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会場中に響き渡っていた繊細なピアノの調べは、唐突に聴衆の耳から離れて行った。そして、ステージ上で、つい先程まで艶やかにピアノを慰撫していたその指の主は、一瞬身体を硬直させた後、まるで糸の切れた操り人形のように、椅子から滑り落ちて、床に鈍い音を響かせた。
次の瞬間、女性の劈くような悲鳴が会場を包む。
途端に客席がざわめきだす。スタッフと思しきスーツを着た人達が数人、袖から飛び出して来た。ケーキに群がる蟻のように、すぐさま倒れた伯父さんの元へと集まって行く。隣の席に座っていた母が、兄の名前を叫び、舞台上へと飛び出して行った。
私の視界に映る景色達は、徐々にテンポをスローにしていく。
喧騒も、悲鳴も、目の前で起こった現実も、私には、どこか遠くの世界の出来事のようにしか、感じる事が出来なかった。
「ハロー、絵音ちゃん。今日も可愛いですね~」
昼休み、涼香がお弁当を食べ終えた私の元へとやって来て、開口一番に私を褒め称えた。
「あんた、何企んでんのよ?」
私の友達は、下心を見破られてもびくともしない。
「いや、ちょっとお願い事があってさぁ?」
「珍しいわね、何?」
「絵音、あんたピアノ弾けるんでしょ? ちょっと伴奏お願い出来ない?」
「えー? なんでよ?」
「うちらが今週末大会なの知ってんでしょ? なのに、うちの馬鹿顧問、こんな時期に風邪でぶっ倒れて使えないのよ。お願いします絵音様! どうかお力をお貸し下さい!」
涼香が両手を合わせ、文字通り私を拝む。彼女はいつの間にか、私を崇めると言う謎の宗教に入信したらしい。
涼香との付き合いも3年目に突入した訳だが、こんな頼み事をされたのは初めてだった。
高校に入ってすぐ、出席番号順で私の一つ前に座っていた彼女は、入学式の直後にこちらを振り向いて尋ねて来た。
「ねぇねぇ、君島絵音って、もしかして、あのエネちゃん?」
不躾な質問はよくある事だ。だけど、涼香の質問には、嫉妬や羨望のような物は一切無く、単純な好奇心のみで形成されているように感じられた。
「そうよ、あのエネちゃんよ」
あっさりと肯定してやると、涼香はそっか、やっぱりねと軽く頷いた後に、私に右手を差し出してきた。
「私、菊原涼香。宜しく」
その手を、そっと握り返す。
「君島絵音」
「知ってる」
「だからって、名乗らないのも感じ悪いでしょ?」
「そうだね。よく聞かれるの?」
「何が?」
「エネちゃんって?」
「たまにね。でも、私自身は、あんまりそう呼ばれるの好きじゃない」
「どうして?」
「どうしても」
「そっかそっか。そんじゃ、絵音って呼び捨てでいい? 私の事も、涼香って呼んでくれていいから」
親しみやすさと馴れ馴れしさの境界線はどこにあるのだろう? だけど、ぐいぐい踏み込んで来る涼香の挨拶が、私には親しみに感じられたのだ。
「でも、よく分かったわね」
「うちの母さんが、小早川琴の大ファンでさ。エッセイから何から全部持ってんの。だから、君島さんって人と結婚してるのも、勿論知ってるって訳よ」
初期の頃から読まれているのなら、バレバレなのは仕方が無い。
私の母はイラストレーターを生業としている。
『小早川琴』と言えば、調査をした訳では無いが、世間的にもそこそこの知名度を誇っている筈だ。イラストは勿論だが、最近では新聞の四コマなどの連載物も数多く抱えている売れっ子だ。そして、それがどうして私の存在に繋がるのかと言うと、数多ある母の作品群の中で、最も有名な代表作が、私をテーマにしたコミックエッセイ、『泣かないで、エネちゃん!』なのである。
私の誕生から幼少期、小学校入学までを描いたその作品は、コミックス全17巻で、累計発行部数1300万部と言う記録を誇っている。メディアミックス展開も盛大に行われ、アニメ化は元より、実写で映画にすらなった程だ。お陰で我が家の暮らしは随分と楽になったらしいのだが、自分の幼少期の体験が面白おかしくアニメで放送されていると言うのは、時に堪らなくなるものがあった。ましてや、幼い時分ならいざ知らず、『泣かないで、エネちゃん!』のアニメが始まった時は、私は既に小学3年生であり、コミックスが完結したのは、私が中学1年生の時だったのだ。母のストックの多さを恨んだ事もあるが、映画化した際に、映画オリジナルキャラクターである、大人になった私を演じていたアイドルのお姉さんと仲良くなったり、コミックスが一冊出る度に、好きな物を一つ買ってもらえたりと、たっぷり甘い汁を啜らせて貰っていた手前、気軽に文句を言える立場でも無かった。
ちなみに先程涼香が言っていた初期の作品とは、父と母との馴れ初めから、結婚、そして私が生まれるまでを赤裸々に描いた、『今日も明日も笑いたい』である。この歳になってから思う。自分の両親の馴れ初めを全国の人が知っていると言うのは、自分の事を知られているのと同じくらい恥ずかしい。幸いこちらの作品は、メディアミックス展開はされていない。
ちなみに、著名な母とは違い、うちの父親はごく普通のサラリーマンだ。
「合唱部なのに、ピアノ弾ける人一人もいないの?」
「これがものの見事にいないんだな。そもそも、楽器弾けないから合唱部に入ったような連中ばっかりだから」
部長が言うのだから、間違いないのだろう。
「今週末の地区予選、うちらにとっても最後の大会なのよ。練習したいじゃん? 青春したいじゃん?」
「でも、大会が今週末だったら、私本番は出られないわよ?」
「それは大丈夫。そこまでには意地でも治すって大川ちゃんも言ってたから」
生徒にちゃんづけで呼ばれるような音楽教師は、本当に頼りになるのだろうか?
「それに、週末はあれでしょ? 伯父さんのライブだっけ?」
「ライブじゃなくて、コンサート」
「そうそれ」
「合唱部の部長が、うちの伯父さんも知らなくていいの?」
「合唱部の部長だからって、クラシックに精通してると思ったら大間違いよ」
「偉そうに言う事?」
「まぁ、偉そうに言えたことでは無いわね」
けらけら笑う涼香の鼻をつまんでやる。
「そんで、今日と、明日くらいまでとりあえずお願いしたいんだけど、絵音様、放課後のご予定はいかがでしょう?」
「ん~、な~んか私、クレープとか食べさせて貰えるなら、やる気になるような気がする」
「ほほぅ、山吹色の菓子にございますな」
「その通りだけど、なんで越後屋風なの?」
「その位なら、合唱部全員で貢がせて頂きますよ。ぐぇっへっへっへ、お主も悪ですなぁ」
涼香は下卑た笑いを浮かべるが、先程から私に鼻をつままれたままの為、声が全部鼻声に変わってしまっている。
「しゃーないな。他ならぬ涼香の頼みだからね」
「ありがとっ! そんじゃ、放課後ね!」
そう言うと、涼香は私に再び手を合わせた後、自分の席へと戻って行った。
昼休み終了5分前を確認してから、私は自分の指をしばしぼんやりと眺めた。
――伴奏か~、上手く弾けっかな?
ピアノに連想して、同時に伯父さんの事を思い出す。
伯父さんに会うのも、約二年振りになる。コンサートが終わったら、一緒にご飯を食べて、また一緒にピアノを弾かせて貰おう。
顔がにやけるのを抑えながら、私は机の上のお弁当箱を片づけた。
手術室のドアの上、手術中のランプが、痛々しく光っている。
私は両親に挟まれて、手術室前の廊下に誂えられていたベンチに座っていた。ひたひたと、現実が徐々に私の周りを囲んで来る。先程までの光景が、何度も何度も頭を巡り、それを幾度となく振り払う。
ふと、静かに啜り泣く声が聞こえて来た。
「あぁ、洋……」
母の隣に座っている祖母が、声を抑えるようにして、それでも堪え切れずに涙を零していた。
「……母さん、大丈夫よ」
「……あぁ、どうして、どうしてあの子が」
母が、祖母の肩に手を回す。私はふと、逆隣の父の顔を見つめた。神妙な顔をして、手術室を睨んでいる父の目も、うっすらと滲んでいる。
私の視線に気づいたのか、父は私の方を向き、唇を結んでから微笑んで見せてくれた。
「絵音、疲れて無いか?」
「うん、大丈夫」
「そうか。洋さんなら、大丈夫だろ。あんなに素晴らしい人が、どうにかなっちまう筈が無い」
私を励ますように、父はそう呟いた。でも、その声が僅かに震えているのを、私の耳は聞き逃しはしなかった。
不安で不安で堪らない時間が、潰されそうな程重苦しい時間が、圧力を連れ立って手術室の前に流れ込んで来る。
永遠とも思える程の時間は、唐突に、赤いランプの消灯で終わりを告げた。手術室の中からお医者さんが出て来る。一番に立ち上がり駆け寄ったのは、祖母だった。
「先生! 洋は……、息子は、どうなんでしょう?」
お医者さんは、厳しい顔をしたまま、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「一命は取り留めました。それに関しては、再発の恐れはありますが、一先ず心配は無いでしょう。ただ、今後後遺症が残る可能性もあります。暫くは、絶対安静です。詳しい話は、また……」
その言葉を聞いて、祖母は顔を手で覆い、その場に膝から崩れ落ちてしまった。
「母さん、落ち着いて」
母が、祖母の身体を抱きしめる。私は、すぐ近くにあった父の手を握りながら、手術室のドアをぼんやりと見つめていた。
それはあまりにも突然で、現実味がまるで無かった。
私がピアノに興味を持ったのは、伯父さんの演奏を聞いたからに他ならない。
7歳の時、いつになく綺麗な服を着せて貰った私は、五年振りに日本に帰って来ると言う伯父さんのコンサートに、両親と共に出かけた。幼い頃会った事があると言われていたが、正直私に伯父さんの記憶は殆ど無かった。有名なピアニストだと言う話しは聞いていたが、ピアニストに対して、上手くピアノを弾く人、くらいのイメージしか持っていなかったし、そんなに凄い人だとは思っていなかったのだ。
豪奢なコンサートホール前には、『小早川洋 ソロコンサート』と書かれた看板が立てられている。
ピアノの少し左側の、一番前の席に座った私は、万雷の拍手に迎えられて登場した伯父さんに、一目で心を奪われた。
燕尾服に身を包んだ伯父さんは、スマートで、とても格好良かった。観客に一礼をした後、ピアノの前に座った伯父さんは、ゆっくりと鍵盤に手を置いた。
そこから流れて来る流麗なピアノの調べ。幼い私は、感想を上手く言葉で表現する術を持たなかったが、幼心にも理解が出来た。その素晴らしい演奏に、ただただ魅了されたのだと。
2時間半と言う時間は瞬く間に過ぎていき、周囲の観客の拍手に合わせて何度と無く手を叩いた。自分の感動を表す手段がそれしか無かったのを悔しく思い、それでも、受けた感動に対する感謝を表すべく、何度も手を叩いた。おかげで終演後、私の掌は真っ赤になってしまっていた。
コンサートの翌日、祖母の家で、伯父さんとの食事会が開かれた。当然のように現れた伯父さんの顔を、私は真っ直ぐ見る事が出来なかった。昨日あれだけの衝撃を与えてくれた人が目の前にいる。ただそれだけで、胸が張り裂けそうだった。
「洋、昨日良かったわよ」
「そりゃ良かった。ごめんね、本当は終わった後にすぐ行けたら良かったんだけど、取材が入っちゃってて」
「いいのいいの。売れっ子なんだから、その辺は充分理解してるわよ」
「売れっ子って程じゃ無いんだけどね。琴だって、随分頑張ってるみたいじゃない」
「まぁまぁかな。まぁ、大体この子のお陰だけどね」
母はそう言うと、私の事を持ちあげて伯父さんの前に差し出した。あの伯父さんと普通に話が出来るなんて、お母さんって凄い、と感じたのをよく覚えている。今から思えば、双子なんだから当然なんだけど……。
「絵音ちゃん? うわぁ、大きくなったねぇ。マンガの中だったら、まだ3歳くらいなのに」
「ああ、それみんなから言われるわ。ほら絵音、挨拶しな」
母に背中を押されるが、緊張してしまって上手く喋れ無かった。話し辛いと言うのが伝わったのか、伯父さんは膝を折り曲げて、私に目線を合わせてくれた。
「小早川洋です。絵音ちゃんの伯父さんになります。よろしく」
そう言って、笑顔で手を差し出してくれた。
「君島絵音です! えっと、7才です!」
差し出された手に、こちらの手を預け、それだけ言うのが精いっぱいだった。
伯父さんは次の日にはもう、外国に帰ってしまう。あんなに緊張して、全然上手く喋れ無かったのに、伯父さんが帰ってしまうと言う事実が、堪らなく嫌だった。
伯父さんが帰った後、少しでも伯父さんと繋がっていたくて、私は母にお願いした。
「ねぇねぇお母さん。私ね、ピアノ習いたいの」
母は、少し渋い顔をしながら笑った。
「あんた、ピアノやりたくなったの? 洋の演奏聞いたから?」
改めてそう聞かれると、恥ずかしなってしまったので思わず、違うと言ってしまったのだが、どうやら母にはバレバレだったようだ。
「そうねぇ、ちょっとお婆ちゃんに聞いてみるから」
母は電話を手に取り、祖母と会話を始めた。
「ああ、もしもし、母さん? うん、実はね、ちょっと相談があって……。違うわよ、お金とかじゃないわよ。あのね、絵音がさぁ、ピアノやりたいって言ってんの。うん、そう、多分ね。母さんどう? 手が空いてるようだったら……。あ、うん、ちょっと待って?」
そこで、母に受話器を手渡される。
「もしもし?」
『もしもし、絵音ちゃん?』
「うん、絵音だよ?」
『はい、お婆ちゃんだよ。絵音ちゃん、ピアノ弾きたいんですって?』
「うん、絵音ピアノやりたいの」
『そう、それじゃ、お婆ちゃんが教えてあげるから、近い内にお婆ちゃんのお家においで』
「いいの?」
『お婆ちゃん、ピアノ教えるの上手だから、任せて』
「うん!」
『ちょっと、お母さんと変わってくれる?』
「うん」
受話器を母に戻す。
「はい、もしもし? ああ、うん、聞いてた聞いてた。そんじゃ、今度一回また連れてくわ。うん、まぁ適当に。はいは~い。じゃあねぇ」
電話を切った母は、私の方を向いて笑った。
「絵音、良かったね? お婆ちゃん、ピアノ教えてくれるってね」
「うん!」
「でもね絵音、習い事って、楽しい事だけじゃないんだよ? 嫌になったりしても、すぐに投げ出したりとかしちゃ駄目だからね。大丈夫?」
「うん、絵音頑張る! それで、伯父さんと一緒にピアノ弾くの!」
母はそこで、ククッと笑った。
「洋も随分気に入られたもんね。まぁ、そんだけの演奏だったしね」
かくして、私とピアノの触れあいは、ここから始まったのだった。
涼香から電話がかかって来た時、私は祖母の家の居間にいた。父と二人で、伯父さんの入院の為に必要な荷物を取りに来たのだ。
「もしもし?」
『ちょっと絵音、ニュース見たわよ!』
「ニュース?」
『小早川洋。あんたの伯父さん、コンサートの最中に倒れたんだって?』
「……ああ、うん」
余裕なんてまるで無かった為、そこまで全く気が回らなったが、どうやら、伯父さんが倒れたと言う事実は、そこそこに世間を騒がしているらしい。
『あんた、今日学校来るの?』
「学校か……」
涼香の言葉が、どこか他人事のように私の中に響く。
「考えて無かったわ」
『まぁ、そうよね。でも、あんた、今日は来ない方がいいかもしれないわ』
「なんで?」
『ミーハー野郎共が騒ぎ出すに決まってるし、今朝のニュースで、うちの学校もちょっと映ってたからね。あんたの登校狙ってマスコミも来る筈よ』
私が思っているよりもずっと、世間にとってはセンセーショナルな事件らしい。こっちは、それ所じゃないってのに……。
「ありがと、とりあえず親と相談してから決めるわ」
『分かった。学校終わったら、私も一回そっちに顔出す。またメールするから』
「伯父さんなら……、まだ集中治療室だから、会えないと思うよ?」
昨夜の光景が蘇る。鼻や口に管の繋がれた状態の伯父さんが、痛々しくて堪らなかった。
『馬鹿、私はあんたの心配してんのよ』
「私の?」
『当たり前でしょ? 絵音には悪いけど、私はあんたの伯父さんより、あんたが大事よ。後で行くからね。こっちの様子も、後でメールする。無理すんじゃないよ』
「……うん、ありがとう」
涼香からの電話を切ると、途端に、胸の奥に熱い物が込み上げて来た。
流れていく事実が大きすぎて、私はどうやら、それをしっかりと受け入れる事が出来ずにいたようだ。激流に、心を持って行かれそうになる感覚が、じわじわと這い寄って来る。
「絵音、電話終わったか? そろそろ一回病院戻るぞ?」
声を掛けて来た父に近づき、抱きついた。
「絵音?」
「お父さん……。伯父さん、大丈夫だよね?」
父の手が、私の背中に回る。私を落ち着かせるように、軽く背中を叩いてくれる。
「当たり前だ。お医者さんも、命の心配はもう無いって言ってたじゃないか」
その優しさが、張りつめていた私の糸を緩めてしまう。だけど、肝心な言葉は、父の口からは出て来ない。
私も、聞けない。聞く事は出来ない。
――伯父さんのピアノ、また聞けるよね?
それを口に出したとして、事態が好転する訳ではない。悪戯に不安を煽るだけの言葉なら、今はまだ飲み込んでおこう。吐き出すのは、全部が終わってからでいい。
父から離れると、私が抱きついていた胸元の部分が、軽く濡れていた。これは、私の弱さの証だ。私がしっかりと、弱さを持っていると言う証だ。
「行こうか」
父が私の頭に一度手を乗せ、そのまま玄関へと向かって行った。
追いかけようとした時に、私の頭に、一つの閃きが煌めいた。
「お父さん、ちょっと待って」
私は急いで、2階の奥にある、おじいちゃんの部屋へと足を向けた。部屋の本棚から、一篇の楽譜だけを抜き取り、再び玄関へと向かった。
私と伯父さんが、初めて連弾した曲。
ショパンの『子犬のワルツ』