第二話『もう一人』
第二話
『もう一人』
止まない雨が窓を叩く音だけが、この部屋の唯一の音だった。それを除けばそこにある音は、アルミスの呼吸音と、ここの室長であるレンの寝息だけである。
……退屈だな。
アルミスは溜息を静寂の中に染み込ませ、ふと窓の外を見た。
だが外は降りしきる雨と太陽光を遮る雲意外、見える物は何もなかった。
窓は、部屋の入口と対の位置に設けられた小さな物だった。コレといった変哲もない、至極スタンダードな横に長いスライド式の窓である。だからこそ、そこから得られるものなどたかが知れていた。
「…………あぁ、そうだ……」
その突然の声は、レンが発したものだった。レンは徐に起き上がるとズボンのポケットに手をねじ込み、中から長細い携帯端末を取り出した。端末の中で光る液晶画面にはよく判らない変な彩色の動物が映っている。
「アデルにメールしとかないとな……」
怪訝な顔をレンに向けるアルミス。レンは端末を適当に扱うと再びポケットの中にねじ込み、アルミスの視線に返し、言う。
「あぁ、ちなみにアデルはこの部屋のもう一人の人間だからな」
「あぁ、そうなんですか……」
アルミスもどことなく予想はしていたのだが、レンからは寸分の狂いもない答えが返ってきた。面白みはないが、しかしながらに無難でもある。
「そう言えば……」
再び、レンの口が開いた。今度はもう寝るつもりはないのかアルミスの目を真っ直ぐに捉え、続ける。
「お前、ここに来る前はどこにいたんだ?」
だが、質問の内容そのものも無難なものであった。それは実にスタンダードで、どこまでも無難なやり取りを求めるものだ。
「えっと……」
だがそんな無難な質問にすら、アルミスは答える事が出来なかった。躊躇う様に舌が足踏みをし、ただの一歩すら進み出る事が出来ない。
果たして、どれくらいの間答え倦ねていたのだろうか。よくは判らないが、アルミスにはそれが酷く長くて辛い時間に感じられた。
「まぁ、答えたくないなら別に良いんだけどな……」
だからレンのそんな言葉は、どこまでも救いの色に染まって見えて仕方がなかった。
「スミマセン……」
「いや、別に良いけどよ。……つーか、そもそもここにいる連中の素性なんて逐一探ってたら埒が明かないからな」
「そうなんですか?」
「あぁ。だから実際そう言うトコロは基本的にかなりアバウトだぞ。それに人間の経緯なんてもんは簡単に誤魔化せちまうからなあ」
サラリと言うが、これは実際は大した種明かしである。世界クラスの軍事施設の仕組みをバラすという事は、その情報が一歩間違えて漏洩でもすればそれこそ軍そのものの崩壊に繋がる事もあるだろう。
だがそんな事を知ってか知らずか、レンは、そんな種明かしを事もなげに話してしまったのだ。まさか室長である以上はある程度の責任能力もあるだろうし、それを理解していないとも思えない。となると、彼自身が単にアバウト過ぎるだけなのか、それとも、新しい縁に対して凄まじく寛容なのか……。もしも後者ならば、レンは分け隔てのあまりない、心の広い人間なのだろう。アルミスは少しだけ、肩から緊張が抜けていくのを感じられた。
「そのうち、話しますよ」
「そうか」
だからこそ、アルミスは話しても良いと思った。今はまだ無理だけど、いつかは打ち明けてしまっても構わない、と。それもまた、礼儀のうちでもあると思って。
そしてまた、室内に一瞬の沈黙が落ちた……。
†
「いやっほうレンただいまああ!」
ずしりとした沈黙を文字通りぶち破る歓声が、同時に部屋のドアをもぶち破った。
そしてそれとともに部屋に投げ込まれたのは、少年の様に高い声と、その持ち主。
「アデル……ドアが壊れちまう……」
レンの忠告などまるで暖簾に腕押し柳に風糠に釘。少年の声の持ち主はドアすらも閉めずに靴を脱ぎ散らかし、ズカズカと畳の床に踏み込んだ。そして、アルミスの前に立ちはだかると腰を屈め、まるで美術館の絵を覗き込む様にして……
「おぉ! おおおぉ! おおおおおおおおぉ! 君が噂の転入生のアルミス君だね?!」
などと言ってのけた。
「は、はぁ……」
また、噂である。果たして、いったい何が噂になっているというのか……。
アルミスはタジタジになり、その声の持ち主を見上げた。
くりくりした紅い瞳を据えた眼と、若干どころでは済まない程の幼さを残した表情。それらは悉く相まって、彼の印象をどこまでも幼い少年の様に見せていく顔立ちだった。だがその綺麗に整った鼻筋と、シミの一つもない絹の様に汚れのない白い肌は、この少年の、撫でる様な美しさをハッキリと誇示していた。
「あれ、怖がってる……」
少年は固まったままのアルミスを見たまま呟いた。と言うより、ボヤいた。
「えー、コホン」
すると少年は腰を上げ、わざとらしく咳払いをし、アルミスを見下ろした。そして左手を腰に当て、空いた右手でドンと胸を叩き、どこから来るのかも判らない自信に満ち溢れた表情を見せ付け、口を開く。
「僕はアデル。アデル・L・テリアです。クラスはそこにいるレンと同じでAクラス。十九歳。好きな食べ物はイカフライ!」
そして、そう言い切ってみせた。屈託のないその笑顔は、窓の外一面を支配する雲行きとはあまりに対照的であった。
「一応、コイツはこれでもAクラスで実地の成績がトップなんだ………………ふぅ」
アルミスが声に目をやると、レンが湿気にうだる様に上体を起こしていた。頭をガリガリと掻きながら、ぐいッと豪快な欠伸をかましている。
「要するに、今ここで一番強い」
「マジですか」
「うんうん、大マジマジマジ」
アデルは、否定は疎か、謙遜すらせずに首を縦に振って肯定する。如何にも自信があるような、自慢げな微笑だ。
「見えないだろ?」
レンの問いに、アルミスは横目でチラリとアデルを見た。……するとこれは、如何にも答えにくい問いになった。だがアルミスは、別に正直に言っても大丈夫なのではないかと言う印象があった。あくまで何となくだが、今目の前にいるアデルと言う青年は、その程度の事で目くじらを立てる人間には到底思えなかったのだ。
「確かに、見えないですね」
「だろ」
「いやむしろ男にも見えませんけどね」
「うわ、ひど」
「確かに見えない」
「わ、否定しないんだ……」
案の定、アデルはショックを受けた様子すらもかった。むしろその限りなく悦楽に近いものを表す苦笑いは、この状況を楽しんでいる表情と言っても間違いではない。
「まぁ、よく言われるから良いか」
「割り切ってるし……」
室内に広がる笑い声。灰色の空に降りしきる雨とはあまりに対照的な、人肌に似た暖かさ。
「と、言うわけで……」
それから一瞬間を置いて立ち上がったのは、アデルである。立ち上がった後もシッカリと間を取って、腰に両手を当てて、ニヤニヤほくそ笑みながらアルミスを見ていた。
「ここで、もはや恒例となりました、入団テストを行いたいと思いまーす!」
彼の言ってる意味が判らない。意味が判らない。アルミスは口を半分程開けたまま動けずに、ポカンと、文字通り固まっていた。
「はい拍手〜。ぽんぽかすかぽかぽ〜ん」
「恒例ってなんだよ、恒例って」
どうやらレン曰く、この恒例行事は今回が初の開催になるらしい。あくまでも、この『この恒例行事』がである。
「じゃあ早速〜…………じゃん。はい」
レンの問いにも受け合わないアデルが取り出したのは、何やらA、B、Cと、三つのボタンが装着された掌サイズの小さな四角い物体だった。
「こ、これは……?」
そして、それを無理矢理突き付けられるのは無論アルミスである。
「ちゃかちゃかん。三択クイズ〜」
なる程、これで意図は読めたと言うものだ。
……しかし、絶好調だ。今のアデルは、あまりにも絶好調である。これはもはや誰にも止められない。隕石の落下に似た勢いと、究極なまでに手中に収めたイニシアチブが、今の彼にはあった。
だからアルミスも、もう抵抗するのは諦めていた。こうなったらドコまでも乗っていってやろうじゃないか。つまりは出たとこ勝負って奴である。
そうだ、男は度胸だ。ゴチャゴチャ考えるよりも、自分の度胸と根性をキッパリと叩き付けてやるのが一番なのだ。
ついでに言うと、レンもツッコミするのを止めていた。
「じゃあ第一問! でけでん!」
さあ、着やがれ!
あくまで固まったままの表情は崩さないが、アルミスは心の中でとてつもなく凄んでいた。そりゃもう、気迫だけで虫けらを撃ち落としてついでにぐしゃぐしゃに出来るくらいに。
「パンはパンでも食べられないパンはなんでしょう! A、コッペパン。B、アンパン。C、腐ったパン。D、フライパン」
考える間は、作らない。作らせない。脳が反応すると同時に、ボタンを押す。答えは──
「Cの腐ったパンだっ!」
「残念! パンダは腐らない!」
「な、何だとっ?!」
発音が違うなどとは突っ込まない。現に、腐ったパンでも食べる──即ち、咀嚼して飲み込む事が出来ないわけではないからだ。
「じゃあ──」
だがそこで、戦慄した。もうこうなったら残る回答など一つしかないわけだが……、
なんと、こいつにはDボタンが存在しないのだった──!
「Dのフライパン!」
だがそこは臨機応変に、正解を直接口に出してやる。
「ボタンヲオシテ、コタエテクダサイ」
「ないですよ! ボタンないですよ!」
急に機械的な口調になったと思ったら、とんでもない事をほざき出すアデル。と言うより、彼は絶好調過ぎる。
†
『なんか不毛だから止めてくれ』
レンがそう言ってアデルの暴走を止めたのは、第六十三問目『鼠は鼠でも空を飛ばない鼠ってなんーだ? A、こんちゅう。B、夢中。C、円柱。D、ちゅう』の時だった。
「えー、何で止めるのさー……」
不服そうにむくれるアデル。その足元には、KOされてグッタリしたアルミスが横たわっていた。
「ねぇアル、答えは?」
アデルはまだ続けるつもり満々らしく、ツンツクとアルミスを人差し指で突っつく。
「……死んでる」
「お前のせいだな」
「えー、それはヤだなぁ」
実際、本当に死んでいるわけではない。ただ、死んだ様に動かなくなっているのは確かだった。まるで、アルミスが今アデルと関わるのを拒んでいるかの様に。
「ん〜……。じゃあ三択クイズはここまでにして〜……」
アデルは『仕方ないなぁ』と言った様子で立ち上がり、それに習って顔を上げたアルミスの視線を迎撃する。そしてまた両手を腰に当てて、不適に笑んで言った。
「ちょっとアリーナ行こうか」
漸くまともな事を言い出したと思ったら、アルミスもいつまでも潰れている理由がない。躰を起こしてその場にペタリと正座して見上げる。
「アリーナ……?」
「うん、アリーナ」
そう答えるアデルの表情はどこか満足げで、何かアルミスを試している様だった。