下
「それじゃ、せーので弾き始めるよ?」
「……はい」
伯父さんが、私の右隣に座っている。それだけで、とてもとても緊張して、指が動かなくなりそうだった。
おじさんが、せーのと声を出して、右手で鍵盤を叩き始めた。私もそれを、左手の伴奏で追いかける。
祖母の話によれば、子犬のワルツは連弾用のスコアもあるのだと言う。だけど、私はそれを習っていなかった為、伯父さんの提案で、一人用の楽譜を、二人で弾く事になったのだ。
両親と祖母が穏やかに見つめる中、伯父さんと二人での演奏が始まった。
子犬のワルツは、子犬が跳ねまわって遊んでるようなとても可愛らしい曲で、私は大好きだった。だけど、その楽譜の上には音符が一杯で、ピアノを習い始めて一年の私には、メロディを追いかけるだけで精いっぱいだった。特に右手の動きは難しくて、どれだけ頑張っても上手く弾く事が出来ずに居た。
でも今は、そのパートは伯父さんが弾いてくれている。
私の演奏では、子犬達がぎこちない足取りでふらふらと歩いているだけだったのに、伯父さんの右手から生み出されるのは、野原を駆け回る楽しそうな子犬達の姿だったのだ。
元々この曲は、こういう曲だったのか。
祖母に試しに弾いて貰った時ともまた違う。優しく、軽やかに、二匹の子犬が寄り添ってダンスをする。伴奏だけの私が、上手く追いつけない。やっぱり伯父さんは凄い、と改めて思った。
弾き終わり、3人の観客から拍手が起こる。
おじさんは私の身体を抱き抱えると、椅子から下ろしてくれた。そして二人で、観客に向けて礼をする。
「絵音ちゃんの音、とっても可愛い、良い音を出すね。子犬達の楽しそうな雰囲気がよく伝わってきて、とても楽しんで弾けたよ」
穏やかな笑みを浮かべた伯父さんが、そう言って私の手を握る。
おじさんは明日には、また日本を離れてしまう。だけど、次に帰って来た時には、また一緒にピアノを弾いて貰おうと、そう心に決めた。
伯父さんの事が好きすぎて、一緒に弾いたピアノが忘れられなくて、その日の夜は、いつまでも眠れなかった事をよく覚えている。
「1810……、1810」
うわ言のように呟きながら、私は掲示板に張り出されている番号を見つめ続けた。時折、もう何度目にしたか分からない自分の受験票と照らし合わせ、掲示板に同じ番号を探す。
「……1810」
周囲の喧騒は、時間が経つにつれて、くっきりと明暗の別れた物になって行く。受かった人、落ちた人、喜ぶ人、悲しむ人。そんな人々を尻目に、私はその人垣からゆっくりと離れて行った。
一度目の受験は、完全に勉強不足だった。一緒に勉強してくれた涼香は、W大を無理に狙う事はせずに、滑り止めで受けていたY大に足を進めた。だけど、私は背水の陣のつもりで、W大しか受けていなかったのだ。努力が足りなかったとは思わなかった。あの日から、死に物狂いで勉強をした。だけど、結果として間に合わなかったのだ。
両親や伯父さんに本気の土下座をして、自分の不徳を詫びた。
「絵音。あんたの頑張り、母さんは凄かったと思う。だから、もしもう一年頑張るって言うんなら、喜んで手を貸すわよ」
顔を上げ、母の顔を見た瞬間、私はありがたさと申し訳無さでボロ泣きしてしまった。
「あんたがそんなに泣くなんて、久々ね。小さい頃は本当に泣き虫だったのにねぇ。いつの間に、こんなに大きくなったんだか……」
「お母さん、ありがとうございます……」
「その代わり、一つ条件があるわ」
「……何?」
「今ね、あんたの事もう一回描いてみないかって、出版社から依頼が来てるのよ。だから、大人になってからのあんたの事、ちょっと描かせて貰えないかなって」
正直、このタイミングじゃなかったら断固拒否していた。
「お母さん、それずるい……」
「ずるく無いわよ。そうね、タイトルは、『泣かないよ、エネちゃん』なんていいかもね」
それじゃ、私が全く成長してないみたいじゃないか。
何はともあれ、私にはもう一度チャンスが与えられた。
予備校に通いながらの、二年目の受験勉強の最中、私は前倒しで、おじさんのリハビリを手伝う事を許された。途中から、大学生になった為、時間に余裕の出来た小憎らしい涼香も、手伝いに来てくれた。
彼女がおじさんのサポートをしてくれている間、私は懸命に机に向かった。
日々は穏やかに、だけども刺激的に過ぎていき、伯父さんの左腕は、みるみる内に成長していった。元々ピアノに関しては恐ろしく感の鋭い人だったのだから、当然と言えば当然だ。
そして、私の合格発表の一週間後、非常に簡易的な物ではあるが、テレビ局の企画を受けた形で、おじさんの復活コンサートが開かれる事になった。以前ソロコンサートをやった時とは比べるべくも無い、小規模なものだったけれど、もう一度人前でピアノを弾ける段階まで身体を戻した、伯父さんの執念には感服する。あのコンサートから、まだ1年半しか経過してはいないのだから。
「絵音ちゃん。もしも君が受験に受かったら、僕のコンサートの最前列に君の席を作るよ」
「よかったね絵音、最前列で洋さんのピアノ聞けるってさ」
すっかり仲良くなった涼香と伯父さんが、二人して笑う。
「それって、受からなかったら来るなって事よね?」
受からなければいけない理由が、新たに一つ増えた。
「受からなかったら、性格的にあんたが来れないわよ」
「でも、今年は絶対大丈夫。こないだのセンターもばっちりだったし、それに、私の受験番号、1810なんだよ! 受かるって言ってるようなもんでしょ?」
「1810?」
涼香が上げた疑問の声に、伯父さんが答えた。
「ショパンの誕生年だね、そりゃ縁起がいい」
「でしょ? だから、いい席用意しといてよね!」
そう口では強がってみても、内心不安で堪らなかった。だけど、励ましてくれた皆の為にも、支えてくれた涼香の為にも、弱気なところは見せられない。
「それにしても、今にして思えば、琴の娘の絵音ちゃんがピアノに興味を持つってのも、因果だよな」
「でも、琴さんも小さい頃、ずっと洋さんと同じように、ピアノを弾いてたんですよね?」
今度は伯父さんの言葉に、うちの母に詳しい涼香が返す。
「でも、琴はピアノよりも絵を選んだ。絵の字が入ってるその娘が、今はあまり弾いて無いとは言え、再びピアノに戻って来たんだよ」
「小早川の家に取って、ピアノがセーニョみたいな物なのかもね」
おじさんの言葉に、私はピンと閃いたので、そう返した。
「セーニョか、上手い事言うね」
「セーニョって何ですか?」
「涼香、音楽の授業でやったじゃない?」
「そんなん覚えて無いわよ。私は去年一年で、受験に必要無い系の勉強は、すっかり忘れたんだから」
「全く、もう。いい? セーニョって音楽記号が楽譜上にあるとするでしょ? それで、その後の方に、ダルセーニョって記号が出てきたら、そこからもう一度セーニョに戻るの」
「ワープするって事」
「ワープって……」
「まぁ、ワープで間違って無いよ。どれだけ別の道を歩いても、それに出会えば、望む望まないは別にして、セーニョに戻ってしまう。そのセーニョの位置に、うちはピアノがあるって事だね」
伯父さんは、満足そうにそう呟いた。
望む望まないに関わらず、と言う言葉が胸に響いた。私にとって、その原因となった人が目の前でそれを語っている事が、何だかおかしかった。私がピアノに興味を持ったのは、間違い無く伯父さんが原因だ。
だから、伯父さんこそが、私にとってのダルセーニョなのだ。
そして、受験の発表日。
少し離れた所に、車椅子に乗った伯父さんと、それを押す涼香の姿が目に入った。
「どうだった?」
緊張した面持ちで、涼香が私に声を掛けて来た。
私は膝を地面に付けて、伯父さんの手をそっと握った。
「受かっちゃった」
おじさんが相好を崩す。
「うん、おめでとう」
次の瞬間、私は立ち上がり涼香に飛びかかった。
「やったよ涼香!」
「うん、あんた頑張ったもんね!」
女二人、飛び跳ねるようにして喜んでいると、徐々に涙が溢れて来た。
これで無事、おじさんのコンサートに行ける。大学に受かった事より、それが一番嬉しかった。
コンサート当日。
「キャー、絵音、何その素敵なドレス!」
会場で私を見た涼香が珍しく、女の子らしい声を上げた。
「伯父さんが、合格祝いに買ってくれたの」
「へぇ、素敵じゃない! 今日の為かな?」
「いや、知らないけど、今日着なかったら、着る機会なさそうだし」
伯父さんの送ってくれたのは、一目で目を引くようなワインレッドのドレスだった。少し胸元が開き気味なのが恥ずかしくて、母に借りたストールを羽織り誤魔化す。母にも、折角いいものを着てるんだからと、念入りにメイクをされた。テレビの取材が入っているのに加え、私はもうすぐ連載が開始されるエネちゃんのオリジナルだ。母の気合いも解らないではないが、顔から火が出そうになる。
チケットで席を確認すると、おじさんは本当に宣言通り、一番前の列を親族関係者席として確保していた。
「いやぁ、こんないい席で小早川洋の復活コンサートが聞けるなんて、私絵音の友達で本当によかったわ」
「今更何言ってんのよ」
その小早川洋の身の回りの世話を甲斐甲斐しくしていた人間が、何を言いだすかと思えば。
広くは無い会場だったが、開演時間が迫るにつれて、徐々に席は埋まり、賑わい出してきた。カメラクルーも会場の後ろに控え出す。きっと明日の一面には、『小早川洋、奇跡の復活』なんて言う見出しが躍るのだろう。どうでもいいと思ってしまうが、そのお陰でこんなに早く、おじさんの復活コンサートが開かれる事になったのだから、文句を言える筋合いではない。
会場の明かりが落ち、場内の喧騒が徐々に収まって行く。
少ししてから、ステージ上には、ゆっくりとした歩みで、松葉杖をついた伯父さんが姿を現した。リハビリを繰り返し大分回復はしたものの、右足はやはりまだ不自由な為仕方ない。
伯父さんがステージの真ん中で一度頭を下げると、会場からは、さざめくような拍手が起こった。
おじさんが緩やかな動作で、ピアノの前に座ると、再び会場は水を打ったように静かになる。
第一音。
左手が、柔らかにピアノに触れる。そこから零れ出て来る音に、たった一音に、私は吸い込まれた。
一曲目は、定番と言える程の定番。
ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』
繊細なタッチと流れるような旋律。あの日から止まった筈の伯父さんのピアノは、信じられない話だが、右手を失う事で更に表現の幅を広げていた。
いや、表現なんて物ではない。綺麗で、か細く感じられるような柔らかい音なのに、その背景に存在するのは、伯父さんが受けた絶望と苦悩だった。どれだけの衝撃を受けたのだろう、どれだけの絶望に苛まれたのだろう。それでも、僕にはピアノしか無いんだと笑える程の覚悟を、あのたおやかな風貌のどこに隠し持っていたのだろう。
伯父さんはかつて言っていた。
自分にとってピアノとは、懐中電灯の電池だと。
誰かを照らす為に、弾き続ける物なのだと。
この曲を聞いているどこかの誰か、この演奏の素晴らしさが伝わっていますか? 伯父さんは、貴方の為に弾いているんです。
マスコミに踊らされ、悲劇の主人公として祭り上げられたとしても、伯父さんはきっと、意にも介さずピアノを弾き続けるだろう。その奥にいる誰かの心を、たまに救う為に、自分の人生を、価値観を、さらけ出し続けるんだろう。
気がつけば、一滴の涙が、私の頬を伝っていた。
ピアノとは、どうしてこうも雄弁に人生を語るのだろう。
音楽とは、どうしてこうも強く心を打つのだろう。
この人の音楽は、もっともっと沢山の人に聞かせなければ駄目だ。そう強く胸に刻みつけた。
このコンサートが終わったら、改めて伯父さんにお願いしよう。伯父さんの活動の手伝いをさせてくれるよう、お願いしよう。駄目だと言われても、絶対に認めさせてやる。それだけの価値が、伯父さんにはある。
前に伯父さんは、ピアノの無い自分は無価値だと言った。だけど、一つ武器を持っているだけで、その価値を数万倍にまで膨らませる事の出来る人間が、この世界にどれだけいると言うのだろう。
敢えて言う。ピアノの無い伯父さんは無価値かもしれない。だけど、ピアノがあれば、伯父さんは無敵だ。
時に激しく、時に穏やかに鳴り響いたピアノの調べは、永遠に続けばいいと思わせた音符達を引き連れて、ふと、姿を消した。
一瞬の静寂。
曲が終了したのだと聴衆が理解した直後、再び会場を万雷の拍手が包んだ。
伯父さんがピアノを支えに立ち上がり、一度頭を下げると、更に拍手は熱を帯びて会場に轟いた。
「ありがとうございました」
マイクを使った伯父さんの声が響く。
「ニュースなんかで知って貰った通り、僕はこないだ一回倒れちゃいましてね、もうピアニストとしてはおしまいだろうなんて言われた訳ですが、そんなポンコツのコンサートに、これだけの人に集まって貰えて、本当に、感謝の言葉もございません。ありがとうございます」
伯父さんが再び頭を下げると、会場からもう一度、今度は穏やかな拍手の波が広がった。
「実は、今日会場に、僕の家族が来てくれてまして。それで、実は姪っ子と一つ約束をかわしてしまったんですよ。その約束を、ちょっとここで果たさせて貰おうかなと思いまして」
伯父さんがステージ上で、意味不明な事を言った後で、私を呼んだ。
「絵音ちゃん」
事態がまるで掴めていない私の背中を、隣に座っていた母が叩く。
「ほら、早く行って来なさい」
「ちょっと、どう言う事?」
「行けば分かるから。ほら、みんな待ってるわよ」
拍手が響き渡る中、私はなんの説明もされずに、ステージに上がった。
観客の視線が、取材陣のカメラが私に向けられる。視線が痛い。
「伯父さん、どう言う事?」
「これ」
伯父さんの手には、一冊の楽譜が握られていた。
その瞬間、私は1年半前の、病室での出来事を思い出した。
「あ……、ちょっと」
伯父さんが手にしていた楽譜は、私がおじいちゃんの部屋から抜き取った、『子犬のワルツ』だ。
「あの時、君は僕に、私も頑張るから、伯父さんも頑張ってリハビリしてって言ったよね。そして、復活したら……」
「また、一緒に、弾いて下さいって……」
言った。確かに言った。だけど……。
「でも、それは、こんなステージでって意味じゃなくって……」
「さぁ、お客さんが待ってるよ」
「伯父さん!」
「大丈夫。僕、この曲も練習してたから」
「私がしてないよ……」
「初めて一緒に弾いた時と同じさ。僕が右手を弾くから」
「誰が喜ぶのよ、こんな演奏」
「僕と君が喜ぶ。母さんと琴と達也さんと、きっと涼香ちゃんも喜んでくれる。さぁ、期待には応えなきゃね」
伯父さんはそう言うと、私をピアノへと促した。この状況で、断れる訳が無い。
私は覚悟を決めて、ピアノの左側へと座った。
「めっちゃくちゃになっても、知らないからね」
「いいよ、好きに、楽しんで弾こう。音を楽しむと書いて、音楽なんだから」
あの日と同じように、右側に座った伯父さんは、あの日と違い、左手で鍵盤に触れた。
「それじゃ、せーので弾き始めるよ」
「……はい」
もう、どうとでもなれだ!
「行くよ、せーの」
伯父さんの声が、そっと私の耳を擽った。
伯父さんの左手が、軽やかに子犬を操る。それを私は、伴奏で追いかけていく。
幼い頃のように、私は伯父さんの隣で、伯父さんの奏でる子犬に寄り添うように、指を動かした。
鍵盤の久しい感触が、そして、伯父さんの隣で共にピアノを弾いていると言う事実が、どんな状況であったとしても、やはり私には嬉しかった。
やっぱり私は、ピアノが、伯父さんが大好きなのだ。
軽やかに駆けるその指を、横から眺めながら思う。
伯父さんのように、誰かを照らす明かりにはなれなくても、誰かを照らす為に疎かになった伯父さんの足元を照らせるくらい、私も強くなろう。この奏でに、いつまでも伴っていけるように、強くなってやろう。
私達の演奏に合わせて、二匹の子犬が踊りながら、客席の間を元気良く駆け抜けていく。それはまるで、お互いが再び出会えた事を喜び合うような、軽やかで、心踊る、素敵なワルツだった。