Interlude : Wings for whom
胡座をかく様に座り右脚だけ伸ばす。右腿の筋が伸びているのを確認して、上体を緩りと倒してゆく。夜の自主練をこなした後の最後のストレッチ。これまで毎日続けている就寝前の儀式の様なもの。
ただ普段と違うのは左手には文庫本があって、目はその文章を追っている。
口元が僅かに歪む。
文章は頭に入って来る。内容も噛み砕けはするが味はしない。まるで共感出来ない。
手にあるのは甘い恋愛小説で、かつて映画化もされた作品。
少し縒れた文庫の帯には”全てが涙する至高の純粋”と色鮮やかな文字が大きく描かれている。映画化もされ世間一般ではそれなりの評価を得ている作品という事らしいのだが、感情の揺れは乏しく面白さは解らなかった。
なんでこんなものを、と何度も訝しみつつも読み進めてはみるが、出て来る感想に今の所変化はない。
飽きたな、と上体を戻すとそのまま後ろに寝転がった。文庫は読み進めた頁も曖昧のまま、左手から離れていった。
「よく解らん」
そう呟いて、上条翔子は寝転がったまま足を組む。
首を傾けると小説の表紙が目に入った。抽象的なデザインは翔子の好むところだが、内容は正反対。
友人がこれを自分に薦めた理由。何かしら意図があるのだろうがさっぱり解らない、と翔子は文庫から目を逸らし二段ベッドの天井を見つめる。
普通の女子高生はこの小説で感情を揺らせるのだろう。
だが自分は。
やはり、ズレているのだろうな、と翔子は思う。
ズレているのだと思いたい。
実際興味が湧かない。だからそれで良い、と生まれかけた思考にそっと蓋をする。
「ねえ」翔子は文庫本を手に取り、勉強机に目を落とすルームメイトに声をかける。「これ知ってる?」
「ちょい待ち」
課題に区切りを付けるべく、目を落としたままルームメイトは手を動かし続ける。その挙動が止まり一旦両手を真上に伸ばしてから、塩原菜月は振り返った。
「で、なあに?」菜月は翔子の掲げた文庫本に目を遣る。「ああ……」
「っつうか、上条がそれ読んでる事に驚愕を覚えずにはいられないんだが」翔子の机を強奪し、なぜかこの部屋で課題を片付けようとする乙女が、こちらを振り向きにやけながら言う。
「うるせえ」翔子は悪態をついてやる。「お前はさっさと自室へ帰れ」
細身で小柄、病的に見える程の白い肌。マッシュルームの様な黒髪に常に笑みが張り付いた様な顔が愉しげに歪む。白石琴子は翔子の悪態をサラリと流し、更なる悪態で返す。
「筋肉バカが春に目覚めたのかよ。ウケる」
「そんなんじゃねえよ、中身暗黒クロスケ。お前はも少し名前と中身を同期しろ」
「お前こそ、そんなゴツい身体じゃ名前の様に翔べねえだろ。同期すんのはお前だろ」
微笑ましい溜息を吐いて、菜月は笑う。
「今日も平和ねえ」
「どこが?」
翔子と琴子の声が揃う。
「同期したのは声、か。はい、平和条約締結」菜月は両手の平を合わせる。ぱち、と乾いた音がした。
「これのどこが締結?」
翔子が言えば、琴子も返す。
「折り合ってもねえんだが?」
菜月は再び微笑む。
「ほら、息ぴったり」
「ちげえよ」
再び二人の声が重なった。
間。溜息。
流石に言い逃れ出来ないと諦観じみた思いが湧き上がり、否、面倒臭くなり、翔子は本題に戻す。
「そこの性悪は置いといて、ナッツこれ知ってる?」翔子は琴子との戦争の為勢い任せに投げ出した文庫本を拾い上げ、再び菜月に尋ねる。
「勿論」菜月は頷く。「何年か前に大ヒットした映画の原作でしょ。私も友達と観に行ったし」
「まあ、菜月は解る」すかさず琴子が言う。「まんま女子高生だもんな」
琴子はちら、と翔子に目を向け、ニヤリと笑う。
「その点、上条はなあ。ツラはそんな悪くねえのに、極悪な身体してっからなあ。凡そ恋する乙女じゃねえ」
「お前も、そのにやけ顔の裏に蠢く性悪どうにかしないとなあ、漏れ出れば皆一目散に逃げてくだろうに」
ふ、と息を吐いて、満面の笑みを浮かべた菜月が言う。
「琴子さん、マイナス二京点」
「……普段聞きなれない単位が出たが?」恐る恐る琴子は首を傾ける。
浮かべた笑みは力無いものへと変わり、菜月は肩を落とし項垂れた。
なるほど、と察した翔子は内心悪い笑みを浮かべ、菜月をアシストすべく言葉をかける。
「お前さあ、いくら幼馴染とは言え、相手の心情位は汲めよ。私でも解るわ」
「え? 何が?」本当に解らない、という風な表情で琴子は翔子と菜月を交互に見る。
菜月は上目遣いで琴子を見遣る。
「そんなに私、野球選手に見えないかな。良い加減うんざりなんだよね、野球やってんの? って言われるの」
「え? え?」琴子は焦りを滲ませ、落ち着きが掻き消える。
そんな琴子達を見ながら、翔子は思う。
これは菜月が仕掛けた茶番。
相も変わらず、この性悪な乙女は直球型、良くも悪くも正直なのだ。故に揶揄い甲斐があり、お茶のお供にされる。と同時に、翔子にとっては掛け替えのない相手でもある。初めて出来た、自分に対して悪態をついてくれる人間。同じ目線で取っ組み合える友人。
そろそろかな、と翔子は思う。
酷く緩りとした動きで、菜月は頭上で手の甲を合わせ丸を二つ作る。ネタバラシの例のポーズ。
「なあんちゃって」
「え?」
琴子の惚けた様な表情に、菜月と目を合わせ翔子は吹き出す。
「お前、本当すぐ騙されんのな」
「な、何だよ、嘘かよ」心底ホッとした表情を浮かべ、琴子は椅子の背に腕を掛け背を預けた。
「全部が全部、嘘でもないけどねえ」普段の表情に戻りつつも菜月は言う。「どうにも、筋肉がつき難い体質の様でね、割と悩んでる」
この手のチキンレースは日常茶飯事並みに巻き起こる。今度は騙されない、と琴子は訝しみつつ二人を窺う。
「これどっち?」音にはせずに、琴子は翔子にきいた。
翔子は頷いてやる。
実際そこは本当なのだ。琴子が言う様に菜月は標準の女子高生然としている。だが、やはり鳴海大葉山の野球部に所属している以上、そこにいるべき乙女。内面に沸る思いは、他のチームメイトとなんら変わりはない。故に、悩むのだろう。
「私はあんた達の様な天才型じゃないの、努力してなんぼ。日々の成果が感じ難いのは中々に厳しいものがあるって事」
焦りがあるのだろう、と翔子は思う。
正しさが何なのかは解らない。ただ、過去ではそれなりの結果が出ていた事を鑑みれば、それはきっと正しいのだろう。今はその正しさが形を変えただけで、菜月が変わった訳ではないし、彼女が劣っている訳では無いと翔子は思う。
正直な所、自分の後ろを守ってくれる野手と言う意味では、現レギュラの持田より三塁手としてのポテンシャルは菜月の方が頭ひとつ分は上。信頼なら確実に菜月が勝る、と翔子は評価している。ただ飛ばす力がないから、という理由だけで外されたとなれば、ポジションを取り戻す為に更なる努力もするだろう。
どこかおかしいのだろうな、と翔子も思う。
だが、それを提言するのは憚られる。現状最低最悪までは落ちていない。今泉監督が静養に入り指導者が変わった故の試行錯誤の春は、クジ運に恵まれれていたのも要因ではあるが、新布陣を試した形にも拘らずそれなりの結果を残せた。
不穏な噂は耳にはしているが、詰まる所、自分達がすべき事は特に変わりはない。各々が立つべき場所に立つのなら、結果を示すだけ。その結果を出す為に日々の弛まぬ努力を続けるだけ。それが勝利への最適解。翔子としては、プライオリティは既に確立している。周囲が騒ごうが判断が鈍る事は無い。
「肉を食え」琴子が断言した。「筋肉をつけたいのなら、まずは肉」
翔子は思考の海から這い上がり、白い目を琴子に向ける。
「食育なら既にやってるよ。それでも成果が厳しいからナッツは悩んでるんだろ?」
「そうなの?」琴子はそう言って腕を組む。
琴子なりに幼馴染を慮った結果なのだろうが、真の天才型には理論はあまり意味のないものらしい、と翔子は隠れて苦笑する。
目の前の友人は、性根が腐敗し毒の舌を持つ性悪だが、その実、女子バスケットボールのU-18代表の主将すら務める希代のポイントガードだ。
呑み込みが早く天性のバネを持つ翔子でさえ、理論は疎かにしない。天才型とは言われるが、その実、努力を怠った事は無い。
だが琴子に関しては、理論すら直感で呑み込んでしまう真の天才。舞台が違う、と翔子は苦笑せざるを得ない。そんな天才がその目に映る世界を説いたところで理解出来る訳もない。
「お前はさ、も少し自分と周りとの同期をしろよ」翔子は呆れ混じりに言って、少しだけ口元を上げる。「次いで、名前と中身な」
「お前も人の事言えないからな」苦し紛れの言葉を琴子は吐く。だがそれを本人が解っているからか、言葉に覇気はなかった。
「まあ、天才に言った私が間違いだったわ」菜月が肩を竦め苦笑する。すぐに顔を上げ翔子にきいた。「どこかの阿呆の介入でなんか話逸れたけど、で?」
「阿呆とは何だよ」
喰い付く琴子を止め、菜月は翔子を促した。
「ああ」翔子は投げ捨てられていた文庫本を再び拾い上げ、何となく頁を捲る。やはり何の感情も湧かない。「これさ、カナが読んで感想聞かせてって押し付けてきたんだけどさ……」
菜月は一瞬目を見開くも、直ぐに問い返す。
「で?」
「感想も何も、全く面白くない」翔子は思った事をそのまま口に出した。「謎もなければ、盛り上がりもない。まあ、まだ全部読んではないんだけどさ」
「さすが、上条。よく解ってるじゃん」琴子が口元を上げる。「現在進行形の人間には、憧れの感情は湧かないんだよ」
菜月は眉間に皺を寄せつつ引き攣った笑みを浮かべ、ニヤける琴子の頬に手の平を伸ばす。
「お前、少し黙れ。何なら帰るか? 言っても良いんだぞ?」
「へ? ……あにを?」頬を掴まれた琴子の口から腑抜けた音が漏れる。
「ハウス!」菜月は空いた右手で部屋の扉を指差した。
琴子は菜月の手を振り払い頬を撫でる。思いの外、菜月の力が強かったのかもしれない。少しだけ頬が赤くなっていた。
「犬かよ!」
「変な茶々入れるんなら、次はないからな」
琴子の頷きを見てから、菜月は翔子に目を向けた。
「本当に、何も思わない?」
「うん」翔子は即答する。
「なんていうか、こう、ドキドキとかキュンキュンとか……」
「全く。何さ、キュンキュンって。一応言葉の意味は解るよ、知識としてだけど。自分に置き換えて読めってカナは言ってたけどさ、置き換えた所で全く感情移入出来ないね。だって解らんもん」
菜月は目を丸くした。
「だから、言ったじゃんか」
口を挟んだ琴子に菜月は鋭い目を向ける。
だが、そんな菜月を今度は琴子が制し口を開く。
「上条ってさ、何だかんだ言っても野球が一番じゃん。調子に乗るからあんまりお前を褒めたくはないんだけどさ、そこは認める。私も一緒だけど、恋人はスポーツ。それ以外眼中にないって感じだろ?」
「お前に言われるとなんか腹立つなあ」翔子は笑う。「でもそうだな。大体合ってる。そもそも私は野球する為にここに来たんだから、それを疎かになんかしないよ」
「……えっと、本当に?」菜月が問う。
「嘘言ってどうすんのさ」翔子は笑う。「大事なのは野球という事に変わりはないさ」
どこか安堵した様な顔をする菜月に、そんな当たり前の事にどうして、という疑問が翔子の中に湧く。だが、その詳細を詰める前に琴子が勝手に引き継いだ。
「ま、私はそこの筋肉達磨と違って、酸いも甘いも解っている女子高生な訳だ」琴子は自慢げに言う。即座に反論しようとする二人を制止して続ける。「でも現実問題として、おそらくカレシがいるとデメリットは出てくる。もちろんメリットもあるんだろうさ。でも、私が天秤に掛けるのは、バスケとデメリット。で、デメリットが勝るなら今はそんなもの要らない。今やるべき事、今しか出来ない事ってある訳よ」
琴子は一旦言葉を切って深呼吸する。
ニヤけ顔は変わらないが、その細い垂れ目には真摯な光。
「ここだけの話な」琴子はそう前置きする。「私は彼我の差を凄く感じるのよ。同じ課題を与えられても、それをこなす為に使う時間に差がある。前はさ、そこに疑問を持っていたけど、色々考えた結果、それは私の才なんだって思う様になった。要は私はバスケに愛されている。ならさ、私もバスケを愛してやろうじゃないかって話。だってさ、そこは私だから出来る事じゃん。正直レンアイは望み努力すれば誰でも掴めると思うのよ。でも、スポーツにしろ芸術にしろ、一部の人間にしか見えない世界があると思ってる。私はその一部かもしれん、そう思ったら自分の進むべき道が見えた、って話よ」
琴子は口元を上げ、翔子を見た。
「上条もこっち側だと思う。だからお前の言う事は共感出来るし、だろうねとも思う」
なるほど、と翔子は思う。
この様な話、琴子の口からは初めて聞いたが彼女の言う通り共感出来る。兼ねてから彼我の差を感じていた翔子としては、同種の人間が間近にいたという驚き。と、同時に納得もする。同じ目線を持っていたからこその、取っ組み合い。単純に性分が合っただけ、という事かもしれないが。
「……すげえ上から目線」翔子は言う。「でも、否定する気は起きないなあ。少しばかり悔しいけど、概ね理解出来る」
「だろ?」琴子は再び口元を上げた。ちら、と幼馴染に目を向ける。「ナツが何を心配してんのかは知らないけど、この筋肉団子は野球バカだろ」
菜月は情報の整理をしているのか、琴子を見つめたまま口を開かずにいた。
場繋ぎの軽口でも、と翔子は言ってやる。
「お前さ、達磨とか団子とかそれもう悪口だからな? 私だって時には傷つくぞ?」
「え? まじ?」琴子は目を丸くする。
チャァンス、と翔子は内心ほくそ笑む。目を落とし、物憂げな演出。
「私だって、女の子なんだ。こう筋肉を連呼されればさ……」
ちら、と琴子に憂いた目をくれてやる。
「い、いや、その……」琴子は頭を掻き、目を泳がせる。「ごめん」
勝った、と翔子は思う。
鼻で笑い、ニヤリと口元を上げる。
「なんてな。多少は大きくなったけど、この身体あってこそのエースなんだ。特に不満なんてねえよ」
「お、おま」琴子は翔子を指差しながら、頬を膨らませる。「また、騙したのかよ。もう、色々信用できねえよ」
「自業自得だろ。実際言葉は少なからず刺さってる訳だし」翔子は息を吐く。少しだけ真面目な顔を作る。「でもまあさ、お前みたいなヤツこれまでいなかったから、そこは楽しい。あと、揶揄い甲斐があるって意味でも楽しい」
琴子は翔子の言葉をそのまま受け取る。
「後半は聞き捨てられないが、まあ前半は納得。どうしてもさ、頭ひとつ飛び抜けてると同じ世界の共有は難しいよな。こっちは手を差し伸べたいけど、向こうからすればその手を取っても良いものかと悩む。同じ舞台に上がっても良いのか、ってな」
「お前は性悪だからな」翔子は言ってやる。「周りに自分と同じ事求めても、出来ない事は出来ないんだから、仕方ない。だから、今のお前はそれで良いんじゃねえの」
「あん? 言ってる事よく解らんが」
「バスケは漫画で見た程度の知識しかないけど、お前って元々点取り屋なんだろ。それが今は司令塔な訳だ。使われる側から使う側、それって自分に合わせろ、じゃなくて相手に合わせるって事だ。昔よりは確実に見てる世界は広がってるじゃねえか」
「上条のクセに」琴子は舌打ちしつつも頷く。「まあ、そうだな。PGになってから世界は変わったよ。そう言ってくれた……」
琴子は何かに気付いたのか途中で言葉を止めた。一瞬逡巡して再び口を開く。
「そういやあ、上条さ。何で代表辞退したのさ」
「え? 別に大した理由なんて……」
翔子は何だそんな事か程度の感情しか出なかったが、これまで黙していた菜月の顔色が一気に変わったのを見て、疑問が浮かぶ。
何でそんな顔をする。
「……私も聞きたい」逡巡した後に菜月が言葉を零した。その顔には至極真剣な表情が浮かぶ。
「ナッツまで、どうしたのよ」翔子は苦笑する。「さっきも言ったけど大した理由なんてないよ。私はまだここで学ぶ事があるって思ったから辞退しただけ。確かに代表に選ばれるのは名誉な事なんだろうけど、自分が納得出来てないから、行った所で得られる物は少ないと思った。だから、最大限得られるタイミングでって思っただけ」
「もしかして……」言いかけて、菜月は口を閉ざした。首を振る。「いや、良いや」
「何?」翔子は首を傾げる。「言いかけは気持ち悪いなあ」
「お前、阿呆だな」琴子がバッサリと切り捨てた。「上手いヤツが集められんのが代表なんだ。得られる物の大小なんて関係ない、そこでしか見えない世界は確実、得られる物しかないってのに、何で辞退するかね」
琴子は今一度、阿呆だな、と言った。
考えようによってはそうなのだろう、と翔子も思う。ただ、それは至極個人的な事であって、それをチームに還元出来る自信が翔子には無かっただけの話。
正直な所、未だに翔子には彼我の差というものがこびり付いている。レヴェルの高い今のチームに置いてもそれはあって、自分が得た物を共感してもらえるかどうかには疑問符が付く。代表に赴けば少なからず得られる物はあるだろう。ただ、それを還元すべきチームが不安定なのだ。不穏さは常に纏わりついている。だから、先ずはチームを優先すべき、と翔子は考えただけだ。ある程度自信を持てるチームになって初めて、自分は外に翔べる、と思っただけ。
「確かさ」再び琴子が口を開いた。言葉は菜月に向かっている。「荻野も一緒だったんだろ?」
菜月は頷く。
「なら、余計に行くべきだったんじゃねえの? 面倒事は荻野に任せりゃ良かったじゃん。ジツの所、アイツ高校生じゃなくね? 底見えなさ過ぎでさ」琴子はくつくつと笑う。「ま、ここまで広げといて何だけど、今更振り返す話でもないんだろうけどさ」
確かに、と翔子は頷く。
「ま、終わった話だよ」翔子は言い切る。「で、本題だけどさ、これ」
翔子は三度放置され気味の文庫本を手に取った。
「カナはどういう意図でこれを私に読ませたんだろ」
「そりゃあ……」琴子はニヤリと笑う。「上条とのコラボが面白いからに決まってるじゃんか。ギャップ萌えってヤツだろ」
「……面白いって、お前なあ。私を燃料に燃やしても大して撮れ高ないだろ」翔子は溜息混じりに言ってから、ニヤリと笑う。「寧ろ、お前が燃えろ、そして消し炭になって、苗字を黒石とかにしろ。そうすれば、名と内面が一致するだろ」
「筋肉饅頭のクセに、ウマい事言ったみたいな満足げな顔すんじゃねえ」琴子は小さく舌打ちした。「ちょっとだけウマいとか思っちゃったじゃねえかよ」
勝ち誇ったように翔子は笑う。
つられて琴子も笑う。
微妙に引き攣りつつもどこか安堵じみた笑みを零す菜月に僅かな疑問を抱きつつも、この時間はこの時間でそれなりに楽しいな、と翔子は思う。
軽口を言い合えるのも自分の行くべき道が見えているからだ。プライオリティの確立と、その自信は、余計な雑音を遮ってくれる。
不穏さや、怪訝な雰囲気はチームに纏わりついてはいる。
だが、と翔子は思う。
自分は自分のやるべき事をするだけだ。外野が煩かろうと、自分の居場所はマウンドにある。最優先は打者を抑える事、それが投手としての自分の役割。
そういう風に自分を導いてくれた人がいる。自分の背を押してくれる人がいる。
その人の為にも、自分は翔べるのだ、と翔子は思う。




