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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Proof of buds : 1
34/128

 The proof of buds.I 〜 継承 〜

「次! ランナー・一、二塁」


 グラウンドに理香の声が響き渡る。


 春先の初々しさは形を潜め初夏のおもむきが色濃くなっていた。

 青草の息吹が風に乗って鼻腔をくすぐる。過ごし易い気候とは裏腹に、辺りは殺伐とした雰囲気に覆われていた。


「今のゲッツー取れたよな?」理香が顎を上げ鋭い檄を飛ばす。「お前の所為で、ランナー二、三塁」


 ほんの僅かな一歩目の遅れ。

 それすら見逃さない理香に、ボールを捌いた杉原は不満げな顔を見せる。

 実際、理香の要求はかなり厳しかった。特に守備に関しては、数ヶ月の混乱を取り戻す為に熾烈を極め、今までこなして来た事の数段上のプレイを求められる。ぬるま湯に浸かっていた者は環境の変化に付いて行くのが精一杯で、差が顕著になっていた。


 旧体制が崩壊した翌日。チームが混乱極める中、辛くもリーグ戦初勝利を手にする事が出来た。けれどそれは旧体制が間違いであった事の証明でもある。

 当然と言えば当然。不慣れよりも慣れている方が対応は確実。簡単な事だ。


 あの日グラウンドに戻った理香は、守備練習を一通り見た後で各々の意思を確認、コンバートを解消した。つまり、大屋体制以前の布陣に戻した。

 これにより、不慣れから生まれるケアレスミスは減少し、試合と呼べるものまでには昇華した。

 それでも数ヶ月のブランクというものはあってその結果が辛勝。けれど勝ちは勝ち、僅かながらの安堵と、巻き返しの兆しを私達は見る事となった。


 その数日後、大屋茂春教諭に対し学校側からの正式な処分が下された。

 内々での事情聴取の結果、犯罪行為自体は無かった事が解ったのだけれども、特定の生徒との逸脱した距離感は概ね事実であると認識された。醜聞を嫌う学校側は事が事なだけに、開示はせずに内々で済ます方向で纏まり、厳重注意と今後女子野球部への干渉禁止が決定。本人の身柄に関しては内情を共有した鳥飼監督の計らいで経過観察を含め、男子部が受け持つ事になった。


 結果としては大屋の望みが叶う形となったのが少しだけ癪ではある、とは、練習の合間に理香が溢した言葉だ。


 この時をもって、私達、鳴海大葉山女子硬式野球部は新たな門出を迎える事となった。

 ガラリと変わった環境。とは言え、やる事は変わりなく、忙しない毎日。

 その中でふと疑問に思った事がある。一体、この人は何なのだろう。

 私達は流されるまま、正に字の通り観客として監督の交代劇を見ていた。

 突如現れた、”美人のお姉さん”の素性に関しては何も知らされていなかった。そしていきなり始まった熾烈な練習に追われ、聞くタイミングすら逃していた。

 練習を共にして、少しずつ人柄も含め理香という人間が解ってきた。野球に関する知識も技術もプレイヤだった過去故かなりの高水準。練習は厳しいけれど効率的、と指導者としてはかなりのハイスペック。しかもそこそこの美人。にも拘らず、所々女性としては残念な部分が見え隠れしていて、そのギャップがまた彼女の印象を良いものにする。

 合理主義を掲げる中に、ポッと浮かぶ人間味は、監督と選手という間柄のコミュニケーションの導入としては、中々に取っ付きやすい。


 ——問題児を抱える私達には丁度良いじゃない。


 個性的集団を纏めるには、更なる個性が必要とでも言う様に女帝はさらりとそう口にした。

 まあ、納得。厳しさは熾烈を極めるけれど、平等な目線の上にある実力主義には今の所理不尽さはまるで無い。

 高難度と理不尽は別物だ。そう考えれば、強くなる為の理想的な環境には違いない。

 総じて、一葉の言葉を借りる訳ではないけれど、良かった良かった、である。


 広いグラウンドに理香の檄が飛ぶ。

 負けじと守備陣もまた声を張る。殺伐としながらも活気に溢れた良い緊張感。新体制に移行して一週間程が経っていた。


 適応に苦しむ者、それに慣れた者の差はあれど、大屋に付き従っていたマネージャ二名以外に脱落者はおらず、各々が新しい環境に溶け込みつつあった。

 体制の変化は個人の変化をも促す。

 一番目を引いたのは笹川だった。

 大屋にバッピを命じられ、意気消沈していた彼女の面影はもうどこにも無い。

 翳りのあった表情は何処吹く風、生き生きとした彼女には次期エースの風格さえ出て来ている。

 それに伴い、元から懸念されていた問題が浮き彫りになった。

 三年生に一人、二年生に二人、そして私達一年生に三人。兼任含めればもう少しと、嬉しい悲鳴をあげたくなる程の潤沢な投手陣。それに対し、圧倒的な捕手不足である。


 ——私達で捌けば良いじゃない。


 とは、女帝荻野の言葉。


 いや、そうじゃないでしょうよ。


 ブルペンは四レーン。辛うじて捕れる者はいるけれど、藤野は兼任、みなみは拙い、とやりくりが大変な現状だった。現実を見つつ荻野に相談を持ち掛けた結果の言葉ではあったのだけれど、女帝にしては無責任にも映る言葉。それほど深刻に捉えていないニュアンス、もしくは余裕。僅かな疑念と共にそんな印象を持っていた。


 理香の全体守備練習は実戦に則した形を基本とし、効率と実践に全振り。各ポジションに入るのは一名。各自アウト三つ取ると次の人に交代という形。待機中は各自個人練が割り振られ、私達バッテリィ組も例に漏れず、ブルペンに身を置きつつも組まれた課題をこなしていた。


 この日も先ずは荻野と上条が先に守備練に入り、私はブルペンで笹川の球を受けていた。深刻な捕手不足故に、投手と捕手の組み合わせはローテーションが組まれ、あぶれた投手は各々の課題に勤しむ。左隣のレーンでは圭と藤野、右隣では湊とみなみが投げ込み、綾と園川が走り込みで外周を回っている。


 理香が吹き込んだ風は少しだけ各個人の内面を撫でた。頑なにみなみを拒んでいた湊だったけれど、理香に言いくるめられたのか、ローテの折には従う様になった。

 あれだけダメ出しされ、頼みの綱の大屋も追放、最悪退部も囁かれていたみなみではあったのだけれど、彼女は何も辞めずにここにいる。

 まあ、そういうメンタルの持ち主ではあったなあ、と乾いた笑いも漏れる。


「おっ前、また弾いたな」湊がマウンド上でプンスコしている。肩を怒らせこちらにやって来た。「練習になんねえよ。ヘタクソ。こう、バシッと掴む。体でかいんだからさあ」


 暴言は混じらせつつも、やると決めたのならそれを遂行するのは湊らしい。ぎりぎりアドバイスともいえる言葉を投げかけ、みなみをおもんぱかる。

 そのみなみにも僅かではあるけれど変化の兆し。それを変化と言って良いのか解らないけれど。 彼女の中で何かが変わったのか、以前の様な他人行儀且つ見下した様な態度はなくなり、対等な物言いに変わっていた。


「あんたの球が揺れるのが悪い」すかさず言い返すみなみ。

「お前なあ」湊は呆れたのか目を細める。「揺れる方が打ちづらいだろ。キャッチャに捕ってもらう為に投げてんじゃないの。打たれない為に投げるの。お前バカなの、阿呆なの?」

「な、慣れてないだけだもん」みなみは真一文字に口を結び、湊を追い払う仕草をする。

「もう、今日はストレートしか投げないかんな。次はちゃんと捕れよ」

「……捕るもん」


 あ、始まった。と私は思う。みなみに変化があったのは割と早い方。なのでこの頃にはだいぶ慣れていた。当初はえらく戸惑ったものだけれど。


「おぉい、夏目、言い方言い方」私は湊に声を掛ける。

「私を気遣うな」横からみなみが声を上げる。

「いや、だってさ……」私は直ぐに彼女の顔から目を逸らし引き気味に言う。

「……泣いてないし」僅かに鼻の詰まった声でみなみは言う。

「泣いてんじゃん」


 みなみはどういう訳か感情が表に出やすくなったのか、すぐに泣くようになっていた。嬉しくても悲しくても、辛くても怒っても。二日に一回は泣いている。

 きっと良い事だよなあ、と無理矢理自分を納得させる私。

 以前よりは壁は薄くなったにせよ、未だ彼女からは敵対視はされている。けれど、当時の様な見下す態度は形を潜め、意見の交換は出来る位にはなっていた。


「掴むって言うかさ、身体全体使って受け止める、みたいな感じ。捕りに行くんじゃなくて、球を包み込むっていうか……」

「わかった」


 たまに素直。

 言い返して来る時もあれば、今みたいに受け入れる時もある。基準はよく解らないけれど、変化は変化。良い事だ、と妙な親心じみた感想が生まれ、なんか違うと我に返る。

 切り替え切り替え。私は自分の仕事に舞い戻り、目の前でモーションに入る笹川に思いを馳せる。


 復活した笹川は、正直園川よりも数段良い投手だった。

 力強い直球と、よく落ちるチェンジアップに緩いカーブ。現エースの上条と似たタイプ。漲る自信は自己証明。私はここにいる、と意思の乗った球を投げ込んで来る。


「雪パイセン、ナイスです」球を投げ返し軽口を叩く。


 藤野と仲が良い事や、バッテリィ組で共有する時間も多く、私の仲の良いリストに笹川も入っていた。故に軽口を叩く程度には信頼関係は出来上がっている。


「パイセンはちょっと……」笹川は球を受け取りながら苦笑する。「あ」


 笹川の目線に誘われ私もそちらを見遣る。またしてもみなみが球を取りこぼしていた。


「もう、なんで変化球投げるの」

「お前の練習になるだろ」湊が笑いながら答えた。「キャッチングは数こなす、だろ? 一々噛みついてくんな。こぼしてももう何も言わんから。今日は」


 一言余計なんだよ、と湊を睨む。あら、私はいつからみなみの保護者になったんだっけと再び我に返る。


「もう、わかってるのに」みなみはそう言い切り、全力で球を投げ返す。


 ミットが奏でる音にも似た心地良い響きが湊のグラブから鳴った。


「痛ってえ」湊はグラブから左手を抜き小刻みに振る。「この距離で全力で投げんなよ、バカヂカラ」

「うっさい、ツリ目八重歯」

「お前、それ悪口だかんな」湊がこちらにやって来る。

「いい加減にしろよぉ」私は一応止めに入る。「美羽さんにバレたらまた怒られるぞ」

「つっても、アンちぃ。こいつが悪口を……」

「小学生の喧嘩だよ、お前ら」溜息一つ。「野球しようぜ」

「あんたには言われたくないんだけど」みなみが口を尖らせる。


 このやろう。


「解った」私は立ち上がる。「美羽さんに報告してくる」

「あ、それはヤメて」


 湊とみなみの声が重なった。

 なんだよ、仲良しかよ。


「とは言えさ、ちょっと様子を見てくるよ。関谷、外野練も行くんだろ?」

「うん」

「じゃあ、関谷に行かせればいいじゃん」湊が言う。

「お前は投げ続けろ。そして関谷は捕り続けろ」私はそう言い切って、笹川の元へ。彼女の耳元で小声で伝える。「ちょっと行ってきます。関谷の様子が少し気になるので」

「ん、解った」


 みなみの捕球技術の拙さは度重なる指摘で本人も自覚するに至った。それを補強する為か、ブルペン以外でも自主練に勤しんでいるのを私は知っていた。

 それに加え、理香からのお達しで外野手との二足の草鞋。ここ数日はオーバーワーク気味。確かに湊の球は荒ぶるので捕り難さはあるのだけれど、横目で見るみなみのそれは、拙さよりも何かを庇っている様に見えた。おそらく軽度だとは思うけれど、どこか痛めている。

 今は無理する時でもない。本人に言っても、そんな事ないと突っぱねられるだろう。ならば、先の報告したほうが手っ取り早い。拙かろうが、この場に残り捕手を続けたいという意思は尊重したい、と私は思う。怪我をされて困るのは皆同じなのだから。

 ブルペンから這い出ると一瞬にして空気が変わる。グラウンドは緊張感に包まれている。


「杉原ぁ、不満そうな顔してるけど、何?」理香がノックバットを杖の様について、罵声を浴びせた相手をさらに追い詰めていた。 


 杉原は僅かに逡巡するも理香に噛みついた。


「今のはゲッツー取れてました」

「いや無理」理香は平然と言い放つ。「だってランナー50m五秒台のレジェンド盗塁王だもん」


 想定とは言え天上人かよ、と内心突っ込む。


「そんな無茶な……」杉原の頬が引き攣る。「そんな想定だったら、誰もアウト取れないじゃないですか」


 参加してる者の半数が同意している様な雰囲気。それを理香はばさりと断ち切る。


「端から取れないって決め付けるんじゃなくて、絶望的な状況だったとしても、その中で取る為にはどうするかを考える。練習なんだ、常に最高の相手を想定する。そもそもさ、今お前一歩目が出遅れたし、送球も雑。そんなんじゃ取れるものも取れないだろ」


 ぐうの音も出ない正論。


 理香は各選手の限界ギリギリをつくのが上手い。

 それはつまり、既にチーム全員の能力を把握している、という事。だからこそ、その選手の守備範囲の限界の一歩先に平然と打ってくる。捕れれば範囲は広がるって寸法。そこをこなせるかこなせないか、こなすにはどうするかを考えろ、と彼女は常々言っている。


 とても良い。こうでなくっちゃ、と思いながら、私は一塁ベンチを抜けホームに向かう。

 真っ先に荻野が私に気付き怪訝な表情を浮かべた。理香に呼びかけ、彼女の顔が傾く。

 私は小さく会釈し近寄る。

 その視界の端、一塁ベンチの影に制服姿が映り込み、思わず目を向けた。

 制服は二人。

 一人は健康的な小麦色の肌をした小柄な黒髪のショートカット。もう一人はガッチリとした体付きで肩より少し長い髪を三つ編みにしていた。赤い縁の眼鏡をかけている。


「どうしたん?」


 理香の声で我に返り、みなみの状況を説明した。


「あの子また泣いているの」荻野がくすくすと笑う。「枷が取れたと思ったら、今度は泣き虫に早変わり。なんとも忙しない事ね」

「良い事じゃん。下手に溜め込むよりはずっと良いさ」理香は荻野に向けていた目線を上げ顎に手をやる。「解った。じゃ、関谷にこっちに来る様に伝えて。問い詰めてやる」

「理香さん、言い方……」


 荻野の呟きは風に紛れる。

 私は了承し踵を返し、再びブルペンへ。グラウンドとはまた別の、和やかではあるけれど適度の緊張感を内包している空気。

 圭の球が藤野のミットを鳴らす。湊の球は小気味良い音とは言えないけれど、みなみのミットに収まっていた。


「関谷、監督が呼んでる」簡潔に伝える。

「ええぇ」みなみはあからさまに嫌な顔をした。目を細め私を見る。「また告げ口したの?」

「おい、私がそんなゲスい事するか」全くこいつは。溜息一つ。「お前、どっか痛めてるだろ。さっさと報告してこい。悪化させて練習出来ませんなんて許さないからな」

「べ、別に痛めてなんか……」

「いいから、行けって」


 私は手で追いやる仕草。文句を垂れながらもみなみは渋々従う。

 湊がこちらにやって来て、ドリンクを口に含む。一息ついて手を腰に。


「相方いなくなっちゃたから、私は走って来るかな」

「お、意外に真面目」私は軽口を叩く。

「私はいつでも真面目じゃんか」


 そう言う湊の目が私の後方に逸れた。驚きと嬉しさがい交ぜになった表情が浮かぶ。ふらりと右手が上がり、足が動く。


「アッカネン? なんでここに?」


 湊の視線の向こう側。ブルペンの入り口に、先程の制服姿の二人が佇んでいた。

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