看護師なんて、やめてやる。
時は平成、東京。
――もう嫌だ。 なにもかも。
「これで何度目の失敗なんだ」
自分の父が経営している病院に、看護師として勤務し始めてからまだ数ヶ月のこと。
水城珊瑚は、他の看護師たちより遅れを取っていた。失敗続きな上に、未だに薬の名前を覚えられなかったり、点滴の栄養剤の仕分けを間違えたり。
今日も同じ調子で怒られていてもう、終わってる。
「お前俺の面目を潰すな。医院長の娘がこんなに出来が悪いなんて知れたら、どうするつもりだ」
珊瑚の父である医院長は珊瑚を別室に呼び、説教を始めた。
父は一人っ子だからか珊瑚に妙な期待を寄せ、珊瑚が幼い頃から医者にしようと意気込んでいた。
珊瑚はとりあえず医大には入ったが、医者になる気など微塵も無く、親の反対を押し切って医大を中退――というより、それは自分自身の学力に限界を感じてのこと。
けれども、無理矢理ここで働かせられている。医大を中退しなければ、今後ここで研修医――そして医師としてやっていくはずだった。
この病院は、江戸時代からずっとこの地で代々受け継がれてきたのだという。詳しいことはよくわからないのだが、江戸時代では、江戸の水城と言えば、有名な医師の家系だったそうだ。
――私にはどうでもいい。 私の代で途絶えようと関係ない。どうでもいい。
珊瑚は、頭を抱えて泣き出した。
「私は別に医者になりたいつもりで看護師として働いてるわけじゃない! 本当は、こんな仕事……もう嫌なのよ!」
珊瑚は小さな頃から医学に触れきた。医学の知識は一般人に比べ多少優れてはいたが、だからといって、珊瑚はそれになりたいとは思わなかった。
頭が良いわけでもない、勿論医大だって何浪かしてやっと入った。
「珊瑚! お前は大事な後継ぎなんだ。しっかりしてもらわなきゃ困るんだ。本来ならお前はここで医者をやるはずだったんだぞ」
毎日のように繰り広げられる会話だ。向いていないのに、もう限界である。そんな事、医院長である父が一番よくわかっているはずだ。
「いい加減にしてよ! こんな仕事、もううんざり!」
珊瑚は勢いよく病院を飛び出した。勤務中だとか、珊瑚にとってはもう、どうでもよかった。
他の看護師達が珊瑚の名を呼ぶ声が聞こえたが、そのまま走り続けた。
***
あれからどれくらいの時が経ったのだろう。
強く冷たい風が音を立てて過ぎて、珊瑚の黒いセミロングの髪を大きくなびかせた。
ここは人通りの少ない橋の上。 珊瑚の影が月明かりで川に映っている。
吐く息が白く、指先がかじかんで、身体も寒さで震えてきた。時期は冬、薄着でいるには辛い時間帯だ。
珊瑚はじっと川の流れを見ていた。
時代が変わっても、風景が変わっても、この見上げる空と、足元を流れる川はいつの時代も変わらないんだろう――珊瑚はそんなことを考えてふっと笑いが込み上げてきた。
――馬鹿馬鹿しいのよ。なにもかも。
川の流れを見ていると、なにもかもが馬鹿馬鹿しく感じられた。もし医者にでもなったとしたら、いつかきっと医療ミスでも起こして人を殺してしまうだろう。
珊瑚の精神状態は限界だった。毎日毎日、死ぬ事ばかり考えて、今日――やっとそれを実行する日が来たのだ。
勢いに任せて珊瑚は石でできた古い作りの橋の手摺りに足をのぼらせた。
そして川を一望した。結構深い川ではあるが、普通に飛び込んだだけでは死ねない。けれどもこの冬空なら、低体温症にでもなって死ねると思った。
ついでに頭を打って気絶でも出来たらなおのことラッキーである。
珊瑚は目を閉じると、重力に任せるまま宙に身を任せた。
ふっと身体が浮いた感覚になった瞬間、物凄い轟音と共に身体中に激しい痛み、 そしてまるで氷の中にいるような激しい寒さに襲われた。
飛び込んですぐ、川から出たい衝動に駆られた。
けれどもぐっとそれに耐え、震える唇を噛んだ。
二度と目覚めることがないことを願って。