西洋医術 一
「うーん」
屯所に帰ってから間もなく、部屋の中で珊瑚のうなり声が響いた。
江戸幕末、医療は本当に遅れている。麻酔もない、抗生物質も無い――こんな世の中で、病気や怪我がきちんと治るはずがない。
「せめて、アスピリンとかペニシリンとかマクラロイドとかがあれば飛躍的に変わるんだけどなぁ」
大学時代、薬学で勉強をした気がしたが、中退しているのであまり知識がない事を悔やんだ。
いかんせんこの時代には道具がない。材料が無い。
海外から手に入れることが出来れば、色々と整うはずなのだけれど――珊瑚は頭を抱えた。
所詮は大学中退の身。研修医にもなれなかった、ただの看護師。
だが唯一、アスピリンに代わるものだけはこの江戸時代に手に入れる事ができた。
それは「撤里失涅」といって、アスピリンが作られる元になった薬だ。
アスピリンとはバファリン等の鎮痛剤の主成分である解熱鎮痛作用のある化合物だ。
けれども問題なのはこれが胃腸障害を起こし、とても飲めたものではないという事だ。
その他色々と抗生物質も作りたい。そう思い、カビを培養したりしているのだが――
「おっ何作ってんだ? 色々と大掛かりじゃねえか」
微妙な障子の隙間から、土方が中の様子を覗きこんできた。
「薬の開発ですよ」
「隊医らしいことしてんじゃねえか」
土方は障子を開けるとズカズカと入り込んで来た。
そして嬉しそうに珊瑚の横へどかっと腰を下ろすと胡坐をかいた。
「何だこれ、青カビ生えてるけどいいのか?」
珊瑚の横にあった青カビの生えた丸い皿を指差し、土方は怪訝な表情で言う。
「薬になる予定……なんですけど、なかなかうまくいかなくて」
「これが、か?」
土方は眉を顰め、角度を変えながらそれを見る。土方にはそれがどう見てもただのカビにしか見えなかった。
そしてそれを置き、土方は今度は目に留まった薬袋を観察した。
「撤里失涅? なんだこれは。しかし……奇妙なものばかりあるな」
薬袋を置き、土方はしげしげと辺りを見回す。
「あれ、土方さんのご実家は薬屋さんじゃなかったんでしたっけ? 撤里失涅はご存知ないですか?」
「俺んとこはそういう類の薬屋じゃないからな」
実は土方の実家石田散薬は、効果が無いとして昭和初期に営業を停止させられている――というオチである。
「撤里失涅は鎮痛作用のある薬なんですが、とても飲めたものじゃなくて。頭を抱えているんです。で、そこのカビは上手く使えば、感染症にとても効果あるんですよ。細菌を殺してくれます」
「サイキン?」
土方がまたもや怪訝な顔で珊瑚を見ている。わけがわからないといった顔だ。
そこでハッと珊瑚は気がついた。 この時代にはまだ病気が細菌やウイルスによるものだということを知らない時代だったのだ。
だからこそ、漢方が主流で病気にかかればお参りに行ったりしていたのである。
「全く、金太郎みたいな名前だな」
「全然似てませんよ」
細菌を金太郎に似た名前だと言う土方に珊瑚は少し呆れた。
「でね。今は外国の医療を取り入れた治療を開発中ってことでしょうか」
「なんだかわからねぇけどすげえって事だな」
土方は納得いかないという顔をしている。
「風邪や病気というものは大体が細菌っていう微生物によるものなんですよ」
「はあ」
土方は眉をひそめて空返事をした。
「土方さん、誰か他にお医者さんを紹介してくれませんか? 一 人じゃ開発は無理そうだし、ここだと設備も悪いです」
「そうだな、わかった。局長に言って紹介してもらおう」
「もしアスピリンだったりペニシリン系の抗生物質が出来れば、梅毒や肺炎や淋病といった病気だって治りますよ」
「ぺに……? コウセイ? 梅毒が治る? 珊瑚お前、何者なんだ一体……」
じっと珊瑚の顔を土方は覗き込んだ。
「やっ! 土方さん顔近い!」
まじまじと土方に顔を見られて、珊瑚は土方を押し退けた。
「あ、言ったな! お前こそ変な気を起こすなよ!」
「やだ、土方さん相手に私が変な気なんか起こすもんですか!」
土方は顔を赤らめムッとした表情で
「俺はな、女にもてんだぞ! これでも!」
と、ムキになった。
「あーやだ、土方さんていやらしい!」