Light and dark 〜 明暗 〜
「最後の球、あれは良かったわね」
ボックスに入り、ルーティンの最中に荻野が囁いた。最後とはどれの事だ、と言葉が頭を過ぎるけれど、動きを止めずに返す。
「……ありがとうございます」
「私は見てないから判断出来ないけれど、上条が言っていたんだから、きっとそう」
「はあ」曖昧に頷きながら、思考を巡らす。
前の回の最後、疑惑の一球の事か、と合点。荻野の言葉にはおそらく他意はない。けれど、ここでそれに囚われ、打席に影響が出るのは頂けない、それこそ自滅。と、いう事で、一旦それには蓋をする。
「こちらの提示できる事は、ある程度伝えた。あとは貴女達が自分で考える事」
……閉じた蓋をまた開けんのかい、と思わないでもない。もしや、かの伝説のささやき戦術か、と訝しむ。いや、そんな事をする必要もないだろう、と思い至った所で、既に嵌ってる事に気付いた。ダメじゃん、私。小さく首を振り、雑念を振り払う。
「荻野」不機嫌じみた声を大屋が出した。
「ええ、解ってますよ、大屋先生……」
大屋は溜息に近い息を吐いた。不機嫌さが滲み出るのを隠さずに声をあげた。
「プレイ」
全く、余計な雑念を入れないで欲しい、と願うものの、そこは自己で処理する所。蓋をするのはうまいのだ、私は。
と、いう事で、打席に集中。
一球目は直球狙いのタイミングで反応する。
できれば、直球系でストライクになって欲しい。
園川が腕を振る。
ドンピシャ。直球がアウトコースに来る。軽く重心移動。ゾーンからは外れる軌道。最後に少し変化したので、これがツーシームか、と軌道を頭に焼き付ける。
もう一球直球系だと完璧なのだけれど、さて相手バッテリーはどう来るかなと、構え直す。
園川がモーションに入る。
アウトローに決まるストレート。
私に飛ばす力が無いのを向こうは解っている様だ。直球はアウトローに集めるつもりかも。
これで二球直球が続いた。一球目がストライクだったのなら完璧だったのに、と思う。
私は初めからカーブ狙いだ。的を絞るのはストレートでも良かったのだけれど、初見のツーシームが来れば、狙った所で打ち損じる可能性の方が大きい。だからどちらかと言えば、という選択。打てるかどうかは神のみぞ知るという消極的な姿勢だとしても、カーブが園川のウイニングショットなのは間違い無いのだから、どこかしらで投げると踏んだ。
カウントは1−1
神は見放さなかった。
ふわりと浮いた軌道。
来た。スローカーブ。
溜める。も少し溜める。しっかりと球筋を見極める。
若干コースが内に寄っているけれど、インコースに来た分だけ引っ張れる。
点で叩く。
打球は、ふらっと上がってセカンド後方へ落ちた。
あまり締まらない、ポテンヒットではあるけれど、取り敢えず私の役目の前半部分はクリアした。
「ナイバッチ、アンちゃん殿」
今回ファーストコーチャーに入った薫と拳を突き合わせ、防具類を手渡す。
「ありがと」
「次はシノミー、期待が膨らみますな」薫がこそりと言う。
「そうだね」近い場所にファーストの坂巻がいるので、至って冷静に装いベースに着く。
「ナイバッチ」坂巻が口元を上げた。
「ありがとうございます」
「狙ってた?」
「まあ、そうですね、でも、運が良かっただけですよ」
「それも実力のうちさ」
「そうですかねえ」
曖昧な返答を口にしつつ、ベンチに目を向ける。杏樹への指示は前打席の結果を鑑みて打て。ならば、打ち合わせ通りにやって問題はないだろう。改めて杏樹に目を向けると彼女と目線がぶつかった。事前に決めていた二人だけの合言葉。
杏樹に向けてニッコリ。
彼女もまた、私に向けてニッコリ。以上、サイン交換終了。
ゆっくりとベースを離れる。
園川がセットに入り横目で私を見る。私は敢えてもう一歩分リードを大きく取る。帰塁出来るギリギリの距離。ピッチャに集中しつつも、杏樹、任せた、と心の中で手を合わせる。
布石は打っている。私の足は前の打席で曝け出している。故に、盗塁を警戒してカウントが若いうちは遅い球は無いと踏んだ。まあ、ランナ関係なしと言われれば元も子もないのだけれど。
ノーアウト、ランナ・一塁なので、バッテリィとしてはゲッツーが最善。なので、ツーシームで引っ掛けさせる布石を打つという予想。おそらく初球スローカーブは無い。普通のカーブはまあ、選択肢には入るけれど、来るとしても追い込んでからか、もしくは見せ球。それが読めれば盗塁するのだけれど、今回はそこが目的ではない。
杏樹には初球勝負と伝えてある。私が盗塁をチラつかせ、初球のカーブを封じる。選択肢が狭まれば、ヒットになる確率は上がる。杏樹なら、たとえツーシームが来ても力技でねじ伏せれると判断した。
私はこれ見よがしにリード大きく。
焦れたのか、牽制が飛んで来るも、冷静に帰塁。
モーションに入ると同時にスタート。
二人きりのエンドラン。
「よいしょー」
杏樹の掛け声と共に、気持ちの良い打球音。
インコースの直球を跳ね返し、ショートの頭を越える。センター寄りの左中間に打球は飛んでゆく。
追いかける外野手を横目に、行ける、と思い二塁を蹴る。
「スライ」
サードコーチャに入った藤野のジェスチャは左側を示す。
頭上で捕球音。
足元に気を向けつつ立ち上がる。ユニフォームの泥を払いつつ、目はグラウンドに。
杏樹はファーストで止まっている。
「斑目、かなりギリギリだったよ?」藤野が苦笑する。
センターが追い付くのが早く、若干暴走気味ではあったらしいけれど、結果オールライト。
ノーアウト一塁三塁。
けれども、ネクストは綾。
いや、もうここは一択でしょ、と思い改める。
金剛石のメンタルを持つ彼女であれば、プレッシャに負ける事はないだろう。あとはタイミング。ベンチに目を向ける。
指揮を取っているのは笹川だ。
笹川の選択は、先ずは二、三塁にする事。初球で杏樹を走らせる、か。
という事は、私としては、本塁を陥とす様な素振りをするか。キャッチャが二塁に投げれば突っ込むのだけれど、先ず二塁には投げないだろう。一球目スクイズ警戒して外すなら儲けものだし。どの道有利なのは変わりは無い。
初球。
私達、そして相手。二つの読み合いの中にいつつも、独自の判断をした者。
死んだ魚の様な目をした乙女は、甘く入った高めの直球を弾き返したのだった。
「え?!」
濁点のある発音が皆から出た様な気がした。
お前、サイン違うだろうがと心の中で吐き捨てるも、打球はギリギリでサードの横を抜けた。
藤野の声を聞きつつも、ライナー性の打球だった為、一瞬スタートが遅れた。レフトに佇む、現エースとの勝負になった。
一心不乱にホームだけを目指し疾走。
ネクストの悠希が誘導するも、頭上を射抜くバックホーム。
スライディング体勢の私の肩にミットが触れた。
おいおい、まじかよ。なんであの身体で、こんな球投げられんの、と左翼手を見遣る。
したり顔の上条がにこやかな表情で右腕を回していた。
「これが、エース」荻野が言う。
「いや、レフトじゃないですか」尻を叩きながら負け惜しみを口にする。
「どこにいようとも、存在感を出すのがエース」荻野は私の戯言をものともせずに口元を上げた。「残念だったわね」
ネクストに佇む悠希の肩に手を置き、あとは任せたとベンチに戻る。
気落ちはしていない。レフトにいたのが天上人だっただけの事。
メットを片付けながら、切り替える。
背後で打球音。
早打ちかよ、と振り返る。
ボテボテの打球がセカンドに転がる。華麗に捌かれ、一塁ランナの綾はアウトになる。セカンドに入った新川がややもたつき気味にファーストに送る。
本職との間の僅かなタイムラグ。その間に悠希は走り抜けなんとかセーフとなった。
これでツーアウト一塁三塁。
ボックスに早苗が入るのを横目に、戻って来た綾に手招き。
言いてえ事は山程あるんだ、私は。
レガースを着けながら、隣の椅子を軽く叩く。口を開こうとした所に笹川が割って入って来た。
「香坂さ、サイン無視とはどういう了見?」
「絶好球だったんで、つい……」
笹川は頭を抱える。
「あんたバッティング苦手じゃなかったの?」
「まあ、苦手ですね。でも、真ん中なら打てますよ」
「結果が伴ったから良いものの……、今回きりだからね」笹川は仕方なしと肩を落とす。僅かな間を置いて、顔がゆらりと傾く。「で、斑目」
「え」青天の霹靂、明後日からの来襲。私もか。「……なんでしょう?」
「無理するとこじゃ無い。あんた一瞬躊躇したでしょ」
「……はい」
返す言葉が無いとはこの事だ。
「細かい判断しっかりしないとこの先大変だから、しっかり肝に銘じておく」
「はい」
「でもまあ」笹川は表情を崩した。「それまではすごく良かったよ。エンドラン、事前に打ち合わせしてたの?」
「ええ」私は頷く。「私が塁に出れば、盗塁警戒しなきゃでカーブは投げにくいだろうから、初球は速い球。なら狙ってみようかって。で、四ノ宮への指示は打てだったんで、ニッコリと……」
「ニッコリ?」
「ああ、サインですね。やるなら笑顔を向ける」
「あんた達って……」笹川は頭を抱えた。「もう、結果オーライで良いや」
やや投げやりな言葉を吐いて、笹川はベンチの前へ戻って行った。
「なんかすごい疲れてたみたいだけど?」綾は気を取り直し指示を出す笹川の背中を指す。
「まあ、責任は感じてる……って」同じく笹川追っていた顔を勢い良く綾に向ける。「香坂、前の回のラストの球。あれ何さ」
「え?」綾は目線を天井に向ける。該当する事を思い出し、ぽん、と手を打った。「ああ、つうかアンち」
急にスイッチが入った様に綾が身を乗り出す。
私は若干引く。
「な、何?」
「あれ、ストライクだったよね?」
「どれよ」
「カーブとシンカー」
「あ、ああ」首振った時のあれか、と思い出した。「カーブは微妙だったけど、シンカーはまあ、入ってたと思う」
「だよね。多くない? 誤審」
「まあ、思わなくないけど」一応審判はゼッタイなので小声で返す。で、本題。「それは解った。で、だ。あのシュートは何さ」
「え? ああ。いやちょっとムカついたんで、力任せに投げた。後悔はしてない」
「……香坂さ」私は笹川の気持ちが少し解った。首をふりながら綾の両肩に手を置きしみじみと言ってやる。「お前は何と戦ってるんだ?」
キョトンとした表情をして、綾はさらりと言った。
「対戦相手に決まってるじゃん、何言ってんのアンち」
このやろう。
いや、香坂綾はこういう奴だった。環、助けてくれと願いを飛ばし、切り替える。
「ま、まあ、それはいいや」一息ついて落ち着ける。「打席でさ、荻野先輩に言われた。あれは良い球だって。まあ、言ったのは上条先輩らしいんだけど」
「ほう」満更でも無さげな表情で口元に手をやる。
「現状捉えられてると思うんだけど、どう?」
「ああ、パカスカ打たれてはいるね」
「もし、先輩達の言葉がアドバイスなら、使った方が良いと思うんだけど」
「ああ、やけくそシュート?」綾は自分で言って、自分で笑う。
こいつのツボがいまだに解らん。
「なんでも良いけど、それ」溜息が出かけるのをなんとか堪えて続ける。「あとスライダーも。その二つ、感覚的にはストレートと同じって言ってたよね」
「うん」綾は頷く。「まあ、投げるのは良いけど平気? 私、多分制御しきれないと思うよ?」
「そこは頑張るとしか言えねえなあ」私は口元を上げる。「まあ、お前の事だ、そこまで乱れないと思うけど」
「まあ、良いよ。サイン出るなら投げる。その代わり……」
「解ってるって」私は綾の左肩を軽く叩く。「細かいコントロールを必要としない場面で使うから」
「オッケ」
「自分の感覚的にはどうなの? どこ行くか解らないレベル?」
「いや、そこまでじゃないかな。全力ストレートと同じだよ」
「なら問題ない。あとは私がミスらなきゃ良いだけだ」
試合に目を向けると、思いの外早苗が粘っていた。
カウントは2−2。一打出れば勝ち越し。次の回の流れを引き寄せる為にもここは打って欲しいところだ。
不意に後ろから肩を叩かれた。
「アンちゃん殿、と香坂殿」
この独特な言い回しは薫だ。あれ、こいつは確かこの回はファーストコーチャじゃなかったかな。
「あれ、かおたんコーチャじゃなかったっけ」一葉が前列の椅子から顔を覗かせた。
「いやあ、お伝えしたい事があってですな、妙ちゃんに変わって貰ったのですぞ」
「そ、そうなんだ」
口元を抑え、一葉は顔を引っ込めた。どうにも薫の口調は彼女のドツボらしい。御愁傷様。
「で、何?」
「ああ、香坂殿、スライダーってどう握ってます?」
「え? どうって……」綾はボールを探すべく辺りを見回す。
「はい」薫が手際良くボールを差し出した。
「お、ありがとう」受け取りながら、握りを再現する。「こんな感じ」
「なるほど、なるほど」薫は顔を動かし多角的に握りを見る。「この縫い目に掛かってる指を……」
「ちょい待ち」私は割って入る。「佐倉、もしかして握り変えるつもり?」
「まあそうですな。センターから見ていて、如何せん変化量が乏しく」
「悪いけど、それをやるのは試合後でも良い? どうなるか解らないから、ぶつけ本番は怖い」
「まあ、確かに」薫は頷く。
「……多分この握りって曲げるスライダーだよね?」綾がきいた。
「ですな。この握りで、リリースの時に、こう、切るみたいな……」
「ごめん、私それは使わないや」
「え?」
薫は目を丸くする。
鈍い打球音がして、ベンチ内の空気が落胆のものに変わる。ベンチ内に動きが増す。
どうやら早苗は打ち損じてしまったらしい。
「取り敢えず、変化球の話は、試合後にしよう。なんてったって、私らまだ顔合わせてから大して時間経ってないし、お互いの事もよく知らないんだからさ。無理する所でもないよ」
「そう、ですな」
「でも、かおたん、ありがとう」綾は珍しく感謝の意を示した。
「いえいえ。某も投手を齧っている身、香坂殿の力になるのであれば、この身朽ち果てようとも……」
演説を始めようとする薫の肩をミットで叩き、グラウンドに向けて顎をしゃくった。
「ほら、守備の時間だよ」
「おお」
「佐倉」私は準備しようとする薫を引き止める。「次の回から、これまで以上に外野にも球が行く。フォロー含めて頼むね」
「も、もちろんですともお」
鼻息荒く、薫は答えた。グラブを嵌めて、一目散にセンターに走って行く。その後ろ姿を見ながら綾と共にベンチを出る。
「今の私達で出来る事を精一杯やろうぜ。こんな所で躓いてちゃ、環達に笑われる」
「ああ、笑うだろうなあ。あいつ、性悪なんだ」綾はくすくすと笑いマウンドに駆け出した。
良い、と言われた球がある。だとしてもそれで劇的に何かが変わるとは思えない。けれど、私達にとっての何かしらの糸口は見える筈だ。現状、このままでは何も示せない。
勝つ事を目的としていた試合ではあったけれど、風向きは微妙に変わって来ている、そんな気がしていた。
悪くない気分だった。
打って打たれて、私はこの試合に楽しさを感じ始めていた。高すぎる壁。それをまだ何者でもない私達が、どうやって攻略するのかを楽しんでいる自分。
そんな私に冷水が掛けられる。
「斑目」投球練習に向かおうとする私を、笹川が呼び止める。
「なんですか?」
笹川は周囲を窺い、私の耳元に顔を寄せた。
「さっき、監督代行から警告された」
「はあ」警告とは穏やかじゃないなあ、なんて事を思う。「それで、なんでしょう」
「私語が多い、だそうよ。一応心に留めておいて」
笹川はそう言って、私の背を叩き送り出してくれた。
成る程。先程の私の打席での不機嫌さは、そう言うことか。まあ、言っている事は解らないでもないけれど、初対面が大勢いる時期で、先輩方から手を差し伸べて貰えるのは素直に嬉しいし、今後の橋渡しにもなると思う。
それを私語と片付け、バッサリ切るのはどうだろう。
全く楽しいと感じて来た頃合いなのに、冷水を浴びせられた気分。
けれど、興醒めまではいかない。
そんな事で折られたりはしない。
なぜなら、私達は花の女子高生。今はまだ蕾だけれど、いずれ花咲く乙女はその位笑って流せるのだから。




