Adolescent balance 〜 思春期の均衡 〜
その類い稀な才能は環境にも恵まれていた。
地方の素封家の箱入り娘は、とある夏に宝石の様な輝きを見つけた。それは何不自由の無い生活を送る彼女であっても決して手に入れられなかったもの。箱入りであるが故に、繋がれる手にぎこちなさを覚えていた彼女にとって、それはとても眩しく——。
上条祥子は分かち合う事を欲していた。
上条の娘として一線を引かれ、皆が気を遣う毎日。その境界線を取り払おうにも、家の威光は中々消えず、触れ合う手はぎこちない。仲の良い子はいた。けれど、何もかも打ち明けられる友達にはなれなかった。相手がなってくれなかったから。外をあまり知らない箱入り娘は、自分を取り巻く環境が全て。外を知らないからこそ、それが一般とずれていた事に気付けない。気付いた時には、彼我の溝はあまりに深くなり、埋める事は困難だった。
そんな鬱屈した思いに駆られた夏。遊びに誘ってくれる子もいない孤独な少女は、画面の奥で喜びを分かち合う球児に目を奪われた。
スポーツは実力が物を言う弱肉強食の世界。上条の名が轟かない場所でなら、同じ世界を観れるのではないかと少女は思う。両親を説き伏せ、家からは少し離れたクラブに入団した彼女は新しい世界に心躍らせる。
けれど。共感とはある程度同じ感覚を持っていなければ成立しない。
上条の名に意味のない場所であっても、箱入り娘は浮いてしまう。その類い稀な才能がそうさせた。そのクラブが強い所ではなかったのも原因の一つではあったのだけれど、頭二つ分は飛び抜けていた才能が平等な関係を築かせてはくれなかった。尊敬は畏怖へと変わり、最終的には彼女におんぶに抱っこの関係性。分かち合うには程遠く、箱入り娘は新たな場所でも孤独だった。
それでも彼女にとっては、教室にいるよりはグラウンドにいる方が孤独ではなかった。だからより熱心に打ち込んだ。チーム内での彼我の差は開いてゆく一方ではあったけれど、本人の実力は伸び、噂は大きくなった。
中学三年時、交流試合の為の県選抜に選ばれた。そこで彼女は初めて同じ目線を共有出来る人間に出会った。燻んだ世界が色鮮やかに変わる。繋いだ手を握り返してくれる人がいる場所。求めていたものに手が届いた瞬間だった。
「境遇が似ていたから、つい口実にしてしまったのよ」荻野は上条の過去を大まかに語った後でそう口にした。「貴女も捕手なら解るでしょう? 良い投手は欲しいじゃない」
その交流試合の後、荻野は上条を鳴海大に誘ったのだそうだ。
同じ目線で語り合える場所を欲していた上条。同い年の優秀な投手が欲しかった荻野。この時点で荻野は鳴海大から誘いが来ていたそうで、上条の入学に関しても融通が効くと思ったそうだ。そして、その鳴海大には、上条と同じ様な境遇で勝ち上がった大屋茂春がいた。
「当時の上条にとって大屋先生は同じ道で成功を勝ち取った者だった。自分がなし得なかった事を、彼はやり遂げたのだもの。尊敬の目で見ていた」荻野は小さく首を振り、自虐的に笑う。「けれど、その尊敬が憧れに変わり、いつしか恋愛対象になるなんてね」
「別物じゃないんですか、そうゆうの」杏樹が人差し指を口元に当て、小首を傾げた。
「普通はね」荻野は力無く笑う。「上条の世界が開かれたのは高校に入ってからなの。人付き合いもままならない孤独な生活の果てに開いた世界。近しい場所に尊敬する人物。同じ場所目指し、彼我の距離は斯くも近い」
「でもですよ」杏樹はまだ喰らい付く。「たとえそうだとしても、そうなりますかね。だって教師と生徒ですよ? 少女漫画じゃないんだから」
「そう。だから、上条だけの問題ではないと私は思っている」
「まさか……」言葉を呑み込み、杏樹は周りに目線を流す。
私もまた同じ気持ちだった。
信頼って言葉あるよね、って思う。実際似た様な事がニュースになっているのを聞いた事もあるので、真っ向から有り得ませんなんて言う事は出来ない。出来ないけれど、そこはしっかりと各々が境界線を張って住み分けなければならない事だと思う。そもそもが倫理的にダメだ。もし表に出れば、真実がどうであれ、それなりの反響はある。そんな事も解らない年齢では無いだろうに。
「恋は盲目。それだけで片付けるには大き過ぎる問題なの」荻野は珍しく本心からの溜息を吐いた。「私としては上条にはこの先も野球を続けて欲しい。あの才能をこんな所で終わらせて欲しくはない。けれど、現状は受け入れ難く、答えが見えている以上強行する事も出来ない。結局我が儘なのよ、私達の」
荻野の気持ちはよく解る。
今は同じチームでは無いけれど、明日香が同じ様な事になれば、私も荻野と同じ事を思うだろう。とは言え、出来る事はするつもりなのだけれど、結局私は相手に委ねるのだろうな、と思う。決断するのは本人だ。歓喜も後悔も本人の決断の先にある。手を差し伸べたり、背中を押す事は私でも出来るだろう、けれど決めるのは私ではない。私が決めるのは、答えが出た後、それをどう受け止めるかだ。
「今泉監督や学校に言えば、監督権の剥奪は簡単。でもその代わりに上条のモチベーションも剥奪される」荻野は小さく息を吐いた。「斑目、貴女なら解るでしょう? U-18に選ばれる投手をおいそれと切れる?」
「え?」私は目を見開く。「上条先輩って代表なんですか」
「辞退し続けてるけれどね」荻野は小さく首を振った。「あの才能を終わらせるなんて事、私には出来ない」
「同意します、私も。でもそれじゃあ、上条先輩をとるか、不当な扱いを受けているチームメイトを取るかっていう、究極の二択になるじゃ無いですか。それにですよ……」私はふと浮かんだ発想を口にする。おそらくそれは、荻野達には受け入れられるけれど、他からは恨まれる発想。「荻野先輩達の夏が終わった後で、学校なりに報告すればいいんじゃ無いですか。そうすれば、上条先輩と最後まで共に出来ますよね」
少し間を置いて荻野は力無く笑う。
「そんなの根本的な解決にはならないじゃない。このまま時間を伸ばした所で、上条は変わらないだろうし、夏が終わった時点であの子はグラブを置く。それに、貴女達の様な才気溢れる若人の時間を無駄にする訳にはいかないし」
「じゃあ……」
「だから、結論はもう出ているの」
「はあ」
結論が出ているのならば、今までのやり取りは何だったんだと言いたい。言わないけれど。よくよく考えてみれば、私達の様な新入生に相談を持ちかける話でも無いだろう。持ちかけた所で大した案が出るわけでもなし、茶番というのなら、まさにその通りだ。ただ、部に内包される不穏さの理解は進んだのは事実。先輩方の人柄も解ったし、まるっきり無駄では無い事は確かだった。
「少し前の私達だったら、ここで悩み続けていたでしょうね。でも今は違うの」荻野は凛とした雰囲気を纏う。グラウンドで見た彼女のそれ。強い眼差しが語る。「やはりおかしいのよ。こんな事。ね、佳奈」
話を振られ、新川は荻野に向けて小さく頷いた。直ぐに顔を正面に戻す。
「皆、ごめんなさい。特に一年生。初日からこんな話に首を突っ込まさせてしまって。まわりくどい説明も謝罪します」新川は頭を下げた。「でも、こんな現状がある事を知っていて欲しかったし、それがもう少し続く事も解って欲しかったの」
「それと、何処かの誰かさんが暴走するのを防ぐ為にもね」坂巻が苦笑を浮かべ口元を上げた。
視線は私に向いていた。どうにも誤解されている様な気がしない事もない。言いたい事は言う性格だとは思うけれど、流石に空気は読みますよ。私もまた空気を読める乙女なのだから。
「私達もね、佳奈に言われて漸く合点がいったの」荻野が力無く笑う。「また斑目にきくけれど、試合でおかしいとは思わなかった? 最後の打席での一件」
「はあ」言いながら、思い出す。最後の打席。確かバッテリィ間のいざこざが……。「なんか揉めてましたね、そういえば」
「どう思った?」
「ええと……」言い難い内容なだけに、少々口籠る。
「言い難いなら、私が言いましょうか」荻野が口元を上げた。優雅な笑みの割に眼差しは冷たい。「関谷は捕手としては未熟。青山の言い分の方が正しい。どう?」
「……ええ、まあ」言いながら目を逸らす。
誰にも言わなかったし、言う機会も無かったのだけれど、確かに荻野の言う通りの事を私も感じていた。大屋の事を訝しんだ要因の一つではあった。あれは圭が正しい。あれだけ弾いていたら投手は投げ難いだろうし、捕手を信頼出来なくなる。出会ってから時間がないという事があったにせよ、首を振った回数も多い。投手の意向を汲めていない証拠だ。
「あいつ下手だよな」湊が直球を投げ込み、私に同意を求める。「投げづらいったらないよ。その割になんか”私上手いです”って主張が滲み出ててさ。いや、アピールするのは良いんだよ。向こうではそれが普通だったしさ。でも、それってある程度こなせてないと意味ないかんなあ」
「そういや、あんた断ったって言ってたっけ」視線を流し彼女の顔をまじまじと見た。やっぱり八重歯がチャーミング。「初日からよくもまあ、やるよね」
「だって、アイツの所為で打たれても私の責任になるんだろう。至極損じゃん」
ちょくちょくチェコ語が出てくる割に、小難しい単語知ってるんだよな、こいつは。少し面白いヤツだなと思う。とは言え、試合の事を忘れたでもなし、いずれ泣かすのは変わりはないけれど。
「そんな捕手なのにも拘らず、交代は無し。寧ろ青山が合わせると言う事になった。これがどういう事か解る?」荻野がきいた。
「依怙贔屓」湊が言う。「それしか考えられないっすよ、一応、vyso……ハイレヴェルな所っすよね、ここは」
「そう」荻野は頷いた。「貴女と同じ大屋先生自らが呼び込んだ選手。だからこそ、代える訳にはいかない。だってこの先、彼女には扇の要をやって貰うんですもの。そして……」
荻野はちらと目をやり、新川を促した。
「夏目は帰国の都合とかもあって来れなかったみたいだけど、推薦組は入学前にも練習には参加してるのよ。でもそのおかげで解った事があった。関谷の大屋先生に向ける目は、恋する乙女のそれ。そして……」新川は遣る瀬無く肩を落とした。「大屋先生もまたそれを受け入れている節がある」
「野球、しましょうよ」本音がぽろり。
「斑目の言う通りね、本当に」荻野が苦笑した。
「ただね」新川が先を続ける。「関谷は利用されているんじゃないかとも思うの。彼女の好きという気持ちを逆手にとって、自分に都合の良い様に扱うって言うのかな。この程度ならコイツは言う事を聞くだろう、みたいな」
「……」
恋愛シナリオにありそうな展開だとは思う。実際、世の中にはそういう事を平気でやれる人間がいるのだろう。けれど、指導者として人の上に立つ者の行為としては些か境界線をはみ出している。神聖な、とまでは思わないにしても、グラウンドに持ち込んで良い物では決してない。
自分なりの意見をまとめ上げた所でふとした疑問。
「と、言いますか、新川先輩って何者なんですか? なんでそんな事まで解るんですか」
「だって、ねえ」荻野は意味ありげに新川を流し見る。「元々鋭い子ではあるんだけれど、佳奈はウチでは数少ない彼氏持ちなんだもの、男女の機微には聡いのよ」
「な」
一年生全員の目が新川に釘付けになったのは言うまでもない。
「ち、違っ……」新川は慌てて否定する。
「違わないでしょうに」荻野は溜息混じりに肩を竦め微笑。「でもね勘違いしないでね。何処かの大エースと違って、この子はしっかり割り切っているから」
「もう、美羽」顔を赤らめながらも、新川は恨めしい目を荻野に向けた。一息入れて脱力。改めて私達に向き直った。「話逸れたけど、関谷以外にも同じ様な状況に陥ってる子はいると思う。表向きモチベを上げるためのリップサービスとも取れるけど、実際は解らない。で、この件も公にしないで欲しいの」
うんざりというか呆れたというか、微妙な感情が絡み合った心持ちで、私達一年生は顔を向け合う。湊は若干引いた表情をして、一葉はどことなく嬉しそう、対岸の火事だからだろうか。杏樹は呆れが滲んだ遠い目をして、綾は普段通りの死んだ魚の様な目をしていた。
私はと言えば、ショックがないとは言わない。引く気も解る。けれど、それよりも疑問が勝った。何故にこうも細かく、限りなくプライベートな話を面識の薄い部活初日の私達に話すのか。
例に漏れず、私の口が動き出す。
「箝口令は良いんですけど、そもそも込み入った話ですよね、なんで私達に話すんですか?」
「ああ、それは……」荻野は僅かに逡巡し、新川を窺う。
「おそらく四ノ宮もその対象だから」
「は?」
私を含め、杏樹以外の一年生全員の目が彼女に向かう。
「あらあ」当の杏樹は気の抜けた声を出し、惚けた様に口を開けていた。その口を閉じ、小さく肩を竦めた。「先生の話聞いて、だろうなあ、と思ってましたよ。だっておかしくない?」
最後の言葉はおそらく私達に向けられたものだろう。代表して隣の一葉が手の平で先を促した。
「私、長野での実績なんて大した事ないし、一般入学ですよ。なのに、初めは二、三年生チームに入れられていたし。こう、なんていうんですかね、いらない好意っていうの? そんな感覚あったんですよねえ」
今度は上級生たちが口を開けたまま固まった。
「四ノ宮って、結構鋭い?」新川が呟く。
「いやいや、小慣れてるだけですよ。アピられるのには慣れてますんで」
なんだ、自慢か? モテるって自慢か、という妬みにも似た何かが顔を出すけれど、まあ杏樹なら仕方なしか。あの顔面で話題に上がらないなんて事の方が、余程ファンタジィだ。
「あ、ああ、そう」珍しく荻野が引いている。
「なら、話は早いね」新川は慣れっこなのか、簡単に受け入れ先を続ける。「四ノ宮、スマホ見てみて? 多分答えが出ているよ」
「へ?」小首を傾げながら、杏樹は自分の鞄を弄り端末を取り出した。画面を覗き込む。「あ」
新川が、でしょうねと頷く。
「大屋先生からメッセージ、来てたんでしょう?」
「は、はい」杏樹が頷く。
「一応他の一年生も見てみなよ」新川が促した。
言われるまま、私も端末を取り出す。メッセージアプリを開く。けれど、直近は先程の藤野からの一件だけだった。まあね、そうだろうよ。どちらかと言えば私は違う意味で目をつけられているだろうし。
「アンち、どうだった?」綾が私の画面を覗き込む。
「なあんも。香坂は?」
「すっからかん」綾も自分の画面を見せる。
「私も何も無いね」一葉も画面に目を落としたまま言った。
「四ノ宮以外は何もなかった、と」新川が結果を統合する。私達が頷くと、彼女は居住まいを正し、隣の坂巻、そして荻野に目を向ける。二人が無言で頷くのを確認してから、両手を合わし頭を下げた。「四ノ宮、ホントごめん」
「へ?」
新川は顔を上げ、申し訳なさそうに眉根を下げた。
「犠牲になって」
「へ?」
全てはこの為だった、らしい。
まあ、問題児の私、手の届く所に伸び代のある綾と一葉。湊に関しては本人が強引についてきたらしいのだけれど、一年生と話をしたいというのは、先輩方の本音だった様だ。ただ真の目的は杏樹にあった。
初めのメンツの組み分け。試合の後、大屋がメッセージルームへの招待を急かした事が新川の勘に引っかかった。試合前に杏樹が離反したのも彼女らの背を押した。何もしないよりはと、急遽集合をかけ、今に至るというのが真相。推測は収束し現実となり、新川の読みは当たった。
現状の打開策は排除ではなく、夢幻に生きる恋する乙女達の目を覚ます方向で纏った。
「他は知らないけれど、上条はおそらく本気。だからショックは大きいでしょうけれど、そんな彼女を支えるのも、女房役の私の役目なの」
荻野は最後にそんな事を言った。
王子様のキスじゃあるまいし、そんなに簡単に目が覚めるものか、とも思うけれど、それは私が首を突っ込む所ではないな、と思い直す。
これで少しは普通に近付けるかな、そんな風に思った初春の夕暮れ。
鉛色の心象風景には一条の光が差し込んだ。
けれど、鉛色は鉛色。重苦しい空模様は晴れ切りはしなかったのだけれど。




