Birth of the moonarrow : moon variant
手に残る感覚が未だに離れない。
余韻に酔いしれる時間はとうに過ぎているのに、と白球を捌きながら藍は思う。
強豪校の名声の力を改めて思い知らされた。ついこの前までは垢抜けもしない中学生だったというのにも拘らず、とんでもない球を投げる乙女がいるものだ、と正直肝を冷やした。
相手バッテリィのストレート押しに乗っかる形ではあったが、昴、自分、梓と安打し二得点。結果としては次第点。
けれど、きっとそれは碧の策略だろうと藍は思う。
大方一打席につき変化球は二球までとかの制限を付けているのだろうと予想。知らない者からすれば舐められているとも取れるが、碧の性分を知っている藍からすれば後輩の育成の一環という事が理解出来る。それ程、相手の先発投手のストレートは魅力的だ。ある意味御膳立てされていたとは言え、あのストレートを打ち返した感覚に、藍は確かな満足感を得ている。
けれど、それは至極個人的な事。
当初のノルマには一点足りない。それは得点を挙げたチームの中核以降では、枷を嵌めた相手投手を崩せていない事を示す。予想以上に相手投手の能力は高く、この先攻略するには中々に骨が折れるだろう。
浸っていた満足感に蓋をして藍は自らを仕切り直す。
相手はその全容すら見せてはいない。少し薄皮が剥がれただけ。こちらもまた曝け出して初めて対峙出来る。ヴェールを脱ぐのはこちらも同じだ。
爛々と輝く目には臆するという感情は欠片も無い。けれど無意識の緊張は流石にある様で、普段に比べて少し動きが硬いと藍は思う。
「ちろぉ」藍は表向き嬉々としたマウンドの乙女に声を掛ける。
「なんすか、アオイちゃん」球を受け取りつつ千彩は応える。
「楽しめ、そこにはそこでしか見えない景色があるんだから」
「よく解んないっすけど、解ったっすよ」
座っていた撫子が立ち上がり、少しだけマウンドに寄る。
「阿呆ちろ。緊張してない? してるよね。それを解そうとアオイちゃんが声を掛けたの。その位解りなよ」
「って言うけど、しこちゃん」千彩は肩を竦める。「それはしこちゃんだって一緒でしょう?」
「別に、私はしてなくない? うん、してない」
「お前らぁ」ショートの位置から昴が声を張った。「緊張なんて慣れっこだろうが。別に緊張してても良いから、臆すんなよ。大丈夫、お前らの後ろには私達がいる」
昴は両手を大きく広げた。
自分達の後ろに広がる景色をその瞳に映し、新造バッテリィは互いに微笑む。
「確かにそうっすね。皆いる」
「私の後ろには誰もいないけどそんなのは慣れっこだし。私は皆の事見えてる方が落ち着くし」
「じゃあ、しこちゃん。ラスト行くよ」千彩はボールを握った右手首を振る。
「うん」撫子が頷き、定位置に戻り腰を落とす。
少し出しゃばったかな、と藍は思う。けれど、グラウンドに漂う空気は普段のそれに変わった。少なからず皆にあった動きの硬さはこれで払拭されるだろう。
さあ、刮目せよ、と藍はほくそ笑む。
ウォームアップ用のボールを外に出し次に備える面々。
セットの姿勢から千彩が投げ込む。
半身で受けた撫子が、そのままセカンドに。
少し逸れたボールを昴が難なく捌き、ベースにタッチし藍にトス。受け取った勢いのままにサードに投げる。サードから流れる様にファーストへ。皆を巡る球はファーストから再びセカンドに戻り、ベースに入った藍の手元へと辿り着く。
藍はその球を抱いてゆっくりと二人が揃うマウンドに向かう。
「初めての試合が強豪なんて、あんたらはツイてる。勝敗なんて後で監督に何か言わせれば良いから、思う存分楽しみな」
「はい!」
「よし、良い声だ」藍は新造バッテリィの背中を叩き、自分の定位置に戻る。
雲は多くなっている。けれど陽当たりは良好。抜ける初夏の風を感じ、藍は今この時を噛み締める。暗所からの手探りで始まった新しい道は、今陽射しに彩られている。見せろ、魅せろと心が叫ぶ。歪な欠片達、けれどそれこそが私達の証明、私達である事の証なのだと藍は思う。
「一回ぃ、シマッテコー」
棒読みに聞こえるのは彼女に慣れていない所為。これで撫子は本気なのだ。少し笑いが藍の中で起こるけれど、それと同時にグラウンドは普段の雰囲気を完全に取り戻す。
果たして、相手の一番バッターは一瞬キョトンとした表情を見せた。
先程、同じ様な事をされたのだ、十分に堪能せよと藍は内心ほくそ笑む。
とは言え、本当に一筋縄ではいかないなと藍は思う。
相手の一番打者は、先ほど更衣室を強襲した碧の傍にいた華奢なメガネ。
あの体躯で打てないキャッチャではないという事か。まったく、強豪は何処まで行っても強豪だ。けれど、今更誰が出て来ようとやる事は変わりはない、と藍は余計な思いに蓋をする。
女帝荻野が片手を上げた。
グラウンドに流れる空気が一段階上に張り詰める。
マウンド上の乙女はセットの体勢で静止。
始動。
猫背気味で首元で抱く様に構えたグラブ。
その位置まで左足が上がる。
頂点から落ちる様に体が流れ、
旋回する右腕。
踏み込み、抱えたグラブ。
真上から振り下ろされる右手に、
全ての力が乗る。
弾かれた球は白い轍となって行くべき先へ。
「ボール」審判の淡々とした声。
斑目とかいう名だったかと、藍は左打席で涼しい顔をしている華奢な乙女に目を向ける。
一番に抜擢されるだけあって目は良い。今の球は平凡な選手なら手を出すだろう。つまり、彼女は平凡な選手では無いという事。各々が持つ高い技術は想定の範囲内ではあるが、全く嫌になると藍は思う。耳に覚えの無い名。在野にこんな選手が眠っていて、強豪校はそんな乙女を見つけ出す。
幸い藍の思惑なぞ露知らず、新造バッテリィは何も気にせず、次々と投げ込んでゆく。
平行カウントまで特段動きはなかった。打者は初回の一番の責務を全うしている。つまり、見る事に徹していた。
ここが勝負の分かれ道。その五球目。
バッテリィが選んだのは直球。
華奢なメガネはその球をいとも簡単にファールした。
これは狙ってカットしたと見るべきだろうと藍は思う。打ち損じでは無い。何かを待っているのか。これまでバッテリィが選んだのは直球とツーシームと縦のスライダー。決め球となり得るチェンジアップはまだ投げていない。
まさか、それ狙い?
いや、と藍は内心首を振る。持ち球の情報が漏れているとは考え難い。だとすれば、全て見るまで粘るつもりなのか。
有り得ると藍は思う。
打席のメガネは、碧の弟子なのはほぼ確定。ならばそれ位はしてくるだろう。
果たして、藍の予想は現実となる。続けて二球をカットされた。
こうなって来ると、新造バッテリィには荷が重いかもしれない。
二人の経験から来る対処法には限度がある。先頭を切りたいのはやまやまだが、それに固執しすぎるのも良くない。相性というものがあるからだ。カウントをフルに使い塁を全て埋めようが、極論、ホームを踏ませなければ良い。守備にはそこそこの自負がある。藍はもう投げちゃえば良いのにと思う。
バッテリィの二人も思惑を同じにしたのか、次に選択したのはその球だった。
急造の投手にしては千彩はフォームの乱れが少ない。直球、変化球共にそこまでの差はない。故にチェンジアップが武器になる。藍も初見では目を剥いたものだ。
それまでの速球と同じ腕の振りで、山なりじみた軌道の球が弾き出される。
藍は腰を落とし、さあ、お望みの球だと口元を上げる。
斑目の身体が動く。
踏み込み、逸れる。
寝かせたバットがその軌道に合う。
短い金属音。
打球は、ピッチャの正面、ややキャッチャよりで緩りと弾む。
まずい、と藍が思った時には既に遅し。
一瞬どちらが処理するかで、千彩と撫子が逡巡した。
その僅かな間が、斑目を一塁まで導いた。
飄々とした表情で一塁ベースでコーチャと談笑しつつレガースを外す乙女に目を向ける。
藍は笑みを浮かべつつも舌打ちする。さすがは碧が選んだだけはある。偶々かとも思ったが、偶然にしては出来過ぎだ。経験不足のバッテリィを嘲笑うかの様なセーフティ。塁線に転がすのではなく、未熟な処理判断の隙を狙ってくるとは。おそらくは二人のフィールディングを確かめる意図もあったのだろう。
当の本人は一塁迄の走り方を理解し且つその脚自体も速い。だからこそのチャレンジとも言えるか、と藍は思う。
これは九分九厘走って来るだろうなと予想。
ランナーを背負った状況は幾度となく二人には叩き込んだ。
とは言え、まだそれは付け焼き刃に近い。ミスを誘発してノーアウトでランナーを貯めるよりは、いっその事勝負させるかと藍は思う。確かに斑目の脚は速い。けれど、千彩の直球も速く、撫子の肩も良い、うまく嵌れば良い勝負になると藍は思う。
ブロックサインで撫子に盗塁警戒と伝える。
藍は横目でランナーを見つつ、打者に意識を向ける。
二番は藤野、二年生。
藍と同じ学年だが、これもまた聞いた事のない名だ。驕っていたのかもと藍は振り返る。自分がいた場所は確かにレヴェルの高い場所だったという自負はある。けれど、そこが全てではなく、名は飛びはせずとも実力がある乙女はいる、という事なのだろう。
もう過去はどうでも良い。自分は今ここにいる。名があろうがなかろうが、相手は強豪と呼ばれるチームなのだ。
ボックス内の藤野はこれみよがしにバントの構え。藍は笑みを残したまま唇を噛む。
「集中、一つづつ取ろう」藍は人差し指を掲げ、声を張る。
意図は伝えてある。騙されるなと藍は願う。
千彩がモーションに入る。
やはりか。
「走った」ランナーを視界に捉え、藍は声を上げる。
打者は右。配球はアウトコース中心。カバーに入るのは遊撃手の昴になる。
藤野は即座にバットを引く。
撫子が捕球と同時に右手を振り抜く。
少し浮いたが昴なら問題ない。
けれどその僅かな高さの差が、斑目を今度は二塁に導いた。
やはり速いなあ、と藍はその華奢な乙女を見ながら思う。盗塁を警戒したバッテリィの速さをくぐり抜けるか。敵ながらあっぱれ。
「速いねえ」昴が声を掛ける。
「いやいや、ギリギリだったじゃんか」メガネが答え、バッテリィの方に目を向けた。「本当に高校からなの?」
「なんで知ってんの?」昴は目を見開くが、答えに辿り着き肩を落とす。「そうか……、カネやんか」
「カネやん?」メガネが首を傾げ、彼女もまた答えに辿り着く。「ああ、金田一の事か」
「誰だよ」つい、昴は突っ込んでしまう。
「ああ、金田一葉の事。相模原で一緒だったんだよね?」
「そうだけど……」二の句を昴は言い淀む。
「あの金田一が警戒してた理由がよく解ったよ」メガネはユニフォームの尻を叩きながら言った。「本当にバケモノなんだなあ」
若人の会話をもう少し聞いていたい気もしたが、今は試合中。主将としての責務を藍は果たす。
「お喋りは試合の後でね」
「おっと、そだね」昴は頷く。
「すいません」斑目は小さく頭を下げた。
ボールが千彩の元に戻る。
藍も昴もランナ・二塁時のポジションに着く。
斑目は相応のリード。
さて、どう攻めて来るかなと藍は想定し得る状況を思い浮かべる。
送るか、ヒッティングか、もしくはエンドランもあり得る。粘って四球で次に繋ぐ可能性もある。後ろに控えるのは我が儘プリンセスだ。失点の可能性はかなり高い。
けれど、ここを切れれば流れはこちらに向くかもしれない。ごく僅かな可能性だとしても零ではない。
「内野、判断厳しく」藍は声を張る。「ちろ、楽にね」
千彩は小さく頷き、目だけ向けて二塁ランナーを牽制、セットに入る。
投手経験は一年未満、けれどそこそこ様にはなっている。
悪くないクイックから右腕を振る。
斑目が走る。
藤野がバットを寝かす
ファーストとサードが前に出る。
少し高めに浮いた直球。
藤野が軌道を合わせるも、捉えられずボールはミットの中に。すかさず撫子がサードに投げる。カバーに入った昴の下へ球が届くのと斑目が滑り込むのが同時になった。
三塁塁審が両手を広げた。
藍は舌打ち。
仮の話だ。
藤野が空振りしていなければ、バットを引いていたら、撫子が眼前に怯まず、送球も乱れなかったら。
たらればは斯くも多いが、タイミングだけならアウトだった。目の前でのボールの行方。捕手経験の浅さが産んだ結果とも言える。
それを裏付ける様に、三塁上で斑目は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべている。昴と二、三言葉を交わし肩を竦める。
気持ちは解るよ、と藍は思う。
初心者から少し頭を出した様な捕手に、危うく刺されそうになったのだ。自身もまた捕手であるからその驚愕は他の比ではないだろう。
とは言え、現状自分達は追い込まれている。
不幸中の幸いか、これ迄の二球でカウント的には追い込んでいるものの、ノーアウトで三塁まで進まれてしまった。
ヒッティング、スクイズと次の状況を考える。藍は内心首を振る。スクイズは無い。おそらく藤野は先の空振りが尾を引いているはず。ミスれば文字通りのアウトだ。その選択は無い。そういう意味ではバッテリィ対打者ではこちらが有利だ。
千彩がセットに入る。
投げ込んだ球は少し逸れてボールになったが、力強い直球。となれば、おそらく新造バッテリィはここで仕留める気なのだろう。
千彩がちらと三塁ランナーを見遣り、セットに着く。
クイックから腕を振る。
見慣れた藍ですら前のめりになる様な感覚を覚える球。
緩やかな軌道で沈んでゆく。
打者は崩され、バットが空を切った。
千彩は小さく拳を握る。
「ナイピ」
内野に声が木霊する。
「ワンナウト」
声と共にボールが内野を駆け巡る。
ワンナウト、ランナ・三塁。
少し不服かと思いきや、お膳立てされた物に敬意を表すが如く、我が儘プリンセスは緩りと立ち上がる。
三番打者最強論。
出塁率の高い一、二番がいるのであれば、確かに効率的だと藍は思う。そしてそれは現実だ。
初回から正念場。
自分に目を向ける二人の乙女に、藍は力強く頷いて見せる。
強大な相手だとしても楽しむ事を忘れるなと願いを込める。マウンドからしか見えないその景色をしっかりその目に焼き付けろと、エースの背中に投げ掛ける。




