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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Proof of buds : 1
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 Interlude : False wings

 長い道のりは、遂に終点が見える位置まで来た。

 遠回りや、寄り道を繰り返しつつも、幻想と事実を擦り合わせ、今眼前に広がる現実を白日の元に晒し出した。

 それをどう思うのかは個人の自由ではあるが、相当のお花畑で生きる人々でないのであれば、それを事実として受け入れざるを得ない、そんな現実が目の前には広がっている。


 だから、受け入れ難いとは言え理解は出来る、と上条翔子は思う。信じたくはない現実ではあるのだが。


「……私も利用されていたっていうの?」掠れた声で翔子はきいた。


 美羽だけではなく、部屋にいた皆がそれぞれのタイミングで頷いた。


「でもね、カミ」美羽が労わる様に言う。「さっきも言ったけれど、指導者が誰であっても貴女はこの位置まで来れたと思う。でも、現実として、貴女は大屋先生に師事したのだから、そこは事実。利用云々はひとまず置いておいて、投手として、私達のエースとして貴女はここにいるべき人。だからこそ、私は貴女の目を覚まさせる」

「目を、覚まさせる……」同じ言葉を翔子は繰り返した。


 自分の目は曇っていたのだろうか、と翔子は振り返ってみる。

 大屋が紡ぐ言葉はどれも理に適っていると感じた。だから信じれる、と思った。

 元が元なのだ。過去を紐解けば、周りにいる者全てが自分を特別視する。家の名の通らない場所でなら、と思いそこへ赴くも、今度は練度の差がそうさせた。


 私は肩を並べられる友人が欲しかっただけなのに。


 少女の細やかな願いは聞き届けられず、周りは彼女の能力だけに目が向き、時に賛辞を送り、時に畏怖を抱く。

 対等な関係は構築出来ずにもやる日々。

 それを壊し希望を見せてくれた乙女に促されるまま、翔子は葉山の地までやって来た。


 希望に満ち溢れた場所、と初めは思った。かつて自分がいた場所よりも遥に練度が高く、共有される士気も段違いのそれ。ここならばただの個として共に肩を並べられる。

 上級生が認めてくれるのは素直に嬉しかったが、どうしても部活の場であるから線引きはなされる。これまでよりもマシではあったが求めているものではない。

 だから、誘ってくれた乙女にそれを求めたのだが、彼女の見据える物は遥に遠く、出てくる言葉に温かみは感じない。同級生はほぼ初対面、早々に先輩に認められた事が要因となって、ここでも頭ひとつ抜けてしまった翔子はやはり一目置かれる存在となって、主観ではあるが彼我の壁を感じてしまう。故に心は開けない。


 思っていたものと違う、と気付き始めた矢先、大屋教諭から声を掛けられた。


 雑談の中で出て来る彼の言葉は、何故か翔子の心を解きほぐした。

 能力ではなく自分自身を見てくれた、と翔子は思う。燻る思いを誰にも打ち明けられない時に差し伸べられた優しげな手。それを取らない阿呆はいないだろう。

 見てくれる人がいる。

 その事が翔子の精神を一回り強くする。

 そうなると、周りとの関係性にも変化が起こる。心の拠り所が見つかったのだから、ある程度は冒険が出来た。その結果、チームメイトとはそれなりの関係を築く事が出来、コミュニケーションは潤滑となった。だが、本当の心内は打ち明けられない。まあ、打ち明けられなくとも、解ってくれる人がいるのだから、別にそれで良い、と翔子は思う。


 月日を重ね、二人の関係性はより盤石なものとなる。実際結果として現れているのだから、信頼は更に深いものとなった。早々生まれる物でもなかったが、稀に出て来る悩みも簡単に解決されるとなると、翔子の中での大屋への信頼はチームメイトとはまた別軸のそれに変わっていた。


 おそらく、人はそれを依存と呼ぶのだろう。


「貴女は野球が一番と言った」美羽はぽつりと零した。「そこはそうだと私も思う。仮に貴女が才能の塊だとしても、雑念を抱えたままでこなせる程ここは甘くないもの。これまで水面下で情報の分析と裏付けをして来た結果が今言った事。今や大屋先生は害悪でしかない。貴女が言った事が本心ならば、彼との距離、離せるわよね?」 


 翔子は迷う。

 おそらく、美羽の言う事は正しいのだろう。彼女はいつだって正しい。自らを律し、常に清く、そして非情な判断を易々と下す。


 美羽の提示したものを前提として客観的に考えるのなら、単に結果を求めるだけだとしても、それは理に適っている。練度が高い方が守備は盤石なのは自明。

 だから、翔子だって解っている。このままでは勝ち続けるのが不可能だという事を。

 自分が宣言した事に間違いはない。いつだって傍に寄り添うのは野球で、自身のアイデンティティは投手である事に疑いは無い。


 だが、後ろ髪を引く様な即決出来ない何かがしがみ付いている。


 否、と翔子は内心首を振る。

 本当は解っている。ただ目を逸らしていたいだけ。

 他者の中の自分は、それこそ美羽の言う通り、成長し結果を残した。実際、強豪と呼ばれる場所でエースに座している。だが、真の自分はあの憧れを抱いた一人きりの夏から何も変わっていない。変われていない。自己を保つ為の投手である事は、実は真の自分を支えてはいない。


 だから、野球を取り除いた翔子自身を見てくれた言葉に縋ってしまう。

 故に切り離せない。怖いのだ。投手以外の自分が失くなってしまうのが。

 漸く手に入れた暖かい場所が失くなってしまうのが。

 自分の中では究極の二択じみている。どちらを選んでもおそらく後悔は付き纏う。決めたのなら突き進む、という強さを真の翔子は持っていない。

 翔子は皆の視線を浴びながらも未だ答えを出せずにいた。


「即決出来ない時点で確定じゃないかな」静寂を纏う部屋に佳奈が言葉を落とす。


 美羽が眉根を寄せ苦笑する。


「私には良く解らないけれど、カナが言うのならそうなのでしょうね」

「難儀な娘だよな、まったく」遥が言う。

「遥がそれを言う? アンタだってミウと同じカテゴリでしょうが」すかさず菜月が返す。


 言葉だけ取れば終わりの兆し。大団円の様相で、皆が苦笑を浮かべ出来の悪い妹を慮る様なシチュエーション。

 だが、皆の表情に解放感はまるで無い。寧ろ絶望の淵に立たされたの如き悲壮感。

 どういう事だろう、と翔子は訝しむ。


「ねえ、カミちゃん」佳奈が言った。「この際だからはっきり言うけどさ。カミちゃんって、大屋先生の事好きだよね? ……ああ」


 佳奈は何かに気付いたのか、眉間を抑えながら小さく首を振った。


「これじゃ伝わらないんだった」小さく呟いてから、翔子に真剣な眼差しを向けた。「好きってのは、好ましいとか、そういうフワッとしたものじゃなくて、異性として、男性として、その人の特別でありたい、寄り添っていたいって事。つまりは恋愛感情」

「はあ ?!」


 翔子は驚いた。心底驚いた。これまで生きて来て一番驚いたかもしれない。


 愛だの恋だの、全く持って解らないし興味も湧かない、と翔子は思う。現に佳奈に渡された恋愛小説も頁半ばで放り投げた。面白く無い、面白さが解らない。そんな自分が恋する乙女と称されている。

 

 まさか、そんな、馬鹿馬鹿しいにも程がある、と翔子は半ば笑って見せたのだが。


「だろうね」佳奈は全てを見透かすかの様に大業に頷いた。「やっぱ、カミちゃんは気付いてないか」

「ちょ、ちょ、ちょい待ち」翔子は手の平を立てる。「何がどうなって、そうなるのさ」

「その、さ。さっきもそうだったけど、そうやって動揺してるあたりが、実は心当たりがあるって事にならない?」

「心当たり? そんなもんないよ。つうか、いきなりそんな事言われて驚かない方がおかしいって」

「いやあ、おかしいのはカミちゃんの方じゃない? こんな誰々の事が好き、だとか、修学旅行の夜の定番じゃん。普通は驚かない。驚いたり、慌てたりする時は大抵図星」佳奈はふう、と息を吐く。「まあ、カミちゃんにそれが適用されないってのは解ってるけどね」

「……揶揄からかってんの?」翔子は訝しみを再び纏う。「確かに私は恋愛には疎いよ。でもだからって……」


 そう言って翔子は固まる。

 だからって、の後になんて続けるつもりだったのだろう、と翔子は自問する。


「だからって、大屋先生とくっつけるのは違う?」

「え?!」朧げに浮かんだ答えを佳奈に言われ翔子は半開きの口のまま再び静止した。

「あのさ、カミちゃん」佳奈は諭す様な口ぶりで言う。「一つづつ行こうね。先ず、カミちゃんの中での大屋先生の立ち位置。これは他とは一線を引かれている。どう?」


 佳奈の真摯な眼差しに射竦められ、逡巡しつつも翔子は頷く。


「では、その理由は何か。私が思うに、初めにあったのは憧れ。地元の有名人かつ、自分と同じ道を歩んだ成功者。些細であれ、似た所がある人同士は最初の壁が薄くなる。初対面でもコミュニケーションの種には困らない。共有する物がある人は、それを元に関係性が深まる物。ただ、立ち位置によっては互いに線引きしなければならない。プライベートなら別に構わないけれど、公の場に私的な物を持ち込めば、どうしても規律、ひいては全体の意識に影響が出てしまう。誰かに興味を抱くのは悪い事じゃない、でも場は弁えようよって話」

「……いや、解るよ、そこは」翔子は言う。「でも、それとこれとどう関係すんの? 確かに私は大屋先生を尊敬している、と思う。最初の話だけど、それは尊敬であって、その、レンアイじゃないんじゃない?」


 翔子はそこで俯き目を伏せる。


「だって私にはよく解らん事だから」

「でも、大屋先生の言葉で一喜一憂していたでしょう?」

「そ、そりゃあ、褒められれば嬉しいのは誰だってそうじゃん」

「まあ、ね」佳奈は頷く。「じゃあ、こないだの関谷への感情はどう説明するの? カミちゃんって、割と排他主義だと思うのね。まあ、それはきっと大屋先生がいたからなんだろうけどさ。で、だ。普段のカミちゃんなら、関谷程度の小者、羽虫が囁いている程度で流せる筈だと思うのよ」


 美羽が白い目を佳奈に向けた。


「……話の腰を折って申し訳ないとは思うわ。けれどね、カナ。流石にその言い方はどうかと思うの」


 佳奈もまた白い目を美羽に向けた。


「そう言うミウだって笑いを堪えてるでしょ、同罪だって」佳奈は少しだけ緩んだ空気を上げた口元と共に戻し、翔子に目を向け直す。「で、話元に戻すけど、本来なら流せる筈の関谷の言動を流せなかった理由。美羽がさっき言ってたけど、大屋先生の関心が関谷に向かっている事を自覚していたから。つまりはね……」


 佳奈は言葉を止めて小さく肩を落とした。上目遣いで翔子を見遣る。


「嫉妬、だと思うよ、それ」


 嫉妬、の文字が翔子の頭の中を巡る。

 私が関谷に嫉妬している、理由は大屋先生を取られたから。本当に? と翔子は自問してみる。


 だが、答えは曖昧。そうと言われればそうなのかもしれないが、それに確信が持てるかと問われれば、即答も出来ない。混乱しているのもあるのだろうが、自分の気持ちがよく解らない。

 翔子が唖然としている様に映ったのだろう、佳奈は優しく微笑むと先を続けた。


「嫉妬しているのが正しいとすれば、カミちゃん自身が気付いていないだけで、無意識のうちに、大屋先生と自分が特別な間柄だと認識してる、と思う。仮に一線引かれているのなら、誰が何をしようとそこまで響かないと思うのよ。でも実際、カミちゃんは柄にもなく関谷に噛み付いた。おまけに、関谷はカミちゃんの立ち位置を理解している節がある」

「……私の立ち位置?」

「ねえ、大屋先生からはどんな言葉を貰ったの?」翔子の問いには答えず、佳奈はきいた。「多分だけど、野球関係ない事、結構あったんじゃない?」


 翔子は暫しの間を置いて、こくり、と頷いた。


「……服とか髪の事とかはあった」翔子は顔を上げ、取り繕う様に言う。「で、でも、それは雑談みたいなもので、大半は野球の事」

「でも、カミちゃんはそれが嬉しかったんじゃない?」


 翔子は言葉に詰まる。嬉しいのかそうでないのかと問われれば、それはそう。これまで能力でしか自分を見られなかったのだから、それは嬉しい。


「……そう、だね」翔子は素直に頷く。「でも、それは褒められれば嬉しいってだけでさ」 

「だからさ。カミちゃんはそこに何かを見つけてしまった」

「何かって、何さ」

「大屋先生との特別な繋がり。誰もがスルーする様な些細な所まで見てもらえれば、興味は増すでしょ。この人は自分のこんな所まで見てくれる、みたいな。そうなるとさ、どうしてもその人の見方に好意的なバイアスが掛かる」佳奈は不意に苦笑した。「まあ、理屈で言えばこんな感じなんだろうけどさ、カミちゃんってば、それが行動にダダ漏れだったから」

「それはカナだからこそ、ではないの?」美羽が呆れ混じりに言う。「確かにカミが大屋先生に好意的な印象を持っているのは私にも解ったけれど、それはあくまで部活動の範疇内って認識だった。貴女に言われなかったら、三十年は気付けなかったと思う」

「……三十年は流石に言いすぎだろ」遥が小声で零す。

「アンタも一緒でしょ」再び菜月が嗜める様に返す。

「なんか、私への当たり強くね?」

「さあてねえ」菜月は手の平を上にする。


 茶番から目を戻し、佳奈は続ける。


「ま、まあ、私の目から見て、カミちゃんのそれは恋する乙女に見えたの。で、そういう目で見ると、納得出来る事が多かった。で、こないだの関谷の一件。これでほぼ確定かなって思った。でも、同時に疑問に思った事がある」

「……私なんて疑問だらけなんだが」呟く様に翔子は言う。

「だからね、一つづつ」佳奈はそう言って、先を続ける。「仮にカミちゃんが関谷に向けた感情が嫉妬だとして、何がカミちゃんをそうさせたのか。そこカミちゃんはどう思う?」


 翔子はその時に思いを巡らす。


 始まりは些細な事だった様に思う。ブルペンでの割り振りについての他愛のないいざこざ。誰が誰と組むか、という些細な事。自分も投手であるからこそ、拙い捕手よりは、と当事者の気持ちがよく解った。だから、始まりとしてはあくまで投手としての指摘。持論を展開する関谷に対しても、的外れもいい所だなあ、と割と暢気な事を思っていた。


 だが、何故か矛先が自分に向いた。

 そこにはどうも野球外のニュアンスが含まれている様に感じられた。あの勝ち誇った目に、お前はもう用済み、と言われている様な気がして。


 頭に血が上った。ムキになった。解らせようと思った。だから、翔子は強引に続けさせた。そして、関谷に己の未熟さを自覚させ、自分とは違う事を理解させようとした。


 翔子は、何故自分が”用済み”という言葉に反応してしまったのか、と考える。用済み、という事は、それまでは必要だったという事。大屋の言葉を振り返れば、野球以外でも必要とされていたのは何となく解っていた。そしてそれはきっと自分が求めていた暖かさ。

 漸く得られた自分の中のもう一つのアイデンティティが、関谷みなみという拙い捕手に奪われそうになっている。それが堪らなく悔しく、そして悲しかった。


「ちょ、ちょ、ちょ……ッ!」


 佳奈の慌てふためいた声を聞いて、翔子は思考の海から抜け出た。

 何やら頬が涼しいな、と周りの乙女達の驚愕じみた顔を眺めながらに翔子は思う。

 美羽がそっと立ち上がり、机の横の棚に手を伸ばす。振り向き様に、ふわりと淡い色のものを投げ、それが翔子の手元に。


「気にしないで使って頂戴」


 何故タオル? と、翔子は思うも、落とした目に映るその淡い水色のタオルは歪んでいた。

 まさか、と思いつつも頬に手を触れれば、やはり頬は濡れていた。

 嘘だろ、という思いと、何故だかひどく悲しい気持ちが混ざり合って、余計に涙が溢れた。堪らず翔子はタオルに顔を埋める。


 何故、私は泣いているのだろう。


 そんな事を考えつつも、悲しさの様なモノは纏わりついたまま翔子からは離れてくれない。

 ふと、先ほどの佳奈の質問が甦る。


 そうか、と翔子は思う。ブルペンでの出来事は、拠り所としていた場所が自分だけの物では無かった事に気付かされ、そこに新たに参入して来たヤツは何ともお粗末な乙女。その乙女に勝ち誇られる自分。そんな自分が酷く惨めに思え、それが苛立ちへと変換された。

 嫉妬というのなら、そうなのだろう。だが、それだけで片付けられる事でもないとも思う。

 タオルに顔を埋めたまま翔子は言った。


「だって関谷はヘタじゃん。ここは野球するとこなんだからさ、そんなヤツにいい様に言われたのがとても腹立たしくて……」

「私は直に聞いた訳じゃないけどさ」佳奈が一息の後に言う。「どうもニュアンス的には、こう、なんて言うのかな、優越感? みたいな感じだったらしいじゃない」


 佳奈がその場にいた美羽に同意を求めると、彼女は小さく頷いた。


「勝つのが解っているからこそ、挑発する、そんな感じだったわね」美羽は苦笑する。「私としてはかなり絶望じみた感覚だったわ。想定していた最悪の事態を体現された様で」

「実際、関谷は大屋先生の後ろ盾、おそらくはこれまでのカミちゃんと同じ様な状況に陥っているからこそ、そう言ったんだと思うのよ。彼女にしてみれば、カミちゃんは大屋先生との関係性という意味では目の上のタンコブな訳じゃない。今目をかけられているのは私、と主張したくなるのは想像出来る」佳奈は一旦息を吐く。「多分、カミちゃんも無意識でそういうニュアンスを感じ取ったんだと思う。だから嫉妬じゃないかな、って思ったのよ。悔しさも苛立ちも、根っこが大屋先生にあるのなら、大屋先生への感情が原因なら、そうなんだろう、ってね」


 未だ顔を埋めたまま、翔子は思考する。

 まあ、嫉妬なんだろうな、と翔子は半ば認めた。実際苛立ちや悔しさは事実で、半分位は関谷本人の言動が原因なのだろうが、もう半分は、やはり佳奈の指摘通りだとも思う。ただ、そこにあるのが恋愛感情かどうかは解らない。過去に前例がないから判断のしようがない。


「素朴な疑問なんだけどさ、カミちゃんは大屋先生のどこに惹かれたの?」


 翔子は顔を埋めたまま戸惑う。

 この問いの答えは翔子の全てを晒す事に繋がる。それにはやはり抵抗がある。だが、よくよく考えてみれば、それが出来なかったからこそ、自分は大屋に何かを求めてしまったのではなかったのだろうか。当時あった彼我の差がそうさせたのは確かだが、では今はどうだろう。信頼、というのならそれはこれまでの月日によってそれなりに培われている。


「カミ、顔を上げなさいな」


 自分を呼ぶ、自分をこの地に導いた乙女の声。

 本当は真っ先に晒したかった相手。でもそれは叶わず、長い道のりの果て、今こうして自分は顔を埋めている。顔を上げれば、自分の弱さを見せる事に繋がる。解ろうとしなかった相手に見せる事はしたくない。見せたくもない。


 本当に?


 本当に解ってくれないのだろうか。


 僅かに残っている冷静な翔子が思考する。

 どうでも良い相手なら、放っておくだろう。葉山ここにいるのだ、他人に構っている時間があるのなら、自分の為に使うのが賢明な乙女の在り方だ。


 ならば、この時間は何だろう。


「貴女の泣き顔見たって今更何も思わない。貴女だって人間、辛い時や悲しい時はある」


 暗闇に目を落とす翔子の耳に、美羽の声が届く。それはひどく悲しい音。


「本来なら、貴女を誘った私が真っ先に打ち解けるべきだった」美羽の言葉には懺悔の響き。「初めて会った時、貴女は漸くまともに野球が出来る、と言った。それを私は、周りと貴女が釣り合っていないからだと思っていた。それは半分は正しかったのだろうけれど、もう半分は……」


 美羽はそこまで言って、目を伏せ口籠もる。言葉を閉ざした彼女を見遣り佳奈が後を継いだ。


「カミちゃんはさ、多分、共有したかったんだよね。真の意味でお互いバカをやれる仲間が欲しかった。美羽から聞いたよ、中学時代の事。美羽の言葉からは孤高の天才みたいなニュアンスだったけど、私からすればそれは違う。実際天才なんだろうけど、その実中身はただ女の子。そこを勘違いしたから、カミちゃん達の第一歩がすれ違ってしまった。その結果、美羽は勘違いしたままだから、カミちゃんは別の物に縋るしかなかった」


 佳奈の見立ては、翔子の心中を正しく表している。


「解ってるんなら」声が震えるにも構わず、翔子は続ける。「解ってるんなら、もっと早く言えばよかったじゃん」

「だから!」美羽が声を張った。「解った時には、既に貴女は大屋先生に向かってたの。踏み込もうにも、踏み込める場所がなかった。私は、いや、私達は貴女が大屋先生に対して本気だと思ってしまっていたのよ、これまでずっと。だから、私は下手に突っ込めば貴女はあっさりとグラブを置くと思っていたの。野球よりも心の平安を取ると思っていた」

「はあ?!」


 思わず翔子は顔を上げた。目元は赤く腫れているだろう、声も掠れているのも自覚している。何より無様な姿をこれ以上曝け出したくはない。


 だが、それ以上に、これまで一度たりともブレた事のない、自分の信念の様なモノが勘違いされていた事に驚き、そして同時に苛立ちが舞い上がった。それが今の情けない自分を凌駕した。


「私が野球を辞める? バカ言ってんじゃねえよ。ずっと言ってんじゃん、レンアイなんて解んないってさ。なのにそれを理由に? あり得ないって」

「……いや、だから、そこは勘違いなんだってば」佳奈が申し訳なさそうに言った。「あのね、それだけ、カミちゃんの行動って恋する乙女のそれに見えたの。だから関谷への感情も想像し易かった。でも、ミウはね……」


 佳奈から視線を受け取り、美羽は口を開く。


「私が貴女を手放す訳がないでしょう?」

「ミウ、言い方」佳奈が白い目を向ける。「これに関しては、ほぼミウが原因だって解ってる? ミウが勘違わなければ、こうなってなかったかもしれないんだからさ」

「……解ってるよ」美羽は力無く呟くと、足を揃えて翔子に身体を向けた。両手を重ねて頭を下げる。「ごめんなさい」

「はあ?」


 翔子は目を丸くする。

 あの荻野美羽がしおらしく首を垂れている。

 これは夢か幻か、なんて事すら思う。常に冷静で、物事を客観視する女帝が、見方を誤っていた。そしてその事を謝罪している。無意識のうちに、翔子の口からは笑いが溢れていた。


「ミウが謝ってる。まじかよ、まじかよう」

「……失礼ね。さっきだって謝ったじゃない」美羽は小さな笑みを零し、肩を竦めた。「あのね、カミ。私だってレンアイなんてよく解らないのよ。心という外からすれば不確定なものを、これだ、と決め付けてしまえば間違いだって起こる。根本がずれていれば、それこそ幸運な偶然が無ければ正解には辿り着けない。でもね……」


 美羽は居住まいを正すと、再び両手を重ねて深々と頭を下げた。


「貴女の過去を知っていながら、その内面への考慮が足りなかったのは、本当に申し訳なかった。ごめんなさい」


 翔子は目を見張るも、すぐに逸らす。


「だからさ、謝って欲しい訳じゃないって」


 翔子は大きく息を吐いた。

 椅子に座り直し、中空を見つめる。


 もう良いや、という感情が翔子の中を渦巻いている。

 予想だが、この場所、この時間はおそらく自分の為に設けられたものだ。

 皆が自分一人の為に作ってくれた物。ならば、ありのままを吐き出すしか、それに応えられないのだろう。それがこの場を作った皆への自分なりの誠意だと思う。


「確かにね、私はずっと一人だったよ」落ち着いた声が出せた、と翔子は思う。心は凪いでいる。爽快ではないが悪くはない気分。「どこに行っても上条の名が先に出るし、それが無い所に行っても、今度はどうしてか煙たがられる。まあ、県選抜に選ばれてさ、それが自分と周りとの間にある技術の差って事に気が付いたけどね。だから、ミウに誘われた時、葉山なら真っ当な関係を築けると思ったのよ。そもそも、私が野球始めた理由はさ、皆で勝利を分かち合う光景に憧れたから。だから変な話、初めは野球は手段だった。だから、美羽が勘違いするのはある意味正しいって事になるんだろうけど、それは偶々の符合。今は目的に変わってるし、これまで言って来た事に偽りは無い」


 翔子は腹に力を入れる。ここからだ、とも思う。


「でもね、やっぱり一人は一人だった。きっと私にも問題があるんだ。人付き合いの仕方もよく解らないから、始めの一歩をどう踏み出せば、周りと歩幅を合わせられるかが解んない。解んないから、失敗する不安が先に来て、踏み出せない。当たり障りのない言葉で取り繕って、陽気さを演出する。空気を読みつつヘラヘラしてれば、そうそう不快にはさせないと思ったから。深みに踏み込みたいけど、踏み込めないから道化を演じるんだ。私の中学時代はこれに尽きる。高校で変わると期待したけど、ここはここで自分で精一杯のヤツばっかり。私みたいなコミュ障のヤツには、到底踏み込めない高難易度なミッションだったよ」


 翔子は溜息混じりに一息入れた。


「外側では陽気なふりして取り繕って、寂しさみたいなモノをひた隠しにする。結局高校でも変わらないんだ、って思ってたらさ、私自身を見てくれる人が現れた」

「それが大屋先生、か」佳奈が膝の上で手を組み軽く顎を乗せ、溜息混じりに言った。「あの人実際スペック高いんだよね。些細な言動から相手の心内を読み取れるし、気遣いも出来る。生徒が群がるのもまあ解る。だから、カミちゃんの挙動を分析すれば欲しい言葉が解ったんだと思う。タイミングとか状況を考えれば、カミちゃんが靡くのも仕方ないよね」


 翔子は、力無く頷く。


「実際さ、大屋先生と会話する様になって、心は晴れた。モチベも上がった。技術も上がった。良い事づくめ。結果が伴うから、この道は正しいって思ったよ」翔子は小さく首を振る。「いや、多分今でも思ってる」 

「でも、それは幻想だよ」佳奈が零す。

「うん」翔子は頷く。「おそらくこれまでミウ達が言った事が事実だと思う。だからきっと私は大屋先生に利用されていたんだって思う。だってエースだもんな。能力の高い選手を、手元に、置いておきたい、のは、解るよ」


 声が震える、中々言葉が出て行かない。


 無理矢理笑顔を作ってみるが。

 口元は震えて歪み。

 涙はとめどなく溢れてゆく。


「でも……、でも、さあ」翔子は視界を天井に向ける。白い天井はゆらゆら揺れて、灯りの粒が小さく瞬く。「でも……、でも、そんな人でもさあ、私にとってはさあ、傍にいて欲しい人だったんだよう」


 感情が膨れ上がり、翔子は再びタオルに顔を埋めた。もうただの音でしかない嗚咽が頬の隙間から溢れてゆく。


 静かな部屋に翔子の掠れた嗚咽が響く。

 そんな時間が少しだけ続いた。

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