第一章 4 浄化
「ヴァアアアアアアアアアアアアアアア」
それは、四本の長い手と二本の足を持ち、血を被って真っ赤に濡れた異常に小さな顔に真っ赤な瞳、ぼやけた頭部、胴は細くその中央部に煌々とあの赤い石が埋め込まれている…異形だった。虫のようなキチキチとした動きと音を立てながら異形はネナに向かって吼えた。
ネナはペタリとその場に腰を落としたまま、茫然とその異形と目を合わせ続けた。否、ネナの瞳は何も映していなかった。脳が目の前で起こった事を落とし込もうとしていたが、ルルカの笑顔が、言葉が、心の中を走馬灯のように巡る。
「いやああああ!!!来ないでぇえ!!」
「ひるむな!殺せ!殺せ!そいつはもう駄目だ!」
「ひいい、体、カラダがおカしイイイイイイイイイイアアアアアアアア!!!!!!!!」
ネナのいる場所のすぐ傍、ルルカの住居の前の広場は地獄のような光景が広がっていた。火の手が上がり、ギチギチという嫌な音や金属のぶつかる音があちこちから聞こえる。あの異形が何匹も村人を襲っていた。襲われた村人は血を流しながら必死に生きようと逃げ、戦っている。
「あ”が、あああああああああああああ!!!」
そして、異形がまた生まれた。女、男、子供、何もかも平等に、襲われ、生まれ、本来の意味で『生きている者』はどんどん少なくなっていく。ネナはその光景をただ見ていた。ピタリと、ネナの頬に冷たい何かが当たって初めて、ネナはゆっくりと前を向く。
”ルルカ”だったものが、ゲッゲッゲと奇妙に笑っていた。ぺたぺたぺたと、沢山ある手でネナを触っている。まるでこれから遊ぶおもちゃの感触を楽しんでいるようだ。粘ついているのは異形の手についている血なのか、ネナの顔に掛かった血なのかもう分からない。
異形はゆっくりと錆色の口を開いた。頭が風船のように大きく膨らみ、口角と思われる部分が痛々しく裂けるように開き、ネナの小さな頭を飲み込もうと近づいてくる。
(力を、使わないと、死ぬ。でも)
ネナは、自分で力を発動する事が出来なかった。魔力の暴発を繰り返すネナの背中にはシューミレー家秘匿の封魔術式が施されており、簡単な魔術も自分で発動する事は適わなかったのだ。
(ルルカ様、ごめんなさい。折角救って下さった命なのに、私にはもうどうする事も出来ないです)
せめて最後は前を向いて死のう。怖い。怖い?いや、これで良いのだ。私は、これで、ようやく。
ネナは震える指先に力を込めて、丁寧にルルカの形見である青水晶を握りしめた。ルルカの想いが宿った、人生で一番大切な贈り物。
ネナはついに異形の錆色の口に包まれる。生臭くて冷たい息を感じてネナは静かに目を瞑り、咀嚼されるその瞬間を待った。
(ルルカ様…勇気をください…)
◆
「あんた、それで良いの?」
一瞬の出来事だった。
異形がネナの頭に齧り付く瞬間に、灰塵となって消えた。カランと赤い石が地面に落ちる音でネナはハッとする。
異形のいた場所に、男が現れた。少し癖のある銀の髪に燃えるような紅の瞳。男性にしては少し線が細いように見える。そんな男が謎の素材で出来た艶のあるローブで全身を包み、ネナの目の前で浮いている。彫刻のように整った容姿に熱を感じない。
間違いなく普通の人間ではなかった。
男は反応を示さないネナを一瞥し、広場で行われている殺戮に意識を向けた。
「まあ別に良いわよ?このまま見ているだけでも。矮小なる人の子が、救える術を持ってる腑抜けが動かないが為に死んでいくだけ。ただそれだけよ。でもあたしは親切な神だからもう一度聞いてあげるわ。あんた、それで良いの?」
ネナにはこの男が何を言っているのか分からなかった。ネナがコテンと首を傾げると男はネナの前に降り立った。全体的に輪郭が白く発光している。やはり、この男は普通ではない。
男はネナと目を合わせてこようとした。ネナは思わず悲鳴を上げて後ずさった。怖かった。ネナに芽生えたのは吐き気を催すような恐怖だった。これまで麻痺していた感覚が急に脳の奥から火砕流のようにドロドロと溶け出してくる。
「心象世界の時も思ったけど、あんた本当厄介、っていうかめんどくさいわね。」
「あ…あ…」
「良いわよ。こうなった以上あたしはあんたの面倒を見なきゃいけないんだから。今回はあんたの深層心理の言う事を聞いて動いてあげるけど、次からはちゃんと自分の心で責任を果たしなさい。それが召喚者としての責任と責務よ。」
男は冷たく言い放ち、音もなく空高く飛んだ。
『ねえ、あんたは本当に破壊者なのかしら?あんた表では死にたい死にたいと思ってるけど、深層心理では、守りたいとか救いたいとか言ってるのよ。でも何を?何から?そこがはっきりしないのよ。何かを守る、救うってね、力を持つ者が言う言葉なの。それこそ神のような力をね。大事な人すら守る力を持たないあんたが出来る事はね、精神を削るだけ削って、でも何も行動出来ずに指をくわえて見ているだけ。哀れよね。そんな哀れなあんたに使役されるあたしはもっと哀れよ。』
脳に直接、低くて艶めかしい声が聞こえてくる。その声が何を言っているのかネナにはよく理解出来なかったが、悪意に敏感なネナには穏やかなようで鋭利な刃のようにネナの心を切りつけているという事がよく理解出来た。
『救いたい。守りたい。ええもちろん良いわよ。あんたがやろうとしている綺麗事をあたしなりに行使してあげる。しっかり見ておきなさい、ネナ・シューミレー。』
脳がグルグルと回る。まるで棒で脳をかき回されているようだ。上空を見上げるとキラリと光る点が浮いている。あの男だとぼんやり理解した時、光の点が徐々に大きくなっていくのに気が付いた。
「――あああっ!!」
ネナは自分の内から魔力が放出されていく感触に身悶えた。久しぶりの感覚だった。暴走を起こした時と同じ、底の無い壺に吸い込まれていくような浮遊感。シューミレー邸で暗雲を呼び出した時より、アイアンタイタンを呼び出した時より凄まじい量の力の放出。
ネナから放たれた魔力は上空にいる光に吸い込まれていく。ネナは何とか魔力の放出を留めようと抵抗した。嫌な予感がしたのだ。広場にはまだ生存者がいて、避難をしたり怪我人を助けたり、異形に襲われていたりしている。
男はネナの抵抗を嘲笑うかのように力を吸収し、そしてネナが意識を失う手前で止めた。
『我、浄化と再生の理を継承せし者。神名エドゥアルド。此処に天業を行使しよう。哀れな物共よ、浄化の炎に焼かれよ。』
「や、やめて!逃げて、逃げて下さい!皆、逃げて下さい!」
ネナは力の入らない身体を引き摺って広場に向かって一歩踏み出した。ここに居たらダメだ。自分が、自分だけがそれに気付いている。人々が金切り声を上げるネナを見た。血まみれになった女を救助していた中年の男と目が合った。男は、何かを言いたそうに口を開き、
『 ジ・ルヴァリア 』
一瞬の無音。
上空の光から、糸のように細い光がキクラ村の中央に、しっとりと落ちた。
その日、コソゾリ地方の東にある小さな村が消えた。




