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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Sprouting of qualities : 2 〜 資質の萌芽 〜
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 Birth of the moonarrow : awakening of indigo

 陽光が降り注ぎ海原は瞬いている。

 深い青の水平線。右端に小島の緑が少し見える。潮風がここまで届かないのは幸いだ。家族の様に傍に寄り添う海は既に自分の一部と化している。だから、ふとした時にそれを感じれば否応にも思い出してしまう。海と縁遠い人達は羨むけれど、この街で育った自分は海に対してあまり良い印象を抱いていない。


 盛夏の人混み。ゴミまみれの浜。中身を垂れ流す空き缶、汚れたビニル袋。排気ガスに塗れた国道の傍で熟成を続ける人々の残滓。


 観光地なんてクソ喰らえ。

 一夜限りだから享楽だけ持って帰る。漏れた残滓ざんしは積もって重なり、それは今も視界の端でうごめいている。

 折角の晴れ舞台を前にして、そんな悪いイメージが脳内で飛躍し、上っ面の煌びやかな風景を濁らせてゆく。

 はしゃぐ小娘を視界に捉え、有坂ありさかあおいはアンニュイな溜息を吐く。


 私は潔癖なのかしら。


 そんな疑問を打ち砕く喧騒。淑やかさを上書きする賑やかさは、うんざりする反面、期待もせざるを得ない。

 原石も原石。

 けれど、磨いていない状態でも輝きを見せるのは飛躍の確約。最後の欠片が埋まり漸く自分達はスタートラインに立てたと考える事で、連想された昏い印象を払拭する。


「アオイちゃん。やっぱりどことなく潮の匂いがするっすよ。まじ海パないす」目に掛かる位まで伸びた前髪の奥で大きな目が輝いている。彼女が感じた偽物の潮風で明るい茶色のショートカットが揺れる。

「別に感じなくない?」眉にかかる前髪を真横に切り揃え、肩口まである黒髪をルーズなシニヨンに纏めた細身の乙女は目を閉じ風を味わう。「感じないよね?」

「いいや、ほんの少し、ほんの少しだけ私は感じたっすよ、しこちゃん」

「なら、いつものちろの勘違いだわ」


 騒がしい、と思いつつも藍は自由奔放な小娘達に僅かな羨望を見出す。

 きっとこの様に振る舞える事が少しだけ羨ましいのだろうなと自己分析。とは言え、望もうにも自分には出来やしまいと肩を竦める。自分はああはなれないと藍は思う。


「ほらあ、ちろもしこも遊んでないでアップ始める」黒目がちな一重の大きな目を細め、小柄な乙女は自分よりも大きなはしゃぐ小娘達の首根っこを掴む。小さな丸顔を覆う、やけに重く見えるショートボブを揺らし溜息混じりに言葉を落とす。


「念入りにやりなよ。途中で足ツったら、鼻スパさせっから」

「とか言ってスバルはそんな事させないの私知ってるから」ちろと呼ばれた茶髪が軽口を叩く。

「しっかりアップしてても、つる時はつるよね? それって疲労だよね。うん、疲労だって」勝手に納得し、しこと呼ばれたシニヨンも反論する。

「おい、てめえら」スバルと呼ばれた可憐な乙女は、その風貌からは想像出来ないドスのきいた声を出し二人を掴む手に力を入れる。


 悲鳴じみた声。


「や、やります」二人の声が重なる。


 二人を解放しアップを始めるのを確認した後、スバルは盛大に溜息を吐く。彼女達を横目にゆったりとした足取りで藍の元にやって来た。


「ホントに良いの?」

「何が?」藍は尋ねる。

「私達が出ちゃって」

「良いんじゃない。監督だってそう判断したんだから」

「と、言ってもさあ」スバルはちらとアップに勤しむ二人に目を向けた。「あいつら素人に毛が生えた様なもんだよ。それを……」

「でもスポーツ経験者でしょ。それに練習見てたら出来る出来ないは解るから」ふう、と藍は息を零す。「私もまだ根幹には残ってるけど、ここは相模原じゃないの。当たり前ってのは場所によって違うんだから、良い加減慣れなよ。ここにさ」

「まあ、アオイちゃんが言うなら良いけど……」スバルは二人を見つめ頬を掻く。「私は心配だよ」

「あんたは過保護なだけ。フォローなら私らでやればいい」

「まあ、それはそうなんだけどさ。引っ張ってきた責任っていうか、ねえ」

「確かに足りないものの方が多い。でもそれって他の皆にも言える事。なら、この先を考えて経験を積ますのが良くない? 実際この短期間であの娘達はここまで仕上げてきたんだしさ」

「言ってる事は解るよ。でもさ、先輩方の思いっていうか……」

「だから、ここは相模原じゃないんだって」藍はくすりと笑う。「ほんとスバルは気にしぃだね。あんま他人の心配ばっかしてると禿げるよ?」

「はは」スバルは乾いた笑いをする。「そんなんで禿げてたら、私の頭は既に伐採後の裏山だって」


 藍は誘って良かったと心底思う。

 烏合の衆じみた集団を纏めるにはそれなりの才能が必要だ。一目置かれる個性と自己を押し殺した客観的な視点。目の前の後輩には、その片鱗が見え隠れしている。自分がいなくなっても彼女がいる限り安泰だ、なんて事を思う。だから何気ない発言だとしても、スバルの言葉に藍は期待をしてしまう。


 とは言え、自分がいなくなるのは当分先で、スバルもまだまだ伸び盛り。期待がある分、完成形は想像を超えて欲しい。故に、背中を押すのも先輩の仕事だと自身を納得させ、藍はあえて突き放す。


「メンタル強いって言いたいのなら、この位さっさと呑み込みなよね」藍はそこまで言って、ゆっくりと立ち上がった。腰を押さえ胸を開く。「さて、と。私らもアップしますかね。出発まではまだあるけど、しっかりと身体、起こしておかなきゃ」

「だね」肩を回しながらスバルは言う。「高校のデビュー戦、というか、人生で初めての野球の試合がまさか葉山となんてね、あいつらやっぱ持ってんなあ。でも、もし勝てたのなら、アオイちゃん神奈川の新女王候補に踊り出る、だね」

「さあ、それはどうだろううね」藍は淡々と答える。「監督から聞いたけど、なんか部内で揉めたらしくてさ、その調整みたいな事言ってた。だから多分あっちは主力は出ないんじゃない」

「じゃあ、思ってたよりは勝機はあるのか。……いや、無理か、ちろしこだもんなあ」

「無理、と思っていたら勝てないよ」藍は即座に返す。

「……ああ、そうだね。ごめん。どうもネガティブになりがちだな、私は」


 かつての場所が生み出した、楽天家と心配性が同時に存在するという危うい均衡。些細な事で彼女の天秤はすぐに傾く。この解消が第一の課題かと内心藍は思う。


「仕方ないとは言わないけど、もうここは相模原じゃないんだから、普段のスバルを出せば良いよ。あんたの弱点は考えすぎる事。まあ、悪い事じゃ無いけれど、何事もやり過ぎは良く無い。ここに来た事間違いじゃないって証明するんでしょ?」

「そう、だね」スバルは一つ頷き、両手を握る。「あいつらに混ざってくる。勝者のメンタリティ注入してやるんだ」

「へこますなよ? 試合前だから」

「解ってるって」そう言ってスバルは走り出す。


 切り替えの速さも彼女の美徳。それは元々のメンタルが強い事の証明。ならばそこまで危惧する事もないのかもと藍は思考を軌道修正。結果静観に落ち着く。

 ふと、後ろを見れば、自分の仲間達がポツポツとグラウンドに姿を見せ始めていた。


 思い返せば奇跡に近い。


 あの”クソの様なシステマティックな生産ライン”の全貌が明らかになった時、自分の中で何かが変わった。壊れた、と言ってもいい。期待して赴いた観光地が予想以上に稚拙だった時の様な裏切られた感。地元の海岸の印象と似ている事に気付き、無理をしてまでそこに居続ける事の意味を見失った。


 試合を通じて交流のあった娘から誘われはしたのだが、決まって目指す所は高い場所。気の乗らない藍は、あえて自分を試す賭けに出た。自暴自棄とも言える衝動で、野球部の無い地元の高校を受験した。

 何も高校の部活だけが野球ではない。失くしてから気付く気持ちが本物ならば、その時また自分は動き出す筈だ。降り立った場所グラウンドが自分の居場所。そんな思いを胸に迎えた昨年の春。奇跡が藍に舞い降りる。


 いる筈のない娘の姿を見つけ、つい藍は手を伸ばす。

 それは予感。それは天啓。誰かが藍に差し示したもう一つの道。


 説得の毎日を過ごすうちに藍は自分の気持ちを確信した。それが解れば、行動はより加速する。悪い事が続くと言う言葉があるけれど、その反面、良い事だって続く事もある。肩を並べた二人の乙女の前に更に差し伸べられるもう一つの手。

 三人で始まった無謀とも言える挑戦はやはり暗中模索。

 出来る事だけを突き詰めていった結果、なんとも歪な形になった。それでも、尖ったそれは何故か人の心を掴み取る。

 軽い気持ちで片足を突っ込み、気付けばどっぷり浸かっている。助っ人として参入し、あっという間に虜になった者もいる。


 道は歪んでいる。けれど、溢れ落ちそうな荷物を抱えたとて進めない程ではない。アスファルトで舗装された選ばれた者だけが通れる道も、結局は同じ所に続いている。


 風が吹く。

 潮の気配なんてどこにもない。なんとも清々しい気分。藍は一人口元を上げる。


「お、早いね」


 声が届き、藍は振り返る。

 盟友であり相棒。原初の一人。赤茶じみたベリィショートの下、瀬名せなあずさの長い睫毛に縁取られた大きな垂れ目が遠くを見据え細くなる。


「ふうん、今日も今日とて若人のお守り?」

「あの子らはまだまだ監視が必要だもん」藍もまたグラウンドに目を向ける。 

「活発なのは良い事だけど、調子づくと怪我しやすいから、まあ、心配か」

「まあ、ね。今怪我されるのは避けたいし」

「ごもっとも」


 梓はエナメルバックを置きに一旦その場から離れる。再び戻って来ると怪訝な顔を藍に向けた。


「もしかして、漸くここまで来た、とか思ってない?」

「別に」藍は呟く様に答える。目線は後輩達に向いている。

「あのねえ、聖陵に勝ったのは事実。でもあれはBチーム。今日の葉山だって荻野さん達は出ないんでしょ。うちらはまだスタートラインに立ってない」

「いや、スタートラインには立ってるよ」藍は梓に目を向ける。「試合出来る所まで来た訳だし」

「そりゃそうだけどさ。でも本当に望む場所はその二つと肩を並べた先、でしょ。主力が出ないなんて相手にされてないって事。その時点でお察し」

「調整って話だけど、実際は解らないよ? 監督がさ、吹っ掛けたらしいんだね、今の葉山になら楽勝だって」

「マジ?」梓は半笑いで固まる。

「まじ。らしくないとは思うけど」

「だよなあ。つまりそれって父親に喧嘩売ったって事でしょ? 俄には信じられないなあ」

「それは違うよ」藍は噛み砕いて説明する。「監督のお父さん今療養中なのね。で、代わった監督がダメダメらしくてさ」

「へえぇ。にしても、あの監督がそんな事言うとはね。少し見直したよ」

「監督曰く、実力の伴ってない、意識だけは強豪校の監督。なんでも選手の扱いが酷いらしくてさ……」

「つうかアオイ詳しいね。何でそんな事まで知ってるのさ」

「え?」藍は首を傾げる。「聞いたから。卑下する訳じゃないけど、だって私らだよ? 同好会とかならまだしも、いくら近いとは言え、何で全国区のチームがこう続けてうちと試合するんだって気にならない?」

「まあ、確かに」

「アズサはさ、野球以外にもも少しアンテナ張った方が良いよ?」

「それを言うなら、アオイは張りすぎだと思うけど?」


 二人の目線がぶつかる。破顔。そして笑い合う。

 藍は拳を差し出す。


「相手がどうであれ、今日も勝とうね」

「だね」梓も自分の拳をぶつける。

「さ、アップしちゃおう。ちろしこの調子見なきゃだし」 

「だな」


 そう言って二人はストレッチに勤しむ。

 藍には朧げだが勝ち筋が見えていた。それは酷く心細いものではあるのだが、筋は筋、引き寄せない道理はない。終盤はどうなるか解らない、という不確定要素はあるにせよ、始まりはおそらく主力を除いた一二年主体。そして相手は所謂強豪校。それなりの経験を持つ猛者が蠢いている。

 なればこそ、セオリーの通じない素人が、相手の予想の斜め上をいく可能性が高いと踏んでいる。あちらが監督の言葉通り、調整に重きを置いているのなら、勝ちに拘らない筈。主力が出ないのであれば、そこそこの勝負が出来るのではと藍は思う。


 互いの両手を握り、足首を隣り合わせて脇腹を伸ばす。

 心地良い負荷に身体が覚醒してゆく。


「あ、そうだ。じゃんけんしよう」唐突に梓が言った。

「え?」


 不意に握った手が離れ、体勢を整えつつ相手を見ると、梓は不敵に笑っていた。


「はーい、じゃーん、けーん……ポン」


 ついつられて藍は手を差し出す。

 藍はチョキ。

 梓はグー。


「はい、私の勝ち」梓は口元を上げた。「今日、アオイがキャッチャね」

「ちょい待ち。私ら今日投げるの?」

「形になるって言ったってちろしこのフォローはしなきゃでしょ。一二年とは言え葉山は葉山。結城碧がいるんだぞ」

「まあねえ。アイツが本気出すなら考えなくはないけど、ミドリは結構サボり魔だからなあ」

「知り合いだったっけ」

「まあ、そんなとこ。受験の時アイツに誘われたの。一緒に葉山行こうって。そんで、毎日私に味噌汁作ってくれって」

「はあ? それって大昔のプロポーズじゃん、なにそれ」


 藍は遠い目をする。


「アイツは言葉通りの事を言ってる。そういうヤツなのよ。毎日味噌汁作れ、イクォール、私の世話をしろ」藍は昔を思い出し苦笑する。「我が儘プリンセスなのよ昔っから。酷い気分屋だから、気が乗らなければ、おそらく試合には出ない」

「まさか」梓は目を丸くする。「そんな事許されるの? 葉山みたいな強豪で?」

「口もうまいんだ、これが。しかも理に適ってるからアイツの意見は割と通ってしまう」

「あ、そう。プレイ以外でも凄いんだな、結城碧って」

「だねえ」藍は頷く。「今日みたいな調整メインでは試合に出ないと踏んでいたんだけどね、まあ、アズサの言い分は解った。視野に入れよう」

「あ、ああ」結城碧の実情に呑まれたのか、梓は若干困惑気味に頷いた。


 ぽつぽつとグラウンド入りするチームメイトを横目に藍は思う。

 始動は二人。そこに物好きな監督が加わり、幸運にも顔見知りがまた一人。のちに探し当てた経験者が三人加入、それ以外は野球はほぼ初心者同然、烏合の衆。それが今では自分のすべき事の為に各々が自主的に動けている。

 改めて自分は幸運且つ恵まれている、と思う。

 集合時間の一時間前だというのに全員が揃っているのがそれを物語っている。


 突出した才能を集めれば何もせずともチームは強くなる。けれど、そんな大雑把なやり方ではなく、道端の石ころを磨き上げた結果、同じ場所に立てる事を証明したい。それこそが藍が選んだ道だ。道半ばは否めない。でも着実にその志は浸透していると藍は思う。


 かつてはあまり感じなかった楽しさという物を今噛み締めている。目標に確実に近付いている実感がそれを後押しする。

 きっと自分達は強くなる。

 初めは手探り暗中模索、けれど土台は整った。

 足りなかった欠片が漸く揃った。後は磨くだけ。決して綺麗でなくて良い。泥まみれだとしても輝きは耀きだ。


 白昼の陽光が王道ならば、自分達は、闇夜に輝く青白い月。どちらも輝いている事には変わりはない。

 さあ、弓を引け。月の女神は今産声を上げたのだと、藍は思う。

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