1. Disaster Starts
「災難だったな!」
その日、いつもの居酒屋で顔を合わせた第一声は、全員もれなくこの一言だった。
続く同情と労いの言葉には、どことなく嬉しそうな声音がにじむ。
ざまぁみろ、とでも言うような。
俺がそれに言及すると、「当然だ」と頭をこづかれた。
「昨年もまぁかわいくねぇ決算出しやがって。あんな強気の業績予想出しやがったときから、ずっと見たかったんだ、お前のこーんな顔」
「……ああ、低能経営者どもの、見苦しい嫉妬か」
ここにいる相手は全員数世代上だが、もう数年来の付き合いになるから、俺は遠慮なく呟く。
今度は肩甲骨のすぐ下にヒジが入った。
テーブルに手を付いてうめく俺の鼻先に、ふわふわと流れてくる半透明の球体。その浮遊情報の見出しには、今朝方、通貨損失で大打撃を受けた某有名ベンチャーの名。
俺の会社だ。
「乾杯!」
にぎわう店内の喧騒と張り合うように、号令とともにグラスが打ち鳴らされる。
この飲み会は、一応、俺の慰労という名目だが、その実、憂さ晴らしの一環だ。気落ちしている俺をよってたかって笑いたいだけだ。
このオヤジどもは、先の見えない経済競争の海で溺死する前に、一瞬だけ、経営者としての顔を忘れて騒ぎたいだけなのだ。
「あれは儲かってる証拠だからな、むしろ喜べ」
身勝手で他人事極まりない励ましに、俺は飲み干したグラスを置いてため息をつく。
今日一日、後処理に走り回った疲れがどっと押し寄せてきた。
箸を持つなり、産地直送で運ばれてきたお通しが各人の前で静止する。皿を覆っていた白い冷蔵傘がぱっと霧散して消える。
「いやしかし、お前もこれで、ようやく俺たちの仲間入りか」
「……あれを基準にするなよ」
不愉快な言い方に、俺は眉間のしわを掻きながら呟く。
次々に否定の声が上がる。
「いや、じつにカッキリした指標だよな」
「どこだったか、通過儀礼と報じてたぞ」
うまいな、と肴をほおばりながら言うもんだから、一体どっちについての形容なのか分からない。
「勿体ねぇよな。あれだけの腕があったら、間違いなくFやDCあたりから声かかってるだろ」
FやDCというのは、名だたる大財閥を指す隠語だ。
そいつらに雇われさえすれば、いま奴がチマチマとくすねてるはした金なんて、一瞬で稼げるだろう。
なぜ、そうしないのか。
「ものすごいガキなんじゃないかって噂あるよな。経済指標と機械語はネイティブ並にぺらっぺらだけど、法律やらメッセージやら、ヒト用の通常言語はまるで読めないっつう」
「ははっ、んだそれ」
俺の隣に座る男が酒を傾けつつ、赤ら顔で笑い飛ばした。
俺たちが話しているのは――
かつてこのオヤジどもの会社を、そして今朝は俺の会社の財務システムをハッキングして、資産の一部である電脳通貨を強奪していった生意気なハッカーのことだ。
HNは『VAIU』。
事前にある程度備えておくことはできるが、襲われたら最後、嵐が過ぎ行くまで打つ手なし。
そんな由来から、付いたあだ名は《天災》。
登場時こそ世界中の企業を震撼させたが、ある程度暴れ回ったあとはすんなり標的を移すことが分かると、世界的に結託して対抗するという話は次第に消えていった。
今やまるっきり、『新入りの優良企業に必ず降りかかる洗礼』扱いだ。
宴もたけなわ、俺の会社の今後の進退について好き勝手に騒ぎ立てるオヤジども。
それを眺めて酒を舐めつつ、俺はぼやいた。
「梅雨が、いつから天災なんて大仰なものになったんだ」
「おいおい、雨を舐めるなよ?」
「ややこしいな、どっちの話だ」
高尚気取った酔っ払いの話は面倒くさい。
「ま、今回は災難だったな。犬に噛まれたと思って忘れろ」
忘れる? 何もしないまま?
ムッとして、俺は思わず言い返した。
「俺がアレをどうにかする、という可能性は考えないのか」
一同がきょとんとなる。赤ら顔に一斉に笑われた。
慰めるように肩をたたかれ、ついでにのしかかられる。重い。
「やっぱり若いな! お前ならどうにかできなくもないかもしれないが……意味のないことはやめとけよ」
間近でわめかれて、酒臭さに顔をしかめる。
「ちょっとヒドい感冒みたいなもんだ。一過性って分かってんだから、わざわざ手間かける必要もないだろ」
「そうそう。お望みのところまで通貨損失させたら勝手に引いてくんだから、引き伸ばすほうが損だ」
そこまで下がるのを指をくわえてみているのが許せない、と言い返したら、きっとまた青い若いと笑われるのだろう。
それが分かったから、俺は黙ってグラスをあおった。
***
帰宅するなり、俺は最新鋭の端末を引き寄せた。今朝の騒動の直後に取り寄せておいたものだ。
『WELCOME』と表示された、揺らめく三次元ディスプレイ。
その中に、グラスを持ったままの右手を突っ込む。
ぶわっと広がる羊水のような液体が、俺の全身を包む。
(そんな感覚だけだ、実際には何も起きちゃいない。)
『Full-VirtualVisualize completed』
『総仮想可視化、完了』
二言語の電子音声が平坦に告げ――
七色にまたたく情報粒子が一瞬で近づいてきて、流れ星のように闇を駆け抜けた。
俺の身体があるはずの場所を、無数の光がすり抜ける。
うっすらと蒼みがかった暗闇の中に浮かぶ、半透明の白い直方体。
呼び出したのは、自社システムのログだ。
白くほのかに明滅する、その光の結晶に手を伸ばし、俺は《天災》に荒らされた形跡をもう一度確認する。
「増えてはいない、な」
法律やら治安なんてものがマトモに機能しなくなったこの世界で、自衛できる奴が自衛しないのは、ただの過失。自己責任。
他人の財布へのハッキングや電脳通貨の奪い合いなんてものは、実力と才能で他人の資産を奪っていく経済競争と、何の違いもない。
それが、この世界の常識だ。
――「俺がアレをどうにかする、という可能性は考えないのか」
そして、宴席でのあの言葉。
俺は、負け惜しみや苦し紛れで言ったつもりはない。
「久しぶりに、俺を怒らせたな」
子どもじみた、極度の負けず嫌いだという自覚はある。
相手が世界有数の天才ハッカーだからといって、自分の領域が侵されているのを黙って見ているのは性に合わない。
俺は、指の関節をぱきぱきと鳴らして、光の直方体に触れた。
「覚悟しろよ」
2014/9/16 着想
2017/10/6・7 加筆修正
2018/1/7 加筆修正