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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Sprouting of qualities : 2 〜 資質の萌芽 〜
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 Birth of the moonarrow : artemis in underworld

 ここの海は蒼い。


 同じ海でも記憶の中にあるそれとは違い、深さも透明度もより洗練されている様に感じる。

 物理的距離は大して離れている訳でもないのに。隣の芝生だからだろうか。結局はイメージなのだ。蝉の死骸に群がる蟻の様に、水辺に引き寄せられる人、人、人。そしてその残滓が沈み澱んで悪臭を放つ。


 実情を知らないから綺麗に映る。

 実情を知っているから醜く映る。


 知ろうが知るまいが海は海、それ以上でもそれ以下でもない。

 解っていながらも嫌悪感は抜け切らないし、その反面綺麗だとも思える。

 矛盾もいい所だなと、車窓を流れる景色を見ながら有坂藍は思う。


 出来る事なら綺麗なものだけを見ていたい。

 けれど、世界はそれだけでは出来ていない。

 醜い物なんてそれこそ、腐る程、いや既に腐敗し悪臭を漂わせてそこら中に転がっている。

 それを見ない振りをして過ごせる程、自分は純粋ではなくなってしまった。けれど、それで良い。知らないよりは知っていた方が何倍も価値がある。

 潔癖なのはそう。

 でもそれは自分の質の話で至極個人的な価値観の話。社会的な立場、つまりチームにおける”主将有坂藍”という存在には清濁併せ呑む度量が必要なのだ。


 そもそもの話、成り立ちから歪なのだ、このチームは。

 けれど、チームはチームで、歪であろうが自分にとっては居心地の良い素敵な居場所。他の者にも同じであってほしいと願う。だから、たとえ誰が何を抱えていたとしても、自分は受け入れられると藍は思う。


 未だ、それは成し得ていないけれど、その時は近い。

 そしてこの試合は、漸く形を持った”新しい私達”にとっての第一歩、真のチームになる為の足掛かりだと藍は朧げながら理解している。

 本当はもう一欠片この場にいて欲しかった。現実的な戦力という意味でも、精神的な繋がりの確認という意味でも。


「昨日さ、行ってきたよ」隣に座る梓が言った。「悔しがってた」

「そう」藍は車窓を眺めたまま答える。「私も一昨日顔を出したよ。悔しがってた」

「まだ時間はある。すぐに戻って来るさ。顔色前程は悪くなかったし」

「そうだね。自分の事あまり話さないヤツだけど、強がりじゃない事位は解かるし、っていうか阿呆だし。良い報告したいね」

「勝ったら勝ったで、悔しがるんだろうけどね」

「だねえ。私が出てたら二勝目だったのにとか言いそう」

「ああ、有りえる」


 顔を見合わせ、二人で声を殺しながら笑い合う。

「あいつが帰ってきた時、私の居場所はどこって困惑するくらいの土台を作っておかなきゃ。現実的な土台と……」藍は真剣な眼差しを梓に向ける。「心の共有」


 力無い笑いと共に目を逸らす。表面だけの肯定。

 やはり、と藍は思う。

 今一番重い枷を背負っているのは梓だ。


 藍からすれば他愛のない事ではある。

 けれど、本人が感じる重さは本人にしか解らない。

 自分はどんな事であろうと受け入れる覚悟はある。梓には事あるごとに何でも言ってと伝えてはいるのだが、未だ胸襟を開いてはくれない。それだけ重いのだろうなと思う反面、少し寂しくもある。


 チーム立ち上げの時にある程度梓の身に起こった事を知った。

 梓にも悪い部分があるのは確かだけれど、周りにも問題があると藍は判断した。そもそもいくら実力があったとしても、毛嫌いする様な人間をわざわざチームには引き入れない。引き入れた時点で受け入れられたと思っても良いのに、と藍は思う。

 心模様は人それぞれ。ままならないな、と藍は内心独言る。


 バスは海岸沿いの国道をひた走った後、途中で左に折れ海から遠ざかる。

 目的地はもう少し先。車内放送が次の停留所を告げる。

 運転手の捕捉が続く。耳に心地良いテノールの声音。


「うひッ」


 後ろの席から素っ頓狂な声。歓喜が滲み出ている。


「いやあ、堪らんち。出来れば私服はシャツにカーディガン、タイ留めはブローチ、萌え袖」

「要望多くない? 多いよね。っつうかスバルはオジ様好き?」撫子が若干引いた声を出す。

「いやいや、しこはまだ解ってないな。あの渋声聞いたら、そうなるでしょって話」

「解らん」

「ちょっと解る」千彩の声も混ざる。

「だよなあ、ちろ」


 盛り上がってきたのか声のボリュームが二割増。

 公の場だ、流石に看過出来なくなり、藍は少し腰を上げ後ろに顔を出す。


「ここはグラウンドじゃねえ」満面の笑みを浮かべる。


 息を呑む小娘二人。更に後ろにいた千彩は既に顔を引っ込めている。

 釘は刺した。あと少しで降りるべき停留所だ。元気なのは良いけれど場は弁えてほしい。再び椅子に落ち着き藍は溜息を吐く。


「若人のお守りは大変だなあ」梓が言う。

「なら、アズサも手伝ってよ。あいつらほんと手が掛かる」

「いやあ、私は、ほら……」


 おそらく口が悪いとでも言いたいのだろう。

 なんだかんだ言って、もう一年近く接している。梓がどんな人間なのか藍は理解している。時々口から溢れる心ない言葉、それを本人が気にしている事含めて。


「別に何言ってもあいつらは気にしないよ。自分で思ってるより、君は後輩達に慕われてる」


 梓は力無い笑みを浮かべただけで何も答えなかった。

 事実を口にしたつもりだが、言葉だけではまだ響かない、と藍は思う。

 一年生が入って少しだけ環境が変わった。もう少しという実感はあるのだけれど、最後の一押しに手こずっている。


 バスが減速する。

 気付けば辺りからは海辺の様相が立ち消え、雑な緑の目立つ市街地に変わっていた。

 藍は椅子の手摺りを掴み立ち上がる。

 小声で後ろに向けて降りる事を伝えた。


 走り去るバスの後ろ姿を横目に周囲に目を向ける。

 自分の通う学校もまた小高い丘にある。緑も多い。同じ様な景色ではあるけれど、こちらの方が緑が濃く、足を伸ばせる距離とは言え、海の気配はまるで無い。

 藍は何だか新鮮と見慣れぬ空気を思い切り吸い込む。振り返り全員をその視界に収める。


「全員いるね。ここからは歩きだから。それと……」小娘達に照準を合わせる。「ここはお外だ、グラウンドじゃねえ。迷惑行為したヤツは試合には出さないからな、覚悟しろ」


 身に覚えがあるのだろう。小娘三人衆は背筋を伸ばす。

 この位釘刺しとけば問題も起こるまいよ、と藍は内心ほくそ笑む。

 信頼のおける同学年の子に先導を任せ、藍は最後尾につく。後ろから監視する算段だ。これならもう悪戯小娘達も何も出来まい。


 見慣れぬ風景に目を遣りながらも、視界の端にはチームメイトを入れつつ緩い坂道を登る。

 緑はより深く山の様相。振り返れば樹々の合間から洒落た家屋が幾つかと、何らかの施設なのだろう、白い大きな建物が見えた。緩めの傾斜の所為か、建物の角度か、目に映る光景に海はない。顔を戻せば白い学舎が緑の端に見えている。


 そこへ続くであろう道とは反対方向に伸びる坂道に歩みを進める。

 道は林道じみている。新緑でも被されば薄暗く、端には取り残された枯れた草葉が疎らに積もっている。

 後ろから車のエンジン音。

 皆を誘導し道の端に寄せる。ゆっくりと車が通過する。監督の車だった。気の抜けたクラクションを鳴らし過ぎ去ってゆく。


 戦場は近い。

 森の稜線からネットが貼られた高い鉄塔がはみ出している。

 入り口と思われる場所は殺風景。申し訳程度の木製の囲いの中にプレハブ小屋とトイレが隣接している。バックネット越しのグラウンドからは怒声じみた声が漏れていた。


 皆を集め、最終確認。

 今度は先頭に立って、グラウンドに向かう。

 こちらの気配を察したのか、グラウンドの乙女達がベンチ前に集合する。皆の目がこちらに向く。


「きびきび歩く」前を向いたまま藍はそれだけ言う。 


 砂利の地面と黒土じみたそれとの境界線を跨ぎグラウンドに入る。

 皆を整列させ声を張る。挨拶と名乗り。監督がゆっくりと傍に来る。


「お疲れさん。着替えとかは入り口にあったプレハブ使って良いそうだから、準備して集合。道具出し何人か手伝ってくれると嬉しい」


 少し思う事もあり、藍は梓を誘いその役目を買って出る。

 荷物を小娘達に託し、監督に付き従う。自分達が来た入り口とは反対方向の入り口に車を停めてあるらしい。今、藍がいる場所は三塁側のベンチ付近なので、バックネットの裏を周り一塁ベンチの裏を通る事になる。鳴海大葉山の面々を拝むチャンス。彼女達がどんな表情をしているのか、戦いは既に始まっている。


 ちらりと横目で確認。

 初見はこれぞ強豪という顔。皆が自信に満ち溢れている。だが、どこか清々しくもあり、何かが吹っ切れた様な感じ。監督の話を思い返し、得心。改めて盗み見れば、そんな表情をした娘もいれば、苦虫を噛み潰した様な渋い表情の娘もいる、前言撤回、現状は少しちぐはぐな印象、と上書きする。


 その中で一人異質な不敵な笑顔を見つけた。

 やはりいた。まあ、当然ではある。


 結城碧は、傍に侍らせた黒髪ショートボブの華奢なメガネっ子を小間使いの様に扱っている。

 相変わらずか、と藍は思う。

 変わってない事が妙に感慨じみた思いを抱かせる。そんな個人的な感傷に蓋をして一選手として割り切り、改めて他の面子を見回す。


 見れば見るほど豪華なメンバだ。

 代表歴のある捕手、荻野美羽に、エースの上条翔子。シニア時代から名を馳せる坂巻橙子に、藍が思う、同世代ナンバーワンのショート、千家知沙。同じく強豪シニアのエースだった笹川雪もいる。他にも名実ある娘がちらほら。目が眩む様な華々しい面々。彼女達と戦えると思うと、やはり愉しい。主力は出ないとしても、そんな彼女らと日々を過ごしている娘達だ、期待せずにはいられない。自然と口元が上がっている自覚がある。


 ふと違和感、と同時に既視感を藍は覚える。

 だが、その主張する違和感が後者を呑み込む。

 女帝と噂される荻野美羽の傍に佇むすらりとした女性。薄茶色の髪を靡かせ、スカジャンを纏い細身のジーンズに黒のパンプス。

 あれが噂に聞くダメダメな監督かと藍は妙に納得する。

 公式戦ではないとは言え、場違いにも程がある。凡そ、グラウンドにいるべき格好ではない。


「あの女の人……」前を行く慶侑に尋ねる。「あれが例の監督ですか?」

「え?」慶侑が振り向く。その目が葉山のベンチに向く。「例の、ってのがよく解らないけど、監督は監督だよ」

「前に言ってた、ダメダメな人」

「違う違う、それじゃない。新しい監督だよ」言いながら声のトーンが落ちてゆく。


 そうなのか、と藍は驚きを呑み込む。

 事前情報と先入観に持って行かれたらしい。監督の言葉が事実である以上、上書きは容易い。


「女性でしかも若い監督なんですね」


 藍としては見たままを口にしただけで、他意のない発言をしたつもりだった。けれど慶侑はそう取らなかった様で、普段あまり見ない深刻な表情をした。


「今、ちょっとバカにした?」

「まさか」藍は首を振る。「もしそう取られたのなら謝ります」

「リスペクトは怠らない。いつも言ってるけど、今日は特に皆に徹底して。失礼があると俺が困るから」

「なんで監督が困るんです?」梓が直球で尋ねる。

「あちらの監督は今泉理香、俺の姉ちゃんなの」引き笑いをしながら慶侑は続ける。「だからさ、何かあれば後でしばかれるの俺なのよ。怖えんだよ姉ちゃん、あの格好見たら何となく想像つくでしょ?」


 それはそれで失礼ではないのか、と藍は思う。

 場を度外視すれば、実際綺麗系の顔立ちにその服装はよく似合っているとは思う。と同時に、合点がいった。成る程、先程の既視感の正体は血縁故の相似、そしてその繋がりがあるからこそ、容易たやすくこの日の練習試合が成立した訳だ。親子ではなく姉弟の繋がり。ホント、人の縁って面白いと藍は思う。


 監督の車まで赴き道具を出す。

 三塁側のベンチ前に並べ、着替え終わった娘達と入れ替わりでプレハブに向かう。

 着ていたジャージを脱ぎ捨てユニフォーム姿になる。

 練習着で良いとの事だったので、試合用と比べて白が少し燻んでいる。そんな些細な事に目がいった。もしかして少し緊張しているのかもと藍は思う。両頬を軽く叩く。梓が目を丸くしていた。


「どうしたの?」

「何でもない、ただの武者震いみたいな物。アズサは緊張しないの?」

「私は試合では緊張しないから」


 含みのある陰った笑みに見えるのは自分の先入観がそうさせるのだろうか。そんな事を考えていると、扉がノックされた。

 声を掛ける。

 誰か忘れ物でもあったのだろうか。そそっかしいのも結構いるので、まあ、有り得るな、なんて思っていると、徐に扉が開き記憶にある不敵な顔が堂々と入って来た。


「オ ヒ サ シ ブ リ」


 機械音に似せた抑揚のない声音で結城碧が口元を上げていた。

 元は色白な筈なのに、程良く練習焼けした小麦色の肌。艶めくショートの黒髪。彫りの深い顔立ちの中、綺麗な二重瞼の灰色じみた瞳が真っ直ぐに藍を射抜く。


「何で有坂がここにいるのかなあ?」

「久しぶりね、ミドリ。元気そうで何より」

「そりゃどうも」碧は片目を瞑り片頬を上げる。腕を組み少しだけ顎を上げた。「で? こっちの質問には何て答えてくれんの? ねえ有坂……」


 挑発的な物言いは突如後ろに引っぱられ虚空に散る。


「ミドリちゃん。知り合いとは言えいきなり喧嘩腰ってダメでしょう」


 碧の首根っこを掴み、我が儘プリンセスを嗜める華奢なメガネ。


「おま、首根っこ掴むなってあれ程言ってんのに……」

「ミドリちゃんが阿呆な行動するから仕方なくです」メガネは溜息を吐く。「他校の方の前で恥ずかしい事しないで下さいよ」

「おいおい、恥ずかしいって……」

「普通、更衣室に突撃なんてしませんから」


 至極その通り。

 けれど碧を知っている藍としては、彼女の行動も仕方ないで済ませられる。なので付き添いも大変だなあ、と場違いな感想さえ出てくる。


「ちょっとだけ、ちょっとだけだから」碧は人差し指と親指をくっ付け、両目を瞑る。


 盛大な溜息がメガネから漏れた。藍に向けて申し訳なさの宿る目を向けて、小さく頭を下げる。

 何となく、少しお付き合いお願いします、と言われた気分。そう藍は勝手に妄想し、勝手に承諾する。


「で、何? 私がここにいる理由だっけ」


 ぱあっと碧の顔に笑みが広がる。それがすぐに挑戦的なものへと変わった。


「そうそう。私の誘いを断った女の心中は如何に」

「……あんたにしては難しい言い回し知ってるね」

「おま……、失礼だな」


 藍は一息入れる。どう答えようかと逡巡する。だが相手は碧。目の前のこの娘は頭も良い。きっと解る。だから一言で良い。


「しがらみなんてクソ喰らえ」

「……ふうん、なるほどね」碧は口元を上げる。「で、出来た? 自分の国は」

「ええ」藍は優雅に微笑む。

「だろうね。聞いたよ、勝ったんだろ? 聖陵に」

「あんなのは勝ったとは言えないけどね」

「まったくさ……」碧は付き添いのメガネを外に押しやり自分も体半分外に出す。そこで立ち止まり首だけ傾けた。「私、千家、有坂。そして小山内おさない小鳩こばと。この四人で天下取る計画がお前の所為で全部ぱあだ。責任とって自害させてやっから……」


 言い切る前に、碧はまたしても体勢を崩される。


「言い方! 言葉選びは慎重に」


 藍は口元を上げる。あの我が儘プリンセスを相手に堂々とした立ち振る舞い、良い後輩に恵まれたじゃないと微笑ましく思う。

 一応補足というか、訂正をしておく。


「私の所為じゃないでしょ。小鳩ちゃんは自分の意思で関西に行ったんだし」

「いいや、お前がここに来てたら違ったね」捨て台詞の様な言葉を碧は吐く。

「たらればは非生産的って、いつもミドリちゃんが言ってるじゃないすか、もう」


 藍が思った事をメガネが代弁してくれる。全くもってその通り。過ぎ去る背中に声を掛ける。


「私がここにいる意味、しっかりとその目に焼き付けなよ、ミドリ」

「後で泣いても知らないかんな」


 後輩に引きづられながらも、碧は満更でもない顔をしていた。

 これで良い。

 個人的な事だとしても今の自分達を見せる相手としてこれほどの相手はいない。益々楽しくなってきた。

 先程まであった武者震いじみたものは既にない。

 戦う準備は出来ている。

 後はその志を皆で共有するだけだ。

 今は結果を見ずに目の前の事に全力をぶつける。静観に徹していた梓に目を向ける。この思いがどうか届きます様に、と藍は盟友に小さく頷き、両の拳を握った。

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