表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Sprouting of qualities : 2 〜 資質の萌芽 〜
48/128

 Birth of the moonarrow : the whole picture of the moon

 明け方こそ快晴の空模様だったのにも関わらず、天を仰げばぽつぽつと千切れた雲の欠片が散りばめられている。樹々の稜線から微かに覗く海の上空は鉛色の雲で埋め尽くされていた。夕方あたり雨が来るかもしれない。


 翳る匂いを漂わせた空。


 妙な符合は勘弁してほしいと藍は思う。ふと空を見上げればそこにある雲。朝には無かったそれが、じわじわと侵食してくる様なイメージ。それは心模様と同調し今の気持ちを表している様。

 シートノックは終わりを告げ、試合開始まであと僅か。

 最後の打ち合わせの場で、藍は奇妙な縁を感じ取る。


 隠れて溜息。


 けれど、自分には溜息を吐く資格はない。

 同じ心境、いやそれ以上の枷がある者がこの場にはいる。

 勢いに任せここまで走って来たものの、まさかの過去からの使者に半ば打ちのめされている。そんな心持ちを映すかの様に空には翳りの兆し。


 けれど過去は過去。

 自分までもが枷に嵌められては立ち行かなくなってしまう。向き合うのは試合の後でいくらでも、と藍は気持ちを切り替える。


 メンバ表に目を落とし半ば確信めいた予想が現実となった事を改めて実感する。

 それでも、立ち止まる訳には行かない。自分達は常に歩み続けなければならない。たとえどの様な相手だったとしても、自分達は挑戦者である事を忘れてはならないと藍は思う。せめて自分だけでも、個人的なしがらみを見ない様にして、このチームの指針とならなければとも思う。


「知ってる子いる?」藍は隣の梓に問いかける。

「名前見る限り、スタメンのファーストとセンターは横浜の主軸だったんじゃないかな。二年でレギュラ入りしてたから、二、三回当たった事ある」

「そういう子獲ってるあたりは葉山らしいはらしいか。後は?」

「ううん、その位かな。二年生にはちらほら見知ったのいるけどそこまで記憶にないし」

「豪胆な発言」藍はクスリと笑う。

「え? いや、そういう意味じゃなくて……」

「大丈夫、解ってるから」藍は梓の肩にそっと手を置く。「結局スタメンは殆ど知らない子か。まあ、ノーデータはお互い様だけど」


 梓がメンバ表に目を落としながら訝しむ様に首を傾げた。


「それはそうと、結城碧ってキャッチャじゃなかったっけ」

「うん」藍は頷く。「何か考えがあるのだろうけど、アイツが捕手で出ないのは幸運かもね。あいつがマスク被る前に何点か取っておきたいところだけど」

「一、二回が勝負って事か。まあいつも通りだね」


 藍は頷き、妙に静かになっている小娘達を呼ぶ。

 千彩と撫子はまあ普段通りと言えばそうだが、昴だけは、見ただけで解る程には注意力散漫、過去と手を繋ぎ、今に集中出来ていない。


「スバル」藍は後輩の名を呼ぶ。普段よりも反応が鈍く目を合わせようとしない彼女に向かって檄を入れる。ネガティブな思いに取り憑かれたまま試合に臨むのは、本人にとっても、チームにとっても良い事はない。「思う事があるのは私も一緒。私達は同じ十字架を背負っている。けれど過去は過去で、その張本人が未だ野球を続けていて、しかも目の前に立ちはだかっている。最悪の結末じゃないのは確か、寧ろ最善。なら、私達のする事は何? 負い目を感じ続ける事? 違うでしょ、そんな事してもあの子はきっと喜ばない。あの子は自分で道を見つけたの。私達だってそうでしょ。ならば、私達のやる事はただ一つ」


 藍は顎をしゃくり昴を促す。

 落ち込んでいた目に光が宿る。顔を上げ小さく頷いた。


「ガチでやり合う」

「そう」藍もまた頷く。「私達は選択した。その結果をあの子に見せてやろう」

「……解った」


 藍は残りの二人にも顔を向ける。


「ちろしこも良いね、全力を出す」


 千彩が大きく頷いた。


「もちろんすよ。ヨウちゃんと私らは同じ経験してる仲間っすもん。新しい私を見せて、また昔みたいに笑うっすよ」

「今回ばかりはちろに賛成。私も見せたい。ヨウはそんな自覚ないだろうけど、私はあいつに救われたから。恩返ししなきゃ。うん、恩返しする」

「よし」藍は力強く頷く。


 予期せぬ事態。

 まさか自分達に巣食う負い目とこの場で対峙せねばならないとは藍も想像していなかった。蓋をし続ける事は不可能で、いずれ決着を付けなければならない事だと解っていても、そう簡単に踏み出せる事でもない。

 成るべくして成った縁が呼んだ切っ掛け。

 きっとこれで良かったのだ、と藍は思う。

 躓きこそすれ、立て直し、スタート地点には立つ事が出来た。負い目は消えてはいないが、足を引っ張る要素ではなくなった。これで勝負が出来る。

 取り敢えずの一段落。

 不意のマイナスからのスタートが零になっただけ。詰める部分はまだある。


 各々が準備に勤しむ中、藍はベンチの前で周囲を眺める監督に近付く。

 彼の目線の先に藍もまた目を遣った。一塁側のベンチ後方で肩慣らしをする先発ピッチャの軽やかな動静。幻想かもしれないが、幾度となく修羅場を乗り越えた者だけが持つ風格すら漂っている様に藍には見えた。


「あのピッチャ良いですね、聞いた事無い名前だけど」

「そりゃそうさ。あの子、御両親の都合でずっとチェコにいたらしいから」

「へえぇ、って事はあっちでやっていたんですね、野球」

「みたいだね。いやはや、親父の情報収集能力には脱帽するよ。まさかのヨーロッパとは」慶侑は頬を掻き苦笑する。「しかも、良い投手はあの子だけじゃない」

「ですね」藍もつられて苦笑する。「あの青山も葉山だったとは」


 慶侑が頷き呟く様に言う。


「東京のナンバーワン投手、横浜の主軸に西東京の二遊間。有坂の一つ下の世代の名うての娘がわんさか……」慶侑はちらりと藍に顔を向け、ニヤリと笑う。「嫌になるね」

「キモっ」藍は半歩慶侑から飛び退く。「そういう所が本当に気持ちが悪い。絶対思ってないですよね?」

「……ええと、有坂? キモいは褒め言葉だけど、気持ちが悪いは悪口だからね?」

「なら、言わなきゃいいじゃないですか」


 辛辣な刃の応酬さえ日常茶飯事。

 言葉とは裏腹にそれは本人には全く響かない。だから藍は研いだままの刃を監督に向けられる。

 果たして、何事も無かったかの様に慶侑は話を戻す。


「スタメンの殆どが一年生だけど、そこは葉山。一筋縄では行かない」慶侑は時折見せる鋭い目を藍に向けた。「初回三点。それだけのアドバンテージがあれば皆伸び伸びやれる。取って夜川達に余裕をプレゼントしてやりなよ」

「勿論」藍はこそりと監督の横顔を伺いそれとなく尋ねた。「初回って事は、結城碧の立ち位置からですか?」

「まあ、ね。あの子に仕事させる前に叩く」慶侑は掌に拳を打ち付ける仕草をする。「まったく、効率的だよ、姉ちゃんは」

「?」

「俺が思うに、打者結城は典型的なクラッチヒッタ。普通に考えるならザ・四番な選手。でも今日は三番に入ってる。姉ちゃんはさ、七割三番打者最強主義なの」


 三番打者最強説。

 初回、回るか確定しない四番よりも確実に回る三番に能力の高い選手を置く思想。点を取るという意味では効率的ではあるし藍もまたそれを理解している。


「七割、というのは?」

「残りの三割はロマン。満塁で四番に回るという幻想を捨てられないんだと」


 成る程。

 効率重視かつロマンも捨てない。藍の中で、あちらの監督に好意的な印象が付け加えられる。


「昨今の二番最強説よりは好きですよ」

「へえ」慶侑は感心した様な、驚いた様な顔をした。「効率重視の有坂とは思えない発言」

「そうですかね。効率と合理を突き詰めれば真っ先に削られるのは情。私はそれをしないってだけです。三番はまだ許容範囲ですけど、二番ともなれば二人で得点するって事じゃ無いですか。繋ぐ必要も何もあったもんじゃない」

「極論でしょ、それ」慶侑は笑う。「別に二人で野球する訳じゃ無い。最速で点を取る形ってだけでチームプレイを疎かにしてる事とは違う」

「まあ、私の印象の話なんで、流して下さい」

「誰が何を思おうともそれは個人の自由。何事にも絶対は無い」

「?」


 慶侑の主旨が見えず藍は首を傾げた。


「効率と感情、そのどちらかに傾いても不平は出る。大事なのはその場所での平均であり正義。皆が等しく納得し、皆が等しく妥協する。そうすれば目的の為に皆が同じ歩幅で進める。有坂が仲間を大切にしているのは知っている。けれど、時には厳しい判断をしなくてはならない時が来る。叶えたい願い、達成したい目標の為に何かを切り捨てなければならない時が」

「……解ってます」

「いや、解ってないでしょ」慶侑は笑う。「自分を切り捨てて解ったふりをしているだけ。そんなに難しい事じゃない。段階を飛び越えようとするから本質を見失ってしまう。例えばレギュラ争いにしても、勝つという目的の為なら上手い方が採用される。劣っている方はそのクオリティまで自分を高めれば良いだけ。その事を皆で共有出来れば納得のいかない決定にはならないでしょ。仲間を大切にするというのは、同情とは別の感情だと思うけど?」

「長々とありがとうございます」藍は丁寧に頭を下げる。「監督の言葉で自分が間違ってない事を改めて理解できました。私は大丈夫ですよ。最悪を知ってますから」

「……所々刃が隠されているけど、まあ良いか」慶侑は苦笑する。「このチームの要は有坂だ、君が君でいるなら、このチームは大丈夫」

「……キモっ」藍は身を引き白い目を向ける。「いつもそうやって良い話風に纏め様とする所も気持ちが悪い」

「……有坂の語彙は常に剃刀と同居でもしてるの? 会話してるだけでススキの原を歩いた後の様に傷だらけなんだけど」

「例えがよく解りません。ああ……」藍は手の平を立てて慶侑を止める。「説明しなくても良いんで」

「……」慶侑は口を結び肩を竦める。


 藍も解っている。

 今泉慶侑という自分達の監督を引き受けてくれたこの青年が、相模原に巣食う自己保身と欲に塗れた汚い大人達の対極に位置する事を。彼の言葉は自然と自身に染み込んでくる。納得の出来る明瞭な言葉の数々。信頼があり、尊敬も抱く。ただそれを表現したく無いだけ。壁を挟んだ対等の関係である事が自分の立ち位置だと藍は頑なに思っている。


「さて」慶侑は普段通り、先程までのやり取りをあっさり流す。「結城が三番に入っているのを見ると、あちらさんは初回から仕掛けて来る布陣の様だね」

「つまりは、うちとあまり変わらないって事ですか?」藍もまた普段通りに受け応える。

「ちょっと違うけど、速攻って意味では同じだね。だから相手の出鼻を挫く為にも、捕手結城が出る前に得点を重ね、打者結城の前にランナーを溜めない。これが今日の勝利への最低条件。飛び抜けた才能がいると、策を立てるのが楽しいねえ」


 おそらく慶侑は知らないのだろう。

 注意すべき人物が結城碧だけでは無い事を。


 個人的な事を孕むので言うべきか逡巡した。

 だが言うべきだろう。当時と変わっていなければ脅威は脅威だ。自分を含め最低でも昴は知っている。クラスメイトだったらしい千彩と撫子も同じ舞台に立ち薄々勘付いているのかもしれない。

 ああ、本当に厄介、と藍は思う反面、この場所に居てくれた事を喜んでいる自分がいる。

 折れずに続けてくれた事、敵としてここにいる事。

 そして彼女が望む望まないに拘らず、贖罪の機会が今この場所にある事など、色々な事を含めて。

 だから藍は告げる。自分達の出来る事をする為に。


「注意すべきはミドリだけじゃないですよ」藍はぽつりと言う。

「え?」妙に焦った様な素振りで慶侑は手を振る。「違うよ? 結城だけを危険視してる訳ではなくて、他にも名のある子はいるし、決して油断なんて……」

「別にそんな事一言も言ってないんですけど」藍は敢えて白い目を向ける事もせずに続ける。真面目さの演出。「四番にも気を付けましょう。あの子は元レッズ。しかも一年で四番の座を奪った逸材ですよ」

「そうなの?」


 僅かな安堵を浮かべ慶侑はグラウンドに目を向けた。

 藍もまたその視線を追う。

 セカンドで楽しそうに笑う泣きぼくろが印象的な垂れ目の乙女。

 その柔和な笑顔の下にある強靭な意志の力を伝えておかなければならないと藍は思う。


「昔ながらのセカンドって感じだけど。小柄で小技が上手そうな……」

「……体型を語るならセクハラで訴えますよ?」藍は釘を刺す。「見かけに騙されてはダメです。あの子は典型的な四番。クリンナップの意味そのものです」

「長打はあまり考えられないけど……」訝しむ表情を慶侑は見せる。

「得点圏にいるランナーを返すだけなら別に長打が必須って訳では無いでしょう。まあ、二塁打なら普通に打ちますけど」

「へえ」慶侑は改めて真剣な表情で葉山の二塁手を見遣る。「つまりボールの見極めは的確、ミートが上手くて、且つチャンスに物怖じしないメンタルの持ち主って事か」

「ええ」慶侑の的確な推測に感心しつつ、藍は頷く。

「解った。頭に入れとく」慶侑はグラウンドから藍に目を移す。「相手に脅威を感じるのも結構だけど、先ずは自分の役目をこなす。今の事はチームにも共有させた上で、各々がすべき事をする。印象で相手をむやみに大きくしない事」

「解りました」藍は頷き、改めて頭を下げる。「采配よろしくお願いします」

「……有坂が頭を下げるなんて、なんか怖いんだけど」引き気味に慶侑が言う。

「そういう所も気持ちが悪い」

「有坂、ドイヒー」


 慶侑の言葉をとびきりの笑みで持って受け流し、チームに情報を浸透させる。

 各々がすべき事、守らねばならないチームの規則。若いチームで、練度も低い。やれる事は少ないので、やる事は単純。だからチームの意思は明確だ。


 ベンチの傍で佇む昴からは普段の練習では見せない凛とした空気が滲み出ている。

 完全に切り替えられた様子。

 彫像の様に静止しただひたすらに相手バッテリィの挙動に集中している。

 先頭の昴が出るか出ないかで後の得点効率がかなり変わる。相手へのプレッシャも含めて、彼女が機能しないと話にならない。けれどそんな杞憂は過ぎ去った。

 もう大丈夫、と藍は胸を撫で下ろす。


 開始まではあと僅かだ。

 先方の計らいで、先攻後攻好きな方が選べたのだが、監督と相談の上アウェイらしく先攻を選択した。

 藍はトップバッタの昴の肩に手を回す。

 キャッチボールに勤しむ先発投手に目を遣りながら囁く。


「一年生にしては完成度高いね、さすが強豪。まあ、だからと言って私達がやる事は変わらない」藍は昴を見つめる。「データの無い初回が一番付け入る隙がある。目標は三点だ、先ずはあんたが切り込め」


 内面を切り替えた昴は小さく頷き口元を上げた。


「まかせて」


 いつもの昴に戻っている事を確信し、藍は小さく頷いた。

 勝負は初回どこまで繋げられるかだ。

 この試合色々な意味を孕んでいる。


 これからの自分達。

 これからの彼女達。


 些細な触れ合いだとしても、後に大きな意味を持つ事もある。

 この試合がその先触れでないと誰が言えよう。

 誰しもが何かを抱えている。抱えつつ目的の為に己が歩を進める。道が交差すれば戦わざるを得なく、勝ちも負けも経験には違いない。


 過去は変えられない。

 けれど未来は作れる。


 新しい未来の為に、私達の今を見せなければと藍は自分に言い聞かす。

 ちらりと慶侑に目を向ける。彼は小さく頷く。

 戦いの時は来た。

 藍は一人ベンチの前に立ち、皆に声を掛けた。


「集合」


 威勢の良い掛け声と共に集まる面々。

 皆の表情には気後れはない。強豪を相手に自分達の力を試せる事が嬉しいのだ。

 藍もまた同じ心境。だから静かに口元を上げた。

 皆が藍を取り囲み、ベンチ前で円陣を組む。


 片瀬熊ノ森学園女子硬式野球部、総勢十九名。

 その中心で一人一人に目を遣った後に藍は大きく息を吸い込み、厳かに言い放つ。


「戦う準備は出来ているか?」


 力強い皆の声が返ってくる。


「私達に伝統なんてものは無い。楽しむ心を忘れるな」ユニフォームの胸に手を当て続ける。「私達は最底辺の挑戦者。全てが経験となって明日に繋がる。一欠片すら見落とすな。貪欲に吸収し続けろ、私達は強い!」藍は顔を上げ、空に向かって人差し指を伸ばす。「いくぞ!」

「応!」


 皆が空を指差し、声は一丸となってあたりに木霊する。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ