028「母思う娘と娘思う母」
――お勝手、台所、キッチン。呼びかたは変われど、指し示すものは変わらない。略礼服のことを、背広と言うか、スーツと言うかくらいの違いだ。だが、個人的な印象からすると、キッチンで料理する紳士やスーツを着る淑女という言いかたは違和感ないが、お勝手に立つ殿方や背広をお召しの奥方という言いかたには違和感がある。世代的なものだろうか?
「お母さん。お酒、まだある?」
蒔絵の書いてある漆塗りの黒盆に小皿や徳利を載せ、それをウエイトレスのように片手の三本指で持ちつつ、つっかけを履いて土間に降りながらあゆみが運んでくると、ひとみは調理台で漬物を刻む手を止め、水を張った流しに浮かんでいる数本の茶色いビール瓶を見たあと、勝手口に置かれた酒屋のケースから青緑の半透明で「大吟醸」というラベルが貼られた一升瓶を持ち上げながら言う。
「ちょっと待って。……あぁ、ビールは無いわね。お燗を用意するわ」
ひとみは、調理台に一升瓶を置くと、流しの上に設けられた網棚から、逆さに重ねて置いてある鍋のうち、一番下に置いてある小さな片手鍋を取り出すと、水を張ってコンロに置き、つまみをひねって点火する。あゆみは、お盆を調理台の上に置くと、そこから空の徳利を手に取って流水ですすぎ、それを片手に持ったまま壁際にある水屋箪笥の小引き出しだしから小さな漏斗を取り出し、それらをひとみに渡しながら言う。
「ねぇ、お母さん。いい加減、台所もリフォームしたら? それくらいの余裕はあるでしょう? いちいち土間に降りなきゃいけないなんて、面倒じゃない。生活動線が、昭和初期のままよ」
「あゆみは、そう思うかもしれないけど、私は、もう慣れてるから良いのよ。この家にお嫁に来たときから、不便な生活は承知の上だったんだもの。いまさら楽をしようという気は無いわ」
ひとみが、布巾の上に徳利を置き、注ぎ口に漏斗を取り付け、そこへ清酒を器用に注ぐと、一升瓶を置き、徳利のくびれを持って鍋に入れながら言うと、あゆみは、その布巾を手に取り、同じように流水で軽くすすいだ猪口を拭きながら言う。
「私は、いつまで経っても慣れそうにないんだけど?」
「別に、あゆみが慣れる必要無いじゃない。さっさと便利なシステムキッチンのある家に嫁いじゃいなさい」
「もう、お母さんったら。いつも二言目には、それなんだから」
「心配してるのよ。あなたも、娘を生んで育てる立場になれば、じきに理解できるようになるわ。自分が、どれだけ親に迷惑をかけてきたか、親がどれだけ苦労してきたか」
「はいはい。お母さんには、ここまで育ててくれたことに感謝しています。いつも、ありがとう。――これで満足? それとも、真っ赤なカーネーションでも贈りましょうか?」
あゆみが、食べ終わった小皿や小鉢を流しで洗いながら、棘のある言いかたをしたとき、襖の向こうから、数人の年配層によるしわがれた陽気な笑い声が聞こえる。
「宴も酣みたいね」
ひとみが質問に答えずに話題をずらすと、あゆみは不機嫌そうにムッと口をへの字に曲げながら言う。
「年忌法要だってというのに、お坊さんが帰った途端にどんちゃん騒ぎしちゃって。湿っぽいのも嫌だけど、うるさくて敵わないわ」
「賑やかで良いじゃない。楽しくやってるのがわかれば、アノ子だって安心するわ」
――まぁ、それもそうか。いつまでもメソメソされてたんじゃ、成仏できないものね。
あゆみが口ごもっていると、ひとみは洗い終わった食器を布巾で拭いて調理台に置きながら、一瞬、柱に掛けられた八角形の文字盤の振り子時計をチラ見してから言う。
「あとは、お母さん一人で何とかするから、あゆみは、もう帰りなさい」
「えっ、でも」
あゆみが、エプロンの端で濡れた手を拭きながら申し出を断ろうとすると、ひとみは、有無を言わせぬ口調で駄目押しする。
「いいから、帰りなさい。それで、また近いうちに来なさい。今度は二人だと嬉しいわ。良いわね?」
「……はい。それじゃあ、お先に失礼します。また今度」
「はい、またね」
あゆみは、漬物を小鉢に盛っているひとみに一礼すると、その場をあとにした。あゆみが立ち去ったあと、ひとみは、黒盆に小鉢と燗にした徳利を載せ、それらを和室へと運んでいった。その目元は、わずかに赤くなっていたが、酔いが回っている参列者たちは、誰もその変化に気付かなかった。




