第一章 3 異形
「ネナ。ネナ。起きて。ネナ。」
少し乱暴に体を揺らされて、ネナの意識は急速に現実に戻ってきた。いつの間にか布団の上に寝かされていたらしい。
「汗びっしょりだ。悪い夢でも見たの?ひどくうなされていたよ。」
ルルカは日に焼けた顔に心配そうな表情を浮かべてネナの顔を覗き込んでいた。どうやら全て夢だったようだ。ネナは少し残念なような、ホッとしたような気持ちになった。ルルカには言わない方が良いだろう。夢で神様にまで見捨てられただなんて。
出窓から射す明かりから見て、夕食時の時間のようだ。水汲みのお使いから帰ってきてから結構な時間、眠り込んでしまったらしい。
「ルルカ様、ごめんなさい。私、沢山眠ってしまいました。夕食の準備があったのに。」
「構わないよネナ。疲れていたんだろうさ。夕食も出来ているの。今日はネナの好きなアパルの天ぷらだ。新鮮なアパルが手に入ったんだ。」
アパルと聞いて、ネナは少し心が沸きたつのを感じた。アパルはキクラ村の近くの森で採れる山菜の一種で、枝の先に芽吹く若芽を摘んで食す。独特な香りとコリコリとした歯ごたえ、そして少しのえぐみが後味を引くのが堪らなく美味なのだ。森の恵みを受けて成り立っているキクラ村は、良く山菜が採れた。その中でも特にネナはアパルの天ぷらが大好きだった。
「ふふふ。ネナは美味しい物を食べる時だけは笑ってくれるのだから。」
ルルカは無表情ながらも口元が少し緩んでいるネナを見ておかしそうに笑った。慌ててネナはぐっと表情を固める。
ルルカは時々、こうやってネナの心に入り込んでこようとする。ネナはどうしたら良いのか分からなかった。今まで生きてきた中でルルカだけがそんな事をしようとする。ずっと酷い扱いをされてきたネナにとってルルカは異質だった。不思議で、少し怖い。
「今日のは油も新鮮なものだから、沢山食べられると思うよ。さあ、食卓に行こう。私もおなかが減ったよ。」
ネナの華奢な肩にモースという大型の生き物から採取された毛から編まれたフワフワの肩当てを着させてやりながらルルカは食卓へ歩き出した。
その時。
ドンッとネナは何かにおなかを押されてさっきまで寝ていた寝床に吹っ飛んだ。ブルブルと頭を振って何事かと顔を上げる。
「ネナ!私が良いと言うまで毛布を被っておくんだ!分かったね!?」
これまで聞いた事のないルルカの必死な声が耳に届いた瞬間ネナは頭から毛布を被った。
今、一瞬だけ見えたのはルルカが何かと取っ組み合いをしていた所だった。キンッキンッと鉄器のぶつかる音と、ガシャンと盛大に何かが割れる音が耳に届いてくる。
ルルカが対峙している何か…それは人のようなもの、にしては枝のように細い手足、ぼやけた輪郭に赤い瞳、ぽっかり開いた錆色の口。
(あれは何…?あれは何…?ルルカ様…)
毛布の端を必死に抑えてギュっと目を瞑る。勝手にガチガチと歯が鳴る。
「――っシッ!!」
ギュインっと音がして、また色んな物が割れる音がした。カラカラ…と地面を固い物が転がる音、そして沈黙。ルルカの発するスッ、スッという戦士独特の息遣いが聞こえる。
「…ネナ。もう良いよ。一旦ここから出よう。村の様子を見てこなければ。」
「…………」
毛布から恐る恐る顔を出すと、ルルカと戦っていた異形の姿は無くなっていた。
その代わり、異形が朽ちたであろう場所に赤い石が落ちている。ルルカはそれを短剣で突いた。特に反応らしい反応はない。ルルカは思い切って石を拾いながら苦い顔をして考え込み…徐々に驚愕の表情を浮かべてネナを見た。
「ルルカ様。…?」
「……ネナ。良いかい?よくお聞き」
ルルカは一旦言葉を切った。膝を折って目線を合わせ、そして蕩けるような優しい笑顔を浮かべネナを力強く抱きしめた。
「ネナ。これからね、とても怖い事が起こるよ。一生掛けても忘れられない、酷い事が起こるよ。私達の生活は、ここでお終いだ。だから覚えておいておくれ。お前は優しい子。賢く哀れで優しい子。今の境遇の事も何もかもを理解していて、その上で私の立場の事まで気に掛けてしまう優しすぎる子。そんなお前を私は本当の子のように思っていたんだよ。お前が口を聞いてくれるようになった時、私はどれだけ嬉しかっただろう。お前が笑ってくれると分かった時、私はどれだけ喜んだだろう。ネナ、お前の心はとても頑なで本当にしぶとかったけど、少しは私の傍にいて安らぎを得られただろうか。良いかい。お前の事をそんな風に思っていた人間だって、近くに居たんだよ。」
ルルカはネナを抱きしめたまま動かない。何かに急かされるように今まで溜め込んでいた事を独白し始める。ネナはその様子に異常を感じる。
「…ルルカ様、ねえルルカ様」
少しずつ、ルルカの抱きしめる力が強く、弱く、不規則に脈動していくのが分かる。何かを耐えるかのように声を震わせて、目を大きく見開いて、その目から血の涙が流れ始めた。ルルカの全身が奇妙にうねり、骨の砕けるようなボギリボギリと音を立てながら軋んでいる。
「お、おお前はね、一人なんかじャないんだよ。世界いいはあ広イんだ。ネナ、お前ハ一人じゃない。必ズお前を助けてくれレる人がいる。わ。私もそうでありたかった。外に出タラ、すぐに村ヲ出て、チャランサの町を目指しなさい。ルルーカ・リベレの名を使うと良い。きききっとお前を助けててクレルから」
ネナの手を握るその手は血まみれになっていた。毛穴という毛穴から血が流れているのだ。その手に握られていたのは青水晶を麻の紐でネックレスにしたものだ。血に汚れて尚、青水晶はキラキラと輝いていた。ルルカは震える手でそれをネナの首に掛ける。
「ここっこの石には、私ノ願いを込めておイタから、お前をキッと守ってててくれううるよ」
ルルカは恐怖でガクガク震えるネナを力を振り絞って玄関まで引き摺って行った。ルルカの背中がボコリと膨れ上がって、皮膚が破けて血が噴き出している。そこから赤黒い棒のような物が何本も生えていた。
「ルルカ様ぁ!ルルカ様いやです!こんなのいやです!ルルカ様ぁああ!!」
「ネナ…ごめンなさい。お前をチャンと守っテ、あげられなかった、駄目ナ、大人だった。」
「あああ…あああ…」
ネナはついに、ルルカに家の外へ投げ出されようとしていた。顔にボタボタと血が落ちる感触だけがリアルに感じられる。
ルルカの背中からは、先ほどルルカ自身が倒した異形と同じものが生まれようとしていた。もう皮膚が剥げ落ちて表情が分からなくなってしまったルルカは確かに笑ったように見えた。
「わ”だしは”、おばえのごとが、ダイ” す ぎヴぁああああああああああ」
ルルカは、背中から生まれた異形に飲まれた。




