018「一晩寝かせたら」
「それじゃあ、仕事に行ってくるわね」
「ミッ、ミィ―!」
玄関でドアノブに手をかけ、部屋を出ようとしたあゆみを、銀猫のシーニーは、スラックスの裾を前脚の肉球で挟んで引っ張る。あゆみがノブから手を離し、両手を膝に付けて屈むと、シーニーは、キッチンへ向かい、もう一度鳴いて注意を引く。
「ミィ」
「あっ、いけない。昨夜の残りを、お弁当にしてくれてたんだったわね。ありがとう、シーちゃん」
あゆみは、パンプスを脱いでキッチンへ向かい、調理台の上に載っているバンダナ包みをバッグに入れると、シーニーの頭を撫でる。シーニーは、耳を垂れ、目を細めて喜ぶ。
「ミィ~」
「さて。今度こそ、仕事に行ってくるわね。お留守番よろしくね、シーちゃん」
「ミィ!」
あゆみが玄関を出たあと、シーニーは玄関先で、しばし佇んでいたが、やがてソファーの上に飛び乗って丸くなった。
*
――昨日の出来事には目撃者がいたらしく、相合傘で仲睦まじく帰ったという噂が尾鰭を付けて広まっているらしい。そして、その情報を伝えて釘を刺しておこうと、昼休みになってすぐ、江崎くんを探しに総務課まで足を運んだら、まだ会議から戻っていないと言われてしまった。大事な会議があるというのは、本当だったようだ。私としたことが、勇み足だった。これでは、噂の裏付けをしているようなものだ。
「もう、あゆみ先輩ったら。それは、好きだからこそ、ちょっかいかけたくなるっていうアレですよ」
「いや、どれよ?」
壁面にソフトドリンクのサーバーや軽食の自販機が並ぶオフィスビルの休憩ラウンジで、みどりとあゆみの二人が、それぞれが持参した弁当を食べながら、ほのぼのとした会話を弾ませている。
「やだなぁ。恋愛モノでは、テンプレ、定番、鉄板ネタですよ。第一印象が最悪だった二人の前に、いくつかの好感度上げイベントが発生して、いつしかお互いの知らなかった側面を発見して、胸がキュンとときめくんです。そして、両想いだと気付いた二人の恋は燃え上がり、濃密なアバンチュールへと」
うっとりした顔で想像力の翼をはばたかせて、みどりが独自の世界観を創造していると、あゆみが横槍を入れ、イマジナリーワールドを破壊する。
「はい、妄想ストップ」
「えぇー。これからが盛り上がるところなのに。『どこの馬の骨とも知らぬ男に、大事な娘はやれん』という頑固親父や、『あなたにカレのカノジョは務まらないわ』という高慢ちきな元カノが現れて、ドラマチックになっていくんですから」
「いやいや。他人を主役にして、勝手に盛り上がらないでちょうだい。私と江崎くんとのあいだに、そんなことは起こらないから」
「わかりませんよ? 支店で片想いをしていた内気で可憐な女の子が、江崎さんを追って津軽海峡を泳いで渡ってくるかも」
「待って。内気で可憐な女の子に、そこまでのバイタリティーは無いでしょう。それだけタフなら、遠泳のアスリートになれるわ。岬と岬のあいだが、何キロあると思ってるの?」
「調べてみましょうか?」
みどりが箸を休め、手帳型のスマホカバーを開けようとすると、あゆみはカバーの上に利き手と反対の手を添えて阻止する。
「結構よ。素人が泳いで渡れる距離でないことは確かなんだから」
「そうですか。それで、話を戻すんですけど、結局、江崎さんのことは、どう思ってるんですか?」
「それが即答できるなら、駅で言われた時点で答えてるわよ」
「ほほぅ。即座に断れずに悩むだけの何かがあるんですね? やっぱり、脈アリなんじゃないですか! ユー、付き合っちゃいなよ」
みどりが一人ノリノリで盛り上がっていると、あゆみは至極冷静に窘める。
「落ち着いて、みどりちゃん。たしかに、仕事は出来るし、冗談が通じるし、なんだかんだで一途だし。悪くないところもあるんだけど」
「おぉ。良いこと尽くめですね」
「でも、無神経で、無頓着で、どこか子供っぽさが抜けないところがあるのよ。付き合ってたときも、私は彼女じゃなくて母親代わりなんじゃなかろうかと思ったことがあったもの」
「それくらい、少年の心を忘れてないんだと捉えて、大目に見てあげましょう。もったいないですよ、せっかくの機会なのに」
「じゃあ、訊くけど。もし、みどりちゃんが私の立場なら、過去のことを忘れて付き合えるの?」
「そりゃあ、喜んでオーケーしますよ。だって、出世コースの筆頭ですよ? 釣り逃したら後悔しますって」
「縁起物みたいに言わないでちょうだい。江崎くんはブリやボラじゃないのよ?」
「似たようのものですよ。とどのつまり、どうなんですか?」
みどりが興味本位であゆみに訊くと、あゆみは、間を持たせるために、黙々と箸を進めた。
――これは、答えを聞くまで質問攻めが続くエンドレスループに入ってしまったようだ。覚えてろよ、元凶め。




