な偶然が紡ぎ出した結果なのだ。
それは歪な形に収まった。だが、それで良い。
正道を征くは己の道に非ず。
私達は、最底辺の挑戦者なのだから、と藍は改めて思う。




