第二十一話 マハージャ
ウェルネアを出て、その南の国マハージャへと向かうにつれて、魔物の数は増えていた。マハージャは地理的には魔の領域から最も遠い。そのため強力な魔物が流れ込んでくる、ということは無いのだが、それでもあまりにもその数は多かった。
シソウは街道を外れた森の中に入っていくと、すぐに岩肌が露出している荒れた山岳地帯に到着した。却って見晴らしは良く索敵はしやすいのだろうが、足元が不安定であり、いつ崩落してもおかしくない部分もある。
一旦マハージャを見てから来よう、とシソウは踵を返した。それから街道を駆けていく。植生や気候も変わってきており、段々と湿度が上がってきた。ウェルネアはどちらかと言えばからりと乾いた気候であったのだが、マハージャはそれとは反対にじめじめとしたところらしい。
シソウはぐしゃり、と草花の茎を踏んだ。次第に熱帯にあるような植物が目立ち始めており、街道にはその根や茎も飛び出している。シソウが魔力を感じたとき、巨大な蕾が開きながら向かってきていた。
咄嗟に飛び退きながら、その体当たりを回避する。蕾は地に当たると、どろどろとした粘液を撒き散らした。シソウは、食虫植物は獲物が掛かったときだけ動く、という先入観があったため、暫しその様子を眺めていたのだが、蕾は跳躍してシソウへと飛び掛かった。
慌ててそれを回避し、水色の槍を『複製』する。そして魔力を込めてその蕾を氷漬けにした。この世界で何度も植物が動いているのは見てきたのだから、当然それも適用されるということは念頭に置いておくべきだった、とシソウは反省する。それから魔物が死んだことを確認すると、再びマハージャへと歩き出した。
やがて雨雲が立ち込めて、少しずつ雨が降り始めた。光が遮られ、周囲は昼間だというのに暗くなっている。この世界では季節も気候も、大部分を土地の特性に依存していると聞いていた。そして実際にそれぞれの土地を訪れると、それが顕著であることは分かった。
そのため他国ではそれほど雨が降ることは無かったのだ。特にアルセイユでは、水不足に陥りやすい環境もあって、滅多に雨など降らなかった。しかし水が容易く手に入るという、元の世界ならば建国に必須の条件があったとしても、ここマハージャの気候は住みにくいと思わざるを得なかった。
この世界では水魔法があるため、雨乞いという文化は存在しない。魔法使いに願えばいいだけなのだから。そのため水はそれほど重要な因子というわけではない。そして常にこのような日の光が無ければ、気分も鬱屈としてくることだろう。
シソウは雨に打たれながら、ぬかるむ街道を更に進んだ。暫くして、ようやくマハージャが見えてきた。家は木造のものが多く、高いものは見当たらない。そして出歩く人々は、雨など何も気にしていないようだった。
初めにシソウが思ったのは汚いということだった。そこらの家はあちこち泥が付いており、更に裏路地にはゴミや排泄物のようなものまで転がっている。道行く人々はアルセイユの貧民街で見た人々よりもひどい状況に見えた。衣服は汚れて穴が開き、痩せこけている者も多い。
とりあえず宿を取るか、とシソウは歩き出した。そうして街の中央へと向かっていくと、次第にましな格好をした人々が増えてくる。この世界ではどこもそうだが、街の中心の方が魔物に襲われる危険性も低く、地価も高い。そしてそこに住む人々も、より裕福だろう。
しかしそれにしても、どうにも貧しいように思われた。ここはウェルネアの帰属する国だと聞いていたが、むしろ逆だと言われた方がしっくりくるのである。シソウは近くの店に入って、齢60を過ぎたような店主に尋ねた。
「すみません。初めてきたのですが、マハージャってどんなところですか」
冒険者であるシソウの格好は、そこらの人々と比べると立派なものである。それは高級であるということではなく、戦闘用に高い素材を使用しているということである。店主はそんなシソウを見て、一瞬怪訝そうな顔をしたが、シソウが高めの果実を購入すると話をしてくれた。
「ここは貧富の差が激しい。上はどこまでも肥えていき、下は奴隷にまで身を落とす。用が無いならさっさと出ていくのがいいさ」
店主は自国をそう評価した。それから治安も悪いということも説明した。この国は周辺の小さな国々を侵略することによって、領土を拡大し、その民を奴隷として労働力も手に入れた。そのため恨みも買っており、自国の民も愛国心などなく、治安が非常に悪いのだ。
そこには軍がまともに機能していないということもある。その上層部は、金で成り上がったものが多い。つまり剣をまともに握ったこともないものが上に立っているのだ。
そうしていると、多数の足音が聞こえてきた。店主は巡回だ、とシソウを店の奥まで入るように言った。そこから外を眺めていると、厳つい首輪を付けた屈強な男性が何人も歩いていくのが見えた。その表情はどこまでも沈んでいた。
首輪には、皆同じ名前が刻み込まれていた。店主はあれが奴隷だと言った。非常に優れた戦果を出せば解放してもらえることもあるが、それは滅多にないそうだ。そして彼らの家族も労働力として奴隷にされており、彼らが逃亡を企てると殺されるそうだ。
仮に彼らが国外逃亡に成功したとしても、その奴隷の首輪が外されることはない。各国もマハージャと積極的に関わりたいと思うものはなく、わざわざ侵略される可能性を増大させることもない。
莫大な金を積めば何とかしてもらえるかもしれないが、ほとんどの者がそれほどの金を稼ぐことは不可能だろう。つまり、他国は見て見ぬ振りをしているのであった。
そして奴隷の男性たちが過ぎると、身なりのいい太った男性たちが彼らの後ろをついて行く。彼らに力強さはなく、とても兵士だとは思えなかった。こうして威厳を保つために大々的に魔物を狩りに出かけるのだが、街の周辺をうろついて帰って来るだけなのだと、店主は馬鹿にしたように言った。
行進が終わるとシソウは店主に礼を言って店を出た。きっとこれがこの世界の現状なのだろう。ルナブルク、ウェルネアは元々交易で栄えた国だったため裕福な方であったが、アルセイユは貧しかったし、大雪境も貧困に喘いでいた。その西の国カルカスも魔の領域からの進攻を受け、土地を求めて戦争を起こそうとしていた。
貧しい国の方が多い。少し良くなってきたからと忘れていたが、これが元の姿なのだろう。シソウは一つため息を吐いて、それからギルド会館へと向かった。
しかしそこには依頼がほとんどなかった。労働力は安価な奴隷で事足りるらしい。そして魔物の討伐も、使い捨ての奴隷で済ませる。胸糞悪い、とシソウは会館を出た。それから近くで宿を取ると、すぐさまベッドに寝転がった。
科学が発展する以前、奴隷は普遍的なものであった。元の世界の価値観をこの世界に当てはめるのは間違っていると分かっていても、それをさも当然のことだと受け入れるのは難しかった。この世界のことを知るために旅を始めたとはいえ、知るほどに辛い現状があるのだった。
一度頬を叩き、気にするなと自分に言い聞かせる。それからまだ日が落ちるまで時間があることを確認してから、街の外へと向かった。マハージャ西の山脈まで行けば、先ほど出て行った彼らと出くわすこともないだろう。
ならば魔物を狩るだけだ。シソウは無心で駆け出した。