But never look back 〜 ただし決して振り返ってはならない 〜
それはまるで深い海の底の様。
暗く、冷たく、重い静寂だけが支配する。
車窓に流れる春の景色も、浮かれる様な華やかな街並みも、底に沈んで眺めるのであれば色を失う。ある者は失望と憤りで、またある者は自責と焦燥、負の感情で雁字搦めになって、大半の者が自分の奥底で丸くなっている、そんな印象。
蟻がどれだけ奮起しようとも自分には勝てないと熊は確信していた。
けれど、それは熊が勝手に相手を蟻だと思っていただけ。地べたを這いずっていようとも、地蜂は蟻ではない。ただそれだけの事。
沈む車内。帰路へ動き出した直ぐ後でぽつりと言葉が降る。
「失望した」
大屋監督代行の発した言葉以降、車内で口を開く者は数少ない。
沈んでいない者もまた何かしらの思いを胸に口を閉ざす。故に車内は静寂に包まれ、バスのモーター音だけが虚しく響いていた。
窓枠に無理やり肘をつき、気持ちを紛らわす為に外に目を落とす。午後の街並みが流れてゆく。隣に悟られない様に小さく溜息。組んだ足が勝手に貧乏揺すりを始めるのを慌てて留める。
私は苛立っていた。
初回こそ、上々の立ち上がり。三点のリードに、三者凡退。入りとしては申し分なかったのは確かだ。二回、三回と一点ずつを重ね、相手は未だに無安打無得点のまま、四回を迎えた。
表の攻撃、こちらは三者凡退でありながらも、リードは五点。笑みも溢れよう。
その裏。ついに、というよりは満を持してという風に私の目には映ったのだけれど、志水館の目が開く。
それまでとは打って変わって、連打を重ねられ、初回の私達と似た様な展開で二点を失う。アウト一つを取って再び連打。エラーも絡んでさらに二失点。あっという間にリードは一点まで縮む。
チーム内に焦りが芽生え次からの攻撃が前のめりになった。
こうなった時、物を言うのが経験だ。僅差の試合を制した、ギリギリの勝負に打ち勝ったという経験。そういう経験を持つ者であれば対処の仕方を知っている。ただ、向こうのエース、門脇にもそれがあった。故に差は縮まらない。
三部だと侮る事なかれ。
真の王者はどの様な時でも相手を下に見る事はない。何故なら彼我の差など然してないという事を知っているから。いかなる相手であろうとも、最善を尽くすのが真の王の振る舞いだ。
けれど、我こそは強者と甘んじている者はそこに気付けない。
巡り合わせも悪かった。
安打は出るけれど繋がらない。寸での所で切り抜けられる。こちらの追加点に対し、向こうはその倍で食らい付いてくる。
最終回を迎えた時、点差は真逆になっていた。
結局、九対七というスコアで、私達は初戦を落とした。
負けた要因は明白だ。
先ず、練度の低さ。単純な個人のエラーに始まり、連携ミス、野手選択の原因となった判断ミスと稚拙なプレイに終始し、打撃もチームバッティングとは言えない個人技が光るだけの内容。それでも点は取れるのだから、そこは良い選手が集まっている証拠ではあるとは思う。ただ、噛み合ってはいない。
そして、浮き彫りになった現実。苛立つ要因。危惧していた者の憤りは臨界点を迎える。
影がやや長くなり始めた頃、私達は葉山の地に戻って来た。
バスを降り、運転をしてくれた顧問の教諭に皆で頭を下げる。眉尻を下げ、慰めじみた言葉を残し彼は去ってゆく。
陽はまだある。反省会を挟み、浮き彫りにされた課題をこなすべく練習かと思っていると、その場で集合がかけられた。
皆の前に立つ監督代行は一言だけ吐いた。
「頭を冷やせ」
その言葉にどの様なニュアンスが含まれているかすら伝えずに、大屋は苛立ちを露わにその場を後にした。
困惑する皆。そこに女帝の言葉が降る。
「現実を受け入れなさい。手を抜いた訳でないのならこれが現実。次に向けて各々課題を見つけ取り組む事。この後は自由。グラウンドを使いたい者は、各自準備して現地集合。では解散」
三々五々散り散りなる中で一人の乙女が動き出す。
澄ました顔で、帰路に着こうとするこの日の敗戦投手に突っかかる。
「青山さん」関谷みなみにしては珍しい低い声で圭を呼び止め、彼女の肩に手を伸ばす。
圭はするりとみなみの手を躱し、首を傾けた。凍てつく様な冷たい目。
「ピッチャーの肩を掴もうとするなよ」
みなみの頬がピクリと動く。圭の言葉を流し、眉間に皺を寄せた。
「今日の投球、何あれ。あんなので抑えられると思ってるの? いくら格下だからって公式戦なの、少しは真面目にやってよ」
聞いていて再び苛立ちが舞い上がる。私の苛立ちの原因は関谷みなみに他ならない。今日の敗因はコイツと言っても過言ではない、と私は思う。
「真面目?」圭は表情を変えずに続ける。「そっくりそのまま返すよ。お前こそ真面目に……、いや」圭は首を振り、見下す様な冷たい目でみなみを刺す。「もう、辞めろよ、キャッチャ」
「はあ? 何で青山さんにそんな事言われないといけないの? 手を抜いてる人にそんな事言われたくないんだけど」語気が強くなり、みなみもまた強い視線を圭に返す。
私は間に入るつもりも無い。おそらくこの場に二人を止めようとする者はいないだろう。理解ある者には対立は明白であるし、割って入る勇者にメリットも無い。皆遠巻きに眺めているだけだった。
「じゃあ聞くけど、何でスライダーをああいう使い方にした? あれは選択肢の一つってだけで、決め球じゃない。私の球捕ってる癖にそんな事も判断出来ないのか」
「何をいうかな、青山さんは」みなみは嘲笑じみた溜息を漏らす。「そもそも、球種が少ない青山さんの方に問題があるんじゃない。少ない球種でやりくりするこっちの事も考えて欲しいんだけど」
コイツ、本気でそんな事言ってんのか、と改めて唖然とする。まあ、確かにこういうヤツではある。捕手からすれば選択肢が多いのに越した事は無い。にも拘らず、自ら使えない使わない、という選択をしておきながらこの言い草。苛立ちも相まって、軽い目眩。
圭はちらりと、女帝に目を向けた。
荻野は何も言わずただ悠然と佇んでいた。
圭は小さく溜息を吐く。何かを決意した様に冷たい目に昏い光が宿る。
「おい、クソメガネ。お前ならどうするよ」
お前もメガネだろ、という定番のツッコミを呑み込み、さらりと流してやる。ご指名はありがたいのだけれど、苛立ちを内包する今の私で良いのだろうか。確認は必要な手続きだ。ちらりと荻野に目をやる。女帝は微かな溜息を吐いて、小さく頷いた。
これはGOサインかと受け取り、時は来た、と第三の御使が角笛を吹く。
終末の幕が上がる。ついにニガヨモギが降る。
「私なら、カーブを使う」私は圭を見遣る。「空振り取るなら、あれが一番良い、そうだろ?」
「まあね」圭は少しだけ口元を上げる。「関谷、お前が使えないと判断した球を使うと、控えの捕手は言ってるけど?」
「だからさ」みなみは盛大に溜息を吐く。「あんな球使えないって何回言ったらわかるの? そんな球に固執しないで、別の球覚えた方が良いよ? それに、意見っていったって、斑目さんのでしょ。申し訳ないけど、参考にはならないかも」
同情の様な、憐れみの様な眼差しをみなみは一瞬私に向けた。
「だ、そうだ」圭は今度はしっかりと笑みを浮かべる。酷く冷たい笑みが私に向く。
みなみの視線は置いておいて、コイツ、まさか私にみなみの引導を渡させるつもりではなかろうか。まあ、試合を経て、どのみち通らなければならない道になってしまったのは確かなのだけれど。
仕様が無い。やむなしだ。
「そのカーブを使わなかった結果が今日の負けじゃないの?」
「あのさあ」苛立ちを滲ませた声でみなみは続ける。「使った所で、見送られるだけだって何回言えば良いの」
「なあ、青山」一旦みなみを放置して、私は今日の敗戦投手の名前を呼んだ。「お前、過去の奪三振率ってどの位よ」
「さあ? 正確な数字は知らない。ただ……」圭は自信に満ち溢れた表情を浮かべる。「最低でも一試合の三分の一は三振でアウト貰ってるな。覚えている中だと、最高で七者連続だったかな」
「って、言ってるけど?」
「それが何? ここは高校。中学時代の記録なんて役に立たないじゃん」
「お前、根本から間違ってるよ」みなみを指差し私は続ける。「青山は打たせてとるタイプの投手じゃない。三振が取れる投手なの。見逃しでもファールでも何でも良いから追い込んで、変化の大きい球で空振りさせる。こいつのカーブなんてお手本の様な球じゃねえか。まあ、大きい変化だからさ、お前のいう通り見送られる事もあるだろうけど、それならそれを逆手に取る事も出来る。その球をどう使うかは捕手に委ねられる。関谷はそれを使わない、使えないって判断をした。で、今日の結果はどうよ。何個三振とったよ」
みなみより先に圭が答えた。
「ゼロだな」圭は自嘲気味に苦笑する。「捕手の言う通りに投げた結果、三振ゼロ、自責点は五ってとこか。こんなの初めてだよ。高校での初戦がこんなだとはね」
プライドの塊の様なヤツが肩を竦め苦笑している。好きになれないヤツではあるけれど同情する。
改めてみなみに向き直る。
「三振取れる技術があって、過去の成績もそれを裏付けしてる投手が、何でこんな結果になってしまったのか。相手が上だった? それとも調子が悪かったから? 違うだろ」私はみなみの鼻元に指を突きつける。「それは今日捕手を務めたお前の責任じゃないの? 今まで武器だった球を使わない。これだけで選択肢が一つ減る。打者はよりヤマを張りやすくなる。しかも、カーブを使わないとなると、緩急も使えない。いくら良いストレートがあっても、それだけで抑えられるほど、今日の相手は弱くないだろ。それとも、その程度で抑えられると思ってたの?」
私は首を振り一呼吸入れる。
「だとしたら、相手に対するリスペクトが無さ過ぎるよ」
目を見張るみなみの瞳が潤んでゆく。
「なんで……、なんでそんな事言うの? 何? 私が悪いの?」みなみの目から涙が溢れる。口を結び、握った拳が微かに震えている。「打たれたのは青山さんじゃない!」
「だから、打たれる球を投げさせたのは関谷でしょ?」ゆっくりと言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。
「しょうがないじゃない」みなみ嗚咽混じりに叫ぶ。「使える球がないんだから」
「さっきも言ったけど、使う使わないは、捕手の判断と組み立てによって決まる。そう判断したのは関谷だろ。その結果が今日出ただけでしょ」
「なんで、皆して私が悪いみたいに責めるの。おかしくない? 私だって頑張って……」
「それは言っちゃダメだろ」傍観していた湊が呆れ混じりに口を出した。「頑張ってるってのは、誰かに言って貰うもんだろ。そんな主張されたって、私らは何を言えば良いんだよ。表面だけの慰めなんて何の役にも立たないだろ」
「お前には言われたくない!」みなみは眉根を寄せ湊を睨む。「私の事が嫌いならそれで良いけど、こういう時に便乗して攻撃してくるなんて、人としてどうかしてる」
ええと、もう何が何やら、と湊が救いを求める子羊の様な目で私を見る。みなみを指差しながら、私の耳元で囁く。
「アンち、コイツ何言ってんの?」
「……大丈夫、お前は間違ってない。けど、少し黙っててくれよう」余計な対立は更なる乱れを呼び込む。収拾がつかなくなる前に湊を諫める。「多分だけど、お前に拒否された事根に持ってるんだろ。だからお前の言葉は全て煽りに変換されてんの」
「とばっちり」湊は天を仰いだ。
まあ、その通りかな、なんて事を思いながら、事態を収束させるべく切り替える。おそらく、私の口から零れ落ちる言葉は、鋭利な刃物に似た何かになるだろう。
「関谷さ」なるべく冷静に務め、言葉を選ぶ。「お前にはお前のポリシィがある様にさ、私には私の、夏目には夏目のポリシィがあるの。ここまでは解る?」
みなみが頷くのを待ってから続ける。
「それを否定されたら誰だって嫌に感じる。夏目はお前を嫌ってるんじゃなくて、信用してないだけ」
「ちょい、アンち」湊が私の袖を引っ張る。
まあまあ、と湊を軽く宥めて、みなみに向き直る。
「捕手ってのは、投手をコントロールしなきゃならない。それってさ、支配するのとは違うでしょ。まあ、力関係もあるだろうけどさ。ここみたいにそれなりに力のあるヤツが集まる様な場所では、やっぱり相手へのリスペクトって絶対必要だと思うよ。関谷って、私が私がじゃん。実際はどうか解らないけど、側からすれば相手の事考えてない様に見える。そんな態度取ってるヤツを信頼出来る?」私は表に出さない様に深呼吸する。鋭い物が飛び出る前兆。「それにさ、関谷って捕球技術拙いから、投手としては不安だろうし」
みなみは私を睨む。
「私が下手って言いたいの? 斑目さんには言われたくないんだけど」
「だって弾いてたじゃん。青山の球。悪いけど、私は青山のカーブだろうがスライダーだろうが、捕るだけなら、ノーサインでも捕れるよ」
「私だって捕ってる!」鼻声になりながらもみなみは尚も食らい付く。既に目は真っ赤だった。
「そりゃあ、キャッチャやってれば捕れるでしょ。それ位こなせなければ、ここにいる資格は無いと思うし。それにさ……」
私は溜息を呑み込み、深呼吸に変える。止めまで後僅か。
「関谷がいつも言ってるよね。私達は勝つ為にここにいるって。今日勝てなかったけど?」
「私の責任じゃない!」
「まあさ、受け取り方は人それぞれだし、今日の結果をどう生かすかも個人に委ねられる。だとしてもさ、五回の野手選択は確実に関谷の判断が遅れた結果。別にあそこは無理するとこでもなかった。出来ると思った? 現状の練度の低い内野陣で」
「だから」みなみは両拳を握る。「私の責任じゃ……」
「投手もそう。野手陣もそう。現状の戦力を客観的に見なければ最善の選択なんて出来やしないんだよ。誰かに責任転嫁する前に、まず自分を省みなよ」
みなみは手の甲で目尻を擦る。充血した目に憤怒の光。
「何でお前にそこまで言われなくちゃなんねえんだよ? お情けでメンバ入りしたクセに」みなみの口調が荒々しくなる。「打てねえ、守れねえなら、さっさと外野でも何でも行ってくれよ。迷惑なんだよ」
苛立ちから怒りへ。怒りを通り過ぎ、一周回って冷静に。コイツは一回どん底に突き落とさないとダメだ。自分が今いる位置を解らせないと、もうどうにもならない、と改めて思う。
故に私の言葉は鋭さを増す。
「あのさ、さっきから泣いてるみたいだけど、泣いてどうにかなるの? 泣けば誰かが手を差し伸べてくれると思ってるの? 勝つ為にここにいるんだろ? ならこの場は強い者が上に行く競争だ。誰も助けてなんかくれない。甘いよお前。それにさ、勝つ為を謳うなら、この程度で泣いてるメンタルでこの先やって行けるの? 悪いけど、無理だよ。良い加減気づけよ。夏目に相手にされてない。青山もきっと見切りを付けてる。投手から信頼されてない時点で、お前は捕手の役目を果たしてない。私にどうこう言った所で、誰も認めねえだろが」
「斑目」女帝の言葉が降る。「流石に言い過ぎね」
まだまだ言葉は湧き出るけれど、女帝のお達しならば仕方がないと、寸での所でそれらを呑み込む。
「関谷」荻野は静かに語りかける。「いずれこの狂った現状は終わりを迎える。貴女の自信は崩壊し、一個の選手として皆と同じ場所に立つ事になる。そこからどう動くかは貴女次第。今日貴女が青山を使えていたらまた違ったのでしょうけれど、出てしまった結果は変えられないわ。貴女は青山を使えなかった。だから負けた。今日の敗戦は大屋先生の責任。こうなるだろう事は事前に予測出来た筈なのにね。残念ね」荻野はそう言って優雅な笑みを浮かべた。
「お前がそそのかしたからだろ」みなみは辛辣な言葉を女帝に向けた。
荻野は酷く冷めた目でみなみを見下ろす。
「私達が出ずとも勝てると判断したのは貴女達。私が唆したですって? まったく、私が何を唆すのかしら。実力があるのなら、どの様な境遇においても勝ちを手にする事が出来るのではなくて? でも勝てなかった。その事をいい加減認めなさいな」
荻野は凛とした雰囲気を纏い身を翻す。その背が決別を示している様に私は感じた。私もそう、荻野もそう、私達はついに線を引いたのだ。曖昧模糊とした現状に現実という名の境界線を。
「関谷ぃ」ゆらりとしたシルエットで、みなみの肩に腕が伸びる。彼女の泣き腫らした顔の横に、不敵な笑みを浮かべた上条の顔が浮かび上がる。「贔屓で出た試合はどうだった? 楽しかった?」
「カミ!」荻野が柄になく焦った様な声を上げた。
「ミウ、いいの。これは私の禊みたいなもんだから」上条は荻野に向けて力無い笑みを向ける。
「その手どけてくれませんか、負け犬の上条先輩」みなみが呟く様に言う。涙の跡が残る顔には何故か勝ち誇った様な笑み。
みなみの吐き出した辛辣な言葉に反応を見せず、上条はただ笑みを浮かべていた。
「まあ、私も贔屓されていた側だから、言える立場ではないかもしんないよ。でもさ、お前と違うのは、私は自分の力でこの地位にいるって事。誰かの庇護の下、ぬるま湯に浸かったままのお前とは違うんだよ。ここはさ、野球するとこなんだよ。私はいつだってそれを忘れてはいない」
みなみは強引に上条の腕を振り解いた。すぐに距離を取る。不敵な笑みは上書きされる。昏い光が目に宿る。
「大屋監督と一緒に居たいからって代表を辞退した人の言葉とは思えませんねえ」周りに聞こえる様にみなみは声を張った。
「関谷!」荻野がみなみの胸ぐらを掴む。「有る事無い事言うものではないわ」
「事実じゃないですか」みなみは口元を上げる。「私聞きましたよ?」
「ミウ、いいから」上条は荻野の手に触れ、その手を下ろす。笑みを浮かべたまま、みなみに向き直る。「関谷、それは大屋先生から聞いた事だろう? どうなのさ」
みなみは逡巡した後、勝ち誇った笑みを浮かべ頷いた。
「まあ、そうですね。色々聞きましたよ、監督の気を引こうとあの手この手を使った事も」
「まあ、間違いじゃないよ」上条は少し恥ずかしそうに笑う。「ただ、少し解釈が違う」
「解釈も何も、やってる事は恋する乙女と変わらないじゃないですか」
「行動自体は否定はしないよ。恋愛感情かどうかは置いといて、依存していたのは事実だから。私はさ、自分に自信がないんだ。だから、誰かにこっちを向いていて貰う事に必死だった。当時は縋るものがそこしかなかったし」上条は遠い目をする。「でもだからって、私のやる事は変わらないんだ。私は投手としてここにいる。投手である事が、私の唯一のアイデンティティ。だから手を抜かない、常に上を見る。寵愛がある事と実力はイクォールではない。お前は主観が強過ぎる。客観的に自分を省みれないヤツは、これ以上、上にはいけない」
「先輩、負け惜しみですかぁ」みなみは見下す様な目を上条に向ける。
「大屋先生の寵愛という意味でなら、別に負けでも良いよ。私にはもういらないものだし」上条は小さく溜息を吐いた。「あとね、先輩としての助言だけど、あの人はやめておいた方が良い。ついて行っても、あの人の傍にお前の居場所はきっと無い」
みなみは鼻で嗤い、憐れみの籠った笑みを浮かべた。
「だから、負け惜しみにしか聞こえませんってば」
「ま、お前がどう思おうと別に良いんだけどね」
上条は肩を竦め、鞄から携帯端末を取り出した。片手で操作し、徐にみなみの耳元に突き付けた。
「何するん……」
距離を取ろうとするみなみの動きが止まった。
表情から徐々に色が褪せていく。
人形じみたぎこちない動きで、無色の目が上条を捉える。頬を引き攣らせ乾いた笑いが溢れる。
「は? はは……」不意に我に返り、みなみは再び上条から距離を取る。強がりにも聞こえる声で言葉を放つ。語尾が微かに震えていた。「こ、こんな物が、何だって、言うんですか」
「これが現実。信じる信じないはお前の好きにすればいいけど」上条はぽつりと言った。「寵愛を受けるのはお姫様とは限らない。寧ろここには姫なんていない。彼が欲したのは従順な僕であり、泡沫の夢に魅せられた哀れな灰被り。私達はあの人の夢を叶える為に着飾らされた量産型のお人形」
「そんな……、嘘だ」みなみは消え入りそうな声で呟く。
荻野がそっと上条の横に立ち、彼女の肩に手を置いた。
「無知は罪、とは言うけれど、無知だからこそ見える景色もある。そのお陰で私達は救われる。慣れてしまえば、異常も日常に上書きされる。異常だと解っていてもそこの居心地が良ければ居座ってしまう。弱さは仕方が無いけれど、この狂った現実を正常に戻さない限り私達の未来は無い」荻野は、一回り萎んでしまった様なみなみを見下ろす。「現実が見れて良かったわね」
しん、と静まる場に春風が流れ込む。
頬を撫でる少しだけ冷たい風。流された髪を耳にかけ、上条はしなだれたみなみの胸ぐらを掴み、遠巻きで見守る大勢に目を向ける。初めて見る表情。その目に普段の彼女が宿す陽気さは微塵も無かった。
皆が息を呑む。
「どんなに狂っていようが結果がついてくるのならまだ良かったよ。けど、贔屓で出て勝てる程、お前らは上手かったのか?」再び大勢を見回す。「私が言える事では無いのかもしれないけど、ここは野球する為の場所だよな。この中で私からヒット打てるヤツがどれくらいいるよ? その程度の力量で勝てると盲信してるヤツは今この場で辞退しろ。番号を返上しろ。信用出来ないバックで投げる程、私の球は安くない」
空気が固まった。女帝すらも一瞬その空気に呑まれ静止した。けれど、女帝は女帝、いち早くそこから離脱し表情を緩める。
「貴女がそこまで言うなんて、ね」荻野が今度は上条の手に触れる。そっと下ろし、一回り縮んだ様に見えるみなみに声を掛けた。「貴女も被害者、なんて事を言う気はない。現実には魔法は無いの。今日、その事を証明してしまったのだから。王の寵愛を受けし姫なんてもうどこにもいない。いたのは勘違いしたただの女の子。これからの事は貴女が自分で決めればいい。チームに必要だと判断されれば、居場所はあるのだから」
荻野は取り巻く大勢に顔を傾け続ける。
「勝ちに繋がるのであれば、誰に何と思われようが私は構わないわ。ただ、自分の虚栄心の為に誰かを貶める行為をするのであれば、見過ごす事は出来ない」荻野は冷徹な眼差しを一点に向ける。「貴女ね、大島。今の悪政の継続を望んでいる張本人は。そんなに気に食わなかったのかしら、外野手転向。何処を守ろうとも、レギュラにはなれたじゃない。それとも、自分はチームの中心にいるべきだと勘違いしていたのかしら。どんな甘言を用いようとも、実力がなければ罷り通らない。貴女に従った者達は悲惨ね。水面に映った月を得ようともがく犬だわ」
「大島ぁ」上条もまた昏い目を向ける。「辞退しろ。お前の様な浅はかなヤツ、後ろにいて欲しく無いんだわ」
「ああ、これでチームはバラバラになってしまったわね」荻野は悲劇のヒロインじみた笑みを浮かべる。「これからの試合勝てるか不安だわ」
一転して嘲る様な笑みに変わった荻野の顔には不安の感情は一欠片もなかった。
言葉と感情が一致していない。それでも彼女からは強烈な意思の力を感じる。彼女の見据えるもの。それはきっと痛みの先にある。
だから。
女帝は遂にその手の剣を振るったのだ。破滅の一振り。崩壊の序曲。
公式戦の最序盤において、女帝は自らチームの亀裂を更に深いものにした。




