016「縒りをかける」
――さて。今日は何も大きなトラブルなく、みどりちゃんも何も大きなミスをすることなく進んだから、早く帰れそうだわ。今日の夕食は何かしらねぇ。材料がジャガイモとサヤエンドウと糸こんにゃくだから、和風の煮物かしら。
バッグと長傘を持ち、あゆみがアールから順に降りてくるエレベータを、扉の上に光っている階数表示板をボンヤリと見ながら、今夜の献立を頭に浮かべて待っていると、そこへカバンを小脇に抱えた江崎が駆けてくる。
「あぁ、良かった。森永も、ちょうど帰るところだったんだな」
――階段で降りれば良かったか。私もみどりちゃんくらいの歳の頃は、ボーっとエレベーターを待つような真似はしなかったなぁ。今日は新刊の発売日なんです、と言ってルンルン気分でタッタッタと小走りに帰って行く後ろ姿には、若いエネルギーを感じたわ。
「チッ。今日は顔を合わせずに済んだと思ったのに」
「舌打ちするなよ。俺はまだ、何もしてないだろうが」
「まだってことは、これから何かするつもりなんでしょう?」
「揚げ足取りは、やめてくれ。大した頼み事じゃない」
「あら、そう。どんな厄介事を押し付けるつもりだったの?」
あゆみが冷たい視線を送りながら言うと、江崎はガシガシと乱暴に後頭部を掻きつつ、あゆみの手元を指差して言う。
「駅前まで傘に入れてくれってだけだ。朝はピーカンに晴れてたから、折りたたみも持ってないんだ」
「ドアトゥードアという手があるじゃない、江崎課長代理さま」
「取引先や重役を迎えに行くわけじゃないんだ。私用で、そんな散在できるかよ。これでも俺は、自腹でタクシーに乗るのは、部長以上に昇進できてからにしようと決めてるんだ」
「いつの話になるかしらね。だったら、走って帰れば良いわ。脚には自信があるんでしょう?」
「良くない。明日は大事な会議があるから、風邪を引いてられない」
「何とかは風邪を引かないと」
「馬鹿は課長代理になれない。なぁ、俺たち、同期だろう? 頼むよ」
江崎が両手を合わせ、頭を下げて拝むと、あゆみは、大きく溜息をついてから気だるげに言う。
「しょうがないわね。駅前までだからね?」
「ヘヘッ。サンキュー、森永」
江崎がパーッと表情を輝かせたとき、チーンという音とともにエレベーターの扉が開いた。
*
「ホントに駅前までなんだな。なんなら、俺のマンションまで来たって良いんだぜ?」
コミカルにお道化た様子で江崎が言うと、あゆみは、やや眉を顰めながら言い返す。
「そうやって誘っておいて、引っ越したばかりの部屋の片づけを手伝わせるつもりでしょう? その手は桑名の」
「焼き蛤か。何でもお見通しだな、森永は。そういえば、蛤の貝殻は、自分の貝殻同士でないと形や大きさがピッタリ合わないっていうよな」
「貝合わせね。平安貴族が宮廷で行ってたという、神経衰弱のような遊びでしょう。それが、どうしたの?」
あゆみが結論を急かすと、江崎は照れ臭そうに頬を人差し指で引っかきながら言う。
「実は、今日の昼間、森永には内緒で、こっそり四葉とランチに出掛けたんだ」
――あぁ。それで今日のお昼は、みどりちゃんの姿がどこにも見当たらなかったのか。
「それで、四葉から訊いたんだけどさ。今のところ、フリーなんだろう?」
「そうだけど、それが何か? まさか、みどりちゃんとお付き合いたいと考えてるなんて言いだすんじゃないでしょうね?」
「違う、違う。この話の流れで、どうして、そういう結論になるんだよ」
「主語を言いなさい。そうじゃなきゃ、誤解するじゃない」
「はいはい、わかったよ、わかりました。俺が付き合いたいのは」
一旦、言葉を区切ると、江崎はあゆみの顔を指差した。あゆみは、予想外のことに戸惑いつつ、慌てて言う。
「えっ。じゃあ、何。よりを戻そうっていうわけ?」
「この五年あまり、何度もお前とのことを忘れて次の恋に向かおうと思った。けど、駄目だった。なぁ、森永。もう一度、俺にチャンスをくれないか?」
さっきまでのふざけた調子から一転して真面目な顔で交際を申し込む江崎に、あゆみは一歩引いて距離を置きながら答える。
「ちょっと待って。急に言われても困るわ。だいたい、そんな素振り見せなかったじゃない」
「俺なりに、それとなくアプローチしてたつもりだったんだけど。相変わらず、こういうところは鈍感なままなんだな。まぁ、気付いてなかったんなら、仕方ない。明後日の帰りまで待ってやる。それまでに、返事を考えておけ。それじゃあ」
そう言うと、江崎はヤンチャなウインクを残し、「東口」と書かれた改札口へと向かった。森永は、一瞬ポーッと恍惚の表情をしていたが、すぐにかぶりを振って正気に戻り、「南口」と書かれた改札口へと向かった。




