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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Proof of buds : 1
21/128

 Who the thunder falls to? 〜 降雷は誰の元に? 〜

 心象の燻る空には黒雲が集まり、俄に紫の光を内包する。


 雷が落ちるのだろう、と私は思う。

 思い当たる節が無い訳でもないし、寧ろ心当たりの方が多い。私だけではないにしろ、初対面に程近い上級生に対しあからさまに噛み付いた事実があるのだから。

 まったく、この長閑で過ごし易い春の夕方に雷はないだろうよ、と本音が顔を出すけれど、報いは受けねばなるまい。因果応報、自己責任というヤツだ。音沙汰無しで干される、という可能性がある以上、”お呼ばれ”した事を好意的に捉えるべきだ、と思う私もいるにはいるのだけれど。


 突然の没収試合を宣言され、私達の初めの第一歩は幕を閉じた。まだ陽が高い中、洗礼じみたグラウンド整備と道具類の軽いメンテナンスを命じられ、それらをこなした後、部室に案内された。


 部室は狭い訳ではないけれど、三十人強が一度に入るとなると中々に窮屈。故に、私達がメンテナンスに勤しむ中、上級生達がそこを使い、役目を終えそこに着いた時には、指導役に任命された笹川、藤野の両名を除いて既に上級生は居なくなっていた。

 彼女達に部室使用についての詳細を説明された後に、各々のロッカーを割り当てられた。

 紅白戦を通して、皆それぞれ思う事があるのだろう。気を遣える者が多い所為か、試合中の様な雰囲気はロッカールームに持ち込まれていない。近場との他愛もない私語が僅かに飛ぶ程度の静かな時間。壁にかけられた時計を見れば、まだ十七時に届いていなかった。笹川が翌日の予定と大屋が課した課題を皆に告げ、この日は解散。


 一年生では妙と薫に悠希と早苗。みなみ、湊を加えた六人が寮生活グループで、私を含めた残りが通い、という事で部室の前で別れる事となった。笹川は寮なので、彼女達を引き連れ、寮棟の方へ去ってゆく。去り際に意味深な表情だけ残して。


 一方、私達通い組は校門へ向かう。足取りは決して軽くは無い。私は最後尾でそれらを見つつ溜息を噛み殺す。

 私の真横に藤野、目の前に一葉と杏樹。その前を綾と美弥と志津が並んで歩き、その遥か前方をやや早い歩みで圭が一人。


 無理に仲良くしろとは言わないし、初日だからというのもあるのだろうけれど、そんなに壁を作らんでもと思う。同じ一年生なんだ、も少し打ち解けても、なんて事を思ったりもする。彼女が魅力的な投手だからよりそう思うのかも、と自己分析。投手は面倒臭い、という藤野の言葉が改めて実感を伴う瞬間だった。


 校門を出てなだらかな坂を下る頃には、既に圭の姿は見えなかった。残りはある程度纏まり、会話を挟みながらの帰路。

 そんな折、横にいた藤野が無言のまま私を肘で突いた。

 何だろうと顔を向けると、顔を正面に向けたまま小声で囁いた。


「メッセージを見て」


 何ぞ、と思い携帯端末を取り出しメッセージアプリを開く。先程交換した藤野のアドレスからメッセージが届いていた。添付されていた内容に背筋が冷えた。

 それは荻野から藤野に宛てられたメッセージのコピー。突発のミーティングの誘い。淡々とした文章で、時間と場所の指定と、私と綾と杏樹の三名は参加必須の旨。

 私は悟る。

 ああ、雷が落とされるのだと。


「解った?」藤野は普段通りの口調で言った。「あんたら三人は必須、残りは自由参加らしいから、誘いたかったら好きにして良いよ」

「ええと。やっぱり怒られるのかな?」恐る恐る藤野にきいた。

「さあ」藤野は肩を竦めた。「美羽さんが怒ったところあんまり見た事ないけど。斑目がなんかやらかしたのなら、その通りでは無いかもね」


 心当たりあります。そして、おそらく報復もされてます。それじゃあ、足りないって事ですね。ええ、ええ、解りますとも、ですよねえ、と内心乾いた笑いが漏れた。

 けれど、発端は私にあるのだし、ここは甘んじて受け入れるべきだろうと切り替える。かの鳴海大葉山の女帝からのお達しである。逃げた所でメリットはない。

 一つ溜息。


「解りました」


 そう藤野に言って、少しだけ歩調を早くして綾の横に出る。


「香坂、あのさ」

「何?」いつも通りの死んだ魚の様な目が私に向く。

「ええとね、荻野先輩から白羽の矢が……」

「うん?」

「この後ミーティングだそうで」

「私も?」

「うん。私とあんたと四ノ宮の三人は絶対参加だって」

「ふうん、何だろ。まあ、呼ばれたのなら行くけど」


 そう。香坂綾はこういうヤツ。


「で、他にも行きたいって人がいるならって話なんだけど、二人はどう?」私は首を伸ばし、綾の隣を歩く乙女二人にきく。

「……私は遠慮しようかな」志津の目線が落ちる。「私、特に何も出来てないから」


 確かに彼女は試合の最後の回にライトの守備に着いただけ。打席が回る前に試合は終了。アピールも何もあったものじゃないので、気持ちは解らなくもない。ましてや説教じみた雰囲気が漂う中にあえて飛び込む者もいるまいよ。


「私も、今日はやめとくよ」美弥も肩を竦め不参加を表明。「なんて言うか、会話出来る舞台にすら上がってない感じがしてさ。私にとってはまだまだ天上人なのよ、あの人、いや、あの方は」


 美弥曰く、女帝については、インターネットの記事で何度か目にしているし、ある意味憧れの存在。芸能人に会う様な感覚らしい。なので場云々より前に、対面する心構えがまだ出来ないらしかった。


「じゃあ、また今度だね」


 慰めにもならない言葉を残してさらに前へ歩みを進める。 

 三つ編みを解かないままの杏樹と、春風に揺れるショートボブの一葉の後ろ姿に追い付く。

 気配を悟ったのか、一葉が振り向く。


「あ、琥珀ちゃん」屈託の無い笑み。「ちょっと聞いてよ、杏樹ったらすごいの」


 いつの間に仲良くなってるんだ、コイツは。こんなに社交的な子では無かった筈。そんな思いが顔を出すけれど、それは過去であって今ではない。もうかつての一葉の面影は忘却の彼方。何だかやたらと嬉しそうな一葉を見て、取り敢えず話を聞こうと会話を向ける。


「ええと、何?」

「杏樹ったら、長野にいた頃スカウトの嵐だったらしいよ。アイドルの」


 だろうねえ、と納得出来る程に彼女の顔は整っている。なのでさしたる程の驚きは無い。けれど、興味は沸いた。


「へええ……」私は杏樹に目を向ける。「で、やらなかったの? アイドル」

「うん。選択は簡単だったからねえ」杏樹は夕暮れに映える物憂げな表情をする。「大人になれば可愛いは作れると思うのね。でもさ、今の私はまだ親から貰ったものだけで生きてる気がするの。周りから可愛いとか言われても、それって自分自身の功績じゃ無い気がして、素直に喜べないのね。でもね、目一杯弾き返したボールが空に吸い込まれていく感覚は、確実に私の努力の結晶だと思う。なんてったって、私元々内野の頭越せなかったんだから」


 そう言って杏樹ははにかんだ。


「ええと、つまり?」

「野球はさ、それ自体好きってのもあるんだけど、自分で作り上げた自分でやってるって実感が大きいのね。だからこっちを選んだってだけ」杏樹は腕をさすりながら困った表情を浮かべた。「まあ、その副産物がこの筋肉なんだけどねえ」

「……いやいや、普通そこまで出来ないからね」一葉は笑みを浮かべつつも呆れ混じりに言う。「相模原でもそんな身体の子いなかったし」

「そう? 私としては普通なんだけどなあ」


 ある意味での天才がここにもいた。これは嬉しい誤算、なんて事が頭の中に産まれるも、現実を思い出し一気に我に返る。


「ああ、それでね……」


 一葉は、今思い出しました、とばかり軽く手を打って首を傾げた。


「で、琥珀ちゃんどうしたの?」

「えっとね、どうやら女帝から雷が落とされるらしい」私はまず自分、次に後ろを親指で差し、最後に杏樹に向ける。「私と香坂、そして四ノ宮」

「私かあ。何だろ、怒られる様な事したかなあ」杏樹は物思いに首を傾げる。

「初打席の時、荻野先輩となんか喋ってなかった?」

「ああ、うん。何の為に野球してるのかって聞かれた」

「で、何て返したの?」

「ボールが空に吸い込まれていく様を見る為ですって答えたよ」


 杏樹の答えから推測すると、どうも私と質問のニュアンス違くね、という些細な疑問が生まれる。荻野の問いが純粋な疑問だとしたら、私は大き過ぎる過ちを犯したのではなかろうか。頭を抱えたくなる衝動。まあ、しないけれど。仮に私の勘違いが生み出した事であろうと、やってしまったものは仕方がない。


「それで?」杏樹が続きを求める。

「ああ、この後指定の場所に連行される予定」

「そうなんだ。まあ、今日は時間も早いし良いよ-」

「で、だ」私は一葉に顔を向ける。「来たい人は来ても良いって事だけど、金田一も来る?」

「そりゃあ、行っても良いなら行きますよ。荻野先輩には聞きたい事結構あるからね」


 コイツはコイツで怖いもの知らずというか、何というか。おそらく、今の一葉の辞書には臆するという言葉が無いに違いない。


「オッケ。図書館の近くらしいからそんなには歩かないと思う」


 ランドマークが見えて来た辺りで藤野が先導する旨を伝え、同じ事を綾にも言って私は最後尾に戻った。これは雷落とされるのは私だけの可能性が出てきたぞ、なんて事を思う。見せしめか、とネガティブな思いが浮かぶのと同時に、ならば、綾と杏樹は何の為に呼ばれたのだろうと新たな疑問。そして来たい人は漏れなく参加許可されている事実も付随する訳で、よく解らなくなってきた。


 路地を練り歩く傍ら、頭の中では思考が巡る。私が云々唸っている傍で景色は過ぎ去り、辺りには生活の匂いが漂う。空は暮れ掛けている。薄紫の空の向こうに仄かな橙が残っている。

 緩い丘陵地帯にある、今風の洒落た建物と昔ながらの家屋が隣立する、言葉を選ばないで言うのであれば、ごちゃっとした市街地の一角。


 藤野に連れられ、歴史を感じさせる木製の門をくぐり抜ける。眼前には砂利を敷いた大きな庭。その先にある洋風の家屋の前に女帝が佇んでいた。彼女を取り囲む様に、坂巻と新川、試合には出ていなかった上級生数名。少し離れて笹川。その傍に何故か湊もいる。今回の会合は一応部活動の範囲内という体なのか、皆一様制服で身を包んでいた。


「急に呼んでしまってごめんなさい」荻野が淑やかな笑みを私達に向けた。

「取り敢えず皆揃ったみたいだから、中へどうぞ」


 試合に出ていないグループの中の一人、肩口で切り揃えた黒髪の乙女が片手で離れと思われる和風の平屋に先導する。


「りっちゃんごめんね、急な事を頼んでしまって」少し砕けた口調で荻野がその背に語る。

「さっきも言ったけど別に良いって。大事な事じゃん、美羽にとっても、私らにとってもさ」りっちゃんこと、神崎かんざきりつは首だけ傾け困った様な笑みを浮かべた。


 神崎に誘われるまま私達は、やけに広い三和土たたきで靴を脱ぎ、独特の木の匂いが漂う少し軋む廊下を抜ける。


「ちょっと散らかってるけど」部屋に電気を灯し慣れた手付きで雨戸を開けると、神崎は少し照れた様な表情を浮かべた。


 畳に絨毯、そしてソファに古めかしい木製の黒い長机と、和洋折衷な大きな部屋に通された。昔の家によくある襖を外せば大広間になるアレである。


「適当に座って、今飲み物用意するから」神崎はそう言い残し奥の暗がりに消える。


 坂巻と新川がソファに座り、笹川がそこに加わる。共に座ろうとした湊を追い返し、無言で長机の端を指し示した。

 荻野は一人長机の短辺に正座し、反対側に他の上級生達が腰を下ろした。

 私達一年生は、長机を挟みソファの真向いに四人で並ぶ。立ち位置的なアレで、私は女帝のはす向かいに、反対の上級生寄りの端に藤野が座った。

 女帝が正座している。空気を読んで私はそれに倣ったのだけれど、他三人はそんな事気にせず足を崩していた。

 隣に座る綾に正座しろよ、と言い掛けた所に女帝から声が降った。


「何か勘違いしている様だけれど、別に無理して正座する必要はないのよ」荻野は口元を手で隠して微かに肩を震わす。「打席での勢いはどこに行ってしまったのかしら」


 嘲笑ではない笑いが溢れる。荻野は真に愉しそうに見えたので、おそらく彼女の言葉に他意は無いのだろう。けれど、ここで姿勢を崩す訳には行かない。世の中には”上げて落とす”という事が多々ある。その手には乗らない。


「いえ……」畏まって辞退する。

「何事も無理をするものではないわ。既に静止出来ていないじゃない」私の落ち着きの無い脚を見て再び笑みが溢れる。一息入れてから荻野は改めて表情を引き締めた。「本題に入る前に今日の試合の総括をしてしまいましょう。本当は一年生全員に来て貰いたかったのだけれど、仕方の無い事もあるものね」


 荻野はちらりと目線を坂巻に向けた。それを受け取り、彼女は頷く。


「じゃあ、総括です」坂巻はソファに座りながらも背筋を伸ばし、正面に座る私達一年生に目を向けた。「想像よりは良い結果だった。笹川、藤野がいたとしても、各々がしっかり考えて試合に臨んでいた。特に君達、一般で入って来た子のレヴェルが高い事には驚かされました。これは個人的な感想ではなく、私達主力全員の意見だと思って貰って結構です。次に、個人的な事ですが……」


 坂巻が今度は荻野に目線を向ける。


「先ずは香坂」荻野はいつの間にか取り出していたノートを一目見てから綾に語りかける。「貴女はストレートを磨きなさい。質、速度共に。貴女のコントロールが良いのは確かに武器。でも、もうその絡繰は解っている。最後の方で投げていたレヴェルを最低基準としなさい。でないと、この先通用しないわ。もう解っているとは思うけれど」

「まあ、あれは斑目にも問題があったとは思うけれど」坂巻が言葉を挟む。


 私の名が出て、反射的に背筋が伸びる。全てお見通し、という訳らしい。


「そんな深刻な顔をしなくても良いの」酷い顔をしていたのかもしれない。荻野は私の顔を見て苦笑。「同じ捕手として、あれだけのコントロールがあれば、狙いたくなるのも解る。打たれる確率がとても低いコースというのは存在するし、ギリギリを突けば打者としてはとても厄介。けれど、コースが限定されるのならばヤマは張り易いし、際どい所に来たとしても、点を狙う事に固執しただけの球なんて簡単に打ち返せる。現に後半力のある球を使い出した時は抑えられたでしょう?」


 実際、打ちに行くと判断された時点で打たれている。荻野の言葉は正しい。私も試合の中で気付いていた。狙われていたのは私の配球。それが解ってしまえば、私達の武器がほとんど役に立たない事も。だから結果には概ね納得はしている。ただ、彼女の最後の言葉だけはすんなりと呑み込めなかった。やけくそ系を使い出しただけで劇的に変わるとはどうしても思えなかった。だから接待かとも疑った。疑問は解消できる時に解消すべきだ。


「本当にそうなんですか?」 

「どういう意味?」荻野が首を傾げた。

「いえ……」私は姿勢を正す。「多少速い球が加わったところで、大きく変わると思えないと言うか……」

「打者になって考えてみなさいな。的確にコースの隅をつける変化球に直球。そこにより速い手元でズレる変化球とバラける直球。それまで乏しかった選択肢がいきなり増えた。すぐには対応出来ないわ。とは言え、打てない球ではないのだけれど」

「あの回に限って言えばって事ですか」

「そこは貴女次第なのではないかしら。打者の狙いを外すリードをすれば良いだけの話。まあ、少し単調ではあったけれど、リード面もそこまで悪くはなかったと私は思うけれど」


 言ってから荻野が苦笑する。ちらと坂巻に目を向けた。坂巻もまた苦笑。


「何だかんだで、斑目の話になってしまったね。一旦戻るけど、以上の事から香坂は速い球の精度の向上を目標にすれば良いと思うけど、どう?」

「やってみます」綾は頷く。「今のままでは通用しないのも解りましたし、速い球も制御したいですから」


 荻野と坂巻が目を合わし、少し吹き出す。


「貴女、コントロールだけにはこだわりがあるのね。サインにも殆ど首を振らないから、主張が無い子なのかと思ってたわ」


 さすがは女帝。よく見ているなあ、なんて事を思う。綾が首を振ったのもコントロールにまつわる事だし。


「そうですね」意外にも綾は言葉を続けた。「基本リードには従います。私配球とかよく解らないし……」

「……」荻野は口を結ぶ。「それはそれで問題ではなくて?」

「それはアンちにも言われました」


 おい、この場であだ名を使うな、とヒヤリとして綾を肘で突く。


「アンチ?」

「あ、斑目の事です」

「仲が良いのね」荻野は口元を押さえ笑いを堪える。「まあ、それは良いとして、投手であっても配球のパターンは頭に入れておかなければダメよ。それに、何でも捕手の言う通りっていうのも問題。時に調子の悪い球もある。投手の直感での投げたくないを、否定したくはないし。何より、今日の反省を踏まえれば解るでしょう。一人より二人。バッテリィなのだから、二人で答えを出した方が”型”にはまり過ぎないでしょう」

「はい」綾は素直に頷いた。


 荻野は再びノートに目を落とし尋ねた。


「でも、何度かは首振っていたのよね、あれは?」


 綾がちらりと私を見る。

 言って良いものかと僅かに逡巡。


「あれは審判に喧嘩売ったんだよな」湊がニヤニヤしながら机に身を乗り出す。「まあ、解るよ。出来る出来ないは別として、同じ状況なら私だってそう思うさ」

「……どういう事かしら」

「こういう事っすよ」何故か湊が説明する。「以前はストライク判定だったコースがボールになった。じゃあ、同じ所に同じ球投げ込んでやろうって」


 再び荻野と坂巻が目を合わす。一瞬の間を置いて二人が吹き出した。


「成る程。確かに審判に喧嘩を売ってるね」坂巻が笑いを堪えながら言った。「コントロールに自信がなければ出来ない事だ」

「実際自分は誤審あったっすからね」湊は自信満々に胸を張る。

「貴女はそこを通り過ぎて殴りに行ったのではなくて?」荻野が溜息混じりに湊を見る。「行動自体は褒められた物では無い。けれど解らなくもない、か。……まあ、その話はまた後にして」

「それで、次、斑目」坂巻が仕切り直す。

「はい」私は背筋を伸ばし頷く。そろそろ脚が限界を迎える。

「……」坂巻の視線が落ち目を細める。「崩せば良いのでは?」

「フランクに、とは言わないけれど、何事も無理のしすぎは良くないわ」


 そんなに言うのなら、お言葉に甘えて、と脚を崩す。一瞬にして血が回る感覚。そして刺す様な痺れ。お約束の様に綾がちょっかいを出すのを必死で止める。


「おい、まじでヤメロ」

「やらねばならない時があるのだよ、アンち」


 この死んだ魚の様な目をしたヤツにも、斯様な一面がある事に新たな驚き覚える。そして綾の背後に便乗しようとする一葉の姿。お前も同類か、と乾いた笑い。仲間に入りたそうにこちらを見ている湊が目に映り、今だけはやめてくれと何かに祈る。


「君達仲良いな、本当に」坂巻が感心した声を出す。「で、それはそれで良いんだけれど、話進めても?」

「……はい」


 私は綾を押しやり背筋を伸ばす。横目に何故か皆が背筋を伸ばしている姿が映る。コイツら。


「……ええと、斑目。君は打撃だけではなく、捕手としても、もう少し筋力を付ければ良いと思う。これに関しては金田もそう」

「はい」私と一葉の声が重なる。

「二人とも当てるのは上手い。けれど、如何せん飛距離が足りない。特に金田のバットコントロールは素晴らしいから、あとは平均的な飛距離。それがあるだけで得点力はかなり上がる。どう?」

「……精進します」


 二人して似た様な答えを出す。


「で、夏目に関しては、特に無い」坂巻は肩を竦める。

「ええぇ、何でっすか」湊が声を上げる。

「君は事前に聞いたいた通りの結果を出したから、まあ、予想通り。大屋先生に噛み付いたのは肝を冷やしたけれど、ね」

「いや、あれはしょうがないっすよ。さっきも言ったけれど、あんなのは……」

「その話は後」坂巻が湊を止めた。「で、四ノ宮なんだけれど……」


 坂巻は荻野に目を向け、苦虫を噛み潰した様な顔をした。


「良いわ、私が言う」どことなく翳りのある表情を浮かべ、荻野が居住まいを正した。「四ノ宮に関しては、多少雑な部分はあるけれど、打撃だけなら現状下位打線に入れても問題はないと思う」

「あ、ありがとうございます」杏樹は小さく頭を下げた。恐縮しつつも嬉しさが滲み出ていた。

「ただ……」含みのある荻野の言葉。

「?」杏樹は首を傾げた。

「この先……」荻野の表情が僅かに歪む。

「美羽、一旦纏めよう」坂巻が荻野の言葉を止めた。

「……そうね。これは後の方が良いか」


 小さく息を吐き、荻野は切り替える。次の言葉を紡ごうとした所に新川が割り込んだ。


「ちょっと良い?」

「あら、珍しい」荻野は表情に僅かな驚きを滲ませた。「こういう場で佳奈が発言するなんて。別に息詰まってる訳ではないでしょう?」

「まあ、それはそうなんだけどさ。この後の話にも関わるし、一つ言っておかなきゃって事があるの」

「あらそう。じゃあ」荻野は短く言って、新川に手の平を向ける。

「ええとねえ」新川は若干言い難そうに頬を掻く。覚悟を決めたのか一息を呑み込み、強い目が何故か私に向いた。「斑目、あんた美羽に喧嘩売ったよね?」


 このタイミングで来たか、と私は奇襲に狼狽え目が泳ぐ。いずれ来るとは思っていたのだけれど、予想に反して女帝本人では無い所からやって来るとは。明後日の方角からの神の雷霆ケラウノス。やはり黒雲という心当たりがある以上、落ちるべくして雷は落ちたのだ。


「え、ええと……」私の目は遠泳さながら、新川からそれてゆく。

「美羽は気にしてない様だから話に出なかったけど……」

「別に気にしていなかった訳ではないわ」荻野が口を挟む。「当初、甘い理想論を掲げる小生意気なちんちくりんは、コキュートスに未来永劫囚われればいい、とは思ったし、ね」


 刺さる。言葉が痛い。あとワードセンス。普通は”コキュートス”なんて咄嗟に出て来やしないだろうに。


「と、まあ、初対面ではそう思ったのだけれど、自分の意見を持ってる子は嫌いじゃないし、言うだけの事はある、と思ったから帳消しにしたの。これで二タコ、十失点とかだったらおそらく口も聞いてないわ」


 荻野は頬に手を添え優雅に微笑んだ。

 威圧感が凄い。背筋が凍える。


「美羽って、優しいのか冷たいのか解んないなあ」新川が呆れた様な声を出した。「と、まあ、それは良いとして、斑目」

「はい」反射的に背筋が伸びる。

「気が強いのは悪い事じゃない。自分の考えをはっきり相手に伝えるのは良い事だとも思う。けれど、自分が正しいと思う事が誰にでも受け入れられるものでは無いという事を少しは考える。どんなに客観的に考えたとしても、ね。……時には黒いものを白いと言わなくてはやっていけない世界もあるから」 

「はあ」私は曖昧に頷く。「でもですよ、新川先輩。間違いは間違いと伝えなければ……」

「だから、間違いというのは何を基準に間違いとしてるのかを考えろって言ってんの。あんた達がいる場所は、あんた達の想像している様な場所じゃない。あんた達の常識が通用しない世界なんだ。些細な一言で、三年間が虚無になる」


 新川は眉根を寄せて目線を逸らした。悔しそうな煮え切らない表情にも見えた。

 詰まるところ、余計な一言で干されるという事だろうか。”干される”自体があってはいけない事だとは思うけれど、一旦それは置いておいて、では、余計なというのはどのラインからなのだろう。新川の言葉から察するに、おそらくそれは理不尽と感じる部分も含まれるのだろう。溜息が出そうになる。


「佳奈、気持ちは皆一緒だから」坂巻が新川の肩にそっと手を置いた。目線だけ荻野に向ける。「美羽、一旦締めよう」


 坂巻の提案に荻野はゆっくりと頷いた。


「今年の一年生は思っていたよりも優秀な子が多くて、嬉しい」荻野が取り敢えずの締めにかかる。表情から笑みが引き、徐々に翳ってゆく。「けれどそれと同時に大きな困難が目の前にあるという事も理解しておいてほしい」


 荻野はそこで言葉を止め、目線を後ろに向けた。

 機を窺っていたのか、漸く神崎が飲み物を運んで来た。人数分のグラスに注がれるお茶。それが各々に渡ると、改まった荻野が口を開いた。

 今までに無い、翳りを含む顔。

 この後、この日急遽集められた真の意味を私達は知る事になる。

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