第十九話 戦いの後に
それから数日、シソウは宿屋で過ごした。安宿ではなく、サービスの行き届いた宿である。食事などは全て部屋まで持ってきてもらい、一切部屋から出ることは無かった。それは傷が痛むなどの理由ではなく、一か月近く死が身近にある魔の領域に足を踏み入れていたこと、そしてまさに死をもたらす強力な魔物との戦闘によって、すっかり精神的に疲弊していたからである。
クライツは魔の領域に行ったことがあると聞いていた。話に聞いているだけでは分からなかったが、実際に行ってみると、彼の強さの理由を垣間見ることが出来たような気がした。
彼は強いから生き残ることが出来たのではない。たまたま生き残ることが出来たから、強くなったのだと。ある程度、実力や装備で何とかなる面は確かにある。しかし死に瀕した究極的な状況で、生き残れるかどうかはある意味運が左右する。
そしてシソウもまた、生きて帰ることが出来て、そして遥かに強くなった。それは単純にレベルが上がったというだけではなく、技術、精神的にも大幅な変化があったということだ。纏う雰囲気が変わったと言ってもいい。目に見える変化としては、冒険者証に『レベル65』と表示されるようになったというだけなのだが。
騎士たちを全員魔の領域に行かせれば、そのうちの一割程度は生き延びることが出来るだろう。しかしクライツの域にまで達することを求めるのならば、恐らく一人を作るために百を超える屍が出来ることは間違いない。
シソウとて、身代わりのミサンガがあるから行こうと思えるのだ。それが無ければ、致命傷をいつ食らってもおかしくはない。そんなところに好き好んでいく方がどうかしているのだ。
どれほど戦いに喜びを見出したとしても、自ら死を望む者はいない。シソウも魔の領域には当面は行きたくはないと思うのだった。
それから少し落ち着いてくると、シソウはこの帝国領を立つことにした。そしてこれからどうしようかと思案する。ここから南に行けば、帝国に着く。しかしこの国の現状を見ていると、あまり行きたいとは思えなかった。
そして北に行けば大雪境の西の国カルカスに到着する。しかし魔の領域に用事が無くなった今、わざわざ戦争を仕掛けようとしている国に行くのはどうだろうか。何かあればセツナに迷惑をかけることになるだろう。
そこでシソウはセツナに会いに行こうと思い至った。まだ指輪を貰ったことについて聞いていないのだから。大雪境は西の森を北東に突っ切ればすぐ着くだろう。西の森は騎士たちも危険が伴うとあまり積極的に出入りしたがる場所ではなかったが、シソウはそれはもはや過去の通過点に過ぎないと見なしていた。
もちろん、そこに油断があるわけではない。しかし客観的に見ても、騎士たちのレベルは40で、西の森に生息する魔物は平均して30、高いもので40程度である。そして魔物の王でさえも50から70程度なのだ。
魔の領域ではどの魔物も少なくともレベル40はあり、そしてシソウが戦っていた相手は60で、先日は70近い魔物も狩った。つまり、よほどイレギュラーな出来事でもない限り、魔の領域における敵より強い魔物は現れることが無いのである。
シソウはベッドから出て体を軽く動かすと、すぐさま宿を出た。セツナに会いに行くのはいつも楽しみなのである。シソウは可愛い女の子が好きなのだ。しかしそれだけではなく、セツナが自分といるときに笑ってくれるというのがシソウは何より嬉しいのだった。それは彼女の憂う表情を見てしまったせいかもしれない。
門など軽々跳び越えて行けそうなほどに体は軽く、いつしか沈んでいた気分はすっかり晴れ渡っていた。そんなシソウを見て門番は怪訝そうな顔をしたが、出る時は多少の確認だけで注意などは特に何も言わなかった。
シソウは街道に出ると一旦全力で走ってみた。その速度は明らかに一か月前とは異なっている。もしかしたら一時間足らずで大雪境まで到着できるのではないか、とシソウは試したくなった。
西の森の中を、全力で駆ける。その速度を維持したまま多数の木々の間を抜けるのは中々難しいが、訓練だと思ってシソウは駆け続けた。途中で現れる魔物は一蹴り入れると吹き飛んでいく。
そうしてシソウは大雪境に到着した。街の中は相変わらず戦争を感じ取った人々でぴりぴりとしているが、生活に困るということは無いようだ。シソウはそれだけを確認すると、すぐさま城に向かった。
すっかり顔見知りになった門番に声を掛けると、中に通してもらうことが出来た。大雪境での地位があるわけではないが、この世界に来たばかりの頃は城になど全く縁がなかったというのに、随分偉くなったものだよな、と思う。
それから城内の兵士たちにセツナの居場所を尋ねると、彼女は自室にいるということが分かった。シソウは浮かれながら城内の廊下を歩いて行き、やがてセツナの部屋に辿り着くと、深呼吸して気持ちを落ち着けてから、ノックした。
入れ、と短く答えるセツナの声が聞こえた。シソウは中に入ると、変わらないセツナの姿があった。
「お久しぶりです、セツナ様」
「シソウ! どういうことじゃ、ティアから聞いたぞ!」
どうやら既に話は彼女の方まで伝わっていたらしい。シソウは話が早い、と指輪のことを尋ねると、セツナはそっぽを向いた。
「婚約指輪に決まっておろう。主があんなプロポーズをするからじゃ」
「すみません。俺なんかがセツナ様に相手をしてもらえるとは思ってなくて」
謝るシソウを見て、セツナはまあよい、と告げた。それから彼女はセレスティアとは旧知の仲であるという話をした。大雪境は近いアルセイユよりも、ルナブルクと交流があったということは驚きであったが、以前のアルセイユの状況を見ればそれも当然かもしれない、と納得するのだった。
「シソウ、妾は嫌かえ?」
「まさか。セツナ様は大好きですよ」
シソウが満面の笑みでそういうと、セツナは顔を赤らめた。しかしながら彼女は威厳を保ちながら、ルナブルクがシソウに婚約者を付けたことで、大雪境でもそうするべきではないかという案が出たということを述べたのだった。そこでセツナはそれを好機と見てこっそりと渡した指輪のことを大々的に発表したと。
「セツナ様って、案外大胆ですね」
「主に言われとうない」
それから二人は他愛もない話を続けた。シソウはふと思い出して王座はどうするのかと尋ねると、セツナはいざとなればサクヤに任せるときっぱり言い切った。それでいいのだろうか、と思わないでもないが、王族の決定が重視されるため、それを止められることは無いだろうとセツナは付け加えた。
「妾に恋い慕われておるのじゃ。もっと喜ぶが良い」
「ではお言葉に甘えて」
シソウはそう言われるなり、セツナに抱き着いた。そして彼女の真っ白な長着の上から、その華奢な体に触れる。セツナは慌てるが、満更でもない様子であった。シソウはもはや見境なかった。それは一か月以上に及ぶ、凝り固まって取れないほどの緊張感から来る反動もあった。
しかしそれ以上に、純粋に彼女と親しい以上の関係になれることを喜んだからでもある。重婚が認められているこの世界において、多くの女性と関係を持つことは必ずしも悪いことではない。
貴族であれば数人の女性を妻として迎えることは血筋を絶やさないために推奨されており、王族であればさらにそれは顕著である。それらは公衆衛生が発達していないことだけでなく魔物の存在による高い死亡率が原因である。
もちろん、ある程度の地位を持つということや、養うことが出来る財力があるということ、相手が了承していることなどの条件も付くが、シソウは今どれも十二分に満たしているだろう。
だから気兼ねすることなく、セツナに抱き着いたのであった。そうしてじゃれ合っていると、セツナはシソウの怪我に気が付いた。どうしたのかと尋ねる彼女に、シソウは平然と魔の領域に言ってきたのだと告げた。セツナは驚き慌てたが、シソウは随分とレベルも上がりましたよ、冒険者証を見せた。そこに書かれているのは、騎士たちの中でも上位に匹敵する値だろう。
「主は危なっかしいのう」
そういうセツナの声は優しかった。シソウはセツナの顔をまじまじと見つめると、彼女は視線を逸らした。その仕草が可愛らしくて、シソウはすっかりだらしない表情を見せていた。