第三話 国立研究所
アルセイユに出来た研究所は、国内では既に噂になっていた。そこに通う者たちはまるで魔法のように次々と様々な道具を作り出す、と。もちろん、そのアイディアを出しているのはシソウで、全て既知の事実なのだから、当人としては何ら珍しいものだとは思っていない。
テレサが推薦したということもあって、アルセイユ国立研究所の記念すべき第一回生は、様々な人材が集まっていた。初等部は庶民の子たちで過半数を越え、その中には孤児院出身の者も多くいた。中等部は貴族の子弟のみで構成されていたが、いずれ庶民も初等部から上がってくるだろう。それはさほど問題ではない。しかし高等部は問題だらけであった。
まず、高等教育を受けるに値する人材はほとんどいなかった。そのため、数少ない高等部の学生が中等部の教員を受け持つことになったのである。そして当然だが、高等教育を教えられる人材などシソウの他にはいない。
彼らの教育には随分と時間を割かなければならなかった。熱心に教科書を精読しては来るのだが、あまりにも教育水準が異なっていたのである。
これも今後のためだと割り切ってはいるのだが、それでもやはり面倒なのであった。ある程度高等教育を理解した者がいれば、それ以降はその者に任せてしまおうとしていたのだが、それはまだ先のことになりそうであった。
シソウは名誉教授や技術顧問のように、それほど手間がかからない役職の方が良かったなと思うのであった。
その日も早朝から、シソウは理事長室という名の研究室にいた。その隣では普段と同じく、マーシャとナターシャが作業に従事している。初めの頃、マーシャは居眠りをすることもあったのだが、シソウに一度本気で呆れられてからは、真面目に取り組むようになっていた。
マーシャはてっきりお馬鹿だとシソウは思っていたのだが、彼女の理解力は想像以上に高かった。それなのになぜ普段は馬鹿みたいな行動をしているのだろうか、と疑問に思うのであった。シソウはもしかするとそれらのアホみたいな行動は全て演技だったではないのか、と不安を抱きながらマーシャを見た。
「どうしたのシソウくん? ……そんなに見つめられると照れちゃうわっ」
前言撤回、とシソウは一瞬起こった考えをありえない、と払拭した。
また、ナターシャは地下に籠って研究資料を読解していたということもあって、基本的な科学的知識は身に付いていた。そしてシソウの言うことをすぐに理解してくれるため、非常にありがたい存在であった。
「ナターシャ、これの推敲お願い」
彼女はシソウから受け取ると、別の紙に誤字脱字、文法上のミスを記載していく。シソウも文字は書けるとはいえ、この世界に来て一年少々であり、まだミスは多くあった。
「マーシャ、さっきの例題の解答できた?」
「うーん。ちょっと難しいわ」
一応解いてはみたのだけれど、と言うマーシャから受け取って、シソウはそれをざっと眺める。それから間違えている部分に印と言葉を書きこんでいく。
「単位に気を付けてね。だから計算が合わなくなるんだよ」
それは課題の一つであった。定量的な数式があまり普及していないこの世界で、次元の概念を教えるのは中々難しかった。同じ数値であろうが単位が異なれば、示すものが異なる。それだけのことなのだが、彼らには受け入れがたいようだった。
マーシャはシソウに言われて気が付くと、せっせと書きこんで、出来た、と嬉しそうに顔を上げた。再びシソウはそれを受け取って、問題が無いことを確認すると机の横に置いておいた。
暫くすると、ドアをこんこんと遠慮がちにノックする音が聞こえた。シソウがどうぞ入ってきて、と告げると、真っ黒なローブを纏った女性が入ってきた。茶色い髪を後ろで縛った、少し地味に見える女性であるが、大人しそうな様子は庇護欲をそそるものであった。
「ああ、クラリッサさん。ご苦労様」
彼女は大量の紙の束を持っていた。大雪境で見た写真のように、光魔法の中には光を操って風景を写し取り、それを焼き付けるものがある。そしてクラリッサはそれを使うことが出来た。つまり、コピー機のようなものである。
クラリッサはよろよろとシソウの隣にやってきて、その紙の束を机に置こうとし、思い切りぶちまけた。紙は宙を舞い、辺りに散らばっていく。
「わわ! ごめんなさい! すぐ拾いますから!」
「手伝うよ。いつも大量に頼んでる俺が悪いんだから」
シソウは慌てるクラリッサと共にそれを回収する。彼女は数少ない高等部の学生であり、ここでは珍しく騎士であった。魔法使いとしての才能が無いわけではないのだが、戦闘行動を不得意とするため、研究の方に従事していたそうだ。こうした日頃の様子を見ていると、それも当然だと納得できた。
それが終わると、シソウは先ほどマーシャから受け取った紙をクラリッサに渡した。にこやかな笑顔であったが、また同じ作業を繰り返させるのだから、そこに容赦はない。
「これもお願いね」
「はい!」
クラリッサはとても優秀な部類に入るのだが、今ではただのコピー機と化している。ではこれで、と立ち去ろうとするクラリッサをシソウは思いつきで引き止めた。そして複製した二つの器具を渡した。
「あの、なんですかこれ?」
「温度計とビーカーだよ。初等部の理科の項目に書いておかなかったっけ?」
「そうではなくて……」
ああ、そうか忘れてた、とシソウはもう一つ器具を複製した。それは冒険者証の中身に入っている物と同様で、魔力を測る物である。ただし魔力量に比例して端の方のメーター代わりの棒が上下する仕組みになっていた。
「えっと……?」
「これで炎魔法を使って温度を測ってよ。で、魔力量と熱量との関係をプロットして定式化する。目盛は十分の一スケールまで図ってね。じゃあよろしく」
暫し呆然とするクラリッサに駄目押しとばかりに、それが終わったら、とシソウは話を続けようとしたので、彼女は慌てて部屋を飛び出した。用事を言いつけられると思ったのだろうが、シソウはただ休憩していいよと言おうとしただけである。釈然としないままであったが、まあいつものことか、と納得した。
「シソウ、そろそろ休憩したらどうだ? あとは姉さんがやっておくから」
「じゃあ頼む、マーシャ」
「私なの!? うん、でもシソウくんのためなら頑張る!」
ナターシャはだが今日中には帰ってくるようにと告げた。それはシソウは帰らなかったりすることもしばしばあり、最低でも今日中には帰ってくるようにということだった。しかしシソウはそれを今日一日自由にしていいよ、という言葉に脳内で勝手に置き換えたのであった。
浮かれながら部屋を出て、窓の外を眺めると、剣と魔法の訓練をしている少年少女が見える。ここでは体育の代わりにそれらの科目を導入したのである。剣に振り回されている彼らを見ると微笑ましい気分になってくる。
シソウは自分も体を動かしたくなってきて、すぐさま建物を飛び出した。それから街の外へと駆け出す。日没まではまだまだ時間がある。これなら遠くまでいけそうだ、と。
シソウは北に向かって走り出した。今なら二時間もあれば大雪境に到着できるだろう。駆けると風は心地好く、室内に居続けたせいで鬱屈としてきた気分も晴れ晴れとして来る。シソウは自由を満喫していた。