Baptism or ironmallet 〜 洗礼か鉄槌か 〜
伝家の宝刀は、何も刀身の切れ味だけが全てではない。
故に香坂綾のそれは鈍らだ。大して斬れもしない凡庸な刀身。けれど、彼女の本質は刀身ではなくそれを支える柄であったり、鞘にある。
一つは凡庸な球を支える制球力。
そしてもう一つは、それらを司る心奥にある。
千家に投じた二球目は綺麗にライト前へと運ばれた。
ノーアウト、一塁三塁になり、二番の小澤。ここは読み合いに負けて、ツーランスクイズを決められ、五対二。ワンナウト二塁へ移行。
三番の持田が打席に入った時、私はここは切れると確信した。
持田は大屋体制に移行してレギュラに抜擢された人材、一応コンバート組にカテゴライズされる。三番にいるのも、打力を買われてのレギュラ入り。縦も横もそれなりにあるし、何より試合に入る姿勢が良い。声も出ている。ただ、幾分入り込み過ぎ。
大屋体制に入ってから、と言うのがミソだ。
逆を言えば、今泉監督の時にはレギュラでは無かった訳で、それにはそれなりの理由がある。
別に弱点を知っている訳ではない。
ただ、レギュラという新しい環境、結果を出さなければならないというプレッシャ。入り込み過ぎている理由は容易に想像ついた。
つまり力んでいる。精神的に追い込まれていると言ってもいい。
こういう言い方は良く無いのだろうけれど、結果が欲しい今の彼女は、目の前に出されたのが藁だろうが人参だろうが直ぐに手を出すと踏んだ。
だから、甘めのコースにシュートを選択した。
球は根元に当たり、ボテボテのサードゴロ。ランナーは動かず、アウトカウントだけが進む。
悲壮な表情でベンチに帰る彼女の顔が横目に映る。
持田の心持ちは解らなくはない。
誰だって結果は欲しいし、そこに手が届くのなら伸ばすのが常。ただ、彼女の場合、現在の位置を自ら掴み取ったと言えるのだろうか。選ばれたは選ばれたのだろうけれど、きっとそれは皆が納得出来るものとは程遠い。おそらく本人にも葛藤があるはずだ。奪い取ってしまった者へ自身を証明して、漸く皆と肩を並べられる。
生来優しい人柄なのだろう。だから彼女は他の誰よりもプレッシャを感じている。
野球はある意味でシンプルなゲームだ。来た球を打つだけ。だから、複雑で繊細と考えてしまうのは、大抵の場合自ら余計な物を持ち込んで自身でプレッシャを増大させているが故。まあ、多かれ少なかれ皆がそうなのだと思う。
私だって、満塁で回って来た時には欲が出る。ホームランは打てないにせよ、走者一掃のスリーベース、とかは夢想する。そして打ち損じた時の申し訳なさや落胆が頭をよぎり、バットを握る手に力が入る。
人によって様々だ。そのプレッシャが心地良いと思う者、先に最悪の結果が頭に浮かび手足が震える者。
持田は色々な物を背負い込み、重圧に打ち勝てなかった。
彼女はある意味被害者だ。だから、引き合いに出すのは気が引けるのだけれど、マウンド上の死んだ魚の様な目をした乙女は、その対極にいる。
伝家の宝刀の鞘。
香坂綾にはピンチもチャンスもない。試合中、綾は決して心が乱れる事がない。どれだけランナーがいようとも、その精度が乱れる事はなく、力む事もない。焦りは別世界の出来事で、常に平常心。彼女のメンタルはきっと金剛石で出来ているのだろう。
だから、涼しい顔でマウンドに佇んでいる。
ツーアウト二塁。然程大きくはないにせよ、チャンスの場面で四番を迎える事にも、マウンド上の乙女には何処吹く風。死んだ魚の様な目には打者という記号しか映ってはいない。
「本当に素晴らしい制球力」足場を鳴らし、荻野は囁く。ちらりと目を私に向ける。「あなたのうまく狙いを外すリードも素敵。でもね、それだけでは勝てないの。それを証明してあげるわ」
「……御享受、お願いします」下手に噛み付く所ではないと判断した。
荻野は僅かに目を丸くした。
「従順な所もあるのね」少し笑う。
前打席はシュートで引っ掛けさせた。結果としては打ち取ってはいる。けれど、その後の彼女の表情を見るに、おそらく前打席は様子見に徹していた故の結果。目的が違う。
だから、ここからが本当の勝負。今の私達が、神域の住人に何処まで立ち向かえるか。
とは言え、やれる事はそう変わらない。
ああ、そういえばまだ見せていない球があったなあ、と思い出す。ここまで来た以上綾も嫌がりはしないだろうとサインを送る。
綾は躊躇せずに頷きセットに入る。
私はアウトローに構える。
コースが多少ぶれようが構いやしない。綾も解っているだろうから、中に入るよりは外れる方を意識しているだろう。
力の入ったストレートがボール半個分外に外れる。
ボールの宣告。
当然、荻野は見送る。
「へえ、そんな球もあるの」独り言の様に荻野は呟く。
一回バットを回し、再び構える。
ここからはテンポ良く。
今度は膝下にカーブ。
荻野は喰らい付きファール。
インハイに強いストレートを選択。見送られボール。
速球を見せ球に、緩い球で引っ掛けさせる、という幻想。
なので、逆を突き再びアウトローにストレート。
サイン交換をより早く、相手に考えさせる時間を与えない。
今度は精度重視、ギリギリを狙う。
ドンピシャ、と思った瞬間、その球は甲高い音を響かせて左中間の空に吸い込まれていった。
荻野は涼しい顔で加速し一塁を蹴る。
グラウンドを切り裂いた打球に群がる外野手。
それらを横目に速度を保ったまま二塁を回り三塁も蹴る。
二度の中継から漸く内野にボールが返って来る。
バックホームを試みた一葉の振り上がった右手が静かに落ちる。
荻野は悠々とホームを駆け抜けていた。
寄ってきた綾が声を掛けた。
「アンちどんまい」
「ごめん、ちょっと軽率だったね」
綾は私の要求通りの球を投げた。だからこのホームランは完全私の失態。
「いやあ、どうだろ」綾はグラブで口元を隠しながら、何故かネクスト付近にまだ佇んでいる
荻野に目をやった。「多分、あの人は別格じゃないかな。まあ、ランナーもいなくなったし楽にいこうよ、ツーアウトだし」
それ、普通捕手のセリフ。
マウンドに戻る綾が呟く。
「私も魔球覚えるかなあ」
そう、香坂綾という投手はこうなのだ。
打たれようが何されようが引き摺らない。至って冷静、平常運転。私の方が責任を感じている。
これで五対四。
塁上は空になり、仕切り直しにはもってこい。定位置に戻り、内野に声を張ろうとした所で、逆に荻野に声を掛けられた。
「捕手の組み立てをほぼ完璧に具現化出来る投手と言うのは、バッテリーの到達点の一つかもしれない。けれどそれが解り、尚且つ今日初めて顔を合わせた事も踏まえれば、崩すのは容易い。バッテリーは打たせない為に存在するのだもの」
「はあ」私は曖昧に頷く。
どういう事だ?
確かに連携面で不安があるのは事実。それなりに時間を共有している二、三年生とはチームの成熟度という意味では比べ物にならない。技術も時間的なアドバンテージのある上級生に分があるのも解っている。
けれど、荻野は崩すという言葉を使った。彼我における大きな力量差を確信しているのなら、ただ力任せに打ち砕けば良いだけ。崩すなんて言葉を使う必要はない筈だ。
何だろう。荻野の意図はどこにある。
「お願いします」
私の回る廻る思考をよそに、五番の坂巻がバッターボックスに入る。
「ほんとにホームランしたね」
「え?」
ちらりと坂巻は顔を傾けた。
「ホームランにならなかったとしても、ランナーは返すって言ってた」
「……予告してたって事ですか?」
「そんな大層な物でもないけどね。ただまあ……」坂巻は大きく伸びて、バットを掲げた。「美羽の叩き出した結果で、彼女の理論が証明されたのは事実、か」
「理論、ですか」
「理論、と彼女は言うけれど、考察、推測、憶測。まあ、単純に予想かな」
坂巻はルーティンをこなしながら囁いた。
示す言葉が何であれ、どこかで攻略の糸口を見つけた、という事だろうか。確かに結果としてはその通りだ。ただ、それはどこだろう。完璧になんて程遠い私達ではあるけれど、そう易々と攻略される様な稚拙な事をしていたとも思えない。けれど、事実は物語っている訳で……。
「……それ、言っても良いんですか?」対戦相手にヒントを与えるなんて。私は苦笑混じりにきく。「私達試合中ですよ」
「ううん、ハンデ、っていうのかな。いや、違うか。そもそもさ、公平な試合じゃないんだから、アドバイスを送るのは先輩としての役目だと思うんだよね」坂巻からすうっと力が抜ける。「まあ、助言はする。けれど、手加減はしない」
そう言った坂巻は、見せ球の外したインハイの直球を、丁寧に腕を畳んでそのバットに乗せた。解っていた、とでも言わんばかりの躊躇の無さ。やや低めの放物線は右翼線を駆け抜け、外野ネットに突き刺さる。最短距離で弧を描いた強く美しいアーチ。私達一年生チームのほぼ全てが、棒立ちで舞い上がる白球の行方をただ追うだけの完璧なホームランだった。
ゲームは振り出しに戻った。
荻野達の意図は掴めずとも、現実的な力の差はまじまじと見せつけられた。これが現時点での差なのか。ここまでの差があるのか。
いや、と思い直す。これで良い。力のない今の自分をしっかり焼き付け、理想の自分に近付く為の原動力にすれば良い。
そう、思ったものの凹むなあ、と愚痴りたくもなる。見せつけられる実力差。ただ、マウンド上の乙女は除外したとしても、私も心が折れた訳ではない。どんなに差があろうとも、相手は人外のナニか、ではなく同じ高校生な訳で、まだまだ喰らい付く余地はある筈だ。
心持ちはきっと皆同じ。下を向いている乙女はグラウンドにはいない。
「これまた良い角度で」片手で庇を作りながらグラウンドに目を向け、上条がネクストからこちらにやって来る。礼をしてから、ボックスに入る。「コントロール良すぎなのも問題だよなあ。それが正確無比なら尚更でさ」
「無いとゲームにならないじゃないですか」
「まあね。私なんて四割は思ったところに行かない。でも」上条は顔を傾け屈託なく笑う。「それでもエースなんだぜ、私。あんたみたいな捕手にはめんどいピッチャーなんだろうけど、勝てる。あんたらは素直な良い子達、そこをまず自覚する事だね」
「はあ」
何だ何だ、さっきから。
助言? アドバイス? 試合中に?
私達と、先輩達とでは試合に対する意図が違うとでもいうのだろうか。確かに自己証明という意味では私達はかなり気を入れて臨んでいる。私達は勝とうとしている。しているけれど、現状は壊滅状態に近い。
連打され、振り出しに戻された。
今のままでは通用しない。考えろ、と自分を叱咤する。
ふと、坂巻の言葉が蘇る。
——ここでチェンジアップか、やるね。
この言葉に他意はなかった様に思う。
つまり、坂巻の言葉は本心から出た物。見るという制約下であったとしても、通用したのは通用した筈だ。二、三年生は様子見はしていたけれど、だからと言って雑なプレイをしていた訳ではない。何かあった筈だ。打ち崩す糸口となる切っ掛けが。
何か掴めそうな予感。
けれど、今はそれを頭の片隅に置いて、ゲームに戻る。
前打席、上条には初球セーフティを決められている。状況は同じツーアウトランナー無しだけれど、先と違い、今は同点。何としても安打をというのはおそらくない。今回は打ってくるだろう。
上条は手の平を投手に向け、仕切りに足元を慣らしている。
あら?
前打席はセーフティ狙いだったのもあり、ボックスの真ん中辺りに立っていた。けれど、今は一番後ろ。見極めをしっかりする為かと判断し、やはり打ちに来ると確信。そんな私の視界に、左バッターボックスが映り込む。そちらもまた、打者の跡が残っているのは後ろ。考えて見れば、荻野も坂巻もボックスの後ろに立っていた様に思う。見極め厳しくという事なのだろうけれど。
何か引っ掛かりを覚えた。
上条がニヤリとしながら目線をよこした。
「いやいや、私も欲しいよ、抜群の制球力」
そう言ってバットを立てた。
上条は前打席、初球をセーフティ。データとして球種は知っているけれど、シュート以外は見ていない。後ろに立って見て来るなら、初球はボールからゾーンに入ってくる球。体側から巻いて膝元に落ち込むカーブ。
上条は僅かに体を逸らしながらも反応した。けれどスイングはせず、タイミングを計った様だった。
際どいけれど、ボールの判定。
マウンドの乙女は若干不機嫌なご様子だけれど、ここはテンポ良く。
アウトハイに強いストレート。
セオリー通りの対角線。
高さは申し分なかったけれど、コースが真ん中に寄った。
まずい、と思ったけれど、上条はボールの下を振り抜いた。
そこを空振りするのか、と一瞬驚いたけれど、その残像を利用させてもらう。
次はアウトローへシンカー。一球目と真逆の球。綾の中で一番球速差のある組み立て。
要求通りの球が来る。
堪え切れず上条の体が泳ぐ。けれど、寸での所で出しかけたバットを止めた。
掛かった、と思った。このコースならベースの角を掠める。
「ボール」
嘘でしょ、とまたも振り返りたくなる衝動に駆られる。
マウンドの乙女の目が生気を取り戻している。水揚げされたばかりの魚の眼だ。
おこ、なのね。と思い、先の事を踏まえもう一度シンカーのサインを出す。
綾は首を振った。
え、違うの、と私は肩透かしを喰らう。
何度かの交換の末、どういう訳か、綾はインコースのシュートで頷いた。やばい、奴の意図が解らん。口を真一文字に結びつつも、後で聞こうと華麗に流す。今は目の前の打者に集中。
いつも通りも浅めのテークバックから腕が出る。
球筋を見て驚く。このやろう。強いストレートじゃねえか、と悪態を吐きたくなる。
上条は読んでいたのか、しっかりとタイミングを合わせて来た。
ヘッドが回る。
けれど。
ストレートだと思った球は、やはりシュートで、スイングしたバットの芯を外し、投手の横を向け、ショートに転がった。
悠希が難なく捌き、ファーストへ。
呆気ない幕切れでスリーアウト、チェンジ。
「ナイスショート」
戻り際に悠希に声を掛ける。
ベンチに引っ込み、プロテクタの類を急ぎ外す。
次の攻撃は私からだった。
「香坂」私はレガースを外しながら綾を呼ぶ。
「何?」ドリンク片手に死んだ魚に戻った乙女がやって来た。
「最後の球」
「ストライクだったよね?」
「いやまあ、そうだけどさ。サイン無視かと思ったんだけど?」
「え?」綾はまるで心当たりが無いと、首を傾げた。「何の事?」
「え?」今度は私が目を見開く。「いや、だからさ……」
防具を外すのを手伝ってくれていた一葉が肩を叩いて指を差す。
「琥珀ちゃん、打席」
「え? ああ」一葉に頷き、綾に目を向け人差し指を向ける。「後で聞くから」
「お、おお?」綾はよく解らんという仕草でとりあえず頷く。そしてバットを振る素振り。「アンち、ここはホームランが欲しいな」
「ばかやろう、まかせろ」
煌びやかな理想を嘯き、私はベンチを抜け出す。
守備はズタボロだけれども、攻撃はまだ何とかなると思う。園川は良いピッチャーではあるけれど、捉えられない事もない。先ずは、この回の先頭の私が出なければ始まらない。そんな意気込みを抱きつつ、ボックスに向かう。
おや、と思った。
大屋が、荻野と坂巻、そして笹川を呼び出し何か指示を出していた。
何だろう、と思ったけれど、華麗に流す事にした。今一番大事なのは打席での攻防。
ぽふぽふ、と肩を叩かれた。
振り向くと、頬に指が突き刺さる。
「……なに?」
屈託の無い笑顔でネクストの杏樹が指を引っ込めた。
「なんか、話してるねえ」
「みたいだね、そんで?」
「顔、硬いよ?」
「そう?」と言いながらも、確かに力が入ってたかも、と思い直す。
何事も力みは禁物。寸での所でフラットに戻れた。その所為か、ふと、考えが浮かび上がる。「四ノ宮さ」
「なになに、アンち」人懐こく寄ってくる。
いつの間にかあだ名が省略されている。まあ、良いんだけれども。私は杏樹の肩に手を回し、小声で囁く。
杏樹は我が意を得たりと頷く。
「なるほど、オッケ、任せて」屈託の無い笑顔で杏樹は親指を立てる。
上手くいくかは解らない。そこまで辿り着けるかも解らない。けれど、嵌れば次に繋がる、何もしないよりは全然マシだ。
私は話こむ彼女達の後ろをそおっと通り抜ける。
話が終わるまで、ボックスの外側で素振り。横目で解散を確認して、改めてボックスに入る。
後の為にも、最優先は塁に出る事。手段は問わない。けれど、どうせなら打って出たいなあ、なんて事を考える。緩急が園川の生命線というなら、どちらかに絞るまで。
私は反撃の狼煙をあげるべく、大して重要視していないルーティンを始めた。




