Heresy and successor 〜 異端と後継者 〜
晴天の空に響き渡るなんとも締まらない音。
それは投球練習というより、ただのキャッチボールに思えた。
やる気が無い、ふざけている、そんな形容が頭を過ぎる程、マウンド上の乙女からは試合に向ける熱の様な物が感じられなかった。
クイックの様にあまり足を上げずに踏み込み、大きく腕を振る。ただ、その動きは酷く緩慢で、放たれたボールは大きな山を描く。
振り切った左腕を右脇腹に着くまで放置し、蹴り上げた左足を浮かせたまま、フォロースルーの余韻を確かめる。
細身で撫で肩、その上にちょこんと乗る黒髪のショート。春の陽射しを受けてちらと光る縁無しのメガネの奥の眼は、酷く冷たい。
青山圭は薄い唇を結び、緩慢な動作で山なりの球を投げ続ける。
「ラスト」
荻野が言った様に、この回から捕手は関谷みなみに代わっていた。そのみなみが声を張り、球を投げ返す。
圭はボールをグラブに収めると、初めてロジンパックを左手に持った。軽く上がる左手から春風に流れる白粉。
ゆっくりと左足をプレートに着けた。
お腹の前に置いたグラブ。
先程よりも高く上がる足。
撫で肩は撫で肩のまま、右足を踏み込み。
重心の移動に腕が引っ張られ。
撓った左腕から球が弾かれる。
然程速くはない。
けれど、糸を引く様な白い轍がミットに収まった。
おいおい、まじかよ、と私の中に冷や汗とも感嘆とも言えない感情が芽生える。
なんちゅう質の良いストレート。
完全なるバックスピンとは言い過ぎかも知れないけれど、限りなくそれに近い球。沈まないストレート。おそらく打席で見る体感速度は、今の比ではないだろう。これに遅い変化球が混じれば、と考えて頭を振った。
悪いイメージ膨らませてどうする私。
私の今するべき事はデータ収集。初見だし打ち崩せないにしても、粘れるだけ粘り、出来るだけデータを取ろう。私の後ろには、私には出来ない事をやってのける乙女がいる。彼女達の為にも今自分の出来る事をするまでだ。
「お願いします」
そう声を掛けて、一礼。左バッターボックスに足を踏み入れる。
ルーティンをこなし構える。
私の視線の先にいる青山圭は初球から首を振った。
もう一度首を振り、漸く頷く。
ランナーのいない状態であっても、圭はセットポジションで静止する。
力感のないフォームから腕が出て、リリースの瞬間球が弾ける。
初球は不意をつく山なりの球。
私の体に向かって来る様な軌道から、滑り、落下し、アウトコースへ。
球を追っていた私の目に、ワンバンした球を捉えきれず弾くミットが映り込む。
「ボール」
てんてんと転がるボールをみなみが掴み、ユニフォームで土を落とす。
「ごめん」そう言って綺麗になった球を投げ返した。
圭は何も返さなかった。
なるほど。
捕手のミスだと言いたい訳だ。クソボールであっても”捕手なら捕れろ”と言いたいのだろう。私だけかも知れないけれど、どんな球であっても弾いたら捕手にも責任あるしね、なんて事を思う。
にしても、だ。
おそらくカーブだろうけれど、中々に変化するなあ、と思う。園川の普通のカーブよりは遅く、その分変化は大きいといった印象。とは言え、伝家の宝刀かと問われれば、そこ迄ではないと思う。当てる事位は出来ると思う。飛ぶかどうかは運次第ではあるけれど。
さて、次は何かなと構えを新たに。出来れば早めにあのストレートを見たい所だけれど、なんて事を思っていると、またしても圭はマウンド上で首を振った。
まあ、出会ってまだ時間がないので仕方がない。投手の好みをこの短期間で把握しろというのが無茶な話。藤野も言っていた。投手とは繊細で気高く云々。こう言うと失礼かも知れないけれど、マウンドの乙女は見るからに神経質そうなので、現状組んでいる相手ではない事に内心安堵の溜息が漏れる。
サイン交換が済み、投手がモーションに入る。
見るに徹していた私ではあったけれど、まさかのど真ん中に思わず手が出そうになる。けれど、その甘い誘惑を強い精神でもってなんとか堪える。
「ストライク」
あぶな。
先程千家が零した言葉がそのまんま私の口からも出る所だった。
左の私のアウトローに逃げていくスライダー。しかも結構沈んだ。手を出していたら、良くて空振り、最悪は内野ゴロだった。流石に初見では捉えられない。
何だコイツは、と私はマウンドに目を向ける。
首を振った挙句、二球続けて変化球。遅い球でカウントを稼いで、あのストレートで三振させようという魂胆だろうか。まあ、解るけれど、その分腹が立つ。私程度にはこの位で十分なんて思っているのだろう、なんて勝手に思い込み、勝手に憤る私。
けれど思惑は明後日の方に向かい始めていた。
またしても圭は首を振る。三球目。
今度はインコース。ゾーンには入っていた。
タイミングだけ測る。
ベース付近で少し滑った。
耳にはストライクのコールが飛び込んでくるも、目は球の行方に釘付けだった。
初球のカーブ程では無いにせよ、みなみは再び球を弾いていた。
自分で一杯一杯だったのでそこまで詳しくは見ていないけれど、二球目のスライダーも捕り損ねていた筈。
まさか、とは思ったけれど、それはすぐに打ち消した。何と言おうが私達はまだ出会って間もない。人となりもプレイの癖も把握していない。まあ仕方ないよね、で済ますには若干お粗末なプレイではあるけれど。
同じ捕手だからこそミスした気持ちは解るので、私は横目でみなみを捉え続けていた。彼女はボールを拭き、投げ返そうとした所で、その動作が止まった。
グラウンドに目を向けるとマウンドは無人。その主は何故かファーストにいた。グラブで口元を隠しながら二、三言葉を交わしている。ファーストを守る坂巻の表情は苦笑いの様、ちらと視線を後方に向ける。
痺れを切らした、そんな雰囲気を纏い溜息を出しそうな表情のまま、圭はマウンドでは無くこちらにやって来た。
みなみが動き出す。
私はボックスから一度出て辺りを窺う。
「ごめん」みなみの口からは謝罪の言葉。それと共に球を差し出した。
圭はそれに片手をあげる事で返事として、彼女の脇をすり抜けた。
右手に球を持ったまま、みなみは固まった。
「すみません」圭は大屋に声を掛けた。
「何かな?」
みなみが振り向き二人の動向を見守る。
「キャッチャ替えても良いですか」
辺りの空気が一瞬止まる。
「何故?」大屋がきいた。
「捕れないからです、私の球を」
「……捕れないのは関谷の所為ではなくて、君の所為ではないのかな」大屋はみなみに目を向けた。「関谷としてはどう?」
「サインと違う球が来たので対応に困った結果です。でも、捕れなかったのは事実で……」
「青山、君に聞くけれど、なんで関谷のサインに従わない? 首を振る回数もそうだ、少し多過ぎやしないかな」
「……はあ」圭はあからさまに溜息を吐いた。ちらと冷たい目が私を射抜く。「そこの銀縁メガネは一応今日二安打してますよ」
いきなり話題に飛び出た私。思わず、お前もメガネだろうが、という言葉を慌てて呑み込み状況を見守る事に徹する。
圭は続ける。
「一打席目はラッキーな内野安打ですが、まあ、足が速いのは解りましたし、二打席目は配球を読んでのカーブ打ち。頭と技術が共にある事が解りました。以上の事から先頭としては嫌なバッターです」圭はここで再び溜息。「そんな相手に、単純なストレート勝負を挑む阿呆がどこにいます?」
はい。私です、と内心手を上げる。
そりゃあそうでしょう。あんなストレート見たら使いたくなるってのが捕手心理ってヤツですよ。ただまあ、彼女の言っている事も解る。どんなに良い球であっても慣れれば打たれる可能性は高くなる。その確率を下げるのが配球でありリードだと私は思う。
「そうは言うけれど、見て来るだろう初球にストレートの印象を付けさせるのだって有効でしょ」
みなみが反論する。
「別にそれならそれで良いんだ」圭はあっさりと認めた。「ただ、何故コース指定が無い? 阿呆みたいにど真ん中に構えられて、はい投げます、なんて投手いると思う? 私には全く理解出来ない。リードを任せられる相手じゃない」
「なるほど」大屋が言った。「そういう事なら、今二人の間で共通の理解が出来た訳だ。互いの言い分を頭に入れた上で、続ければ良い。捕手の交代は認めない」
「……」圭は凍てつく様な眼差しをした。「監督が何を見ているのか知らないけれど、そういう事なら仕方がありません」
圭はくるりと身を翻しマウンドに向かう。
彼女の呟きが僅かに聞こえた。
「どうも、やたらと信用されてるな」
圭の横顔が目に入る。彼女の薄い唇が弧を描いていた。
何だか不穏な笑みに見えた。
おいおい、野球しようよ。と心の中で苦笑。集中を途切れさせる出来事ばかりが起こりやがる。目を瞑り一呼吸。取り敢えず一切を頭の片隅に追いやり、バッターボックスへ。
プレイの掛け声。
マウンドの乙女は軽く左腕を掲げ、躊躇無く頷いた。
セットから腕が鞭の様にしなる。
白糸の様なストレートが高めに伸びて来る。
完全なボール球。
けれど、体感する勢いは明日香のそれと同等か、それ以上。見慣れている私ですら呑まれそうになる。
熟れた果物が叩きつけられた様な嫌な音がした。
みなみは辛うじて球を抑えたけれど、ミットは若干球の勢いに持っていかれていた。
「ボール」
失投かと思った。
けれど。
マウンドにいる冷徹メガネは僅かに口元を上げていた。
何やら悪い予想が浮上。
もしや圭は端から試していたのかもしれない。首を振り続ける事で捕手の傾向を。サインとは違う球で瞬時の対応力とその技術を。そして今度は……。
再び躊躇なく頷き腕を振る。
同じ様な糸を引くストレートが今度はより高めに来る。
伸ばしたミットを撃ち抜く様な勢い。みなみが僅かに体勢を崩す。球が転がる。
「ボール」大屋が宣言する。
圭は冷たい笑みを浮かべ、帽子を浮かせながらこちらに近付いて来る。
「すみません、球が上擦ってしまって」
みなみはボールを片手に圭に寄る。
「今回はちゃんとコース指定したよね? 何あの球は」言葉に憤りが滲んでいる。
「だから、謝罪してる」言葉とは裏腹に圭の口元には冷笑。「ちゃんと捕ってくれれば大事はないから」
「捕ってるでしょ? コントロールミスしたのはそっちじゃない」
おいおい、あまり熱くなりなさんなと思うけれど、言わない。行動は認められたものではないけれど、圭の気持ちは何と無く解る。
納得いかないのだろう。
湊は主張を受け入れて貰えた。
けれど、自分は許されない。それだけでも憤慨する所に、得心のいかない理由が付随する。
だから、圭は再び試した。
みなみの捕球技術を見限り、それを利用し、現実を白日の元に晒す。高めに投げ続け、捕球をミスれば、その球が後方に弾ける。飛ぶ場所には……。
流石にそんな漫画の様な事は起きないだろうけれど、最悪の自己主張にはなる。
ホーム近辺でのやり取りに、内野陣が集まって来た。やはり、と言うべきか、そこにはライトにいる筈の荻野も加わっていた。
「ミスなんてしてないけど?」圭は再び冷笑を浮かべる。
「はあ? あれがミスじゃない?」何を言っているんだ、という困惑じみたみなみの顔が事実に辿り着き固まった。「まさか……」
「そこまで」坂巻が二人の間に割って入った。「試合中に何しているの」
「謝罪していただけですよ」圭が言った。
「謝罪、というのは何に対して?」荻野が落ち着いた声を出す。
「球が少々上擦ってしまって」
「そんな雑なコントロールをする投手なの、あなたは」荻野は溜息混じりに圭を見遣る。
「今回だけは、ですかね」圭は肩を竦める。「関谷さんはどうやら優秀な様ですから、どんな球でも……」
「君達は何をしているんだ」大屋が苛立ちを滲ませた声で割って入って来た。「青山、今度は何だ、聞いていればサイン無視の様じゃないか」
「違いますよ。コントロールミスですよ。ちゃんとサイン通りの球を投げました。まあ、少々上擦ったり、変化しなかったのもありましたけど」
「そうか」大屋は深く頷いた。それから一塁側のベンチを指さした。「青山、君はもう良い。そんなコントロールでは投手は務まらない。やる気があるのなら一からやりなおす事だ」
圭は冷たい目を僅かに広げ、息を呑み込んだ。
「監督、それ本気で言ってます?」荻野が呆れを滲ませながらきいた。
「勿論。コントロールもさることながら、バッテリィ間で意思の疎通も出来てない様子、当たり前だよ」
「あのストレートを見ていて、本気で……」
荻野の言葉を遮り、大屋がさらに言葉を重ねた。
「そもそも、一年生相手に時期エースが五失点。もう少しその事実を受け入れて欲しいんだけどね。荻野、君にもその責任の一部があるのは解っているだろう」
「あれは……」荻野は再び言葉を呑み込む。そして小さく首を振った。「いえ、監督の仰る通りです」
大屋は荻野を一瞥し、大きく息を吐いた。
「大体解った。もう今日はここまでにしよう。これ以上やっても無駄だ。青山がベンチに下がるとなれば、しょう……」大屋は一旦言葉を止め、妙なくしゃみをした。一瞬忌々しそうな表情を見せた後続ける。「しょうがないので上条が出る事になる。彼女は病み上がりなのだし、例えそうだとしても結果は見なくても解るから」
こんな終わり方あるんかい、私、あと一球残ってるんですけど、と叫びたい。まあ、叫ばないけれど。
それよりも、だ。
何とも不穏だ。
どれもこれも不透明な事この上ない。
おそらく、この場にいるプレイヤ全員が納得いかないのだろう。皆一様に表情は芳しくない。
そんな皆の表情に一瞥もくれず、大屋は事務的に今後の予定を坂巻に告げた。
「今日はダウンして終了。明日もう一度ミーティングで大まかな事を確認、その後本格的な練習に入る事にします。では主将、あとはよろしく」大屋は審判のプロテクタを脱ぎ、バックネットに立てかける。踵を返す足を途中で止め振り返った。「ああ、あと坂巻。一年生全員をメッセージルームに招待しておく事」
「……はい」坂巻は姿勢を正し、腰を折った。
呆気ない幕切れ。
納得のいかない結果。
少しだけ仲良くなったチームメイトと、仲違いしたチームメイトを産んだ没収試合。
強くなる。勝利をこの手にする。そんな目標が霞んで消え入る様な春の午後。
私の高校での野球は第一歩から盛大にぬかるみに踏み込んでいた。それはもがけばもがく程深みに入る泥沼。柔らかな春の青天の下、皆の心は鉛色の曇天模様に変わりつつあった。
皆が思っている。
このままではいけないと。
ここから抜け出すには、並大抵の努力なくしては出来ないのかもしれないと、半ば絶望じみた思いにかられる。輝ける未来は早々に輝きを失くし、先の見えぬ不安に包まれる。
春風が吹き抜ける。
心躍る様な朗らかな日差しは、舞い上る筈の私の心を突き刺している。
柔らかな陽光も、花の香が混じる春風も、浮かれる事の出来ない私には酷く辛いものだった。




