第十七話 残りの日々を
翌日、シソウは目を覚ますと、栗色の髪が目に入った。そして昨晩の出来事が夢ではなかったのだと、実感するのだった。寝息を立てるその顔はとても可愛らしい。半ば勢いでやってしまった部分もあるが、この慕ってくる少女はシソウにとっても大切であることに変わりはない。
シソウはこの世界に来たばかりのとき、おはようのちゅーをするのが夢だったな、などと寝ぼけたことを考えていた。そしてまだ寝息を立てているセレスティアの頬に口付けた。彼女はそれから暫く、眠りの中にあった。
セレスティアが目を覚ましたとき、シソウはその顔をじっと眺めていたので、彼女は昨晩のことを思い出したのか、反対側を向いた。
「ティア様。おはようございます」
「おはようございます、シソウ様」
そんな極々平凡な朝の挨拶を交わしても、セレスティアはまだシソウの方を向いてはくれなかったので、彼女を後ろから抱きしめた。ほんのりと心地好い香りが漂ってきて、シソウはつい彼女に悪戯をしたくなった。
「シソウ様、こんな朝から……」
「俺たち婚約、するんでしょう?」
「シソウ様は意地悪です」
シソウは振り向いたセレスティアに貪るようにキスをした。
事を済ませて、シソウがセレスティアを抱きしめながら頭を撫でていると、日が本格的に昇ってきた。
「シソウ様、そろそろ朝食に行きませんか」
そうしましょう、とシソウはセレスティアを抱き起こした。それからベッドから降りるが、後から降りてきたセレスティアはシソウへと倒れ込んだ。心配するシソウに、ちょっと痛みますが大丈夫です、と彼女は笑った。
シソウはセレスティアを抱きかかえた。お姫様抱っこである。セレスティアは恥ずかしがって可愛らしい抵抗をしたが、本気で嫌がってはいなかったので、そのまま部屋を出た。
シソウはすっかり浮かれていた。こんな可愛いお姫様が自分の手の中にいるのだ。元の世界にいたときには全く想像もつかなかったことである。これからのことなど考える余地などそこにはない。
セレスティアの私室に入ると、今日は侍女たちはいなかった。まずは着替えを済ませるということで、彼女は箪笥から衣服を取り出した。
「その、着替えをしたいのですが……」
「うん」
「えっと、恥ずかしいです」
恥じらうセレスティアに、じゃあ反対向いてるから、とシソウは背を向けた。それから衣擦れの音が聞こえてきて、暫く経ってからお待たせしました、とセレスティアが声を掛けてきた。
おめかしをする彼女はやはり可愛らしい。今日はシソウの気分が高揚していることも相まって、ますます可愛らしく見える。シソウは再び彼女を抱きかかえようとしたが、お父様に見られますよ、と言われて大人しく引き下がった。
朝食のとき、ザインは来なかった。顔を合わせづらいのも尤もだろう。シソウは隣りで上品に食事をするセレスティアを見て、自分もマナーを身に着けなければと思うのであった。
それからシソウは二つ目の指輪を身に着けることになった。セレスティアの親戚とは既に挨拶をしていたため、親戚めぐりをするようなことはなかった。そしてまだこれからのことは未定であり、すぐさまどうこうすることもなく、婚約という形を取っている。
そして暫くのセレスティアとの甘い同棲生活も過ぎていく。
シソウは未練を断って、ルナブルクを立つことにした。セレスティアは城の入り口まで見送りに来た。
「シソウ様。帰って来る日をお待ちしております」
「はい。ティア様、これを」
シソウはセレスティアに刀を差し出した。それはこの前鍛冶屋で買った金剛石の刀である。セレスティアはそれを受け取って、その重みを感じるのだった。
「俺がティア様と会うきっかけになった、あの討伐のときにお世話になった鍛冶屋のもので、とても思い出深いものです。今は必要が無いので、次会う時まで持っていていただけませんか」
「……はい。では次会うときに」
セレスティアは微笑んだ。それは全く疑いすら持っていない、そんな信頼しきった笑みだった。シソウは笑って、振り返ることなく歩き出した。
もっと強くなる。もっとこの世界を知ろう。そしてこれからは慕ってくれる人を幸せにしなければ。
シソウはそんな思いを胸に、自分が権力を得る代わりにそれに縛られることになるまで、出来ることをしようと思うのだった。
シソウはルナブルク西の街道を歩いていた。ふと懐かしくなって、外れて林の中へと入っていく。暫く行くと、折れた大木のような魔物がごそごそと動いていた。シソウは武器を使うことなく蹴りを入れると、魔物は当たったところから粉々に砕けた。
こいつにも随分と苦戦したのに、と懐古する。もちろん、この魔物があの時ほど強力なものだったということはない。しかしそれを考慮しても、随分と変わったものだと思う。あの頃は冒険者になったばかりで、右も左も分からなかった。今でも経験はそう長い方ではないため、その事情に詳しいということは無いのだが、それでも心の持ちようは随分異なる。
シソウは魔物を何匹か狩ると、再び街道に戻って西へと駆け出した。二時間もする頃には、帝国領の街に着いた。シソウを見ると門番は止まるように指示を出した。シソウは冒険者証を出し、それから暫く取り調べを受けて、ようやく中に入ることが出来た。
街のあちこちに、兵士の姿が見える。そして民は彼らが通るたびにさっと道を空けるのであった。それはあまり見てていい雰囲気だとは思えない。それからシソウは人に何度か聞きながら、ようやくギルド会館を見つけた。
場所を聞いていたためすぐ見つかるだろうと思っていたのは誤算だった。あまりにも小汚く、そして小さかったため、シソウはすぐにそうだと判別できなかったのである。その建物の中に入ると、朝の丁度いい時間だというのに人はほとんどいなかった。
受付の所に行くと、中年の女性が気だるそうに挨拶をした。
「何か依頼ってないんですか?」
「依頼? そんなのがあったのは何年前かねえ」
女性は覚えていない、といった素振りを見せた。それからここでは魔物を狩ることによる報酬もないらしい。農民は農業を、商人は商業を、そして兵士が街の安全を守る。徹底した階級社会が出来上がっているらしい。そのためそのどれにも属さない冒険者は、締め出されることになった、ということのようだ。
元々金を期待したわけではないので、シソウは更に西の魔の領域に行く方法を聞いて、会館を出た。それから街の中を急ぎ足で歩きながら、暫くして西の門に辿り着く。そして兵士たちに出たい旨を告げると、彼らは嘲笑しながら死にたくないならやめときなと忠告するのであった。
シソウはそれでも食い下がると、彼らはシソウを通した。シソウは門をくぐりながら、背後で聞こえる兵士たちの会話に耳を傾けていた。彼らは、シソウが戻ってくるかどうかを賭けていた。おそらく、挑戦する者は数多くあれど、戻って来る者は少ないのだろう。
それくらいで丁度いい、とシソウは不敵な笑みを浮かべた。門から少し離れた所には、木々が生えている。ふと右側を見ると、アルセイユ西の森から繋がっていることが分かり、無理して西の門から出入りする必要が無いことも分かる。
どちらにしても変わりはないか、とシソウは気を取り直して歩き始めた。一歩一歩魔の領域が近づくにつれて、場の持つ雰囲気が変わってくる。暗く沈んでおり、気の弱いものであれば正気を失いかねないほどである。
魔力が濃くなり、平衡感覚が失われていく。シソウはコンパスを複製すると、それは正確に北を指した。そのことから、おかしくなっているのは魔力の影響を受ける物だけだということが分かる。
そうしてシソウが一瞬立ち止まった瞬間、急に魔物の気配が現れた。シソウが後方へ飛び退くと、寸前まで彼がいた所を真っ黒な狼が通り過ぎた。シソウは反射的に金剛石の刀を『複製』してその首を落とす。
それから更に後方へ跳躍し、二体目、三体目の攻撃を回避する。木々の中から飛び出しては消えていく、それらの動きは異常に早く、並の兵士では気が付くまでに首を取られていることだろう。シソウは音や風の動き、そして濃い土地の魔力の中から敵の魔力を探る。
飛び出した魔物を最低限の動きで切り裂きながら、複数同時に襲い掛かってこないような位置取りをする。そして敵の数が減ると、自ら木々の中へと飛び込んで魔物へと刀を振るった。
暫くして、周囲の魔物が全て片付くと、シソウは一息ついた。敵のレベルは恐らく40ほどだ。ボスほどは強くはないものの、自然発生する魔物の中では群を抜いて強い。この領域ではシソウとて、レベルが高い方ではないだろう。
シソウはさらに周囲を意識しながら、一歩ずつ奥へと向かうのだった。