第一話『その、笑顔と握手と代償と……』
第一話
『その、笑顔と握手と代償と……』
雨はまだ止んではいなかった。それどころか、その雨足は強くなっている様にすら思える。
「…………」
少年は、もはや深々と……という表現では利かなくなった窓に滝を作る水を、ソファに座ったまま、待合室の窓を貫き見上げた。
雨は、彼の気持ちをある程度静めてくれる。
「……長かったな」
不意に、目の前の小さなテーブルを挟み、そのソファに向かい合う様座ったレイナが口を開いた。
だが向けるのは視線だけで充分だった。だからアルミスはそうする。顔は相変わらず窓に向いて、瞳だけを、レイナに。
理由はある。簡単だ。今の彼女の言いたい事くらい、皆まで言わずとも判るのだ。
二人は昔からそういう関係だった。もっとも今まで育ってきた環境がそうさせずにはいなかった……という方が正しいのだろうが。
二人が育ってきた場所……。それはどこの公園にもある様な、小さな砂場や風を受けて揺れるブランコなどとはあまりにかけ離れていた。相手の意思を先読みして汲み取る事もまともに出来ない様な人間には、少々酷な場所。
「長かった……」
膝に立てた両腕に頬を乗せ、同じ事を呟く。ひょっとしたら、それは自分だけに向けた言葉だったのかもしれない。だからとは言わないが、アルミスは返事をしなかった。ただ黙ったまま今度は顔ごと、視線をレイナに向ける。
「そう思う?」
だが、自然と自分とは違う価値観を求めるもの……問い掛けが唇から滑り出していた。
「待ち遠しかったからな……。お前こそそうだろう」
二人がここに来た理由は同じだった。だが、それで結論が同じになるというわけではない。
「入学を先に提案したもの、お前だ」
戦う事……。
それは、死なずに明日を見るためには当たり前の事だった。
そして生きる理由も、戦う理由も同じだった……。
だが戦う理由は、今となっては違うものにすり替えられている。もっとも、それが生きる理由とまではいかないが……。
「戦う理由だって、同じだろ……」
同じではない。経緯こそ限りなく近いが、到達点は違う。
だが全く同じものも中にはあった。そして、それがどれだけ大切なものかと言えば、その大きさも同じなのだろう。
それなら……。
「『なら』俺もそうだな」
「……何だよそりゃ」
理由は訊かない……。
知っているから……。
どうして彼が、彼女が戦うのか……。
誰の……そして、何のために……。
「はいはい失礼しますよー」
だが、一瞬の間を置き待合室のドアが開いた事で、その話題は強制的に打ち切られる。もっともこの介入があろうとなかろと、何時までも同じ話題が続いていたかどうかは判らないが。
「あ、と……そう、一応確認な。あんたらが噂の転入生だな?」
二人の視線を浴びる介入者は、如何にもヘラヘラした感じの、長身の男だった。茶色く染められた髪をその細長い指でわしわしと掻き『こう湿気が多いとセットが決まらん』だの『傘差したって濡れるんだからな』だの、何やらブツクサ言っている。
「噂?」
先に口を開いたのはレイナだった。不服な事でもあるのか、ソファに座ったまま男を睨み上げる。
「おいおい、質問してんのはこっちだろ。先に答えてくれよな」
「……そうだ」
隠す必要もないので、そのままレイナが答えた。もっとも、ここで違うと言ったところで騙せる筈もないし、そもそも寮まで案内してもらうという当初の予定も、よく判らない方向へ向かってしまうだろう。
「素っ気ないな……。まぁ良いや。ようこそ、ゼルス養成学校へ」
†
やはり二人は男の案内で寮に向かう事になったのだが、あいにく雨が止む様子はなく、致し方なしにその中を歩く事になった。
雨のせいなのか、それとも、この閑散とした人口密度のせいなのか……。どこことなくノスタルジックな雰囲気を放つ学校の敷地内を、淡々と行く三人。
どうやら敷地と言ってもその姿は様々らしく、周囲を高い高い隔壁に囲まれた空間の中に、一度に幾つものスポーツが出来る程広いグラウンドや、野球ドームの様に広い格技場に加え、巨大な港の様に広大なフリースペースもあると言うのだ。そしてここは、一見住宅街にも見える寮のジャングル。もっとも、背の高い寮が建ち並んでいるわけだから住宅街よりはどちらかと言うとビル街の方に近いのかもしれない。
この世界には、世界中の小国や大陸国家の経済をもひっくるめて、世界そのものを統制する機関がある。『四ツノ葉グループ』それが、世界を統べる巨大政府機関だ。
だがそれは、その機関の決定に従うつもりのない組織や団体によるテロや、暴動の起こる危険性が常に高い次元にあると言う事でもある。しかも倒すべき相手が一つしかないのなら、それは尚更である。
そう。まるで、街角で起こる不良同士の喧嘩の様に、どうしようかと考える必要もなく『簡単で、行動も手軽に起こしやすい』
そんな御時世であれば、当然地方の警察組織など頭数にもならない。世界中で常に戦が起こっている以上それは必然だった。
そんな暴動に対抗するため、四ツノ葉グループはここ『ゼルス要請学校』で国家専属軍隊の兵士を育てていこうと考え付いたと言うわけである。
それが、この世界を名実共に統べる世界そのものの政府機関である四ツノ葉グループが、島国一つを丸ごと使い設立したゼルス要請学校と言うわけだ。
入学……または在学可能な年齢は、十二歳以上であり、三十四歳以下である事。また、未婚者である事が条件である。
そう、条件は『たったのそれだけ』なのだ。たったそれだけの条件を満たし入学試験と簡単な面接を受け、尚且つ入学を志願した者は、例外なく入学を許可される。これは運営側の配慮で、一人でも多くの生徒を入学可能にするために考案されたものだ。
「今のBクラスの担任は確か……おぉ、カンナ先生だな!」
だがそんな事は良いとして……それにしても、鬱陶しい……。
この雨と、そしてこの男だ。じっとりとしたしつこさを持つ意味では似通ったこの二つは、レイナにとって最も強く不快の壷を突くものであった。
延々と続く背の高い寮を右隣に置きながら、左手を歩くアルミスを傘の下から見上げる。
「アル」
「なんだ?」
あくまで前の奴には聞こえない様な、小さな声で呟く。
「こいつブッ殺したい」
「我慢しろよ」
まるで動物を窘める様な扱いだった。
「カンナ先生は良いぞお〜。スラリ美女に敬礼! スレンダーな眼鏡おねーさま万歳! 世の中には『スレンダーって所詮、ひんにゅうの負け惜しみに過ぎないよねー!』とか言う奴もいるが、馬鹿みたいに巨大な爆弾を自慢げにブラブラさしてるのーたりんの方がよっぽど……」
そもそも彼はアルミスもレイナも見ていない。ただ、二人を先導するついでに不快感をばら蒔きながら歩いているだけだ。
要するに、レイナ的には迷惑なだけなのである。
「……おっと」
だが男が急にピタリと脚を止めると、アルミスもレイナも、それに釣られる様に歩を詰める。
レイナがまた憤りを表情に表していたが、アルミスはそれはこの際置いておく事にした。
「到着だぞ」
ここに来て、漸く男が後ろを振り返った。
傘越しには少し判りづらかったが、こうして見るとその身長はやはり高い。
男は左手で二人の視線を促す。
「ようこそ、ゼルス要請学校学生寮区第六十七ノ九十八番『峰連荘』へ」
自慢げに言い放つ男の指し示す先には、少し古びた、コンクリートの建築物があった。
峰連荘……というらしいのだ。この学生寮は。
「野菜かよ」
「野菜かよ」
アルミスとレイナ、二人の声が被る。
「いやいや、ここは立派な学生寮だぞ。要するに、お前達の住む家だ」
そんな事は判っている。だが、そんな事言われたって峰連荘では野菜にしか聞こえねぇよ、とアルミスは思った。
そして、話題を転換させる要因が現れたのは、返答に困ったアルミスが苦笑いを浮かべた瞬間だった。
「あらディノさん、こんな雨の中どうしたんですか?」
女性の声。それは穏やかで、暖かい母性の様なものを感じさせる……そんな声だった。
アルミスとレイナの視線が、声を逆に辿る。
「……あら?」
視線の先……峰連荘の背の低い玄関口に、女性が一人、小首を傾げて立っていた。
綺麗な人だ。レイナは兎も角、少なくともアルミスの第一印象はそれであった。
頭の後ろで束ねられたブロンドの長髪に、目尻の下がった眼の中に湛えられたエメラルドグリーンの瞳。そして、包容力と、独特のミステリアスな空気を感じさせるその雰囲気は、この女性自身の優しさを直接的且つやんわりと漂わせ、相手にその魅力を感じさせるには充分過ぎるものがあると言えるだろう。
だがどうやら彼女は寮のエントランスの掃除をしていたらしく、兎がプリントされた、使い古したと思われる少し汚れた桃色のエプロンと、その手に握られた短い箒と金属製のちりとりが浮き上がる程極端に所帯じみており、そのガラス細工の様に儚い危うさを持った空気を悉くぶち壊しにしていた。
「おぉ、我が嫁桃華じゃないか! 掃除、ご苦労さん」
「はいはい。お帰りなさい、ディノさん」
恐らくディノというのは、二人を案内して来たこの男の名前なのだろう。
振り返ったディノの姿が傘に隠れたかと思うと、その下から歓喜にも似た声が上がった。
「ひょっとしてそちらの方々が……?」
「あぁそうだそうだ、忘れてた。この二人が噂の新入生だ」
二人に向き直る事もなく、ただ親指で後方を差すだけで返すディノ。
「随分とぞんざいな扱いだなぁオイ」
そもそも忘れられていたらしいのだが、それもどこまで本気なのかは判らない。
「すみませんね。ディノさんこう見えて、適当なところあるから……」
アルミスとレイナは、適当にしか見えないが──という持論を心の奥にしまっておく事にした。何と言うか、ツッコミを入れるのすら面倒なのだ。
「あ、雨の中で立ち話なんて失礼でしたね。お二人ともどうぞ中に入って下さいな」
†
「私はここの女子寮の管理人と寮の総責任者をしています『須藤桃華』と申します」
「で、俺が男子寮の管理人で桃華の生涯のパートナー『ディノ・エメラルド』だ」
峰連荘は、外見こそコンクリートであったが内装は赤茶色の木材が主であり、そこはかとない暖かさとアンティークな雰囲気を醸し出していた。
そして、外見こそ弱々しくて細長く、どこか窮屈そうな印象を与えてきた寮ではあったが、実際中に入ってみると、天井は高く、正面の受け付けの向こうには吹き抜けもあり、そのエントランスは意外な程に広い事が判った。
アルミスは、建築学的な心理効果もあるのだろうか? とか思っていた。そもそも、建築学という言葉自体どこか実体を掴みきる事が出来ない様な気がしたが、正直そんな事はどうだって良い事だった。ただ、これからここに寝泊まりする事になるわけだから、エントランスからいきなりこういう風に小綺麗なところは嬉しい。どこか得した気分になるのだ。
『いやっほう、やっぱアンティーク最高!』
ってやつである。
「入寮手続きは以上です。アルミスさん、レイナちゃん。これからよろしくお願いしますね」
桃華はフロントのカウンターの向こうで薄い冊子をパタンと閉じ、再び顔を上げると微笑み、言った。
「あ、はい。よろしくお願いします」
「……よろしく」
ニコニコを崩さないそんな桃華に、少し笑んで返答するアルミス。対してレイナは『ちゃん付け』されたのが気に入らなかったのか、どこまでもぶっきらぼうな態度を崩さない。腰に手を当て視線は窓の外。ざあざあと降りしきる雨の中をただ泳ぎ回っている。
が、桃華はそんな事は気にせずに、話を次のステップへと移行させていた。
「ディノさん、アルミスさんをお部屋まで案内して下さいますか?」
†
どうやら桃華曰わく、アルミスの部屋は二階の三号室らしい。そして彼の目の前を歩くディノが言うには、階段を上がれば部屋は目と鼻の先らしい。
「そう言えばお前、あの子とはどういう関係なんだ?」
ギシリと、木材の味とも言える音を二つ程奏でながら、薄暗く静まり返った廊下を歩く中、ディノが唐突に口を開いた。案の定、こっちを向いてはいない。
「いや、どうと言われても……」
恐らく『あの子』というのはレイナの事なのだろう。だがそれだとなると、正直答えに詰まる。少なくとも、アルミスにとってレイナはレイナでしかないわけであって、それ意外には答えようがないのだから。
「あぁ、足元気を付けろよ」
ディノの足が廊下の真ん中から伸びた階段に差し掛かった。階段は一段ずつ縦の面が抜かれていて、登りながらに真下が見えるという代物だった。
「なんだ、答えられない様な仲なのか?」
「いや、別にそういうわけではなくて……」
階段を登りながらついでの様に綴られるディノの問いに、アルミスはやはり答え方を思い倦ねていた。
『レイナはレイナである』それ意外に、考えた事はなかったから。
「まぁ、レイナはレイナですよ」
仕方なしに、とりあえず、素直に言っておく。
「……なるほどね」
だがどうやら、ディノは何かに納得したらしかった。
「さあ、着いた着いた」
階段を登りきってから、左に一、二、三歩。到着。早い。
「ここですか?」
「そうだ、ここがお前の部屋だ」
アルミスは部屋の扉に引っ掛けられた札に目をやった。
『三号室』と書かれた木製のプレート。どうやら、間違いなくここが部屋らしかった。
が、この『三号室』という字の左下に書かれた蛇の様な熊の様な謎のイラストは、一体何なのだろうか? これは、架空の生命体……? いや、粘土細工? いやいや、もしかしたらただのシミかもしれない。書いてる途中に、コーヒーか何かをひっくり返したりして……。
「じゃ、開けるぞー」
「…………え?」
アルミスが件のプレートをマジマジと眺めていると、薄暗い廊下に扉をノックする音が二回、響き渡る。
ディノは中からの返事を確認して、取っ手を回し、ちょっと脆そうなドアを押し開けた。薄暗い廊下に、部屋の中の光りが射した。
「レン、いるかー?」
「いねーよ」
あまりにも嘘臭く、そしてやる気の感じられない声がした。間違いなく部屋の中からのものらしい。アルミスはディノに続いて廊下との敷居を跨ぎ、脱いだ靴も揃える事もなく入室した。
その部屋はアルミスが思っていた以上に広く、白い光に照らされていて、明るかった。床はフローリングではなく、ゼルスから見て東の方向に位置する『ジパング』という国では最もポピュラーとされる『タタミ』と呼ばれる物だった。踏みしめる度に、冷たくもなく暖かくもないという、乾いていてもしっとり感のある不思議な感覚が足の裏を掠めていく。
「ほい、起きて」
そしてディノは部屋の中央に行き着くなり、寝そべっていた人影に、いきなり右の蹴りを放った。
「ごほっ……! な、何だよ……人が折角寝てるのを……」
人影は何やら文句を垂れ流しながらも、のっそりと起き上がる。
青年だった。少し濁った黒の髪を逆立たせたその青年は、寝ぼけ眼をゴシゴシと擦り上体を起こす。
「アデルは?」
「風呂っ」
ディノの質問に対し、青年の返事はあまりにも淡泊であった。というよりも返事をするの億劫な様で、青年はアルミスに視線を向けると、またバタリと仰向けに寝転がってしまった。
「ほい、起きて」
ディノの蹴りが、また青年の脇腹に入る。
「っ……! ……死んでしまえ」
と青年は毒づくが、眠気などとうに覚めていたのか、はたまた端から眠ってなどいなかったのか、その声に苛立った様子はなく、どうやら怒っているという訳ではないらしい。
ディノはアルミスの腕をグイと引き、自身の目の前に立たせた。
青年は未だ仰向けのままであったが、アルミスの姿を再度視認するとむくっと起き上がり、言った。
「あぁ、これが噂の転入生なのか……」
また、噂である。果たして、いったい何が噂になっているのだろうか。
「そう言う事。ちゃんと面倒見てやれよ?」
ディノは言ってから「ま、そんなに子供じゃあないだろーけどな」と、腰に手を据えて笑った。アルミスは、どこか置いてけぼりをくらった気分になった。
「あ、そうそう。荷物はもう少ししたら届くからな」
少しボンヤリとしてしまったが、アルミスは突然の重みに振り返ると、その左肩にディノの指の長い手が乗っていた。
「じゃ」
どうやらディノは退室するつもりらしい。サッサと靴を履き、逃げる様にせかせかとその長身をドアの外に消し去った。
「…………」
「…………」
圧迫感すらある嫌な沈黙だけが、余韻の様に残る。
「……で?」
その短い沈黙を先に破ったのは青年だった。
青年は胡座のまま上体を前に倒す様にして右手で畳を叩き、振り返ったアルミスに言う。
このバンバンと叩いている事の意味は即ち『まあ座れよ』という事なのだろう。アルミスはそれに習い、青年の目の前に腰を降ろした。
そして青年は開口一番
「ぼくのおなまえは、なんでしゅか?」
とか、問う。
「ナメてんですか?」
「誰がナメるかよ、汚ねぇな」
何がしたかったのか判らないが、とりあえず、自己紹介である。
「で、名前は?」
「アルミスです」
誤魔化す必要もないので、無難に答えておく。
そして次に口を開いたのは、当然、青年。
「俺はレン。レン・ペンブローク。ちょうど十九歳。で、一応室長」
この『ちょうど』がいったい何を差しているのかは知らないが、青年の言葉はやはり淡々としていて未だ掴みどころがなく、結局アルミスが理解出来たのは表面的なプロフィールだけであった。
「まぁ、この部屋には一応もう一人いるんだが……」
先の会話でアルミスも察していたが、やはりそうであるらしい。
レンと名乗った青年は、割としっかり閉じられた扉に目をくれると一瞬間を置き、
「ま、良いか……」
ボヤいた。そしてまた、ゴロリと寝転がる。
「…………」
「…………」
そしてまた、沈黙。どうやら今度こそ、本当に窮屈な沈黙であるらしかった。
†
少しだけ薄暗い木の床の廊下を一列に歩く。
電灯を使わずとも多少の明るさが確保されているのは、おそらく、廊下を挟んで部屋とは反対側の壁の面積全てを占領しているこのワイドな窓のお陰なのだろう。窓の向こうには、多少小降りになりつつある雨と、多少狭い中庭が広がり、本来ならば細い筈の廊下も必要以上には狭く感じさせなかった。
「レイナちゃん」
どうやら、今私の前を歩く女性はハッキリ言って頭が弱いらしい。
いや、別段これと言って間が抜けていたり意味不明な発言があるというわけではないが、こう、何と言うのだろうか……。
「だからその『ちゃん』ってのはやめてくんないのかねぇ?」
「あら、ごめんなさいね」
笑ったまま謝罪されても、まるっきり信じられない。
だが私は、何度も繰り返したこのやりとりを、また何度もやらされるわけであって……。
「ところでレイナちゃん」
私はただ、黙ったまま溜息を吐く。肺から空気が絞り出されて、また呼吸をする事によって違う空気が入り込む。
「どうしたの? レイナちゃん」
…………もう良い。
溜息よ。肺の空気ではなくて、案内する人間を変えてはくれないだろうか? ……頼むからさ。
「だから、さっきから『ちゃん』ってのをやめてくれって言ってんだけどな」
「あらあら、そうなの? フフフ……レイナちゃんったら、恥ずかしいのね」
訊いちゃいねぇし。
「で、部屋はまだなのか?」
こうなったら、サッサと部屋に着いてこのスットコドッコイとはおさらばするしかないだろう。
そう、部屋に着けば、私は自由なのだ。
「レイナちゃんの部屋は一階の三号室よ。後少し、頑張ってね?」
案の定笑顔で言って、半身振り返り、意味もなく力こぶを作ってみせる。もっとも、その大きさはまるっきり皆無と言って差し支えない様だが。
……もう良い、面倒だ。もう私は喋らん。私は貝だ。
「ねぇレイナちゃん」
…………………………………………貝である。
「レイナちゃんはここに来る前、どこにいたの?」
………………………………………………………………詮索は嫌いだ。
「ジパングって、知ってる? 私はね、そこの出身なの」
……………………………………………………………………興味ないな、あんな狭っ苦しい国。
「レイナちゃんって、アルミス君とはどういう関係なの?」
……………………………………………………………………あれは駒だ。
「あらあら? ひょっとして、言えない様な関係なのかしら?」
…………………………………………ニヤニヤ笑いやがって。
「兄弟? ……には見えないし……師弟関係……でもなさそうだし……」
勝手に盛り上がってろよこのやろう。
「あ、ひょっとして、恋人かしら?」
勝手に言ってろこのタコ。
「黙ってるトコロを見ると、図星?」
…………論外。
「あらあら……。ウフフ、当たり」
ニッコニコ笑いやがって、嬉しそうだな。ったく。はいはい、それは何よりだ。
「みんなに報告しないとね」
「やめてくれ」
……何だか負けた気分だった。
「さ、着いた着いた」
笑いながら前を歩いていた女が、振り返る。その左手の誘導に従い右を見ると、明らかに脆そうな木製の扉が視界を覆った。ドアノブに引っ掛けられたプレートには『三号室』の文字。
「ここが『アナタ達』のお部屋です」
相も変わらず、ニッコニコのフルスマイル。
……いや、待て。今、何と言った……?
「達……?」
「そう、達」
怪訝な顔で問い掛けても、終始笑顔が崩れない。と言うよりも、この女に怒りや妬みと言った感情は存在するのだろうか。
「まさか……相部屋か?」
そんな質問に、女は首を縦に振って答える。
要するに私の嫌な予感は、見事に的中していたと言うわけだ。つまり、これでしばらくプライベートはなくなってしまったと言うわけである。
「……最悪だ」
魂の様な何かが口から抜けて逝くのを感じながらガックリと肩を落とす。気が付けば、そんな言葉が口から漏れていた。
「じゃ、開けるわね?」
そんなこちらの落胆具合を知ってか知らずか、女は傍若無人なテンポで展開を突き進め、ドアを二回、軽くノックした。
「誰かいますか〜?」
女は返事を待たずに、問う。
「いないよー」
だが部屋の中から聞こえてきたのは、先ず嘘に違いない返事だった。
いないなら返事など出来る筈はないのに、返事は返って来る。まさにお決まりの冗談と言えるだろう。そして真面目にこんな事を言う輩など、この部屋の人間を始め、大抵がろくでもないあんぽんたんであると、そう相場は決まっているものなのだ。
……そんな事を考えていたものだから、余計に憂鬱になってきた。
そして気が付けば私は畳の上……部屋の真ん中に正座させられていた。
「あら、アメリアちゃんは?」
「桃華さん、アメリアに『ちゃん付け』はおかしいよ」
目の前に胡座を掻いて座っているのは、声の高い、金髪のポニーテールの女。年頃は、十代後半といったところだろうか。顔立ちは一見幼い印象を受けるが、その身に纏う雰囲気とやらが、彼女の年齢が見た目以上に高いものである事を物語っている。
「アメリアはね、今さっき出てちゃった。何か真面目な顔で『これはマズいわね……』とか言ってたよ」
と言って、何やら真剣な顔付きとやらをやっている……つもりなのだろう、恐らく。だがそれは、少なくともシリアスな印象は毛の先程も伝わっては来ない様な、とんだ間抜け面であった。
「て言うかさ」
間抜け面が、ビシッとこちらを向く。そして間抜け面はそのままの表情で、
「なにこれ?」
と問うた。
「レイナちゃん」
捻りのない回答が責任者の口から迸る。
フルスマイルに、ちゃん付けに、これ扱い。何だか酷いと思えた。袋叩きこの上ない仕打ちだ。
「あ、判った! これが噂の転入生だ!」
「フフフ、正解」
また、噂である。果たして、いったい何が噂になっているというのか。
「アイカだよ」
「えっ……」
一瞬自分に掛けられた言葉とは気付けなかった。だがさっきまでの間抜け面が、責任者である桃華の絹の様な笑顔とはまた違った、太陽の様な幼さを感じさせる笑顔になってこちらに向けられていたから漸く気付く事が出来た。
「アタシ、柊アイカ! Aクラス! 十九歳!」
ガツガツと、箇条書きの様にプロフィールを突き付けて来る。私はそれを全て飲み込もうとはせずに、要所だけを受け止めていた。
「よろしくっ!」
差し出されていたのは彼女の屈託のない笑顔と、握手を求める右手だけだった。
「…………」
だが私は正直、戸惑っていた。
握手とはすなわち相手に自身の『テリトリー』に入る事を許容する契約であり、儀式の様なものだ。そして、許容という行為には常に相手からの代償があり、また、自身も少なからず損害を被るリスクをも孕んでもいるのだ。あくまでこれは経験上の定義ではあるが、まるで間違った価値観とは言える筈はないだろう。
だが果たしてこの握手とは、そのリスクを背負うだけの価値のあるものなのだろうか……。もっともこの契約において、相手から代償が差し出される様子は十中八九見当たらないわけだが。
「……まぁ、よろしく」
それは、まだ判らない。だが判らないからこそ、様子を見るのも良いだろう。
私は、太陽の様に隔たりを持たない笑顔に対し、無表情よりも表情のない笑顔で、右手を差し返してみせた。