第七話 出発の時
まだ日が昇り始めたばかりの早朝、アルセイユ国立研究所の前には数台の馬車が止まっていた。梱包済みの荷物が、次々とその中に運ばれていく。シソウはその中身を確認しながら、ここの生徒たちが作業に従事しているのを眺めていた。
いよいよ、科学をこの世界に広めるための活動を始めようとしていたのである。アルセイユに隣接する大雪境とルナブルク、そしてその二国の東に存在する港町ウェルネアと交易に関する会議の約束を取り付けていた。
新興国でありこれといった産業も強みもないアルセイユが、中心となって会議を持ちかけることが出来たのは、それぞれのトップに立つ者たちが科学に興味を示したからだろう。もちろん、それは会議で取り扱うカードの一つに過ぎないのだが、それが功を奏したのは間違いないだろう。
大雪境は西国カルカスとの戦争が近いため、それで少しでも背後のウェルネアとの関係が良くなるならば、と快諾した。ルナブルクは元々東西南北の交易の拠点として栄えたため、新しい商売にはすぐに飛び付いた。そしてウェルネアは東の大陸との交易で得た品をルナブルクと交易していたので、それに抵抗はなかった。
そして会議は国ではなく自治領であるウェルネアで行われることになった。そのため、こうして出発のための準備をしていたのであった。先日、既に荷造りはしていたため、その確認をするだけで出発は出来る。
そうしてシソウは問題が無いことを確認すると、馬車を王城の方へと移動させた。そして既に待機してある馬車の傍に付けると、城の中へと向かった。
テレサと数人の貴族たちが話をしているのを見つけるが、シソウはその中に割り込むのは気が引けた。そこで近くにいる護衛の騎士たちに準備が出来た旨だけを告げて再び馬車へと戻った。
そしてシソウが馬車に戻ったとき、見送りの生徒たちに囲まれた。彼らは元孤児で、シソウが行った活動によりその生活も大きく変わっただろう。頑張ってね、早く帰ってきてね。そんなことを言われてシソウは決意を新たにするのであった。きっと、この世界はもっと良い世界に出来るはずだと。そしてこれがその一歩なのだと。
「シソウ、先走るなよ」
「分かってるよ。俺がいない間を頼む」
ナターシャが言う様に、シソウは交渉ごとが得意ではない。そしてうっかり技術を漏洩させかねないほど、この世界の人々とは技術への考えが異なっている。そのため彼女は心配しているのであった。
そしてシソウがいない間は、ナターシャに全権を委譲することにしている。もしかすると、彼女の方がうまくやるのではないか、そうならばこれからも全てそうすればいいのではないか。そんなことを彼女に言ったこともあったが、自分の責任を果たせと呆れられたのであった。
そんなやり取りもあって、質疑応答のためにマーシャを連れていくことにしていた。これは公式の場ではまともにやるはずだから、というナターシャの推薦によるものだった。確かに彼女ならば、シソウがこの研究所で教えている内容の範疇で答えることができるだろう、とシソウは受け入れたのだった。
シソウはそれじゃあ皆よろしく頼む、と手を振った。クラリッサはお土産よろしくお願いしますね、と調子のいいことを言っていたがシソウはそれを無視して、ナターシャに彼女をこき使うように言っておいた。
そしてマーシャと二人で馬車に乗り込んだ。いくつかの荷物が置かれているため、その中は狭い。馬車の上にでも乗った方が快適なのではないか、と昔を思い出すが、今は立場もあるためそんなことはできないな、と笑うのであった。
そしてテレサたちも馬車に乗り込むと、ようやく馬は足を動かし始めた。窓から見える、ナターシャたちは小さくなっていき、やがて曲がり角を過ぎるとその姿も見えなくなった。
「ウェルネアか。どんなところだろうな」
「きっときれいなところよ。私は海を見るの初めてだから、楽しみ」
マーシャはそう言いながら、まだ見ぬ港町に思いを巡らせた。そうして二人で港町への期待を語り合いながら、馬車は進んでいく。
「ねえシソウくん。せっかくの新婚旅行なんだから、たくさん思いで作ろうね!」
「結婚してねえよ。目的覚えてるか?」
「港町の開放的な雰囲気に当てられたシソウくんと既成事実作ること?」
「あほか。マーシャの役目は、俺が何もしなくていいようにきっちり間違いなく答えることだ。聞かれないことは一切答える必要はない」
シソウくんのそれも違うと思うけれど、とマーシャは笑う。シソウは彼女と過ごすのは悪くないと思う。少々うるさくもあるけれど退屈せずに済み、そして気が置けない間柄であるため気兼ねせずにいられる。
そうして暫く過ごしていると、馬車はルナブルクに到着した。日も沈み始めているため、今夜は一泊することになる。シソウや騎士たちだけであればその日のうちにウェルネアまで駆けていくことは可能だが、馬車の中にいるのは貴族たちであり、激しく揺らすことも出来ないので、こうして時間が掛かった。
予め高級な宿を取ってあるため、すぐにそこで休むことが出来た。シソウは今回、理事長として赴いているため、他の騎士たちが見回りや警護に尽力している中、のんびりと夕飯を頂いていた。
夕食のときも、テレサは貴族たちに囲まれており、シソウは近づくことが憚られた。彼女はもはや王ではなく実権は持たないが、アリスの親であるためこうして貴族たちとの交流が主な仕事となっている。
そうして彼女の方を見ていると、隣で美味しそうに食事をしているマーシャはシソウをつついた。
「シソウくんは、あそこに行きたい?」
「……いいや。俺が行くべき場所じゃあないよ」
「じゃあ私と一緒ねっ」
シソウの周囲には誰かがいるわけではないので、マーシャは遠慮なくシソウに擦り寄ったが、シソウはすぐにその分の距離を取った。この場にいてもいなくても変わらないよう、空気として過ごすのがベストだと判断したのである。シソウはコミュニケーションを取るのが得意ではなく、人見知りする性格であった。
そうして夕食を終えると、シソウは部屋に戻った。変な噂が立たないように、とマーシャに来ないように言っているため、たった一人きりである。シソウは巨大な斧を複製して、『質量増大』の魔力特性を発揮させる。この斧を複製するのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
魔物と戦っていたのは、随分と昔のことのように思われた。斧を振りながら体を鍛えると、若干筋力が落ちていることが確認できる。もしかするとシソウがすべきことは魔物を狩って強くなり、上を目指すことではないのかもしれない。この能力を生かすためには、戦闘より物資補給の方があっている。
そして今、それほど高いものではないが、アルセイユにおいての地位を確立した。このまま平穏に終わっていくのも、それはそれで悪くないのかもしれない。そんなことを思いながらも、ひたすら斧を振り体を鍛える。迷いを断ち切るように、ただひたすら、振り続けた。
翌日、早朝から馬車は出発した。ルナブルクから北東へ。段々ウェルネアに近づくにつれて、海風の匂いがするようになってきた。シソウは久しぶりに嗅いだその香りから、もうすぐそこまで来ていることを感じた。
マーシャはそれを臭そうにしていたが、シソウはすぐになれるよ、と笑った。植生も少しずつ変わってきて、きっと現れる魔物も変わっているのだろう。しかし騎士が周辺の警護に努めているため、魔物は一匹たりとも見ることは無かった。
そして美しいレンガ造りの町並みが見えてきた。活気盛んな街は、多くの店が立ち並び、行き交う人々で賑わっている。そして漁港の周辺では、競りに掛けられている巨大な魚が見えた。
「シソウくん、すごい、すごいわ」
マーシャは始めてみる海に驚いていた。陽の光を浴びてきらきらと輝く大海原は、この世界でも美しかった。どこまでも青く、どこまでも続いていきそうな広さ。それはどこかノスタルジーさえ呼び起こす。
馬車はようやく、港町ウェルネアに着いたのだった。