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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Sprouting of qualities : 2 〜 資質の萌芽 〜
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 Birth of the moonarrow : the turquise giant

 ——セカンドやりゃあ良いじゃん。


 何気ない言葉。だがそれは藍にとっては希望の光。

 暗闇から這い上がるきっかけとなった一筋の光は、屈託のない笑顔から齎さられた。

 時に無邪気に、時に不敵に。小柄な少女の笑みはいつも藍の心を騒めかす。


 その日は朝から小雨の降る肌寒い日だった。

 まるで自分の心模様そのままだと藍は思う。

 自宅近辺の小山にはもやが掛かり、圧迫感のある低い空の下、止む気配を見せない雨が国道脇のゴミに落ちている。


 クラブのオフ日と中学校の休みが重なったのにも拘らず、憂鬱さは小山の靄の様に藍の心に纏わり付いている。気晴らしに外に出たものの外気は肌寒く、いつも以上に路端の塵が目に付いた。

 外出した所で気晴らしになんてなりはしない、と家に戻ろうと踵を返した時、ふと藍は思い付いた。


 雨は厭う。だが、この日の様な小雨でこそ映える風景もある。

 気付けば、藍は緑色の車体のレトロな電車に揺られ古都に向かっていた。

 かつての都の名残を残す奥床しい街並みを歩く。

 普段なら選択肢にすら上がらない行為。

 普段とは違う行動をして頭の中の整理整頓をしようという試み。雰囲気を味わうだけの無為。けれど、藍はその無為にほんの僅かだけ心が躍った。


 目的地が観光名所という事もあり、悪天候にも拘らずホームも駅構内も人が多かった。複数の路線が交わるターミナル駅という事もあるのだろう。

 寺社仏閣が多い場所柄か、外国人の姿も多く見かける。殆どが観光目当てなのかな、と思いながら、忙しなく構内を行き来する人々を眺め、目的地も定まってない自分は取り残されている様な錯覚を藍は覚えた。

 全てがネガティブに流れてゆく。

 これではここまで足を伸ばした意味がない。

 沈み込む様な思いに蓋をし、最寄りの寺にでも行こうかと出口を目指した。


 そんな時だった。

 誰かが藍の肩を叩いた。つい反射的に振り返る。

 そこにいたのはどこかで見た顔。

 目の前の少女と記憶の中の少女が重なり、少し遅れてそれが結城碧だという事に思い至る。

 顔も名前も記憶には残っている。だが、面と向かって話した事は無い。何度か試合をした程度の間柄。チームの中で頭ひとつ抜けた存在だったから覚えていただけだ。


「相模原の有坂、だよね?」碧は屈託ない笑みを浮かべた。

「おい」隣にいる、彼女よりも一回り大きな少女が、碧の首根っこを掴み咎める様な目を向ける。「確認しないで突っ込むのやめろって何回言えば解るのさ」

「確認したって」掴んだ手を振り払い、碧は藍に顔を向けた。「な、有坂」

「ええと……」藍は二人を見遣る。「湘南しょうなんの結城さん、だよね?」

「そうそう」碧は頷き、勝ち誇った様な笑みを連れに向ける。「ほらあ、間違ってないじゃん」

「引いてるじゃん」ぽつりと言うと、すぐに居住まいを正し藍に頭を下げる。「姉が失礼をした様で、本当にすみません」 

「いえ……」藍は碧の連れに目を遣る。妹か、と藍は思う。言われてみれば、彫りの深さや目の形など良く似ている。「気にしてないから、別に……」

「なあ、有坂も観光?」碧が割って入る。


 少し逡巡してから藍は一応頷く。外から見られる分には間違ってはいない。


「まあ、そんなとこ」

「へえ、結構良い趣味してるね。一人ぶらり旅とかさ」悪意の欠片もない笑顔。

「なら、尚更邪魔すんなよ」妹が姉を嗜める。

「相変わらず、アカネは小煩いな」

「お前の頓狂とんきょうな思い付きに巻き込まれるのは私だけで良い、他の人に迷惑かけんな」

「なあに? そんなに私が他の人と喋るのが嫌なの、アカネさんは」

「……どうしてそうなる」茜は額に手をやり盛大な溜息を吐く。「本気で帰りたい。けど、有坂さんに迷惑かける訳もいかない。さっさとお前の行きたいとこ行って……」

「……あの、別に迷惑とかじゃないですよ?」


 何故かそんな言葉が口から出た。

 からっとした太陽の下の様な姉妹の会話に魅せられていたのかもしれない。


「ほらあ」碧は妹に向けた勝ち誇った顔を藍に戻す。そこにあるのはただの笑み。「こんな所で会ったのも何かの縁だし、どっか入ろうよ。ほら……」碧は出口の先に広がる小雨に沈む街並みに目を向ける。「外は雨だし」


 つい、藍は吹き出してしまう。

 姉妹の会話からおそらく彼女達、いや、碧の目的もまた小雨の中の古都の観光が目当てだろうと思っていた。にも拘らず、雨が嫌だと姉は言う。それが少し可笑しい。それに拍車をかける様に、妹が頭を抱えているのを見て、自分の予想が正しい事を確信し、さらに可笑しさが込み上げる。


 初めてまともに喋ったが、結城碧は”オモシロイヤツ”という印象が藍の中で形成された。結城姉妹の掛け合いに、細々した事で悩んでいる自分が阿呆らしくも思った。大して知らない相手だからこそ、ぶちまけても噛み砕いてくれる様な気がした。

 別に結城姉妹に何かを期待した訳では無い。

 共にお茶をするのも一興、程度。碧の誘いを好意的に捉えただけ。気晴らし程度にはなるかと判断しただけだ。


 窓の外は情緒漂う小雨の古都。

 路地裏の瀟洒しょうしゃなカフェで甘味に舌鼓を打ちながら、非日常がそうさせたのか、当初の思惑とは裏腹に藍は胸中を吐露していた。


 一つ下にとんでもなく上手い子がいる事。いずれその子に自分は追い抜かれる運命だと思っている事。そして、それを受け入れている自分に嫌気が差している事、等々。

 一通り聞き遂げた碧は、パフェのスプーンを口に咥え一言。


「じゃ、セカンドやりゃあ良いじゃん」


 その言葉をどう受け取るかは人によって違うだろう。

 妹はそう言う問題じゃないと、白い目を姉に向ける。取り様によっては逃げとも取れる。決断する前に自分がどうしたいのかを見定めるべき、と茜は主張した。


 確かにそれはそれで正しいと藍も思う。

 だが、藍は碧の言葉から新たな別の答えを見出す。

 どちらか一人を選ぶ位なら、共存すれば良い。それが出来ない理由は、改めて考えてみると思いの外軽い。何故そんな簡単な事に気が付かなかったのか、と藍は自問する。


 きっとそれは輝かしい才能に対しての劣等感、そして羨望、嫉妬。

 これまでの自分は、一個人でしか物事を見ていなかったのだろう。だから、未来は対立しか描けなかった。けれど、一歩引いてみれば良く解る。一個人の能力は確かに重要だ。だが、野球は九人で初めて成立する競技。自分が遊撃手に固執する理由は然程大きい物ではなく、迫ってくる後輩に明け渡すのが癪というちっぽけな物。

 なんだ簡単な事じゃん、と藍は思う。

 これ迄の靄は碧の一言で吹き飛んでしまった。

 だから、藍は言う。


「そうだね。私、サードやるわ」

「何でだよ!」おそらく内に抱える思惑は違うのだろうが、姉妹の声は揃う。


 この際、もうどうにでもなれと、新しい目で見えた世界を素直に言う。


「セカンドにも有望な子がいるの。私の最低限は内野手。だからサード」

「チーム事情はよく解らんけど、有坂は二遊間のどちらかが適正ポジだと思うけどね」


 碧は少し残念そうにそんな事を言った。

 あれから月日が経ち、今になって思う。

 あの時の碧の言葉の真の意味は、彼女の未来予想図に当て嵌めた場合の藍の居場所に基づいている。チーム事情がそうさせたとも言えなくはないが、碧の見立ては正しく、藍はセカンドを自身の戦場とする事になった。


 藍は碧の言葉で新しい世界を見る切っ掛けを掴んだ。

 そして、自分が引く事によって見えて来るチームの形。自分が自分が、ではなく適材を適所に当て嵌める目、指揮する者としての才能の開花。

 それらが全て、今芽吹いている。


 初めて対戦した時に感じた脅威。

 初めて会話した時に感じた楽しさ。

 彼女の持つヴィジョンの壮大さは、今目の前の敵として藍の前に立ち塞がっている。

 こんなに早く実現するとは思っても見なかった。

 だからこそ、さまざまな思いが藍の中を駆け巡った。

 出会いと別離を超えて、互いが選んだ道半ばでの邂逅。


 日焼けした小麦色の肌、異国情緒溢れる彫りの深い顔立ちと灰色じみた瞳、小柄ではあるがしっかりとした体幹。

 名が示す様な、碧色の大海原の様な存在感を放つ小さな巨人は、緩りとした足取りで立ち上がる。少し顎を上げ、グラウンドを見渡し満足そうに微笑む。

 屈託のない笑顔。

 小さく礼をして左のボックスに足を入れる。

 ボックス内部を足で慣らし、大したルーティンを挟まずに低く腰を落とし込む。空気椅子の様な独特のフォーム。初めて対戦した時から変わっていないそれ。


 とある時、別の選択肢を選んでいたのなら、彼女は自分の傍にいたのだろう。否、彼女の傍に自分がいたのだ、と藍は思う。

 けれど、現実はまごう事なき対戦相手、つまる所、敵だ。

 今の藍には自分が、という考えは無い。

 登板するのなら少しはそんな思いも顔を出すが、それも微々たる物。今の自分の思想は九人対九人の戦いであって個人対個人ではない。自分達で作り上げたチームで持って、碧の所属するチームに勝利する。

 だから、藍は託した背中に改めて声を掛けた。 


「ちろ、後ろを見な、皆いる」


 千彩は口元を上げる。


「解ってるっすよ、アオイちゃん」返してから千彩は大きく頭を下げる。「みなさんお願いしまっす」


 内野、外野から声がマウンドに向けられる。

 これで良い。これが良い。自分が選んだ道は間違ってはいない。

 改めて碧に目を遣る。視線がぶつかる。少しだけ悔しそうな表情。藍にはそう見えた。


「ちろしこ、行け!」藍は呟く様に言う。


 おそらく二人には聞こえない声。けれど、皆が思っている言葉。二人の後ろにいる者は皆同じ表情を浮かべ意思の共有が出来ている。


 碧の纏う雰囲気が真剣な物に変わる。

 揺らりと動いていたバットがぴたりと止まる。

 灰色じみた目が投手を射抜く。

 千彩がセットに入った。

 摺り足の様なモーションから球が弾かれる。

 インコース低めの直球。

 碧は微動だにせず見送る。


「ストライク」主審の荻野が手を上げる。


 一息の間に碧は切り替える。再び沈み込む腰。

 続いて二球目。

 バッテリィが選んだ球は縦のスライダー。

 コースは微妙に真ん中に寄っているが低めぎりぎり。

 初球と同じく、碧は目だけで見送る。

 ボールの宣告。


「良い球ぁ」撫子が声を張り投げ返す。


 そう、良い球だった。

 振ってくれれば、凡打か空振りだった。それを見送れるのが結城碧だ。敵にして本当に厄介、と藍は思う。


 碧のアジャストの範囲は然程広くはない。だが彼女の真の長所はその眼と体躯に似合わない飛距離だ。コントロールミスであれ、狙った物であれ、碧のヒットポイントに来るのであれば、彼女は確実に持っていく。

 藍はその事をバッテリィに伝えていない。凄い打者としか言わなかった。伝えて萎縮しても勿体無い。打たれた結果を問いただされた時に細かい説明をすれば良い。今はただ、立ち向かうだけで良いと藍は思う。


 1-1からの三球目。

 再びの直球がアウトハイに外れる。

 サイン交換は迅速。千彩がモーションに入る。

 弾き出された球が緩やかな軌道を描く。

 碧は僅かに崩されつつも、その強靭な体幹で堪え、点で合わせる。

 金属音。

 打球が舞い上がる。

 だが、振れ過ぎたせいかギリギリ右翼線を切れる。

 相手からすれば溜息が出る様な大きなファール。自分達は安堵の一息だ。

 打たれた千彩はボールの行方を追い、目を丸くしていた。


「凄いっすねえ」


 千彩の口がそう形作る。

 風に乗って彼女の言葉が藍には聞こえた気がした。 


 切り替え五球目。

 千彩も緊迫した試合経験のあるアスリートだ。競技自体の違いはあろうがその空気には思う所があるのだろう。普段の彼女が見せない昂る感情が爛々と輝く瞳に宿っている。

 踏み込み、オーバスローから球が弾き出される。

 全身の力を乗せたストレート。

 それがインローに食い込んでゆく。

 口元に僅かな笑みを浮かべて。

 踏み込む足はさりげなく。

 ただ淡々と、碧はそれを打ち返した。

 響く金属音。

 打球は大きな放物線を描き、右中間を真っ二つに割った。

 打球を追う右翼手と中堅手の背を追い、藍は中継に入るべく位置取りを見定める。横目で碧の動向を窺い、声を張る。


「バックセカン!」


 捕球したのがセンターの梓だった為、言いながらダイレクトを支持。

 ストライク返球がカバーに入った昴の元に届くも、碧はノースライで二塁に到達していた。

 やはり、結城碧は結城碧だと藍は思う。速さと強さだけなら県でもかなり上位にいると判断する千彩の直球を一打席目にして見事に打ち返した。

 こうでなくっちゃ、と藍は口元を上げる。

 立ち塞がる壁は高い方が良い。それでこそ、挑戦しがいのある相手なのだから。

 アームレガースを外す碧の元に忍び寄る。


「綺麗に打ってくれたねえ」

「ったく、なんだよ、あのピッチャ」碧は笑みを浮かべる。「規格外もいいとこじゃんか。末恐ろしいね、まったく」

「でしょう? でも打った相手に言われてもねえ」

「そりゃ打てるさ、私だもん」


 コイツは本当に、と藍は思う。昔から何も変わっていない、自信家のそれ。だが、そこに嫌味が欠片も感じられないのは、藍が碧の事を知っているからだろうか。


「まあ、あんたに打たれた所でまだ一点のリードだし……」

「野球は一人でやるもんじゃない、だろう?」

「そゆこと」

「なら、それを味わうんだな。私がここにいる意味、よく解ると思うよ」碧はちらとホームを見て不敵に笑う。「因縁があるのかもだけど、今は置いておいた方が良いと思うよ」

「……いくらあんたでも、それには触れないで欲しいかな」藍はちらりと昴を窺う。


 少し安堵。昴は千彩と会話していて、おそらく彼女の耳には届いていない。


「だぁかぁらぁ、引きずってんのはオマエラだけだって話。一葉はなんも思ってないよ。あいつは今幸せなんだ。だからさ、全力でぶつかってあげなよ。しがらみは一旦考えない様にしてさ」 

「……」


 枷がある藍は何も答えられなかった。

 多分昴も同じだ。だが、千彩と撫子の二人は違う。そこは幸い。実質的にやり合う二人には枷は無い。試合前に言っていた様に、寧ろ恩返しの感情。

 ならば。


「個人的にその件は保留。でもバッテリィは正々堂々と勝負に行くよ」

「そんで打ち砕かれる訳だ」ニシシ、と碧は笑う。「御愁傷様」

「それはどうかな」


 そう言った藍ではあるが、根拠などどこにもない。売り言葉に買い言葉。藍にあるのはバッテリィが全力で向かって行くだろうという信頼だけだ。

 仕方のない事だ。縁がある以上、妙な所で交差する事だってある。それが今だったというだけの話。いずれ何処かで交わるのだ。今で良かったと改めて藍は思う。


 藍と碧。そして後輩達に纏わり付く相模原の因縁と練習試合にしては含みの多い今この時は、次の段階へとゆるりと移行してゆく。

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