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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Proof of buds : 1
32/128

 If you look back 〜 もし振り返ってしまったのならば 〜  

 ——今度一緒に食事に行こう。そこはアスリートにも人気のある店で……。


 気さくな声。


 ——君が一番輝ける場所を作るのが僕の仕事だから。


 安心させる様な優しげな声。


 ——僕達は似た者同士。きっと同じものが見えるから。


 甘い囁く様な声色。


 ——そういうの、いいですから。


 最後に酷く冷めた落ち着いた声で、四ノ宮杏樹は拒絶した。


 上条が関谷みなみを現実に突き落とした音声データ。

 まさかそんな物があったなんて。杏樹もそんな物があるなんて一言も言っていなかった、と思い返す。けれど、実際にはそれはあって、杏樹への箝口令含め、全て荻野達の手の平の上だった事に気付かされた。

 改めて恐ろしい人。


 その一部始終を後日聞かせて貰った。

 正直気持ちが悪い。好意を持っている相手ならいざ知らず、面識の乏しい相手からの言葉なんて刺さる訳もなく、その甘さが返って気色悪さを増幅させる。所々に滲み出る自信がまた、神経を逆撫でする。

 信奉者以外のデータを聞いた者、ほぼ全てが頬を引き攣らせ両腕を摩った結果を見れば、私の感想もまた大きく的を外れてはいないのだろう。


 あの日、女帝の振り抜いた剣は、チームに刻まれていた亀裂を更に深める結果となった。突き付けられた切先を前にしてもまだ救いはあると思っているのか、辞退を申し出た者はおらず、本来なら少々浮かれ気分で突入する筈のゴールデンウィークは、何とも不穏な幕開けとなった。


 初戦を落とした翌日、第二節。相手は同じ高校カテゴリの、春日部かすかべ青条せいじょう高校。自チーム以外では初めて見る同世代。しかも、昨季一部所属という事で、真の意味での高校野球のレヴェルを知るに相応しい相手。興味半分、不安半分の面持ちで臨んだ。


 結果で言えば惜敗といったところ。

 公式戦という舞台で、荻野・上条のバッテリィの本気を見た。迷いなき歩みには意思の力が宿る。時に舞う様に打者を躱し、時に刺す様に空振りを取る。全ては女帝の赴くまま、彼女の槍はその力を存分に振るった。


 けれど、完璧な者など誰一人としていない様に、上条もまた捉まる時は捉まる。甘く入った球を見逃さないあたりは、昨季一部を戦い抜いたチームではある。試合は投手戦の様相を帯び始めた。ワンミスが崩される初手に成り得る展開は緊張感を生む。経験に裏打ちされた自信がその緊張感を和らげてくれる筈なのだけれど、その経験が乏しい私達には常に不安が付き纏う。そんな心境はプレッシャとなって自身に降りかかる。


 試合終盤、遂に決壊した。

 ショートの新川が捌き切れずランナーを出す。切れた糸は伝染し、あっという間に点が入る。これまでの展開が嘘の様。立て直しもうまくいかないまま、二対零で終幕。初戦に続き、二戦目も落とす結果となった。

 沈む雰囲気の中で、思わず千家が漏らした言葉。


 ——私なら……。


 新川も解っているのか、何も言い返さずその場を後にした。


 そして、第三節。日が空いたので、この日も上条が先発。この日の彼女は調子が悪く、序盤で四球絡みから失点し、毎回常にランナーを背負う投球に終始し五回で降板。継いだ園川が何とか踏ん張るも、序盤に重ねられた失点は重く、五対四というスコアで三敗目を喫した。


 負けが嵩む毎に、言葉尻こそ冷静さを保っているとは言え、大屋監督代行は苛立ちを募らせていた。

 当たり前の事が何故出来ない、と間に挟んだ練習は熾烈を極め、チーム内の雰囲気は多方向からのプレッシャにより更に悪化していた。

 ゴールデンウイークも終盤。翌日の第四戦を終えれば少しスケジュールに余裕が生まれる。調整をして仕切り直すには十分な時間。それを有効に使う為にも、先ずは翌日の試合で勝利を手にするべく、私達は最後の練習に勤しむ。


 チームの状態を暗示する様な曇天。雲間から光の帯が降りでもすれば良い予兆と捉えられるのだけれど、鉛色の雲は厚く、閉ざされた世界はどんよりと重い。


 休校日の練習はアップも兼ねて私は家から校舎までの道のりを走る事にしていた。この日も長く緩やかな坂道を一定のリズムで走っていた。休日とは言え、部活動が盛んな校風なので、坂道にはそれなりの人影がある。その中を私は駆け抜ける。不意に聞き慣れない音と共に風が吹き抜けた。私を追い越す一台のスクータ。最近兄が購入したイタリア製のそれと瓜二つだったので、少し記憶に残っていた。ほんのちょっと格好良いなと思っていたのもあるのかもしれない。

 そんな他愛もない事を考えながら、部室に駆け込みユニフォームに着替えるとグラウンドに向かう。入り口近くに先ほど見たスクータが停まっているのを見つけ、首を傾げつつグラウンドに入った。


「おはよう、琥珀ちゃん」一葉が近付き手を挙げた。

「おはよ、金田一」私は首を傾け、スクータの方へ。「誰か来てるの?」

「なんか、先輩達の知り合いっぽいから、OGじゃないかな」言いながら一葉は一塁側ベンチの人集りを指差した。


 規定の集合時間よりも随分早い時間帯なのにも拘らず、そこそこの上級生が既にグラウンドに姿を現していた。その人集りの中に荻野を見つける。風が吹く。予感じみた何かを感じる。直ぐに予感は確信に変わる。人集りにいるのは女帝とその忠臣だと解ったからだ。


「まあ、誰であっても、荻野さん達の知り合いなら良いんじゃない」一葉は口元を上げ、私を促す。「先に準備しちゃおうよ。ミナっち捕まえてさ」

「なに、私が行くの?」


 一葉の指先はその人集ひとだかりに向いていた。おそらくその中に湊がいるのだろう。まあ、先輩に挨拶は基本中の基本。そのついでと考えれば別に問題など皆無だ。

 背後に駆け寄り声を張って頭を垂れる。皆の視線が一斉に向く。ちらりと周囲を確認。和の中心にいる人物を視界に端に捉えた。


 赤茶色のロングヘアを風に流し、鋭い眼差しを宿した切長の目をした大人の女性。歳の頃は二十代前半辺りかなと勝手に想像。

 全体像が視界に入り服装を認識した瞬間、反射的に目が逸れた。龍と桜の刺繍のスカジャンが目に入った。これはおそらくそっち系の趣味の方だ。お近付きになるには、もう二、三壁を越えねばならないだろう。

 薄い唇には淡いルージュ。その口が弧を描く。


「礼儀正しい娘じゃない。一年生?」切長の目が荻野を射抜く。「ミウの一年の時よりマトモだね」

「まさか」荻野は愉しそうに口元を上げる。「従順なのは外側だけ。中身は外道ですよ。吐き出す言葉は周囲を切り裂く刃の如く」


 散々な言われ様。後で抗議しようと固く決意。とまあ、それはそれ。私は湊を見つけ出し、首根っこを掴む。


「準備するので、失礼します」頭を下げ、反応を見ずに湊を掻っ攫う。


 背後から悲鳴にも似た湊の叫び。


「おい、アンち、待ってって。自分で、自分で歩くから」


 湊の言葉を聞き流し、ブルペンの隣の用具小屋に急ぐ。

 ある程度の距離をとって、湊を解放。一息つく。


「怖えぇ、誰、あの人」ベンチに目だけを向けて、思ったままの言葉が口をつく。

「さあ? 誰かは知らないけど、良い人だ。私頭撫でられた」親指を立てて湊は口元を上げた。「和柄はヨーロッパでは評価高いんだ、それを選ぶってのはセンス良いんじゃね? ちょっと格好良いよなあ」

「ここは日本だっつうの」ぼやく様に言いながら湊を見る。どことなく切長というか吊り目の湊と先程の女性の顔が被る。軽口のつもりで言う。「つうか、お前も似合いそうだな、ああいうの」

「まじか。買った場所教えて貰おうかなあ」

「まじかよ」若干ドン引きである。

「ロリータよりは好みって話だよ。あんな動き難いブリブリしたヤツに比べれば……」

「まあ、そうだけど……」言ってから湊を二度見。恐る恐るきいた。「何か嗜んでいる様なニュアンスを感じたんだが、そういう、趣味がある?」

「いや」湊は諦観の滲む遠い目をした。「チェコの友達がそういう趣味で、一回着せられたけど、散々な目にあった。私は人形じゃねえぞ、ってなあ」


 私、爆笑。


「その写真無いの? すげえ見たいんだけど」

「ねえよ。そもそもさ、私ファッションに疎いからよく解んないんだよ。似合ってるって言われたらさ、そうかなって……」湊はいつかの様にモジモジして口を尖らせる。

「悪い悪い」私は湊の背を叩く。「ほんとに悩んでんなら話は聞くよ。ファッションって事なら四ノ宮も混ぜてさ」

「アンち、お前良い奴な」ぱあっとした笑顔を湊は見せる。その表情が不意に止まった。「え? アンちもお洒落するの?」

「おい、私をなんだと思ってんだよ」一息。「その話はまた今度な、さっさと準備しちゃおうぜ」

「お、おう」湊は頷き小屋に向かう。


 ぽん、と私の肩が叩かれる。振り向くと、満面の笑顔の一葉。


「何やら楽しそうな話をしてましたねえ」にぃと口元を曲げる。「その節は私も一枚噛ませてもらえればと、思う次第で」

「お前もかい」

「だって解んないんだもん。簡単にお洒落とか言うけどさ、動き易さなのか、見てくれなのか」

「機能性よりも見てくれだよ、ファッションなんて」首を振りながら答える。「だから、その話は後だって。今は準備だっつうの」

「解ってますよう」一葉は後ろで手を組み、スキップじみた足取りで小屋に駆け込んだ。


 普段の基本練習はグラウンド整備が終わり次第全員でアップ。その後、日によってまちまちではあるのだけれど、監督代行が来るまでの時間帯はポジションごとのグループに分かれての練習。ここ数年で培われてきた選手主導の練習は大屋体制に変わると同時に形を潜めていたものの、こういう監督不在時にはひょっこりと顔を出す。


 グループ練は各々の課題にもとづいた基礎トレーニングが多いのだけれど、練習にも楽しさを、というのが選手側の主張。日によっては内外野合同で試合形式のフリーバッティングなんかに置き換わる。バッテリィ組も基本は変わらないけれど、フリーがある時は交代でマウンドに上がるという仕組みだ。


 この日はフリーが選択され、一番手は私と香坂綾が指名された。

 綾は精力的にバッティングピッチャをこなしていて、バッテリィとして組むのは久々だった。


「どうよ、調子の程はさ」

「いやあ、バッピやって世界が広がった感じがするなあ」綾はしみじみと頷く。「打たれちゃいけないって制約が意味ない世界だから、力加減はこっちで決められるじゃん。感覚掴むのにはもってこいだ」

「じゃあ、今日はその制約で縛ろうよ」私は綾の背を叩く。「打たれんなよ?」

「まさか、アンちサイン出す気?」

「いや、お前の好きに投げて良いよ。基本ストレートで、三割変化球ってところかな」

「オッケ。私の進化具合について来れるかな?」

「それが事実だとこの先安泰だけどね」


 軽口を叩き合い、しまいにグラブを合わせ持ち場に着く。

 グラウンドでボール回しが淡々と行われる中、綾との久しぶりの感覚に身を委ねる。構えた所からは少し外れるけれど、以前とは違う強い球。


 彼女の制球力の正体は、詰まる所、置きにいっているという物。力が乗っていないそれは紅白戦時直ぐに露見し打ち込まれた。いくら際どい所を突こうとも、球威もなく速さもなければ打たれるのは必至。そこに私の角しか狙わないリードが重なれば、結果なんて火を見るよりも明らかだった。


 先輩の助言で使い出した速い球が基本となる様に、綾は自身の基準を変えた。以前ほどのドンピシャでは無いけれど、やはり逆球は無い。あとは実際打者を前にしてのブレ幅がどれほどか、だ。


「この絵はあの時以来だね」この日の一人目、千家知沙がグラウンドを眺めながら言う。「まあ、香坂だけなら何度も打ってるけど」

「今日はサインとか無いすよ。私は捕るだけ」

「別にそんな制限ないでしょ。寧ろ出して貰った方が練習になる。気持ち良く打つだけの練習なんて大して意味ない、私には」

「そうですか、解りました」


 言いながら私は立ち上がり綾を手招く。私もまたマウンドに向かう。

 流石は千家といった所。自分で練習のハードルを上げ、常に課題を己に課す。一年生でレギュラ入りしたのも頷ける。とは言え、こんな事を言われたのは初めてだった。別の組み合わせでは何度か千家とは相対している。おそらく彼女は紅白戦の続きを所望なのだろうな、と勝手に想像する。


「サイン出せって」ちらりと私は千家に目を向ける。

「あ、そう。じゃ任せた」綾は言う。「知沙先輩、武士だからなあ。普段の打撃練でも、打ち取るつもりで投げろって言ってくるから。打席とは一騎討ちなんだってさ」

「あ、そう」意識が高いのは良い事なんだろうけれど、どことなく乾いた笑いが出そうになる。「まあ、そっちの方が私らの練習にもなるしな」

「そゆことだ。頼むよ、アンち」


 グラブを重ねて、再び持ち場に戻る。


「話し合いは終わったの?」千家がきいた。

「ええ。試合と同じ様にやらせて貰います」

「それで良い」千家は頷く。「打席での殺るか殺られるかの一瞬がなんとも心地良いの。緊張感は常に持っておきたいから」


 成る程、武士だな、いや、剣豪かな、なんて事を考え、千家の程好く引き締まった身体に乗る童顔を思い出しギャップに吹き出しそうになる。


 試合形式とは言うものの打撃練習に寄っている。なので形式としては一人ストライク十球。安打でもファールでも、打とうが見逃そうが十球で次の人と交代という流れ。

 カウントの意味が無いので捕手は基本捕るだけなのだけれども、打者本人からの申し出なのでやり方を少し変える。大まかな三打席勝負、といった所だ。


 さてさて、どうしましょうかね。

 時間を経て、互いを知っているので、様子見はあまり意味が無い。真っ向勝負を選択。初球から際どい所を攻めてやる。

 という事で、先ずは外角低めにストレート。

 このサインを出す行為自体がもう新鮮だった。試合とそれに向けての練習の繰り返しで、なかなか私自身がその立場にならなかったので、飢えていたのだろうなと分析。

 相変わらずの力みの無いフォームから腕が出て、要求通りに球が来る。少し内に入っているけれど、十分アウトローだ。

 けれど、千家は逆らわずにうまく合わせショートの頭を越す。


「はい、レフト前」童顔が嬉しそうに口元を上げる。「良いコースだけど、私外得意なんだよね」

「やっぱり、ミートうまいですね。正直ショート越すとは思わなかったです」

「読み勝ちなだけ。角突いてくるんだろうなって思ってたから」


 またしても私の所為か。とは言え、読んでいてもあのコースは中々打てるものじゃない。彼女のバッティングセンスありきの技だとも思う。


「まあ、次は打たせませんから」

「期待してるよ」千家は笑う。


 結局千家には十球中六球を安打にされた。さすがは一番バッター。ただ、緩い球は苦手らしく、

そこが課題だと本人も悟っていた様子。実際、凡打に終わった四球はシンカーないしカーブだった。 


 課題と克服。常にそれを考え行動する。

 この思考がチーム全体に浸透すれば、否が応にも個人の練習効率は向上し、ひいてはチーム力の底上げに通ずる。各々が何を考えながら打席に入るのか、それが解る練習でもあった。

 レギュラ陣は軒並み意思は統一されていたのだけれど、やはりというか、中には未だ幻想から脱却出来ていない者もいる。調整の仕方は人それぞれではあるのだけれど、高い意識を持つ者を見た所為か、私の中で境界線が出来ていたのは事実だった。亀裂はこんな所にまで浸透している。


 その後、小澤、杏樹とこなし、荻野が打席に立った時、漸く大屋監督代行がグラウンドに姿を見せた。

 苛立ちは日に日に増し、表面に滲み出ているのを隠しもしない。眉間に皺を刻み、怒気の籠った声で集合を掛ける。最近の定番であるお小言が始まろうとした時、不意に大屋は目を見開いた。その目線は一塁ベンチに固定される。

 いつかの関谷みなみの様に表情から色が抜ける。


 半開きの口のまま固まった先には、腕を組んだスカジャンの女性が不敵な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。

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