A: -20000
志室幸太郎さまの「コロンシリーズ」参加作です。
コロニストが遺す歴史。そして受け継がれ文献学的に処理される記録。
本篇はオリジナルへの101次翻訳および注釈である。
人物名は不明であるため、本篇の名称は "A" とのみ記述する。
注釈は«»により示す。また«»内冒頭の数字は何次改訂によるものかを示す。複数の注釈がある場合、または複数の注釈に基く場合、複数の数字によって示す。
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私は、草原を走る大きな、そして角を持つ獣たちを待っていた。
«30: ここにおいて、「私」を「A」と呼称する。»
私たちは槍を、そして投擲具を用い、その獣たちを狩った。この狩りはいつもの狩りではない。私たちのいくつもの群が集まる日のための、私たちからの土産であり、供物である。
«75, 99: 75次において神の座と翻訳、解釈されていた丸や台は、むしろ集会におけるサークルであろうと思われる。»
集会の日は近い。私は親指に炭をつけ、その日を示す星々を描いた。
«50, 70, 75, 101: 人型が片手を挙げ、その上に点がある。そのさらに上にいくつかの点が描かれている。私たちも行なっている集会を示す際にも星を示すことから、同様であると解釈した。それは古い翻訳、注釈である。75次においては、神が天空より降りたと翻訳、注釈する。王の権威を示す根拠である。101次において、集会の日であると翻訳、注釈を改める。王という概念はなかったであろうし、後の「穀物」に関し、その日を示すものであると解釈する方が妥当と考えた。»
掟を確かめる。私たちが得た罰の道具は、やはり槍であり、投擲具である。
«91, 98: 一つの人型に、複数の人型が槍を向けている。これは狩りではないだろう。91次においては、部族間の争いと解釈されていたが、それでは槍を向けられている人型が一つであることの説明は難しいだろう。古い民族の記録から、これは罰であろうと推測される。集会の日に続き、掟が示されているのは、並びとして偶然そのようになっているのか、あるいは集会に向けて掟を確認したのか、そのように定めたのか、そのいずれかは不明である。»
集会が終った。穀物を育てている群もあるようだ。
«83, 99: 人型の横に穀物と思えるものが描いてある。83次の時点では不明であったが、集会において穀物についての知識を得たと推測される。ただし、「穀物を育てている群もある」のか、あるいは「私たちも育て始めた」であるのかは不明である。この地域において、穀物の痕跡が発見されれば、「私たちも育て始めた」との改訂が必要だろう。»
私たちはここにいた。
«80, 97, 100: 多くの手がたが炭で、示されている。およそ一時期に描かれたと推測される。また、その時期以後の遺物はここからは発見されていない。どのような理由によるものか、ここを離れたのだと推測される。»
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«75: 本文は以上である。私たちは、記録せざるをえない存在なのだろうか。あるいは書かざるをえない存在なのだろうか。記憶に頼るのみでなく、書く衝動を持っているのだろうか。神がその座に降りたことを示すなど、もちろん重要なことはある。だが、それらのみを記録するのでは不充分なのだろうか。»
«99: 75次における王権論については疑問がある。むしろより純朴であり、ただの記録と読むべきであろう。»
«101: おそらく、これまでの翻訳、注釈は、神学的に過ぎるだろう。だが、99次におけるように、これはただの記録であると判断してしまうのも危険である。ここにおいて別の可能性を考慮する必要も現われたことを特記しておこう。王権論に遡ってしまうのかと思われるかもしれないが、それとは異なる。つまり、これがただの虚構であるという可能性である。私たちに身近な昔話の根源がここにあるとしたらどうだろう。なお、101次において別の意見があったことも残しておこう。王権論との親和性があるだろうが、片手を伸ばす人型と星は、宇宙人の到来を示すものという意見である。だが、おそらくそれはあまりに低い可能性であろう。»