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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Proof of buds : 1
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 Distorted truth 〜 歪んだ真実 〜

 紫の雷光を内包する黒雲が去ろうとも曇天には変わり無い。

 寧ろその鉛色の空模様は更に濃密に重く伸し掛かる。


 判断基準というのは凡そ、それまでの経験から導き出されるものではなかろうか、と私は思う。成功、失敗、様々な経験を元に、その時々の最適解を導き出す。例えそれがその場での正解では無かったとしても、判断を下す者にとってはそれが最も適していると思うからこそ、そう導き出す。

 経験をどう受け取り、どう活かすかは人それぞれ。偏った経験だけでは、おそらく大勢を納得させる事は困難なのだろう。


 束の間の静けさが畳の匂いの漂う部屋を包む。


「あの人は挫折を知らないのよ」荻野は唐突に言った。「だから、自分が正しいと信じて疑わない。勿論、上に立つ者として人の意見には耳を傾ける。けれど、それは傾けるだけであって、判断材料になる訳ではないの」

「ただね」坂巻が溜息混じりに言う。「挫折を知らないという事は、逆に考えれば、それは全てに勝ってきたという事。全てが全て間違いじゃない」


 ぽかんとする私達に向けて、先輩達は苦笑する。


「いきなり言われても解らないわね」荻野が言った。「今のは大屋先生の話。今の部の現状を話す前に頭に入れて貰いたかったの」


 荻野が語る略歴によれば、大屋茂春は勝者なのだそうだ。

 端正なマスクに恵まれた体躯と才能。それは自然と人を惹きつける。現に彼は現役時代にその才覚を持って偉業を達成している。物語にある様な、地方の寄せ集めの弱小高校の快進撃。彼のキャラクタも相まって、新聞にも取り上げられ、応援する人は多かった。

 らしい。


 と言うのも、私は知らなかったからだ。

 あくまで私の知らない地域での出来事。近しい場所にいる人にはさぞ奇跡の様に聞こえるのだろうけれど、遠く離れている私にはどうもピンと来ない。


「私は同じ地域に住んでいたからよく知っている。特筆する事もない小さな街だったけれど、夏祭りと同じ位には盛り上がったわ」荻野は遠い目をした。「当時は、同じ野球を嗜む者として誇りすら感じていたのだけれど、神奈川で再び相見えると、どこか違和感を感じた。今泉監督の指導や、代表に選ばれて世界が広がると、違和感が更に強くなった。巡り合わせなのか、ある人との出会いがそれに答えをくれた。私はそこで、大屋茂春の真実を知った。それを知ると、再開後の釈然としなかった事が、一本に繋がったの。彼は指導者じゃない。道楽のオーナなの」


 きょとんとして口を開ける私達を見て苦笑した坂巻が補足する。


「道楽のオーナは流石に言い過ぎだとは思うけど、……まあ、解らないよね。大屋先生はね、”選手=データ”でしかないんだよ。そこに一個の人間がいるとは思っていない。そんなバカなと思うかも知れないけれど、実際その通り。君達ももう気付いているだろうけれど、無理なポジション替えや、いまいち意図の掴めない采配というか指示。それら全て、大屋先生個人の理想に近付ける為だけの布石に他ならない」

「それだけなら、こちらも反発する事は出来るのだけれどね」荻野が眉根を下げ、彼女らしくもなく机に肘をつき頬を乗せた。「意図以外は割と効率的なのよね。だってそうでしょう? いくら投手をやりたいと言っても、適正が無ければ投手は任せられない訳だし、適任の者がやるに越した事はないもの。そういう意味では至極効率的。ただ、プレイヤは人間なの、それも多感な女子高生。プロではないのだから、まだまだ個人の意思を尊重しても良い時間だと私は思うの」


 つい、という、うっかりはままある事だ。私の場合は特に。抑えが効かないというか、不透明な物事は透明にしたい、その思いが強いのだろう。故に私の口から言葉は漏れる。


「私に甘いと言った人の言葉とは思えませんけど……」

「斑目」新川が溜息混じりに嗜める。

「す、すみません」身を縮め頭を下げる。けれど、口は言葉を紡ぎ出す。「でも、ですよ。試合の時の荻野先輩の言葉は勝ちが全て、そう聞こえたんですけど。勝つ為には犠牲を払わなければならない。その犠牲を払えない私は甘い、と。個人の主張なんて、言い換えれば我が儘にすらなる。勝ちを意識すればする程、個人よりもチームを優先しなければならなくなり、個々の主張は閉じ込められる。それが犠牲かと」


 新川が額に手をやり、天を仰ぐ。

 その姿を目に映し、荻野は可笑おかしそうに口元を上げる。手の平に乗せた頬を上げ背筋を伸ばした。


「別に考えは変わってないわ。勝つ事は最終的な目標だもの。ただ貴女は少し勘違いをしている。犠牲という言葉をどう捉え、どう実行するかは個人に委ねられる事。私は勝利の為だったら何しても構わないとは微塵も思っていない。要はバランスの問題なのよ。個人の意思とチーム事情のね」荻野はふっ、と表情を崩した。「私は貴女の事を知らないのだもの、あんな言葉聞かされたら、井戸の中の蛙が泣き喚いてる様にしか聞こえないわ。私が貴女を訝しんだのは、プレイよりも女子を優先している様に思えたから。そんな甘い考えでは、この先ここでは通用しないもの」


 成る程。

 荻野は私に対して、かつて私が明日香に思った事とほぼ同じ感想を抱いたという事か。犠牲という言葉一つ取っても受け取り方は人それぞれ、視点をどこに置くかでも意味合いは変わってくる。人となりを知らなければ想像も出来まいよ。

 この件に関しては、早とちりして勘違いした私が悪い。なのですぐに首を垂れた。


「すみませんでした。荻野先輩の言う通り私は外を知らない蛙だった様です」


 坂巻が、ぷ、と、吹き出しそうになる口を腕で押さえる。

 荻野は微笑のまま口を開いた。


「貴女は狂犬なのか従順なのかよく解らないわね」

「でもまあ、呼んで良かったよ」坂巻が現実に舞い戻り、溜息混じりに言う。「やっぱり一年生で一番の問題児は斑目だ」

「な」つい、私の口が勝手に音を発する。


 慌てて口を抑えるも、時既に遅し。上級生達はおろか、私の横にいる同胞達すらも納得の表情で頷いている。

 オマエラ……。


「ほらね、みんな納得」周囲を見回し坂巻は頷く。

「でしょうね」荻野もまた愉しげに頷く。


 正直の何がいけないというのだろうか。全くもって遺憾、そんな事を思う私に更に追い討ちが掛かる。


「美羽さん、橙子さん」傍観していた藤野が申し訳なさそうに首を垂れる。「ごめんなさい、こういう子なんです」

「ああ、後輩だと言っていたわね」荻野が興味深そうな目を向けた。「昔からなの?」

「ええまあ」藤野が頷く。「でも、どういう訳か、投手陣からは信頼はあるんですよね、何故か」

「それは何となく解る。性格はまあ、アレだけれど、皆を納得させる何かを持っている、……様な気がする」荻野は悪戯な笑みを浮かべた。「単に口がうまいとも言えるけれど」

「そこからは災いも生まれますけどね」藤野が苦笑する。


 あちこちで小さな失笑。

 これは認められたと捉えるべきか、突き放されたと捉えるべきか。評価の着地点は霞んでいてよく見えない。


「アンち、褒められたじゃん」綾が耳元で囁く。


 こいつはそう捉えるのか、と思ったところで、違うなと考えを改める。コイツはただ単にこの状況を楽しんでるだけだ。

 溜息が出そうになる。出さないけれど。


「何だか、また斑目の個人的な話になってしまったけれど、話を戻そう」坂巻が本題を思い出し軌道修正。「現状についてなんだけど……」


 ちらと荻野に目を向けた。これまで通りバトンタッチ。引き継いだ荻野が語る。


「表向き何もない様に装っているけれど、実際は部内に亀裂が入っている。首の皮一枚で分裂を留めてはいるけれど、崩壊寸前、と言ったところかしら」荻野は溜息。「褒められて嬉しくない人はいないわ。期待されていると解れば尚の事。モチベーションの話ね。大屋先生に抜擢された子達は良いのだけれど、元の位置を剥奪された子はそうは言っていられない。外からはチームの為の犠牲と聞こえるでしょうけれど、現実は違う。大屋先生のそれはアドバイスではなく宣告なの。異論は認めない。議論のしようのない人間は一定数いるし、何より相手は監督なんですもの」


 つい言葉が出る。今度はしっかり考えた上での発言。


「でも、現状一番良い形、なんですよね?」

「データ的にはまあ、解らなくはない」荻野が答える。「でも、プレイするのは意思を持った人間で、勝つ為と割り切れる明確な理由があるならば、受け入れる事も可能でしょう。けれど、これ迄皆が納得していた形を崩してまで手に入れた新しい形は、到底納得出来るものでは無かった。勝つ為の理由としては信頼出来ない。試合を通じて貴女達も違和感を感じたでしょう?」


 荻野はそう言って、私達一年生全員に視線を流す。

 坂巻がその後を継いだ。


「実際、君達が想像以上のプレイをしたってのも理由の一つだけど、私達が五点取られたのは自滅に近い。本来のポジションで出ていれば失点を防げた場面は結構あった筈」


 坂巻の言葉には私達も同意した。

 ぎこちなさは想像した通り、それが現実だった事を知らされた。


「データ的には一番の形だとしても、練度、モチベ、その他色々な物が複雑に絡み合うものよ、スポーツというものは。本来ならチームとしてのモチベーションも共有されてなくてはいけないのだけれど、今はそれも望めない。現状、個人の練度も足りないから以前の様なパフォーマンスも出せない。勝つ為が聞いて呆れるわね」


 荻野は皮肉を込めた屈託の無い笑みを浮かべた。

 思いの外深刻な現状。朧げだった不穏さが漸く形を為した。荻野の言う通りだ。こんな現状では勝てるものも勝てないだろう。勝てる素養自体はあるというのに。ただ、至極個人的な考えになるのだけれど、この微妙な現状は、私達一年生にとっては僥倖とも捉えられる。不慣れやぎこちなさはこちらも同じ、パフォーマンス次第ではレギュラが見え隠れしてるのでは、と思う。

 内心グヘヘ、なんて下卑た笑みを浮かべ夢物語を紡いでいると、一葉が口を開いた。ヤツもまあ同じ様な事を考えたらしい。


「ちょっと良いですか」一葉は小さく片手を上げた。

「どうぞ」荻野が促す。

「大屋監督の最優先事項って、ミーティングの時も言っていた様に勝つ事なんですよね」

「そうね」

「荻野先輩の話を聞いている分だと、現状では勝てないと聞こえました。現メンバーだと練度が足りないとか……。所で」一葉はちらりと新川に顔を傾けた。「新川先輩、試合ではショート守ってましたけど、元々ショートを嗜んでいたんですか?」

「え?」いきなり話を向けられて、新川はひくりと背筋を伸ばした。「い、いや、私は元々センター、というか外野全般。内野自体が小三以来、だね」


 苦笑じみた笑みを浮かべ新川は頬を掻いた。


「て、事はですよ。勝つ事が最優先なら、仮に私が新川先輩よりも良いパフォーマンスをしたなら、ショートの座は私の物って事になります?」

「な」新川が半開きの口のまま固まった。


 私はちらと先輩方に目を向ける。彼女達の目には好奇の色が浮かんでいる。好奇から、興味に代わり、諦観じみた色に変わってゆく。

 これはどういう事だ。なぜに暗い色で目線を落とす。


「小生意気な事言ってすいません。でも勝つ為を謳うなら……」

「貴女、ショート出来るの? 試合だとサードだったわよね」荻野がきいた。

「はい」一葉は頷く。「でも本職はセカンドですし、希望ポジもそこですけど、試合に出られるなら、挑戦出来るならしたいな、と。だってそうでしょう? 折角レヴェルの高い所に来たんだから、挑まなきゃ損ですし、勝つ為なら、より上手い人間がやるべきでは無いかなと」

「成る程」荻野は人差し指で唇を撫でる。その唇が悪戯な弧を描く。「佳奈程度なら簡単に超えられる、と言いたいのね」

「い……」一葉は口を横に広げ、大袈裟に両手を振った。「いやいやいや、そうではなくて」

「佳奈、こんな事言っているけれど、どうかしら」

「私に振る?」新川は肩を竦め、首を振る。「美羽やり過ぎだよ」

「そうかしら」荻野は悪戯な笑みのまま首を傾げる。「それで? 何がそうではないのかしら」

「新川先輩に勝負を挑んでるのではなくて、勝つ為を謳うなら、良いパフォーマンスを見せれば、一年生だとしても私達にもチャンスはあるのかって事です」


 ああ、そういう事か。

 私の後ろ暗い思いと共鳴したのではなく、一葉は確認したかったのだろう。試合前に口にした、監督の言葉の真意を。勝つ為を謳うのであれば、そこには年齢などは壁ではなく、あるのは単純な弱肉強食。その単純明快なルールが適用されているのかを知りたかったのだろう。


「答えは限りなく、ノーよ」

「なんでです」一葉はひどく落ち着いた声を発した。「ベストな選択をするには、全ての可能性を考慮すべきで……」

「まあ、普通ならそう。貴女は間違ってないわ」

「なら、なんで……」


 荻野は一葉に手の平を向け言葉を止めさせた。


「普通が違うから。そして先程から連呼されている、勝つ為。それも微妙にニュアンスが違うの」荻野は初めて憎悪にも似た光を目に宿した。「正確には、大屋先生自身の考えたプランで勝つ為。それじゃなきゃ意味がないのよ、あの人には。現状のベストメンバは今泉監督が作り上げたものだから。他人の作ったもので勝ちを手に入れても、周りは納得しないでしょう。だから……」


 んな、馬鹿な。阿呆か。薄らと理不尽な輪郭は感じていたけれど、こう言葉にされると憤りが噴き上がる。私を抑える私はいない。私の中の色々な私が親指を下に向けている。


「だから、メンバをいじったと?」私は身を乗り出す。「プレイするのは選手ですよ。そんな身勝手に振り回されちゃ、それこそ勝てるものも勝てないじゃないですか」

「初めて同じ意見になったわね」荻野は笑う。「そう。斑目が言う通り、これでは勝てない。だから貴女達なの」

「はあ」


 私達一年生、皆が同じ様な曖昧な言葉を吐き出す。


「話が前後するのだけれど」荻野はそう前置きをした。「メンバを入れ替えるにしても替えの効かない選手というのはいるの。私とか、橙子、それに上条。外せないメンバ以外は皆大屋先生肯定派なのよ。逆を言えばレギュラを外された子は彼のコンバートに反発した子。斑目、今の貴女みたいにね」

「はあ」


 気に入らない選手は干す、という事か。話は聞いた事あるし、実際一葉は似た様な目にもあっている。私達の隣に忍び寄っているのは解ってはいたのだけれど、こうして聞かされると何とも嫌な気分になる。


「だから呼んだんだ」坂巻が言った。「事前に事情を話して、問題を起こさない様に注意する為」

「まあ、その話は少し後ね」荻野が言う。「正直な話、総合的に持田より良いサードはいる。でもその子は大屋先生を快くは思っていない。だから自分の信奉者である持田を採用した。外された子としては納得いかないでしょうね。今まで培ってきたものが理不尽に否定されたんだもの。でもね、彼にはそんな事関係ないの。自分に付いて来ない子は要らない。ただそれだけ。自分の意見を受け入れてくれる子の中でのベストが今の布陣、という訳」


 あれ。今の話が事実だとしたら、と私の目線は流れ、ぴた、と合う。


「いや、私は……」目を逸らし、新川は頬を掻いた。

「佳奈は、空気が読める子なの。自ら角を立てる事をしないから、苦肉の策として採用」

「美羽、言い方ってあるでしょう」新川は肩を落とし訥々《とつとつ》と語る。「レギュラは嬉しいけど、こんな形は本当は嫌。ショートの子達に申し訳ないし」

「まあ、そんな訳で、燻る思いを抱えている子は多い。皆何かしら納得出来ないものを抱えてプレイするから、結果がついてこない。でもね、おそらく今はそれで良いと思っているのよ、大屋先生は」

chåpu!(カァポゥ)」急に湊が膝を叩き声を上げた。「そういう事だったのか」


 皆が一斉に湊に目を向けた。


「貴女は何を言われたの?」荻野がきいた。

「右のエース。葉山に来た暁には、春からベンチ入り、夏以降はエースの座をあげるって」


 荻野と坂巻、そして上級生達は揃って互いに目線を合わした。


「やはり、か」荻野が溜息混じりに肩を落とした。「これではっきりしたわね。私達こそが犠牲なのね」

「みたいだね」坂巻が同意した。「じゃあ、美羽……」

「そうね。こうなれば仕方なしか」


 二人の間で何かが成立したようだった。


「どういう事っすか、ミウさん」湊がきいた。「なんかやるんすか」

「まあ、このままで良いとは思わないから」


 私の中で漠然とした想像が形をなしてゆく感覚。荻野達の中には何か思惑がありそうだったけれど、確かめておきたい事があった。それが事実だとしたら、私達は……。


「すいません」私は片手を上げた。「話を戻してしまって申し訳ないんですけど、夏目がエースって、どういう事ですか?」

「プランは既に決まっている、という事の様だわ」荻野が言った。「おそらく、一般入部組は端から構想外。だから紅白戦をする必要もなかった」


 やはり、か。

 戦力とするのは、自らが見定めた選手に限る。ぽっと出の有象無象なんて端から資格はない。その資格を手に入れる為にアピールするにしても、それはプレイでは無く、いかに監督に気に入られるか。それはそう。いいプレイをする選手は自分で引っ張って来れば良いのだから。

 何だこの競争すら認めない環境は。

 いやいや、ちゃんちゃらおかしいぜ、と乾いた笑いと共に胸の内に炎が揺らめく。


「阿呆ですか。これが高校野球? 貴重な三年間を捧げる場がこれ?」溢れる溢れる。罵詈雑言が口から溢れるのを止められない。「何考えてるんですか、あの人。監督としてもですけど、人としてもダメダメじゃないですか。本当に高校球児だったんですか? 全然人間が出来てない」


 間。

 溢れる言葉に勢いに、皆が呑まれた様だった。


「アンち、言うねえ」綾がボソリと言った。


 時が動き出す。


「まあ、感情論になるのは解るけれどね」荻野が口元を押さえ肩を揺らす。どうやら笑いを堪えているらしい。

「問題児ってのは解っていたけれど、まさか人間が出来てないと来たか」坂巻もまたそう言って口元を抑える。

「先輩方、なんか笑いを堪えてるみたいですけど、当事者じゃないんですか? 何を悠長に……」

「斑目、貴女も捕手でしょう。気が強いのは良い事だとは思うけれど、少し冷静になりなさいな」荻野が微笑みを湛えながら諭す様に言った。

「私は冷静ですよ」一息吸ってそう返した。


 冷静に考えた上での罵詈雑言だ。んな理不尽許さずにいられるか。


「いいえ冷静ではないわ」荻野は微笑みを絶やさずに首を振る。再び机に片肘をついて頬を乗せた。「少し考えれば解る事でしょう? だって、そんな事がまかり通るなんて有り得ないもの」

「はあ?」

「斑目、言葉遣い」藤野が嗜める。

「え、ああ」我に返り首を垂れる。「す、すいません。でも……」

「気付いてる人は気付いてるわ。これまでの練習試合や選抜で当たった他校の選手や監督には、ね」

「だから、今日呼んだ、とさっき言ったよ」坂巻が呆れ混じりに言った。「下手に騒いで事を大きくしないで欲しいのさ」

「へ?」毒気を抜かれた様に、強張っていた体が緩む。「何か策があるという事ですか」

「まあ」坂巻は曖昧に頷く。

「じゃあ、今までのは茶番じゃないですか」

「いやいや」坂巻は片手を振った。「一から説明して現状を理解して貰わないと、どうにもならないだろう?」

「ま、まあそうですけど……」

「それに、ね」坂巻はちらと荻野を見た。

「もう一つ大事な事。選手としてあるまじきだとは思うし、身内の恥とも言えるのだけれど」荻野は遣る瀬無く首を振った。「大屋信仰の下には上条もいる、という事。そして、彼女には居て貰わないと困る」


 三度、私達一年生は首を傾げる。話が見えて来ないのはいつもの事だけれど、今度もまたさっぱりだった。どうもこの先輩方は演出面に気を遣う質なのだろうかと訝しみすら顔を出す。


「私達の到達点としては、私達皆が納得して試合に臨み勝ちを手に入れる、という数ヶ月前までは当たり前だったところ。それが様変わりした原因も解っているのだけれど、事は単純ではなくて、原因を排除した所で、元にはもう戻れない」

「私達の我が儘なんだ」坂巻が申し訳なさそうに言う。「さっき斑目も言った様に、高校の三年間は貴重だ。だからこそ、良い形で終わらせたい。そして私達が被った悲劇を新しい代には経験させたくない。そんな余計な事を考えずに野球に集中して欲しい。だって、これだけ良い子達が揃ったんだからね」

「大屋先生に言われるまでもなく、私達で全国を取る。というか取れるだけの力があると私は思うわ」荻野が言う。「一年生にも戦力になる子がいるのが解ったし、より目標は現実味を帯びた。ただそれには条件がある。上条には居て貰わなければならない」


 さっきから何だろう、と思う。監督問題が解決すると現エースが居なくなるとでも言うのだろうか。上条はそこまでの大屋信奉者なのだろうか。

 いやいや、まさかねと思う。

 確かに大屋の真意には私も憤った。けれど、荻野も認めていた事だけれど、彼のやり方、方針自体は悪くは無いと私も思う。判断の仕方がおかしいのであって、過程自体は理に適っている。だから指導者として信奉するのは解らなくもないのだけれど。

 疑問は荻野の言葉で氷解した。

 身内の恥だとかの意味が繋がらなかった言葉を含めて。

 荻野は居住まいを正し深く呼吸してから漸く口を開いた。


「大屋先生から監督権を奪うのはある程度算段がついているの、だからそこは良い。ただそうなるとおそらく上条は部を辞める。たとえそれが三年生の最後の大会の前であっても」荻野は私達一年生の疑問の目をしっかりと受け入れてから先を続けた。「確実ではないけれど、上条は大屋先生と男女の仲になっているわ」


 その言葉が浸透するまで少し時間が掛かった。

 意味を理解し、驚嘆の声が私達から迸るまであと僅かだった。

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