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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Proof of buds : 1
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 Interlude : Blade to the throat. Ⅰ

 審判の時は近い。


 普段目にする光景と些細な反応。それらから大凡の着地点は導き出されている。そのどこに落ちようが、決まってその傍らにあるのは痛み。これは、これだけは既に決定事項なのだ。

 幾度となく試算を繰り返したが、やはりこの点だけは変えられないという結果。

 だが、直前になって入って来た情報で、当初の予定よりはその痛みが和らぐのではないかと、多少は気が楽になった。

 とは言え、突きつけるは刃。

 その柄を持つ側としてはやはり気が重い、と新川しんかわ佳奈かなは思う。


 どうしてこうなってしまったのか。

 その理由自体は明白。だから、遣り方に関しては思う所があるにせよ、未来を想えば避けては通れない道、というのが今の佳奈の本心。

 より良い未来の為の第一歩、と同時に決して踏み外せない第一歩はもう間近に迫っていた。


 左右が反転している事を除けば、部屋の作り自体は佳奈の自室と何ら変わりはない。並んだ勉強机とその反対側に設られた二段ベッド。ただ、住まう人によってその空気感は変わるという事なのだろう、どこか自室とは違う雰囲気を感じ、その違いを探そうと佳奈の目は忙しなく部屋中を駆け巡る。

 解ってはいる。それは気休めの様なもの。これから始まる事、その結果訪れるであろう未来に、少しばかり憂いて目を逸らしていたいだけ。

 ふう、と小さな息を零し、佳奈はベッドに腰掛け部屋全体に目を流す。

 佳奈の椅子に腰掛け、物憂げに窓の外に目を遣る荻野美羽と、談笑する宮森遥と塩原菜月の二人。予定しているメンバにはあと二人足りないが、それは折り込み済み。審判の時を前にした最後の調整。


「もう一度確認するね?」佳奈は誰とでもなく言葉を向ける。


 部屋の中の目が自分に向くのを確認してから、佳奈は続ける。


「カミは恋愛感情を理解してないし、それを望んでもいない。これで合ってる?」


 佳奈が光明を見出し、美羽がそれを基に策を練り上げた、凡そ高校生にあるまじき策謀。望むべく未来の為に突破しなければならないポイントは無数にあり、その前提条件とも言える案件。それをしくじらない為にも、目を逸らしつつも敢えて決行した一つの策。その答えの再確認。

 前提条件たる現エースの心中。

 彼女と同室の菜月が頷き、佳奈の問いに答える。


「小説に関しては訝しんではいたけれど、その通りだと思う。カミの中の一番は野球で、その他は二の次。ヒヤヒヤしたけど、バスケ部の白石がファインプレイしたからそこは確か」

「ちょっと良い?」美羽が疑問を挟む。「何で白石が出て来るのかしら」

「偶々としか言いようが無いね」菜月は苦笑する。「偶々、私達の部屋に来て課題をしてる時にカミが話を振ったもんだから」

「そう」美羽は額に手を置き天を仰いだ。「また厄介な娘に介入されたわね」

「そうでも無いと思うよ」菜月は言う。「なんだかんだでカミと琴子は似た者同士。二人で盛り上がった結果、解った部分もあるから」

「怪我の功名、といった所かしら」美羽はくすりと笑う。「大怪我かもしれないけれど」

「まあ、大丈夫じゃねえの」遥が言う。「ああ見えて白石ってバカじゃないからさ。空気位読むだろ」


 菜月は苦笑し首を振った。


「いや、琴子はバカだよ。空気も読まないから、こっちはヒヤヒヤしたんだってば」


 美羽が口元に手を添え肩を震わす。


「読めてないのは貴女の方だった様ね」


 遥は苦く笑って両手の平を上げた。そんな遥を慮り菜月が補足する。


「まあ、琴子が”噂”を知らなかったから、ってのが大きいとは思うよ。仮に知ってたら、私は全力で阻止したもん」

「そうかあ」遥が納得したとばかりに頷く。「まあ、アイツらしいか。興味無さそうだもんな、そういうの。つうか、そうなの? 白石って空気読める方だと思ってたけど。一応主将じゃん、女バスの」

「ああ、ごめん。そこは遥の言う通り。私に対して、ってのが抜けてたわ」

「バカは否定しないのな」遥は笑う。


 菜月は遥に向かって小さく口元を上げる。居住まいを正すと再始動。


「話逸れちゃったけど、本人も断言してた。自分にとって野球が一番って。ついでに、例の小説を持って、これのどこが面白いんだ、ともね」菜月は佳奈向かって口元を上げる。

「まあ、私もその点はカミに同意するわ」美羽が言った。「ジュブナイルならまだしも、恋愛小説なんてどう楽しめば良いのかよく解らないもの」


 佳奈は内心ですよね、と目を細める。

 こればかりは個人の好み、恋愛をどう位置付けるかによるのだろう。この二人に関して言えば、恋愛よりも野球の方が楽しい、魅力を感じるという事になるのだろう。

 特定のパートナがいる佳奈としても、解らなくは無い感情だ。

 仮に相手が今の佳奈の生活に干渉して来るなら、それは重荷になるだろうとも思う。別れすら考える。それだけ、佳奈にとっても野球の位置付けは上位にある。葉山ここにいるのだ、当たり前か、とも思う。


「じゃあやっぱり、当初の見立て通りって事で良いのかな?」佳奈は言う。「カミのそれは憧れの延長線上にある」

「多分……」菜月は小さく首を傾ける。「それにも気付いてない、が正解かな。でも、他とは区別されてるとは思う。じゃなきゃ、噂も立たないし、距離感もああはならないでしょ」

「こういうのはアレだけどさ」佳奈は肩を落とす。「結局、より面倒になったって事か」

「かもね」菜月は頷く。「でも、最悪ではないじゃん」

「そうだよ」遥が同意する。「野球が一番なのは確かなんだから、それを捨てるっていうミウの推測はまずなくなる。結果としては、動機は何であれ想いの矛先が無くなるんだから、ショコは傷付くのかもしんないけど、痛みと言うのなら、全然マシじゃないかな」

「……まあ、そうだね」


 佳奈は頷き、部屋の隅に掛かった時計に目を遣る。予定の時間まであと僅か。件の上条翔子をここまで連れて来る役は、主将の坂巻橙子に任せてある。彼女ならば時間通りにやって来るだろう。

 佳奈は隠れて息を呑み、最後確認とばかりに口を開く。


「じゃあ、ミウ。本当に良いんだね?」

「ええ」美羽は淡々と答えた。「予定通りに」


 美羽は椅子の向きを変え、皆が見える位置で座り直した。両手を膝の上に置いて、深々と頭を下げた。


「皆、よろしくお願いします」


 静かな部屋には外の環境音がやけに届く。


「そういうのやめろよ」束の間の静寂を切り裂いた遥が頭を掻く。「気持ちは皆一緒、役が違うだけだろ。大丈夫だって、ミウだけを悪者にはしないから」 

「……」美羽は遥に白い目を向ける。「予定通りに、と言ったわよね、ミヤ。お願いだから予定外の事をしないで頂戴な」

「わ、解ってるよ」遥は顔を背ける。

「大丈夫だよ、ミウ。私達もいる」


 そう言った菜月に肩を叩かれ、佳奈も頷く。


「私もうまい具合にバランサやるし、感情面の舵取りは任せて」

「ええ、頼むわね」美羽は佳奈に向けた優しげな目を返し、時計を見る。「では、そろそろね」


 再びの静寂に部屋は沈む。

 試合とはまた違う緊張感を佳奈は覚える。これまであまり感じた事のない感覚。それはそうだろう。一人の乙女の淡い希望を粉砕するのだから。明るみに出た事実からすれば、本人にとっては良い事ではあるのだろう。だが、痛みが生じるそれに、やはり罪悪感は拭えない。少し毛色の違う不安が、嫌な緊張感を呼び込んでいる。

 部屋の中で言葉を発する者はいない。それぞれ思いを馳せているのだろう。程度の差はあれど、皆一様に表情に険しさが滲んでいる。


 静寂は定刻通りに終わりを迎えた。

 軽めのノック音が二回。

 ドアの取手が緩りと動く。


 皆が緊張感を呑み込み、浮き上がった険しさを押し込める。穏やかさを演出して二人を迎え入れた。華やかさには程遠いが、ひりついた雰囲気もまた感じられない。

 やや硬い表情を浮かべる橙子に促され、エースは部屋に舞い降りた。

 遥と菜月は部屋の奥、先程美羽が眺めていた大窓の傍に佇んでいる。美羽は椅子を回転させ部屋全体に身体を向ける。橙子はベッドに座る佳奈の隣に腰掛け、空いている遥の椅子に翔子を促した。

 一人普段の雰囲気を醸し出すエース。

 ややダボついたスウェットの裾を捲り上げ、白い脛が覗く脚を組む。いつも通りの外跳ね気味のウェービィなショートカットが小さく首を傾げた。


「で、重大発表って何?」


 一瞬、エース以外の目線が交わる。

 シナリオ通り、進行そして決断役の美羽が動き出す。普段通りの淡々とした口調でさらりと告げた。


「ミヤが戻る事になったわ」

「え?!」翔子の顔は嬉々とした色に染まる。「マジか。いやあ、これは嬉しいな」


 一通り喜びを出し切ると、翔子の表情がやや翳った。


「でも、ミヤはそれで良いの? 戻るって事はさ、大屋先生を受け入れるって事だろ? あんだけ盛大に批判したのにどういう心境?」


 美羽は翔子に見えない様に遥に鋭い目を向ける。一応の釘刺し、余計な事は言うなとの警告。そこは遥も解ってはいるのだろう。だから美羽には小さく頷き返し、翔子には困った様な笑みを向けた。


「色々考えたんだけどさ、やっぱ私には野球しかないかな、って」遥は頬を掻く。「まあ、ショコが言う様に結構やらかしたから、最悪ポジション無いのは覚悟はしてる。でも、これまで皆でやって来たんだ、やっぱ最後まで一緒に、ってね」

「そうかあ。やっぱそうだよな」翔子大きく頷き、ちら、と目線を上に向ける。「実際ミヤがいるといないとでは戦力の差が大きかった。だからさ、私が捩じ込むよ。ミヤは外野もやれたよね?」

「え? あ、ああ、うん、まあ」遥は曖昧に答えた。


 空気が変わった、と佳奈は思う。解っていたとは言え、本人の口から互いの信頼を実証する強い言葉が出れば、そうもなる。この先に待ち受ける残酷な事実がより重さを増して来る。

 佳奈は美羽に視線を送る。

 遥の出戻り報告は導入に過ぎない。あくまでこの場を作る為の口実。そして、その役目は終わった。既に覚悟は出来ている、と美羽は普段と何ら変わらない装いで、小さく頷いた。


 それは始まりの合図。

 ここから始まる、終わりの開幕。


「本当にそれで勝てるのかしら」小首を傾げ、美羽は言葉を解き放つ。「確かに、ミヤが戻る事で打撃力は上がる。けれど元々が及第点の打撃に一人を上乗せした所で大した差とは言えないのではないかしら。加えて、ミヤの長所とチームが被るデメリットは本当に釣り合うのかしら」

「……なんか散々な言われ様なんだが」

「まあまあ」遥のぼやきを菜月が小声で宥める。「最後まで聞こうよ」


 遥達の囁き以外は美羽の直球に誰も言葉を返さなかった。エース以外は皆、彼女の出方及び遣り方を静観する方向。

 佳奈としては、自分の役目はバランサ。詰まる所の潤滑剤の役だと思っている。だから繋ぐのも自分の役目、空白を埋めるべく口を開く。


「長所とデメリットって?」

「長所は言うまでもなく打撃。デメリットは……」美羽は誰とも視線を合わせず言葉を続ける。「現状の基準を満たしていない」


 美羽は遠回しな表現で皆の関心を引いた後で、緩りと続けた。


「今のポジションは各々の能力から導き出されたもの。つまりは適正。カミはミヤを外野に入れようとしているみたいだけど、今のミヤに今の外野適正が本当にあるのかしら」


 美羽の隠された意図はまだ翔子には伝わっていないらしく、訝しむ様子も無く、純粋に美羽の言葉を咀嚼する。ちら、と翔子の目線が遥に流れ、苦笑じみた笑みが浮かんだ。


「ま、まあ、ブランクあるから、そこは頑張って貰うとしか、ねえ?」

「……おい、ショコ。今私を見て太ったって思っただろ」


 すう、と翔子の目が流れる。


「図星じゃねえか」


 遥の抗議に溜息を返して美羽は言い切る。


「事実なのだから、そこは受け入れなさいな」再び息を吐いて、美羽は続ける。「ブランクは確実だし、どの道ミヤには、大屋先生の掲げる外野手の基準を満たせないと思うのだけれど。仮にそれで捩じ込めたとすれば、それはそれで問題ではなくて? だってそうでしょう? そんな事が罷り通るのなら、基準も何もあったものではないもの」

「……でも、やっぱり打撃は魅力的だよ。打線にはいて欲しい」

「では、こう問おうかしら」美羽は初めて翔子に確りとした目を向けた。「仮にミヤが打線に入るなら、おそらくはDH。そこを担う娘はどうなるの? 実力だからって素直に認められる? 一度辞めているのよ。そう簡単に納得出来るかしら。二、三年生は、これまで一緒だったから、実力も解っている。一応の納得を貰えるかもしれない。けれど、一年生はどう思うかしらね」

「一年?」翔子は首を傾げる。「一年じゃ流石に差が……」


 翔子が何かに気付くのと同時に、美羽は言葉を放った。


「DHの候補は関谷でしょう? あの娘が納得すると思う?」


 翔子の顔が苦虫を噛み潰した様に歪んだ。

 これは偶々だったのだが、先日佳奈も目撃している。ブルペンでの衝突。翔子と関谷みなみのぶつかり合いを。


 と、同時に美羽の遣り方、方向性が何となく見えてきた。遠回りする様でいて、核心を突く遣り方。翔子の触れて欲しくない部分に土足で上がる様な行為。美羽は徹底的に悪者を演じる様だ。効果はあるとは思う。だが、本当にそれが最適解なのかは疑問符が残る、と佳奈は思う。

 佳奈の思いを他所に、美羽は更に追い討ちじみた言葉を吐く。


「まあ、納得云々の話関係なく、関谷は大屋先生から信頼されてる期待の一年なのでしょう? そこに一度辞めた人間を捩じ込める?」美羽は強い目を翔子に向ける。「カミだって解っているでしょう? 入学前の予備練時から、大屋先生が気にかけていた事。それだけ期待されていると本人も自覚していたでしょうが」

「あんなのはまやかしだろ」吐き捨てる様に翔子は言う。「……打撃は良いとして捕手としては使い物にならねえじゃん」


 美羽は情の一切乗らない冷たい目をする。


「でも、今は彼女が第二捕手よ」

「だから、それは……」

「それは?」美羽は翔子を見つめ続ける。


 先に目を逸らしたのは翔子だった。

 美羽は小さく溜息を吐いた。


「まあ、私が出続ければ良い事だから、第二捕手なんてどうでも良いわ。でもね、カミ」目を逸らした翔子を追いかけ、美羽は更に追い詰めるべく言葉を吐く。「それで本当に勝てるのかしら。まあ、貴女が毎試合完全試合をすると言うのなら、まあ可能でしょうけれど、それが現実的かどうか解らない貴女ではないわよね?」


 翔子は目を逸らしたまま、小さく息を吐く。俯き気味で言った。


「さっきから何なの?」


 翔子は顔を上げる。普段の彼女が醸し出す洒脱な雰囲気はまるで無い。

 かといって、試合時に見せる真剣さとも違う表情。おそらくは皆初めて見るであろう、翔子の感情に支配されたそれ。


「勝てる勝てないってさ、結果なら出てるだろ? 選抜だって新体制で、ベスト8まで行ったんだしさ、そりゃあ練度の問題はあるとは思う。けどさ、これが今なんだろ。なら今出来る事をやって行くしか無いじゃんか」

「選抜はクジ運が良かっただけ」美羽は落ち着いた声で言う。「仮に初戦で、聖芦花せいろか大阪おおさか陵南りょうなん辺りと当たっていたら、あんな結果出ていないでしょう。もう春季リーグも開幕間近、練度云々の話をしている場合でもない」

「それでも」翔子は声を上げる。「これが今なんだ。これでやっていくしか無いだろ。私達に決定権なんてない。決めたのは監督なんだ。あの人が決めたんだから、私達はそれに従うだけだろ」


 皆が息を呑むのが解る。

 聞きたくはない言葉が出てしまった。


 おそらく美羽は、敢えて感情的にさせ翔子の本心を引き出すことを選んだのだろう、と佳奈は思う。だとしても。解っていたとしても、聞きたくは無い言葉。佳奈は小さく首を振る。横目で窺えば、隠してはいるが皆が同じ感想を抱いている。

 美羽がちら、と佳奈を見て小さく頭を下げた。

 何だろう、と思いつつも佳奈は頷く。


「ねえ、カミ」美羽は目を伏せきいた。「ショートひとつ取っても、本来なら千家がファーストチョイスでしょう。現状ミスは多い、比べるのであれば答えは明白」


 ああ、と佳奈は思う。自分を引き合いに出す為の謝罪か、と遅ればせながら理解した。別に構わない。それが事実だ。


「その位解ってるよ」翔子は返す。「でもそれは過去。今じゃない」

「だとして、それが最適解なのか、と私は訊いているの」美羽は息を吸い込む。「所謂強豪と当たった時、その差異が敗戦に繋がるのは明白。本来なら単純な内野ゴロが内野安打に。取れる筈のアウトが取れない。そういう積み重ねが勝ちを遠ざける。解らない訳では無いわよね? そこは自分がカヴァーするなんて言わないでよ、それこそ無意味だわ」

「じゃあ、どうしろって言うのさ」翔子は声を張り上げる。「今がおかしいのは私だって解ってるよ。でも今泉監督は療養中、どうにも出来ないじゃんか。さっきから聞いてればさ、ミウは何が言いたいの? 監督批判がしたいのなら相手が違う」


 翔子はやや俯き、その目が昏く染まる。


「それとも何? 私に大屋先生にその事を伝えろって事?」翔子から乾いた笑いが溢れる。「そりゃあ、そうだよな。ミウもミヤも大屋先生の事信用してないもんな。逆に先生もその事には気付いているから、言われた所で響きはしない」


 拙い、と佳奈は思う。

 感情が先走り過ぎている。このままでは、まともな議論ではなくただの言い合いになってしまう。そうなれば、彼我の境界が曖昧になって、冷静さは皆無、落とし所が感情論になってしまう。


「二人とも落ち着こうよ」堪らず佳奈は口を挟む。「一回冷静になろう」

「私は冷静よ」


 佳奈の思惑を半ば無視する様に美羽は被せ気味に言い切った。

 確かにこの様な場面で美羽が冷静さを失うとは思えない。だが、翔子を煽った挙句の落とし所が見えて来ない。先が読めなければ、意図が解らなければ、バランサの役目は果たせない、出る幕はない。佳奈は言葉を続けられずに固まってしまった。


「ねえ、カミ」美羽は僅かに声を落としてきいた。「珍しいとは思うのよ。貴女が感情的になるなんて。それはどうしてなのかしら。先日もあったわよね。ブルペンでの一件」 


 佳奈は目を見張る。このタイミングで、そこをぶつけていくのか、と思う。と同時に切り替える。既に言葉に出してしまった後なのだ、最終局面への扉は開かれてしまった。腹に力を入れて、遥、菜月、そして橙子へと目を向ける。無言の確認。この後起こる事への、エースの心情への寄り添いの確認。


 皆の了承を得て事態を見守る。 

 皆の関心を受けながらも、翔子は俯き口を閉ざしたままだった。

 美羽の表情が僅かに揺れる。

 おそらくは逡巡しているのだろう。口にはしたくない言葉。だが、口に出さなければ前には進めない。女帝と称されようが、言いたくない言葉は存在する。彼女だって人間、自ら悪者を演じるには、やはり痛みは付き纏う。


 美羽の目が強い光を宿す。彼女は覚悟決めた、その様に佳奈の目には映る。

 果たして、美羽は口を開く。


「確かに関谷は拙い。だからこそ、放っておけば良い。にも拘らず、何故あの時貴女は食って掛かったの? 大して関わりもない相手、貴女はそこまで他人に干渉するたちじゃないでしょう」

「……私だってムカつく事くらい、あるさ」

「まあ、確かにね」美羽は頷く。「別に上下関係厳しくとは思わないけれど、関谷の態度は凡そ上級生に向けるものではなかったのは認める。けれど、普段なら貴女は流していた筈。貴女をそうさせた物は何なの?」


 翔子は何も答えなかった。自分の中で考えを纏めているのかもしれない。だが、その表情には未だ見た事のない苦悩が浮かんでいた。


「私が言ってあげましょうか?」


 美羽の言葉に翔子は勢い任せに顔を上げた。彼女が何か言葉を出す前に、美羽は言わなければならない言葉を口にした。


「悔しかったのでしょう?」美羽は何かを堪える様な顔を一瞬見せた後、直ぐに続けた。「関谷に大屋先生を取られた様な気がして」

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