Hope turns into despair 〜 望みは絶望に変わる 〜
その姿、威風堂々。
赤茶色のロングヘアを生まれたての初夏の風に靡かせる。
龍と桜のスカジャンにブラックジーンズ、紅いヒール。凡そグラウンドには似つかわしく無い異質な女性は、その研ぎ澄まされた刃の様な眼差しで大屋を捉えると、こちらに緩りとやって来た。
薄い桜色のルージュを引いた口元が僅かに上がる。
「やあ、シゲ、久しぶり。どう? 元気してた?」
不敵な笑みを浮かべた陽気で軽い導入。
一方、相対する大屋の顔色は優れず、苦虫を噛み潰した様な渋い表情で一瞬睨む様な目を向ける。それを強引な笑みで上書きした。
「ご無沙汰してます、理香さん。帰ってたんですね。それならそれで、連絡くれても良かったのに」
「連絡? そんなに私ら仲良かったっけ」理香と呼ばれた女性はジーンズのポケットから携帯端末を取り出し顔の前で振った。「私さ、お前の連絡先知らないけど、どう取るのよ」
大屋は舌打ちを隠す様に苦笑し、降参とばかりに両手の平を上げる。
「相変わらずキツい人ですね。それで、今日はどうしたんですか? そもそもいつ戻って来たんです。暫くアメリカって聞いていたんですけど」
「父親が伏せっているんだ、近くにいたいと思うのは娘として当然じゃないの」
「理香さんって、そんなに親思いでしたっけ」大屋は軽口を叩く。「勝手にアメリカに行ったのは貴女でしょ?」
「相変わらずお前って、自分の物差しでしか相手を測らないんだな。まあ、良いけどさ」理香は苦笑混じりの息を吐く。「お前が知らないだけで、アメリカ行きは親父も後押ししてくれたよ。勿論、慶侑もな」
「その割にケイは納得してなかった様に見えましたけどね」
「まあ、チャンスはアイツにもあったから思う所はあるんだろうさ。でも、アイツにはアイツのやるべき事がある」理香は嘲笑じみた笑みを浮かべた。「どこかの誰かと違って、慶侑にはいなくなられると困る奴らが大勢いるから」
静聴しなければならないのは空気を読める乙女なら直ぐに解る。
けれど、知らない名前がぽこぽこ出てきて、背景を知らない私は疑問符の嵐。二人が旧知の間柄というのは解るし、その仲があまりよろしくない事も伝わってくる。目の前の女性が誰なのか。薄らとした予想はあるけれど確信までは至らない。
「解りますよ。同じ指導者として引っ張って行かなければならないですもんね、生徒達を」
理香はさらりと大屋の言葉を流した様に見えた。頬を掻き、周りの山々に目を向ける。
「何度来てもやっぱ良いとこだと思うよ、ここは。海もあって山もある。都会と違って空気も良い」
私の隣で綾が頷いている。
理香は髪を揺らしながら、同心半円状に並ぶ私達と大屋の間に滑り込む。足を止め、身を翻し、私達に背を向けた。桜の花弁が舞い散る中を龍が優雅に泳いでいる。
一陣の風に微かな新緑の匂い。
それは燻んだ春の終わりを告げる風。
理香は伸ばした右手の平を翻す。その細い指が大屋の鼻先に向けられた。
「慶侑が言ってたよ。親父には勝てる気がしないけど、今の葉山には勝てるってな」理香は挑発する様に顎を上げる。「リーグの合間にやってみる? あっちはリーグ戦にエントリィしてないから、お前が頷けば成立するけど」
「何を言い出すのかと思えば」大屋は苦笑する。「寄せ集めの若いチームとやった所で、こちらには何のメリットも無いじゃないですか。丁重にお断りしますよ」
「ふうん。ま、別に良いけどさ。お前がそう思うのはお前の勝手。でもまあ」理香はちらりと首を傾ける。「この子らには有意義だと思うけどね。な、ミウ」
名指しされた荻野は横に並ぶチームメイトをぐるりと見回しゆっくりと頷いた。
「理香さんの言うチームというのは、片瀬熊ノ森の事ですよね」
「だねえ」理香は頷く。「良い話でしょ?」
「ええ、そうですね。確か、一、二年生だけで聖陵に勝ったんでしたっけ」
「まあ、あっちはBチームだったけどね。でも客観的に見れば、駆け出しが名門とやり合えたと捉えるべきだし、映像も見たけど、良い子が揃ってるからやって損はないと思う」
「意味が無い、と言ってるだろう」苛立たしげに大屋は言う。「ここの監督は僕です。理香さんがしゃしゃり出てくる場では無いと思うんですけど」
「まあ、そうだね」理香は言葉とは裏腹に不敵な笑みを崩さなかった。「所で、シゲ。最近親父となんか話した?」
「いや、話して無いですね。監督業は全権委任すると言う話ですし」
親父。監督業の委任。
やはり、予想通りなのだろう。結婚をして苗字が変わっていなければ、おそらく理香の姓は今泉。今病床に伏せっている今泉永真監督の娘だ。
何となく背後関係が見えてきた。
口ぶりから察するに、理香と大屋は旧知の中。監督の娘、という事で理香と荻野達の間にも親交があったのだろう。先程のやり取りを鑑みれば、荻野と理香の間のそれは先輩後輩の間柄に近しいものを感じる。実際、字の通りなのかもしれないけれど。
現状を危惧した荻野が、大屋の事を知る理香に相談を持ちかけた故に今ここにいる、とまでは容易に想像できる。
けれど、その後はどうなのだろう。
幾ら理香が今泉監督の娘であろうと、部外者は部外者、出来る事は斯くも少ない。そんな人が舞い降りて、何かの切っ掛けにでもなると言うのだろうか。お喋りだけでは何も変わらない事位皆解っているだろうに。
ただ、荻野は無駄な事をしない。
ならば。
僅かな、ほんの僅かな期待が芽吹く。
理香は大屋の言葉を受けて一瞬驚きを浮かべた。
大屋の肩書きは未だ監督代行だ。業務は委任されたとは言え監督は今泉永真。彼が伏せってから両者の間に何のやり取りもない事実が彼女をそうさせたのだろう。
驚きが呆れに代わり、頭を掻きながら詳細をきく。
「と、言ってもさあ、色々あるじゃん、引き継ぎとか。任せると言われたって、やりたい放題って訳にはいかないだろ」
「……言い方、良くないですよ理香さん。僕達の目標は全国の頂点です。テコ入れはあって当然じゃないですか」大屋は溜息を吐く。「と言いますかね。こういう言い方をしたくは無いんですけど、いくら理香さんとは言え、部外者が口を出す問題ではないのでは?」
「まあね」理香は笑みを浮かべ素直に認めた。けれど不意にその笑みが抜け落ちる。「でも結果が出てないのも事実」
大屋はあからさまに顔を顰めた。
「時にはそういう事だってありますよ。負けた事を把握し、それを改善し次に繋げる。そろそろ良いですかね。これからその次に向けての練習なんで」大屋は申し訳なさそうにグラウンドの入り口に手の平を向けた。「部外者は退場して頂くか、邪魔にならない所で……」
「初戦のアレは何?」理香は有無を言わせない雰囲気を纏い大屋の言葉を遮った。
「……理香さん、いい加減にして貰えませんか」大屋は溜息を混じらせ肩を竦める。「これ以上邪魔するなら……」
「答えろよ」僅かに顎を上げ、理香の眼差しに鋭利さが戻る。「初戦のアレは何だって訊いてる」
大屋はこれ以上何を言っても自分の言葉が伝わらないと判断したのか、渋々理香の問い掛けに答えた。
「相手も良かったんですよ。その上、こちらは要所で歯車が噛み合わず、些細な食い違いが結果に繋がってしまった」
「で、その結果、お前はこの子らに失望したと言ったのか」理香は真っ直ぐに大屋を見る。言葉を探す大屋にさらに迫る。「どうんなんだよ。言ったのか、言わなかったのか」
見つめ合う二人。大屋が先に目を逸らした。
「言いましたよ」吹っ切れたのか大屋は半ばやけくそに認めた。言い訳じみたのを隠す様に捲し立てる。「普段のプレイが出来ていないんだ、仕方ないでしょう。さあ、僕は答えましたよ。もう、良いじゃないですか、理香さん」
「お前、それでも指導者か? 言葉自体は別に構わない。指導してれば失望する事だってある。監督も人の子、ついキツイ言葉が出てしまう事もある。けどな、その後になぜそう思ったのかを伝える義務があるだろうが。お前何も言わなかったんだろ? その後も、ただ苛立ちだけ見せて、何が悪かったのかも伝えていない。そりゃあそうだ、言える訳ないもんな、お前には。何せ元凶がお前なんだからな」
「……さっきから聞いていれば好き勝手に言ってくれる」大屋は眉間に皺を寄せる。「いくら理香さんとは言え、何でここまで言われなきゃいけないんだ、これ以上の問答は御免だ。出て行かないなら守衛を呼びます」
「呼びたきゃ呼べよ」理香は顎をしゃくる。何かを閃いたのか、薄らと笑みが浮かんだ。「丁度良い、その守衛にさ、顧問や他の教諭も呼んでもらえよ」
「は? 何を言ってるんです? 何で部外者を呼ぶ必要がある」訳が解らない、と大屋は首を振る。「理香さんも、こんな所で問題起こすのは不本意でしょう。今泉監督の面子もあるし」
「勝てたんだよ」理香は一旦流れを断ち切り元に戻した。
「もう、良いでしょう」大屋は苛立ちを隠す事を止め、口調は荒くなる。「いい加減面倒臭い」
「初戦、負けた理由は連携ミスや判断ミスといった守備の乱れ」理香は俯きながら大屋に近付き、彼の胸ぐらを掴んだ。「何で、本職の奴が誰もいないんだよ。慣れないポジで出ればそりゃミスも出るだろ。そんな当たり前の状況を目の前にして、負ければ失望? お前何言ってんだ。全部お前の所為じゃないか。親父はそんな事望んだか? 誰も幸せになれない事しやがって」
理香は力任せに大屋を突き離した。大屋はよろめきながら、舌打ちする。
「手癖の悪さは相変わらず。良い大人が実力行使とか、勘弁してもらえませんか? 守衛じゃなくて警察呼びますよ?」
理香は両手をジーンズのポケットに突っ込み肩を落とす。先程の激昂した様な強い口調は形を潜め、静かな声を出す。
「あのな、シゲ。どんな結果を出そうが、お前が男子部に籍を置く事は無い」
初めて大屋の目が泳いだ。
男子部? これはどういう事だろう。何でここで男子が出て来る。
「背番号も指名打者も、全部男子基準で考えてるだろ? お前が見てるのは女子野球部。男子じゃない」理香は憐れみを滲ませた目をした。鋭さはもうない。「自分の方針、指導でもって女子野球部に勝利を。その功績を持って男子野球部の監督の座を貰う。だから女子は繋ぎ。繋ぎだから、勝つ為の手駒で良い。人格はいらない。ただ自分の策を実行する機械であれば良い。そもそも認めてないんだろ? 女子が野球をする事を」
「な、何を言って……」
「慶侑から聞いた。本来なら男子部を指導する筈なのに、選りに選って女子部、ってな」理香は呆れ混じりに肩を竦める。「お前の偏見はこの際良いや。どうせ何言っても聞かないだろうから、そこは良い。けどな、それ以前の問題としてさ、お前鳥飼監督舐めすぎだろ。あの人に代わる? 無理だって。お前みたいな浅はかな奴、足元にも及ばないって」
鳥飼英治、鳴海大葉山男子硬式野球部監督。
今泉監督と対を成す名将。物腰柔らかな風貌、されど出て来る言葉は凶器じみている。けれど、その言葉には常に誠があり、慕う選手は数知れず。というのが兄から聞いた鳥飼監督の外聞だった。
それを知っていたから、理香の語る言葉に共感する。もし彼女の言葉が真実であるならば、座りの悪くなった様な仕草をする目の前の男の印象が益々悪くなるに違いない。否、もう完全に乙女の敵認定される。
内面が零れ出るのを防ぐ為か感情を落とした顔で理香を見つめる大屋。暫し見つめ合う二人。今度は先に理香が動いた。
「まあ、実際お前が何考えていようが別に構わないよ。結果は変わらないから」
「じゃあ、今までのは何だったんですか」大屋は呆れた声を出し、再び苛立ちをちらつかせる。「結果が変わらないのは当然でしょう、監督は僕なんだから。引っ掻き回しに来たんですか、理香さんは」
「お前勘違いしてるよ」言ってから理香は声に出して笑う。「ほんと何も変わらないのな、お前って」
「もう、何回言えば解るんですか。いい加減……」
大屋の言葉を無視して、理香はこちらに振り向いた。全員を見回し片手を上げる。
「四ノ宮、って子、いる?」
名指しされた杏樹が恐る恐る首を伸ばし、顔の横に片手を掲げた。
「私、ですけど……」
理香は人集りを掻き分け杏樹の前に立つ。
「あんたが四ノ宮? ほんと、聞いてた通りの美少女」理香は顎に手を添えまじまじと彼女を見た。そっと肩に触れ申し訳無さが入り混じる優しげな笑みを浮かべた。「ごめんね、髪まで切らせたみたいでさ」
「はあ」杏樹は展開の早さに理解が追い付かないのか曖昧に答えた。
そんな杏樹の背を押し、理香は彼女を連れて再び大屋の前に立つ。杏樹の耳元で囁く。
「ごめん、傷口に塩胡椒するかも」
「へ?」
杏樹の戸惑いをよそに、理香は大屋を睨む。滲み出る憤怒。切長の目に怒気が宿る。
「確かにこのルックスならメディアは食い付くだろうな。本人が望むなら、そういう道もアリだ。けどな、この子らはまだ高校生だぞ? お前の名声の為の道具にして良い訳があるか」
「何を言ってるんです? いい加減付き合い切れませんよ」呆れた、面倒臭いといった感情を全面に出し、大屋は肩を竦めた。「メディア? 何の話ですか」
「この子を広告塔にして知名度を上げ、自分の名を売るつもりだったんだろ。爽やかな青年監督と美少女のサクセスストーリなんてドラマじみてるもんな」
「理香さん、アメリカ行って何に影響されたんですか? そんな馬鹿げた話現実にある訳ないじゃないですか」
「しらばっくれるか」理香は呟くと、首を傾け声を張った。「関谷ってのは、どれ?」
人集りは何も答えない。
痺れを切らしたのか荻野が無理矢理みなみを理香の元に突き出した。
「ふうん、あんたが関谷」杏樹を見る目とは少し様相の違う眼差し。「一応、あんたも被害者。けど、あんたはやり過ぎたね」
「い、一体何なんですか?」みなみは怒りと怯えが同居した様な声を出す。今までの勝ち誇った態度はもうない。「そもそも、あなた誰なんです。いきなり来て、有る事無い事言って……」
「そういえば、自己紹介してなかったね」理香はくるりと身を翻す。「初めましての人も、初めましてじゃない人も、取り敢えず纏めて初めまして。今泉理香です。以後よろしく」
顔の横に置いたピースサインを下ろし理香はみなみに向き直る。
「これで良いかな?」不敵な笑みをみなみに向け、彼女の返答を待たずに先を続ける。「親父に聞いたけど、あんたと夏目って子と青山って子。この三人がシゲが担当した推薦組。いずれチームの主役に添える為選ばれた子だ。まあ、夏目、青山両名はどうにもならなかったみたいだけど、あんたは違う。シゲの思惑通りに動く僕にして、捨てられた可哀想な子」
「はあ?」
抗議するみなみの声に覇気はない。彼女もまた既に概ね理解しているのだろう。
「……おい、シゲ。何してる?」理香は大屋に顔を向けた。
「守衛を呼びました。もう時間です、理香さん」大屋は携帯端末を持ったまま入り口を指し示す。
「ああ、そう。時間ね」理香の口元が曲がる。それは不敵な笑み。「舞台は終幕を迎えた、か」
「そうですよ」理香の呟きを捉え大屋は頷く。「こっちは時間がないんです。ここまで茶番に付き合ったんだ、もう良いでしょう」
「もう少し、皆とお話したかったんだけどね」
「練習後なら構いませんよ。ただ、有る事無い事をこの子らに吹き込むのはやめて貰いたいですね。貴女もいい歳でしょう、部外者に引っ掻き回されるこちらの身も考えて貰わないと」
理香は大屋を一瞥しただけで何も言わなかった。その目がみなみに流れた。
「まさか、明後日の方向からこんな美少女が出てくるなんて誰も思わないさ」そう言って杏樹の肩に手を回す。目だけはみなみを射抜き続けている。「私はあんたも可愛いと思うけれど、男女で可愛いの基準は違うし好みに左右される。けど、思っていたよりも拙い捕手よりも、ぽっと出の美少女の方が使い勝手が良いと判断したシゲは、あっさり乗り換えた」
「おい!」大屋が堪らず理香に手を伸ばす。
理香はその手を振り払い、二人を守る様に自分の後ろに追いやった。
「いやいや、モテる男は辛いよなあ。自分が何もしなくても女子の方から寄ってくるんだから。好意を寄せる相手程扱い易いものはないもんな」理香は初めて軽蔑した顔を大屋に向けた。「今年は不作、外も内も。だったか。去年の今頃、慶侑に言ったのは」
大屋は何も言わず、ただひたすら恨みがましい目を理香に向けていた。
「だから、今の二年生には然したる被害は無い。まあ、飛び抜けた才能が自分の囲いの中にいたんだから、無理する必要もなかった訳だ」
飛び抜けた才能とは、おそらく上条の事だ。囲うなんて事をしなくても、いくらでも選手をその気させる事は出来るだろう、と思う。どこかズレた感覚は、理香の言う所の、大屋の女子野球を認めないという、男尊女卑じみた思想故の事なのだろうか。
それとも……。
「教師だろうが、警察官だろうが、政治家でも何でも良い、どんな肩書きがあろうとも、その実、ただの人間。人間である以上間違いは起こる。公に出る人の格ってさ、どこまで自分を律せるかって事だと思うんだよ。肩書きが重くなればなる程、我欲を押し込めとかないと信用が無くなるから」理香は俯き首を振る。「自分の目的の為に誰かを利用する。情を取っ払えば誰しもが思う事だし、まあ、まだ救いはあるよ。けどな、立場を利用して手を出すのはおかしいだろ。相手は高校生だぞ? 立派な犯罪だ」
大屋の眉間に深い皺が刻まれる。初めて見る昏い目。力任せに握った拳が小刻みに震える。決壊の瞬間。
「いい加減にしろよ? 先輩だと思って下手に出てれば言いたい放題言いやがって。完全に風評被害だ。事実無根だが、聞いてしまった以上可能性として皆の頭の中に残る。この先どうすんだよ。お前の所為でチームがバラバラになるじゃないか」興奮して息を荒くしながら、大屋は怒鳴りきる。その勢いのまま理香に指を突き付けた。「名誉毀損も視野に入れさせて貰うからな」
「好きにしろよ。何しようがお前はもうダメだ。結果はもう出ていると言っただろ?」
理香は携帯を取り出す。片手で操作し大屋に向ける。いつかの音声データが周囲に響く。
大屋の顔が歪む。
驚愕。
色が褪せてゆく。
「これが事実」理香は携帯をポケットにしまう。「因みにデータは既にある程度共有されているから」
「は」大屋は嗤う。「こんな物ただの言葉。リップサービスだ。俺は何もしていない。俺が手を出した? どこにそんな証拠がある。俺は何もしていない」
「でも、二人で行動した事はあるだろ? 言質はとった。その時点でアウトだ。事実がどうであれ、教職者としては一線を超えている。いくらお前が何もしていないと言っても、学校側はスキャンダルを嫌うから、絶対対応を考える」
「冤罪だ、そんな物」
「そうかもしれない。けど、決めるのはお前じゃない。そもそも疑わしい行動をしたのはお前だ。そんな奴の言葉、誰が信じる」
大屋はこの時になって、漸く自分が不利になっている事を悟った様だった。
小刻みに目が動く。必死に打開策を探しているのだろうけれど、おそらくもう詰んでいる。音声データがあって、証言する者は、上条、杏樹と少なくとも二人いる。
理香が言った様に、自分の目的の為に甘言を用いるだけであったのならまだどうにかなった。実際何があったのかはさておき、公私が混じった様に見える時点で申開きは不可能。自分で種を撒いたのだ。刈り取るまでが自己責任だ。まさに大収穫。
救えない。いや、今更かと私は冷めた目で表情を歪ませる大屋を眺めていた。
必死に言葉を探す大屋に見切りをつけた理香は携帯端末を取り出し指を動かす。操作を終え大屋に目を向けた。
「これで、おしまい」ぽつりと言った。
「な、何が……」何とか絞り出した大屋の声には何の意味も乗れていない。
不意に響く振動音。
それは大屋の手の中で震えていた。やたら鈍い動作で手の中の端末の画面に目を落とす。反射的に顔を上げ、恨みの篭った目を理香に向けた。
「出ろよ」理香は顎をしゃくり大屋を促す。
それは、病床に着く今泉監督からの電話だった。
全ては荻野の計略。
女帝の真価。
彼女の後ろに理香がいたからこその、女帝の振る舞い。数々の不透明な部分は全てこの時の為に伏せられていた布石。
正直えげつない策だとは思うけれど、大屋もまた同じ程度の事をしているのだ。職権濫用、由々しき事態。最善の着地点を鑑みればやり方に是非もない。
電話を終えた大屋は力無く肩を落とす。恨みがましい目が理香を見据えるも、先程までの強さはもうなかった。
予定調和の如く最適なタイミングで大屋の呼んだ守衛が来た。
彼の中で降り掛かる災厄を退ける役目を担う筈の守衛は、彼自身の口でその大役を下ろされた。勘違いの一言でお役御免となった守衛は訝しげに理香を見るも、彼女の出自を聞くと態度を一変し見舞いの言葉を述べて足早に去っていった。
残された私達の間に沈黙が降る。
理香の姿は威風堂々。萎れた大屋を横に退け私達の正面に立つ。意思に満ち溢れた強い眼差しを皆に投げ掛ける。表情を緩め、少し照れた笑みを浮かべながら、ぴんと伸ばした腰をゆっくりと折り曲げた。
「父が復帰するまでの間、皆、よろしく」
傲慢という蝋で固められた翼は現実という陽で炙られ、偽りの王は地に堕ちた。
けれど爪痕は依然として皆に刻まれている。荒地となった地平に縋るものはなく、己が足で立たねばならないというのに、過去に縋り付く者達はそれを認めようとしない。
「は? どういう事ですか」
誰かが言った。それに賛同する者の声が重なり、騒めきが膨らむ。
理香は手の平を翳し喧騒を制す。
「監督権は私が引き継ぎます。これは現監督の今泉永真の意思でもあります。納得出来ない者は……」
「辞める者は止めないわ」理香の言葉を遮り女帝は淡々と言った。
「ちょっと、ミウ」
咎める理香に荻野は小さく首を振る。
「はっきりさせなければならない問題です」
周囲が騒つく。
人影が飛び出て、荻野に突っ掛かった。
「それは辞めろって事?」
いつかの、みなみに引導を渡した日。女帝から名指しで戦犯扱いされた大島が顔を歪ませていた。
「別にそんな事は言ってない」荻野は首を振る。「やる気のない者を引き止めても仕方ないじゃない」
「上が変わっただけで、システムは何も変わってない。今度はお前らが贔屓される側になっただけだろ。そんなの納得出来るか」
「もう少し自分の言葉を吟味した方が良いのではなくて? まあ、貴女の思想なんてこの際どうでも良い。決めるのは監督。責任は監督にある。贔屓だろうがなんだろうが、結果を出せばいい事じゃない」荻野は大島に冷たい目を向ける。「貴女は結果を出したの? 捕手としてやっていきたいのなら、私と勝負すれば良かったじゃない。レギュラと自身の理想を天秤に掛けた結果、その勝負から逃げたのは貴女でしょう。そんな貴女の言葉は私には響かないわ」
大島は言葉を探す。おそらく彼女も心のどこかで解っているのだろう。何を喚こうが、自身で選択した結果の今、今更理想を口にしたとて、それは何の意味も為さないという事を。
「皆にも聞いてほしいのだけれど」荻野は身を翻し、チームメイトに向き直る。「これからは結果を出せる者が生き残る、純粋な弱肉強食の世界になる。理香さんがどういう評価の仕方をするのかは解らないけれど、チームの為に各々がどの様な貢献が出来るかという事を考えて欲しい。監督はそれらを見定め選択するだけ。選択肢は多い方が良い。試合に出たい、活躍したいと願うなら、それが出来る事を証明しなさい。何かに縋って口を動かすだけなら、素人でも出来るのだから」
現実は残酷だ。
結果という絶対が夢幻を打ち砕く。
その事を改めて理香は口にした。
「私の言いたい事をミウが代弁した形になった訳だけど……」理香は小さく咳払いし、居住まいを正す。静寂。妙な間。理香は頬を掻く。「……いや、ホント全部ミウに言われたな。まあ、大方そういう方向。基本は親父が取っていた方針に沿うつもり。だから、やっぱり結果ありき。一旦レギュラは白紙に戻す。明日の試合はこの後の練習を見て一番良いと思う形を取ろうと思う。と、その前に」理香はちらりと大屋に目を向けた。「学校側とちょっと話してくるわ」
荻野が理香に相談を持ち掛けた時から、事は病床に伏せる今泉監督を巻き込み水面下で着々と進んでいたらしい。考えてみれば、幾ら理香が監督の実娘だろうが、ポッと出の部外者がそう易々と監督の座に就ける程その辺りの人事は杜撰ではないだろう。
やはり、用意周到に計画された交代劇だったという事だ。とは言え、常識的に考えるのなら、大屋監督代行の行いや、それに対する荻野が執った策は決して褒められる物の類ではないのだけれど。
今泉監督の一声が最終的な決定打となり、暫定的に指揮権は理香に譲渡されたのだけれど、書面上でのそれは未だ大屋のまま。手続きや、彼本人の処遇も含め、学校側の最終決定は後日にならざるを得ないのは明白。それでも話は早い方が良いという事で、理香はしなだれる大屋を無理矢理立たせ一旦グラウンドを後にした。
重い空気が漂っている。
これ迄の体制が瞬く間に崩壊したのだ。皆思う事はある。それでも不安という気持ちだけはチーム内で共有されていたのだろう。残された私達は静寂に沈んでいた。
切り裂いたのは、やはり女帝だった。
「目の前にある事を受け入れなさい。レギュラが欲しいのなら、自分で掴む。簡単な事じゃない」
荻野の言葉は開幕宣言だ。
これから始まる真の競合への第一歩。
歪んだ世界は崩壊し、一人一人が自分の足で歩みを始めるその瞬間。ごくありふれた当たり前の環境に、漸く私達は辿り着いた。
暗所に閉じ込められ、己が何者かさえままならなかった私達。闇に亀裂が入り光が差し込む。私達の輪郭は顕になり、ここにいるよと産声をあげる。
後は、私達がどのような花を咲かせるか。どのような色、形かは解らないけれど、先ずは私達が蕾である事を証明しなければここにいる意味は無い。可能性を奪う大人はもういない。花咲ける未来への道は、漸くその入り口を現したのだ。




