第九話 退廃的
帰り道、港の近くでは相変わらず物珍しい品々が並んでいたが、そのうち暇が出来たら来よう、とそれは後回しにすることにした。街の景観は港町として独特のものがあり、見ているだけでも不思議な魅力があった。
それからシソウは宿泊施設に戻ると、持ち込んだ魚を調理してもらった。料理人たちにとってそれは本来の業務ではないが、快く引き受けた。こういうところのサービス精神まで行き届いているのは、さすが高級なだけはあると称賛できるだろう。
生きのいい状態でしか食べられない刺身を口にするのは久しぶりであり、シソウは取ったばかりの魚を存分に味わっていた。夕食まではまだ時間があり、一日二食、その間に軽い間食を取るのが習慣となっているこの世界に慣れてきているとも言えよう。
シソウはテレサを誘いに行ったのだが、結局周囲にいた貴族たちも興味を持ってしまい、食事の際もテレサは彼らに囲まれたままになっていた。テレサは日頃、必要以上に貴族たちと交流を持とうとしなかったため、彼らはこれを絶好の機会だと見なしたのだろう。
「上に立つってことは大変だよな」
シソウはそう呟いた。誰かに賛同してほしいということもなく、ただ漠然とそう思ったのだ。マーシャはそんなシソウにも反応して、笑った。
「シソウくんも、今じゃ理事長だからね」
「そういうのとは違うだろ。責任や仕事も」
「でもシソウくんは私のご主人様よ」
マーシャはちょっとした喜悦の色をにじませながら、そんなことを言う。シソウはつい周囲の様子を窺うが、誰一人聞いていなかったということに安堵する。それからマーシャに勘違いされるようなことを言うなとくぎを刺しておいた。研究所の私物化など、叩こうと思えば埃は出て来るのだから、と。
今でこそテレサの推薦があり、それに見合った成果を出しているから批判されないものの、いずれどうなるかなど分からない。政治的な関係が深まるのを嫌がるシソウは、そうなる前にとっとと辞めてしまおうと思うのだが、それまでに科学が普及するかどうかは怪しい。
そもそも科学を普及させることが正しいことなのかどうかも分からず、今こうしてここに来ているのもその分からないことの延長なのだ。もちろん、シソウが知っている技術全てを公開しているわけではない。
急に発展させればそれに応じて人々の仕事に影響を与えるし、失業者が増える可能性すらある。そして軍事的な利用も増えることだろう。兵器に利用される火薬や、軍事施設などの機密を丸裸にする人工衛星、戦争を空にまで拡大させる航空機など、明らかに戦火を拡大させるようなものには注意を払っている。
そんなこともあって、シソウは貴族たちとの付き合いを極力避けていたのである。貴族たちの権力争いに巻き込まれれば、ろくなことにならない。出世への欲もなく、自分はただの技術者でいい、と。
外に出かけてすっきりした気分は、いつしか沈んでいた。
その晩、夕食も終えて寝る準備をしているシソウの部屋を、テレサが訪れた。シソウはそれを快く受け入れて、ベッドに二人で腰かけた。シソウはひと時の逢瀬のように感じられて、口の中が乾いていた。
テレサは珍しく、何も言わなかった。シソウはそれを気に掛けながらも、冗談を言う雰囲気ではないことや、上手い言葉も見つからないかったので、彼女が話すのを待っていた。
無言のまま、ゆっくりと二人きりの時は過ぎていく。慣れ親しんだはずの間柄なのに、どこかぎこちないまま、夜の帳は下りていく。少しずつ、部屋の中は暗くなっていって、テレサの表情もどこか暗く見えた。
どれほどのときが経っただろうか。テレサはようやく、シソウに向き直った。
「シソウ様は大丈夫だと言ってくれますが、本当は無理をしているのではないですか?」
「……どうしてそう思うんですか? これまで順調に来ていますし、何も問題なんてないじゃないですか」
シソウは乾いた笑いを浮かべた。それは取り繕うにしても、あまりにもひどいものだった。見透かされたくないことを告げられたように、シソウは込み上げる激情を抑えることが出来なかった。
「ですが、とても辛そうに……今ならある程度は修正が――」
「必要ありません!」
シソウは自分で思っていた以上に、強い言葉が出てきて動揺した。なぜこんなことを言ってしまったのか。後悔が後から襲ってくるが、シソウはそれを容易く受け入れられるほど、落ち着いてはいなかった。
ごめんなさい、と謝罪するテレサに、シソウは申し訳なさより先に悔しさが込み上げてきた。シソウは思いの丈をそのままぶちまけた。
「謝らないでくださいよ! よけい惨めになるじゃないですか。俺が欲しいのはそんなものじゃない。どれほど努力しようと、貴方との立場が近づくことなんてなかった!」
シソウはテレサをベッドに押し倒した。彼女の長く艶やかな金髪は広がって、その煌めきは夜の星々よりも輝いているだろう。
「あなたは、それでも俺を……!」
シソウははっと我に返って、テレサから手を放した。テレサは困ったような表情をしていたが、すぐにシソウの背中に手を回して、抱き寄せた。シソウは柔らかく温かいその感触に、心を奪われた。そしてシソウの頭は考えることを止めて、テレサの柔らかな唇にそっと口付けた。
驚く彼女の表情は、やけに印象的だった。
テレサは着衣の乱れを直して、それからシソウの方を見た。そして告げるのだった。
「なかったことにしましょう。きっと今は、その方が」
「……はい」
シソウは罪悪感を覚えながら、テレサに答えた。扉の向こうに消えていく彼女の姿を見送って、それから項垂れた。自分がしてしまったこと、そして抑えきれなかった自分の幼さ。
きっとテレサは失望したことだろう。シソウは頭を抱えて、しかし退廃的な暮らしも悪くないとさえ思ってしまう。変化のない緩やかな生活は、どうにでもなってしまえと思うほどに、魅力がなかった。
このまま続けていても、強くなり上を目指すという、当初の目的は間違いなく達成できない。そしてテレサやキョウコに言った、世界を良くしたい、という目的はあまりにも曖昧すぎて、近づいているのか遠のいているのかさえ分からなかった。
テレサとの関係も、自ら壊してしまった。もはや何のために努力をしてきたのかも分からなくなって、考えれば考えるほど、その考えは悪い方へと向かっていく。
もはやシソウは何もする気が起きなかった。ベッドに転がったまま、窓の外の夜空を眺めた。美しい夜空は、科学が発展していないからこその美しさだろう。
シソウは初めて、星のない空が恋しくなった。何事も無く社会に埋没する個人として生きていれば、こんな気持ちになることもなかっただろう。
面倒な事を投げ出してしまいたくなった。何もかも投げ出して、誰もいない土地で魔物を狩り続ければ、どんなに楽だろうか。ただ強くなるという一つの目的だけを追い続ければ、どれほど悩まずに済むことだろうか。
しかしそれでも、彼女たちのことを思い浮かべると、それは出来なかった。