2. Hello, Fellow
怒りに任せて、足元に浮かび上がった前面花弁を革靴のかかとで踏みつけた。
そうやって固定したパネルに、片っ端から開錠コードを叩きこんでいく。
ありったけ用意した緑色の光る文字列が、白い六面パネルの中央へ、吸い込まれるように消えていく。
停車したタクシーが両側の扉を消した。俺が車から降りるなり、頭上で鳴る課金音。
しばらく俺の背後で滞空していた黒塗りの車両は、次の呼び出しを受けて走り去る。
怒りと急激な活動で沸騰しきった俺の頭を、吹きつける夜風が気休め程度に冷やした。
高級ホテルのそれと見まごうほどの豪華なエントランスを足早に抜ける。セキュリティは先ほど車中ですべて解除したから、妨害は一切ない。
透明な扉の前で立ち止まる。
くるくると回転している認証端末に、黒い立方体をポケットから取り出して、かざす。
一瞬で扉が消えた。
中空のモニターには「DAMN...」の文字。
『な、なにそれ?!』
唐突に飛んでくるハウり気味の電子音声。もちろんシカトだ。
壁状に敷き詰められた白亜のパネルの一つを選んで、行き先階を押し、背を向ける。
肩甲骨がじわりと熱を帯び、全身を浮遊感が襲う。
非接触エレベーターは俺を一瞬で最上階に運び――
俺は《天災》の自宅に、初めて足を踏み入れた。
***
あの日から、俺は幾度となく《天災》と応戦していた。初めて打ち負かしてやったときは、驚いたのかびびったのか、しばらく音沙汰がなかったが、すぐに体制を改めて、それまでの数倍の反撃がきた。
それからは、ずっと拮抗戦が続いていた。
総資産額は横ばい。
だが、俺はそんなこと既にどうでも良くなっていた。
意外にも、これがなかなかにスリルで面白い。
元々、経営に興味を持ったのも、でかい勝負事がしたかったからであって、それが別に経済競争でなくてもよかったのだ。
そういう日々が日常になって、半月が経った。
だが――今夜はさすがにぶち切れた。
女といる最中、ちょうどいいタイミングで、ビジネス用の緊急電話、鳴らしやがった。
四日連続。
どう考えても故意だ。
ビジネスの領分を侵されるのは、俺の自衛不足で過失で自己責任だ、だからそれは良い。
が、まさかプライベートまで同じレベルで踏み込んでくるほど、非常識な奴だとは思わなかった。
おかげさまで、当分使うことのないだろうと思っていた切り札を早々に持ち出す羽目になったわけだ。
さっき言ったとおり、バーチャル上では拮抗戦。どこまでいっても平行線。
だから、この怒りを鎮める方法はただ一つ。
――物理的に、ボコる。
奴の身体データは、政府当局の国民健康データベースから既に入手済み。シミュレートするまでもない、間違っても俺が負ける相手じゃない。
在宅中なのも確認済み。
というか、相当な引きこもりだ。ここ数ヶ月、外出記録がない。
人感センサーがシーリングライトを灯し、リビングと思しき広い部屋が明るく照らし出される。
「ねぇねぇ、さっきのどうやったの」
足元から柔らかな声がした。
俺は仁王立ちのまま、見下ろす。
フローリングに寝転がり、絹糸のような細い髪とワンピースのすそをふんわりと広げた少女が、一人。
「……」
俺は息を呑んで、その姿に見とれた。不覚にも。
女に不自由するような生活とは無縁の俺が、だ。
日焼けのない白い肌。
小さく丸い頭部に、すっと通った鼻立ち。小さな唇。
滑らかな曲線を描いて床に広がる、真っ白なワンピース。
それにふんわりと包まれた、華奢な体躯。
数秒黙って見とれたあと、俺はその、折れそうなほど細い四肢に気づく。
データベースの数字は中肉中背だったが、どう見たってそんなもんじゃない。
「……お前、数値ごまかしてないか」
「あーあれね、うん。そのまんま書くと、いっぱい検査に引っかかっちゃうから、サバ読んでる」
ニコッと笑顔を浮かべて、少女が答えた。
「逆サバだ」
「そう言うの?」
ハッカーのご多分にもれず、コイツも好奇心のかたまりのようで。仰向けに寝転んだまま、裸足の足を動かしてこちらにずり寄ってくる。
「知るか。総務と秘書の子が話していたのを聞いただけだ」
「どの子?」
そう言って少女の口からぺらぺらと出てくる人名は、全て弊社の社員だ。それも、俺のお手つきの。
まぁ俺の女性関係くらい、コイツには寝ていても把握できるだろう。あいにくと隠すような人脈はない。
……ああ、本題を思い出した。
「ねぇどの子って聞いてん――」
しゃがみこんだ俺は、白いワンピースの胸倉を掴みあげて引き上げる。想像以上に軽い体は、あっさりと俺の前に宙吊りになって間抜けに揺れた。
人形のような顔立ちが、苦悶の表情に歪む。
「痛い、放せー」
「……まさか、それで暴れてるつもりか」
俺の手首に両手を添えているだけとしか思えない。
いくらなんでも非力すぎるだろう。
こんな奴相手に軍隊雇うと一瞬でも考えた自分を疑う。
長いため息をついて、俺はクソガキをソファに下ろした。
数回むせこんだ少女は、ころりとソファに横になる。俺の次の攻撃を防ぐために簡易防護壁を下ろした。
俺はぎょっとして周囲を見回す。
「おい、今の……どうやった」
指示動作なしに起動できるVRなんてものは、まだこの世界のどこにもない、はずだ。
まさか脳波まで使ってるのか、と考え始めた俺の耳に、簡潔な返答が届いた。
「まばたきー」
「……もう少し動くやつにしろ。そのうち筋肉が全滅するぞ」
透明な簡易防護壁の向こうで、自動起動したメディカルチェックの赤い光が、少女の喉元を下りていくのが見える。
『異常なし』の文字が浮かび上がるのに、俺は息を吐いた。
床に座りこみ、少女の寝転がるソファに背をあずける。先ほど女の家で律儀に締めてきたネクタイを緩める。
俺がソファのほうを振り返れば、白い人形も、ころりと寝返りを打ってこちらを向いた。
「大体、お前が悪いんだぞ」
俺の言葉に、少女は目を丸くして首を傾げた。
「なんで?」
長い髪がさらりとソファから床に流れる。
心底分からない、というような表情に、俺はあっけにとられる。
「なんでって、お前が邪魔するからだろうが」
少女は横たわったまま、ぷぅ、と頬を膨らませた。
「だって、ああいうの見せられてもつまんない」
「ああ? 誰もお前に視……ああ、何、いたたまれなくなったか」
適当に言ってみると、少女はいきなり顔を真っ赤にして勢い良く飛び起きる。
「ちちち違うバカ!」
そのはずみで、ガチャンと簡易防護壁が上がった。
「………………あー」
なるほどな、ただのガキだ。予想以上にお子さまだった。
俺の予想はまんまと外れた。ケンカは俺の勝利に終わり、あとは物騒な口喧嘩の応酬だろうと予想していたのに。
皮肉の一つも言えない、好奇心に満ち溢れた、世間知らずのただのガキだ。
宴席で聞いた、「ものすごいガキなんじゃないかって噂」がまさか本当だとは思わなかった。アイツに一杯おごらなきゃいけないな、とどうでもいい考えがよぎる。
こんな奴に半月も踊らされていたのかと思うと、俺は急に、ひどい虚脱感に襲われた。
「あー、悪かったな」
「……へ」
うっすらと赤い顔で見返してくる小さい頭部に、手を置く。
「ほら、お前も俺に謝れ」
「ん?」
「俺に迷惑かけたことはわかってるんだろ」
「いやだ。そっちだって反撃してきたじゃん。ヒト死んでないし」
「お前ね、殺人じゃなくてもやっていいことと悪いことが……あー」
法秩序崩壊後に生まれたこの世代は、常識的なモラルがそこそこ欠如してるってアレ、本当だったのか。
さて、それではどうするか、と少女の丸い瞳を見返してしばらく考え。
「……ああ、そうか」
「ん?」
きょとんと見上げてくる小さい頭を引き寄せて、その白い額に、唐突に口付けた。
「ひ!」
奇声をあげて逃げ出す様子を笑いながら、小さい体をソファの端まで追いつめて。
「よし、これからはコレだな」
「な、なにが」
「今までのイタズラの礼だよ。路線変更だ」
面白いようにうろたえるその顔をマヌケだと笑ってやる。
その細い指一本で、数々の世界企業の頑健な経営をひっくり返してきた豪胆な奴と同一人物には、とても見えない。
俺がソファに片足を載せると、なにをどう思考を回したのか、真っ赤な顔で少女が叫んだ。
「あ、悪党! タラシ! せ、節操なし!」
覚えたての言葉のようにカタコトのイントネーション。
……ああ、コイツがいたたまれなくなって電話を鳴らした、さっきの体勢に限りなく近いな、と気づく。
「何言ってる。俺の女遊びをゼロにしたいんだろ。てことはお前が責任取れよ?」
「そ、そん、うあ、」
見た目どおりの指どおりの良い髪に指を滑らせ、俺はくつくつと笑いながらその手を離した。
ソファからゆっくりと足を下ろし、少女から離れる。
「……なんて、な」
数秒間、ぽかんと口を開けて固まっていた少女は、ようやく俺にからかわれたことに気づいて。
「んんんー!」
混乱のあまり、よくわからない寄声を上げて両腕を振り回す。
笑いながらそれをよけて、俺はさっさと玄関に向かう。
「とりあえず、盗み聞きと緊急電話はやめろよ。あとは……まぁ色々と、ほどほどにしとけ。じゃあな」
「え? なにしに来たの?」
俺自身もそう思う。
毒気を抜かれた、が一番しっくり来る表現だ。当初の目的を果たしたところで、俺がすっきりしないんじゃ意味がない。
「生存確認。ひとまず、高度人工知能じゃないことは分かった」
それだけ答えて退室した俺の背後で、すっかり機嫌を直した少女の笑い声が、聞こえた気がした。
2017/10/6・2018/1/14 加筆修正